「恐怖の谷」ようやく微妙にヴェールを脱いだモリアーティ教授というお話

最後の事件とはやや矛盾している

 シャーロックホームズの宿敵として、有名なモリアーティ教授と言えば、その初登場の短編、「最後の事件」において、ロンドンの迷宮入りしたあらゆる事件を裏で仕組んだ悪のカリスマとかいう、結構すごい話が語られている。
また、最後の事件では、ホームズが追いかけ、モリアーティが逃げるというやり取りをすべて物語として描くなら、探偵小説史上まれに見るほどすごい大冒険活劇が描かれるだろう、というふうにも語られた。
そして語られているだけで実際にそうした場面は一切なかった。
「シャーロック・ホームズの思い出」最初の事件、最後の事件の記録  この「恐怖の谷」は、そのモリアーティ教授が絡んでいる事件を描いているが、当然のことながら最後の事件で彼はその命を失うので、これはその以前の話となる。
最後の事件と合わせてみると、普通に矛盾もある。

 モリアーティが出てきて、かつ長編である。
とすると、探偵史上まれにみると評されるほどの名探偵と大悪党の駆け引き合戦がまさしく描かれるのかと思いきや、別にそんなことはない。
というか大筋に教授あまり関係ない。
そこは残念である。

 しかし、普通にひとつの長編としてみると、普通にいい作品。

 初期の長編である「緋色の研究」や「四つの署名」のように、前半に事件、後半にその事件が起こるまでの過去の話が描かれるという、二部構成となっている。
「緋色の研究」感想と考察。シャーロック・ホームズの最初の伝記「四人の署名」感想と考察。前作より巧妙な感じのあらすじ、恋愛の要素 ただ、この作品の特徴として、 その後半の過去話がすでに探偵小説みたいな話となっている。
実際的な探偵小説というよりも、スパイ小説という感じか。
実在の探偵会社である「ピンカートン探偵社」が話に登場している。

明らかにホームズより学者なモリアーティ

 最後の事件とはまた違った感じの、ホームズとモリアーティの会合がちょっと描かれている。
まだまだお互いに手の内を隠しまくっているという感じ。

 モリアーティには、表向きあまりにも怪しいところがないため、警察の中では、彼の話をする時ホームズは頭がおかしくなるというような噂まで流れている設定。

 そんなモリアーティに会ったという刑事が、日食現象について、地球儀と鏡とランプを使い、実にわかりやすく説明してくれたという話をする。
記憶容量には限界があり、例えば天文学のような自分に全く役に立たない知識までいちいち得るのは、無駄以外の何物でもないというように考えるホームズに比べると、モリアーティの博識ぶりは興味深い。
それとも、探偵には天文学は必要ないが、悪の組織のボスには必要なのであろうか。
ホームズは、モリアーティの部屋に飾られてる絵が高価で、とても教授の表向きの年収では買えないだろう、みたいな推測をするが、もしかして芸術関連の話なんかはホームズの方が詳しかったりするのだろうか。

 確かに星の知識よりも、芸術の知識の方が、探偵の仕事の役に立ちそうな気はする。

 ところでモリアーティは「小惑星の力学」という数学の大名著を書いているらしいが、とんでもない悪党である一方、確かに後の世では、いかにもそういう学者としての面が評価されて、崇拝されそうではある。

暗号解読と聖書

 この話は最初、モリアーティと繋がりのある、ホームズのちょっとした知人からの手紙の暗号の解読シーンから始まる。
暗号のアルファベットや数字から、暗号の鍵となる本を見つけるという流れである。

 しかし、やたら分厚く、二段組になっていて、たいてい多くの人が入手しようと思えばいつでも入手できるような本、ということまで予想できた時点で、ワトソン君が「聖書だ」と特定するのはわりと印象的。
ユダヤの寺院「ユダヤ教」旧約聖書とは何か?神とは何か?  当たり前と言えば当たり前な話なのかもしれないが、20世紀前後ぐらいのイギリスでは、聖書は多くの家に普通にあって、ないとしてもわりと簡単に手に入るものだったのだろう。
十字架「キリスト教」聖書に加えられた新たな福音、新たな約束 入手のしやすさでいうと、現在の日本とどっちが上だろうか。
現在の日本においても、教会などに行って、欲しいと言えば無料でくれる可能性もあるが、普通は買わないといけないだろう。
そして聖書というのは、結構高く、あまり気軽に、というものではない。

一応は正義

 また、当然のことながらこのシリーズの世界観においては、緋色の研究以降、ワトソン君の本によってホームズは有名になっている。

 この作品では、ホームズとは初対面の田舎刑事メースンという人が出てくるが、彼がワトソンに対し「時が来たら我々の事もお書き願いたいものです」などと告げたりする。

 そのホームズだが、かなり何気なくそんなことを言うのだが、どうやら彼が事件を解決しようとする行動の裏には、正義の気持ちがあるらしい。
単なる興味本位とか、暇つぶしだけではないようである。

風変わりな事件か

 ところでメインとなる事件の内容だが、田舎で、ほとんど隠居暮らししていたダグラスという資産家が、何者かに殺されたのだが、いくつもの不可解な点があるというもの。
不可解な点というのが、現場の状況とかだけでなく、例えばとても仲が良かった妻があまり悲しんでいる様子を見せないとか、そういうところも。

 そしてダグラスは生前、いつも何かに怯えている様子で、恐怖の谷の出来事が何か重要らしかった、というのが要点となる。
恐怖の谷とは何かは、第二部で明らかとなるが、第一部の時点では、 それが実際の場所なのか、何らかの暗号なのかとかをいろいろ考える余地があったりする。

 これまで関わってきた中でも、特に面白く変わった事件、というようなホームズのセリフがあるが、ちょっと大げさに思う。
事件の展開があまりないという意味合いなのかとも思うが、そうだとしても、そこまでものすごく風変わりな事件かと言われると、微妙な気がしないでもない。

 現実にこんなことがあったら、確かにかなり変わった事件ということになるだろうが、そういうこと言うなら、そもそも現実にあった場合はもっと奇妙な事件ばかりである。

アウトローな過去話

 後半の話はわりと、アウトローを描いた冒険小説の一章みたいで、 個人的には(本編といえよう)前半の事件の話より面白かった。
緋色の研究の話にやや近いような感じもする。
あちらが宗教集団なのに対し、こちらはギャング団。

 こちらの話における実質的な主役のキャラ的に、こちらを第一部にした方がよかったのではないか、という気はする。
この主人公が悪党なのか、そうでもないのか、というのもわりと謎ぽい感じだが、現代における誰が彼か、予想がついてしまうと、それはほとんどはっきりしたようなものになってしまう。

ヒロインがいらない話の典型

 しかし、別にこれに限った話じゃなく、多くの小説とかでそうなのだけど、二人の男に口説かれ、少なくともどちらかを選ぶのは当然というような感じに描かれるのは、それはそれでよいのだろうか。
女性をめぐって男たちは互いにケンカ腰になるが、仮にケンカしたとして、勝った方が商品かのように女性を得るとでもいうのだろうか。

 基本的に普通に生きている場合、男性よりも女性の方が体が弱くなると言われるが、だからこそ多くの文化や社会で、男性が女性を選んだり、女性は守られなければ危険だったりするようなふうになってしまうのだろう。
やはり何とも微妙で、悲しい話である。
それはつまり多くの社会で、(悪党だろうがなんだろうが)とにかく力の強い者が支配できるという構造を意味してるように思う。