「筺底のエルピス」感想と考察。未来を捨てる戦いというSFアクション

ワームホールタイムマシンがメインガジェット

 高重力などを利用して広げた時空のトンネル、いわゆるワームホールを維持することで、それを形成した時点の過去まで戻ることができるというタイムマシンの発想がある。
そのワームホールタイムマシンのギミックをメインのガジェットとした、SF小説。
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 ある時間以上を維持したワームホールを閉じることによる時空間の廃絶、とかみたいな興味深い設定もわりとある。

 また、あまりガチのSFファンじゃなくても楽しめるような、エンタメ的要素もわりと多い 
例えば伝説寄り、史実よりに関わらず、さまざまな歴史上の人物、出来事が関わっている、文明社会をコントロールしてきた組織とか(この手の設定はだいたいそうだけど、元ネタ知ってる人ほど、あちこちでニヤリとできると思う)。

 まあ、現代世界を舞台にしたSFとして、いろいろよくばり気味に詰め込んだ、いい小説と思います。

特に興味深い設定

殺戮因果連鎖憑依体。鬼と退魔師の構図

 この作品は、SF的なギミックを省けば、悪魔祓いとか陰陽師とかを描いた、いわゆる退魔師ものみたいな感じの設定である。
人口の増加に合わせて増えるという、しかも、普通には消滅させる手段が基本的に存在しないという、鬼とか悪魔と呼ばれる悪霊的な存在があり、それに特殊な手段で対抗し、封じる、組織に所属する者たちが話の中心となる。
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 その(通称)鬼とか悪魔とかだが、正式に殺戮因果連鎖憑依体さつりくいんがれんさひょういたいなどと作中では呼ばれている。
そしてわりかし名前通りの存在である。
通常には不可視で不可触で、明確な形で定義することも難しい。
しかし人の神経系にアクセスし、それを構成する原子の相互作用をコントロールすることで、殺戮の本能を強めるというもの。
そういうわけで、それに取り憑かれた者はまさしく、鬼に憑かれたと表現されるような殺人鬼に変貌してしまったりする。
さらにこの殺人鬼を止めるために宿主を殺してしまった場合、その殺したという因果の線をたどり、憑依体は今度は殺人鬼を殺した者にとりついてしまう。

 これを殺すための方法は、次の憑依対象がいないという環境を作った上での、鬼の自己破壊。
そしてそのような環境が作れない、言ってしまえば強い感染力を持っている成長した鬼は、ワームホールタイムマシンを使い、増加する人口とともに増加した鬼が、全人類を滅ぼしてしまった未来に破棄してしまうという、わりとディストピア雰囲気な設定。

 また、作中で、鬼などいなくても人は人を殺すものというような、セリフがある(鬼はもともと存在している人の殺戮本能増幅させて いるのだから確かにそれはそう)。
このことと、歴史的大虐殺に関与してきたという設定の、単体だけでなく集団に強い影響を及ぼしてしまうという黒鬼の話は、合わせて考えると、なかなか悩ましい話となるかもしれない。
例えば黒鬼は、ナチスドイツのヒトラーにとりつき、第二次世界対戦の悲劇を生んだという設定。
しかし生命体が他の個体を殺すこととか、あるいは集団の利益を求めた社会要因が強い大規模な争いとか、それは人類の本質として弱いものと考えることは、むしろ微妙にユートピア的な設定と考えられなくはないかもしれない。

 それと、ヒトラーの人生や、ユダヤ差別の経緯などのような、歴史的事象の背景に興味がある人には、フィクションの設定とはいえ、やばい悪魔が取り付いていましただけなどと説明されるのは、ちょっと微妙かもしれない。
特にこれは、ヒトラーをモチーフにした人物とかでなくて、そのまま本人の設定であるわけだし。

天眼。SFの限界はやはり……

 殺戮因果連鎖憑依体に対抗するための武器として、出てくる基本アイテムとして、「天眼てんがん」や「停時ていじフィールド」というのがあるのだが、特に後者は結構興味深い感じ。

 天眼は、鬼が発生させる不自然な物理動作を捉えることで、普通は見えないその存在を、視覚的な感知範囲の中に収めることができるという特殊な眼球。
これに限らないが、他にもいくつか登場する設定などから推測するに、この作品もやはり多くのSFと同様に、どれほど優れた工学技術があっても、他の知的生命体がいても、そしてまったく未知の存在ですら、 我々の視点の物理現象に介入する以上は、その最低限の物理ルールに従わざるを得ないという設定と考えられる。
(これを書いてる時点では、未完結の6巻までしか読んでないので、確実なことは言えない)。

停時フィールド。保存性という謎

 停時フィールドは、一定の空間の時間をコントロールするためのアカウントと表現される。
それは、物理的には出現状態と消滅状態を切り替えることができるものだが、作中の説明や描写的には、おそらく神経系の動作に連動して 、所有者ごとのその形を決定する。
ようするにこれは、使用者の思想や精神状態に合わせて、それぞれの性能や形を形成する、特殊なアイテムとなる。

 とりあえずエンタメ的には、キャラごとの個別能力みたいな感じにもなっているから、そういう異能力バトルもの的な面白味がある。

 そして、これに関する描写は、いろいろと考察し甲斐がある感じになっている。
そもそも使用者はそれを出現状態に変えることができるのだが、消えている間、いったいそれがどこに存在するのか、というようなことに関しては、作中でも言及されている。

 神経系と連動して個別の形を作るというのはいいとしても、それが一度形成されるとその性質が変わることはないというのも、なかなか考えさせられるかもしれない。
(特定の基準にハマる対象を斬るという刀が斬れなかったものが、その特定の対象に入ることにより斬れるようになった、とかいうような描写ならある)
それはつまり形成された個別の形は維持されているということに他ならないだろう。
そもそも消してる間どこにあるのか、というのも問題だが、その形がどのように維持されているのか、ということも問題であろう。
形成される時は、神経系に関与し、それ以外は関与していないとして、ではいったい、その性質の不変性は?

