「恐竜レッドの生き方」愛されしジャイアントラプトルのシミュレーションSF

ジュラシックパークのジャイアントラプトルの話

 まず最初の、映画に関する話がなかなか興味深い。
恐竜レッドの生き方

 「はじめに」によると、スピルバーグが監督した映画『ジュラシックパーク』の特殊効果技師たちは、最新の情報を使って、なるべくリアルな恐竜を、映像で再現しようと努力していた。そういう訳で、ラプトルの専門家である著者に対して、週に一度は電話してきて、ティラノサウルスの歯とか、トリケラトプスの皮膚のこととかを確認してきたという。そして著者の方も、何十ページにもなる恐竜の詳細資料を送ったようだ。
恐竜 「恐竜」中生代の大爬虫類の種類、定義の説明。陸上最強、最大の生物。

映画の恐竜たち

 しかし、ここではむしろ『キングコング』に出てくるブロントサウルスの解釈に関して、「研究所で教えられていた恐竜学の教義から一世代は進んでいた」という評価が、かなり興味深いかもしれない。著者は、「映画の特殊効果技師というのは、実に優れた恐竜解剖学者でもあって、恐竜の体型や動きに関する卓見の中には、映画技師たちが生んだものもあるのだから面白い」というようにも書いているが、それは本当にそうかもしれない。

 スピルバーグが、確認されていた最大のものよりも、さらに大きなラプトル系統、つまりはドロマエオサウルス科(Dromaeosauridae)の恐竜を映画に出したいということで、映画の効果技師は、リアリティ問題で悩んだ。それについて「進化はあっという間にサイズを変えることもある。地質学的な一瞬の時間内でも、巨大なジャイアントラプトルが出現することはありえるんだ。理論の上ではスピルバーグのジャイアントラプトルは存在したかもしれないから、SF映画としては問題ないさ」というように著者がアドバイスしているのも興味深いか。ここでは、研究者よりも技師の方が、フィクションにリアリティを求めている訳である。もっとも、単に進化論や生物に関する、認識や解釈の違いとも考えられるかもだが

 この本が書かれた時点で、けっこう最新の恐竜であった、そしてこの本の主役となるユタラプトル(Utahraptor)は、まさしくジュラシックパークに出てくるような、大きなラプトルであった。

言語能力を持たない生物のドラマをどのように描くか

 言葉のないラプトルの世界の中で、時折、「もしも言葉なら」というような表現がわりとある。
また、主人公のユタラプトルには名前がないのだが、自らを赤色と認識していることから、とりあえずラプトルレッドと呼ぶことにしているとことか、なかなか面白いと思う。

 言語能力を持たない生物のイメージというのはどういうものなのだろうか。これの作中では、イメージで機能する脳。色彩豊かに蘇ってくる記憶。夢の世界にも似た歴史が作り上げられ、そして脳によって常に書き換えられていく。新しい経験や、知覚した連想は様々なシンボルを登録しなおしていく。というように語られる。
レッドは、赤ん坊の頃に覚えたシンボルを使って、自らを「自分はラプトル(おそらくはどのような種か、ということ)、赤(同種と比べた場合にもわかりやすい特徴だろうか)」と認識する。

 また、言語を使わないイメージの認識で生きているこのラプトルにも、しっかりと感情があるという設定を付けている。もちろんそれはそうかもしれないが、我々のもの(感情)と、彼らのそれとでは明確な違いがあったりするだろうか。それともそういうものは、結局同じようなものだろうか。
物語の最初の方でも、レッドは大切なオスのパートナーを失って、悲しみの感情に苦しんだりする。

裏側にダーウィン進化論

 その優れた嗅覚神経によって見つけた屍肉を食べたりもして、独り生きていたレッド。
ある時に仲間を見つけたと思うと、それはたしかにラプトルなのだけど何かが違う。
それは鼻づらの色の赤ではなく黄色。自己イメージの認識が、それは決して自分の仲間ではないと告げてくる。彼女は攻撃的になった自分が、いったいどういうことなのか意識の上で理解することもできないが、しかし黄色い鼻のオスに対して、何か強い嫌悪感を感じる。仲間として認識できるためのシグナルをほぼ全て持ち合わせながら、間違った感情を持っている。実は、黄色い鼻のオスとの間には、子供が生まれないか、あるいは生まれても奇形な可能性が高かった。進化論的には、そのような謎の感情が、結果的に種の保存に繋がるというようなことが描かれる
「ダーウィン進化論」自然淘汰と生物多様性の謎。創造論との矛盾はあるか

シミュレーション作品としてのSF

 神経が生じさせる認識や本能、感情。マクロ領域でのはっきりとした(例えば小さな虫などの影響などによる)物理的連鎖、免疫などの機構。様々な要素が合わさって造られる、次世代へと繋がっている遺伝子の時空間的な経路。とにかく生物システムというものが、コンピュータープログラムのように捉えられている。そしてこの小説自体はまるで、そのプログラムが、与えられたいくつかの条件のもと、どのような動きを見せるか、というシミュレーションかのようでもある。

 明らかに、ラプトルレッドの認識している世界をそのまま描いているというよりも、ラプトルレッドが様々な行動をする、その原理を説明しているような文章構成にもなっているから、やはりシミュレーション感が強い。

 終盤。恐ろしい陸の肉食恐竜アクロカントサウルスと、同時に、海からの危険生物クロノサウルスとの間で、まさに絶体絶命の危機を迎えた時、レッドの機転により切り抜けるシーンは、かなりの緊迫感。
そしてこの時にレッドが、自らの賢さに誇りと喜びを感じるような描写なども、非人間生物の感情を考える上で、かなり興味深いところか。

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