捨環戦。根本には結局「我々は物質なのか人間なのか」という問い

 ある時点でのワームホールのゲートを作り、そして未来に進んだ特定の者がそれを潜って、過去に戻ってきて、体験してきた未来を廃絶して、その体感した未来の記録をもとに、新たな未来をつくるというような、作中で捨環戦しゃかんせんと表現されるような設定がある。
これは深く考えるまでもなく、非常に奇妙かつ興味深いものであろう。

 切り離された未来がどこに行ってしまうのか、という疑問もあるが、それ以上に妙なのが、特定の者が体感している時空という考え方である。
そもそも世界というのは何だろうか。
それぞれ体感している世界は共有しているように見えて、実は別々なのだろうか。
そうでないなら、ある時点の未来まで進んだ者が、別の時空の過去に戻ってきた時、 より過去の時空が優先されて、未来の者たちの時空は存在自体消えてしまうのだろうか。
それともそこに存在したままなのだろうか。
いずれにしても、その体感者が過去にやって来た時、そこにいる過去の時点での自分の友人たちは、何者なのであろうか。
この作品では、それらは論理的には違うと考えざるをえないというふうな描かれ方をしている。
そもそも過去の自分がそこにいるというのもある。

 ちょうど物語の(多分) 黒幕的な存在がそういうふうな行為をしてきた存在なのだが、主人公たちの組織が行う未来を捨てる行為は、おそらく適当に文明作って、滅んだからもう1回というようなことを繰り返すのと本質的に似たようなものであろう。
誰か一人でも過去に来て ゲートを切り離すことで未来を捨てれるのかと言うと やはり微妙である。
結局全て物質的なものとして考えるなら そもそも滅ぶこと自体そんな大した問題ではない。
人類が滅ぶことがちゃんと問題として考えられているのなら、たった一人の体感者が時空を切り捨てて世界を救うというのは、なんかちょっと独裁思考的な感じがある。
論理的にどうというよりも、ただの自己満足のような……。

 まあこのような設定が興味深げなのは、おそらく実際に、現代科学の様々なジャンルの根本にある、「結局我々は物質なのか人間なのか」というような問いかけに強く関連しているからであろう。
そういうことを考えるきっかけにもなるだろうから、このようなSF小説はやはり便利かもしれない。

歴史上の人物をSFに使う難しさ

 ヒトラーに関して、単に鬼のせいだったとする設定は、人によっては微妙かもしれないと書いたが、まあそういうのは、このような歴史上の人物を登場させる、あるいは絡ませる話としてはよくあることであろう。
(あくまで個人的意見であるが、ヒトラーが鬼を利用したという設定なら、もっと物語として面白くなったのではないかと思う)
まあここは難しい話であろう。
(がっつり重要な役回りだから、余計に目についてしまったのかもしれないが、個人的に太公望の描写はかなり微妙だった。ただし仙界関連の設定はわりかし好みでした)
太公望の釣り 「太公望」実在したか?どんな人だったか?釣りと封神演義と
 そして個人的には、それ以上に厄介で、正直この小説でも自然な形で描けているかは微妙だと個人的に思うのが、近代の科学者の設定である。
作中ではっきり書かれているが、この作品の世界観にはアインシュタインに、キップ・ソーンやカール・セーガンがいる(他にも実在している科学者やSF作家の名前がちょくちょく出てくる)。
「アインシュタイン」人類への功績、どんな人だったか、物理学の最大の発明家
そしてイオンやら素粒子やら、ついでにワームホールやら、そのような科学者やSF作家が考え出した用語を、世界の影に隠れて、優れた科学技術をずっと昔っから備蓄していた者たちが普通に使っていたりする。
電気実験 「電気の発見の歴史」電磁気学を築いた人たち 量子 「量子論」波動で揺らぐ現実。プランクからシュレーディンガーへ
時代が変わると共に、表の世界で使われるようになった用語を、わかりやすく採用することにしたのかもしれない。
しかし実際の科学界でも、最初に決めた用語をなかなか変えにくいことがよくあったりするから、どうしてもちょっと違和感的なものを感じてしまう。
もちろん作中で語られていないだけで、正確には別の、ちゃとした各用語が存在している裏設定とかがあるのかもしれないが。
この秘密の組織側が、表の科学者たちに影響を与えたということなら説明はつくだろうが、やはり作中で、それらの科学者が組織と多少なりとも関わった人物というような描写などはあまりない。

とりあえずエンタメ的にもよく楽しめるSF

 実のところ個人的には、 この小説に期待してたのはSFガジェットの設定だけだったのですが、結局エンタメ的な要素もまあまあ楽しめました。

 また、全体的には1巻はプロローグという感じなんですが、4巻まで進めた時に、ここまでプロローグみたいな感じなのかなと思いました。
少なくともそこまでは、人類と未知の敵との戦いというよりも、未知の敵と闘う者たちの内輪揉めの話です。

 2巻から4巻までの話は一冊にまとめた方が良かったんじゃないかと思わなくもないです。
また展開が展開すぎて、メタ的に結末が読めてしまうかもしれません。

 それと、エンタメ的な要素も楽しめたのは確かだけど、そういうの求めてたわけではないから、正直めんどくさいなって思ったところもありました(特に2巻前半のラブコメ展開)。
肝心の、期待してたSFガジェットは、ここまで考察した通りの感じで、けっこうよかったと思う。

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