利己的な遺伝子、虹の解体、悪魔に仕える牧師「ドーキンス著作いくつか」

利己的な遺伝子

 あちこちにしつこく書かれているが、この本の中では多くの擬人化的な説明が用いられているものの、もちろん遺伝子とか、人間以外の動物とかでも、本当の意味で人間と同じような人格を持っていると想定している訳ではない。ただ、あくまで自然淘汰を生き延びて数を増やしていくであろうものが、擬人化した場合には、利己的と思えるような行動をとるものと考えやすい事実を、理解するのに利用しているだけである。そしてそれ以上の意図はほぼない感じである。 
つまりこれは、進化が続いた場合に、ある環境で優勢的な存在になるだろう物を構成している最小単位(遺伝単位)を(これは序盤で完了する準備のようなものだが)定義し、多くの実例を挙げて、 擬人化した場合に利己的と思えるような生物の行動が、以下にその遺伝単位を、進化競争の中で有利にするかについて論じるのが第一の趣旨なのだと思われる。
ちょっと興味深いのが、前書きで「この本はほぼサイエンスフィクションのように読んでもらいたい。イマジネーションに訴えるように書かれているから」などとあることであろう。

 これは後の版で追加された前書きに書かれていることだが、生命の階層構造において、自然淘汰が作用する、つまり「利己的な」と言えるレベルがどこか。種か? 集団(群)か? 個体か? 生態系か? それが重要な疑問であるとし、過去に仮定されてきたそれらは全て間違っているとも断言されていて、彼の考えが広く受け入れられるようになった時代の流れのための、自信を感じさせる。
この本ではまさしく、しっかりと考えてみるなら、いくつかの強力な理由により、利己的と考えられるレベルは遺伝子なのだと論じられている訳である。

 しかし、遺伝単位の大きさについて考えたくなるかもしれない。そういうものに関して上限に制限があるのだとしたら、ある程度以上、単体の遺伝単位のシステム能力には限界があると考えられる。そこで共同体を完全な遺伝単位として認めることができるかどうかが、やはり重要になってくるように思われる。
逆に、遺伝単位の下限に制限があるのだとしたら、どうだろう……

ミームの話

 どちらかと言うと、進化や遺伝生物学よりも、社会学や工学などに興味がある人に、非常に重要であろう要素がこの本では1つ提示される。それは文化的なものに関する遺伝単位とも言うべきもの、いわゆるミームである。

 ミームに関する話では、独身主義を促す遺伝子というのは自然淘汰で消えるかもしれないが、独身主義のミームは高い生存価を示し、例えば僧侶のような生存機械の間で、巨大な宗教的ミームの複合体の中で広まり、役に立ち、つまり自然淘汰的に強いかもしれないというような例。そういう話から、ミームのようなものは、何かしらそういう要素が情報の形として伝わっていくもので、物理的実態をどこから必要とするか。どういうものまでを物理的実体世界とするか。ようするに、そういうものが遺伝子のような実体が作り出す自然世界の上でなくとも発生しうるか。ミームだけが実在している世界というものがありえるのか。という疑問などを抱かせる。

虹の解体―いかにして科学は驚異への扉を開いたか

 生物学関連以外に物理学や数学関連の話も多い。カール・セーガンの著作を意識しているようでもある。ドーキンスは時々、SF小説の話を持ちだすが、ここではSFというジャンルに関する彼自身の考え方がいくらか語られてたりしていて、それも結構興味深いか。
「すぐれたSF小説は決して、魔法と化した安易な呪文に惰することがない。むしろそれは世界を普通の場所として捉えることから出発する」

 あまり知らない人に対して、科学を説明することに関して、詩の表現や例えが役に立つことはあるが、しかしそれが逆に、愚かな間違いを広めてしまうこともあるともする。
例えばスティーヴン・ジェイ・グールドは素晴らしい書き手であるからこそ、彼が間違った考えを持った場合は厄介なのだという。
他の著作で見られる記述とかを合わせて考えても、ドーキンスは、グールドの「ワンダフルライフ」を批判的に語りながらも、小難しいとされるようなことを多くの人がわかりやすいように上手く説明しているという、その巧みな業は非常に評価している。

 (いつものように)利己的理論を含む多くの遺伝子や進化に関する理論の他、量子論や宇宙の始まり、数学的な解析を利用した研究方法、社会の中での犯罪や、子供たちの教育の話、根拠なきオカルト話に(とうかそういう話を大衆が信じやすすぎることに)対する批判、ガイアとかの注目を集めがちな理論など、とにかく多くの話題が用意されているので、ドーキンスの本で、最初に読むのがなかなかいいかもしれない。

神は妄想である―宗教との決別

 ドーキンスは宗教的な思想を嫌っている感じだが、そのようなもの、信仰されるもの、神というものについてを扱った本。とはいえ、多くの無神論者の科学者らが、時々本に書くような宗教批判以上のものかというと微妙なところではある。
ただ(彼の本の中では)言いたいことはわかりやすい方だと思う。関心がない訳ではないが、別に特定の宗教の信者ではないというような人なら、「こういうこと考えたことある」というような疑問が多いかもしれない(例えば聖書に関する章で次々出される、(信じるにせよ信じないにせよ)それをよき物語みたいに考えることへの疑問とか)

 神秘的なものとしてではなく、科学的に見れる対象として神を考えているが、これでは納得できない人が多いと思う。例えば生命という複雑な機構の発生に関して、偶然というのはあまりにも考えにくいが、それではなぜそういうものが発生したのか、といういわゆるインテリジェントデザイン説に関する話。ドーキンスは述べる、「設計(デザイン)は偶然に対する唯一の代案ではない。自然淘汰の方がより優れた代案である。デザインはその設計者を設計したのは誰かという、より大きな問題を提起するがゆえに、本当の代案となりえない。偶然も設計もどちらも失格。なぜなら一方はそれ自体が問題であり、他方は無限の退行を招くから」と。しかし、熱心に神のことを信じる者は「だからこそ神は特別な存在なのだ。我々が生きるようなこの物質世界とは全く異なる宇宙の存在なのだ」というような反論をするかもしれない(そのような、いくらでもこじつけできるような証明(?)がアリなら、もうなんでもありだというような反論も本の中に見られるが、(なぜそれを物質世界の特定の人が、本人たち曰く明らかな形で理解できているのかは謎だが)まさしく人には想像もできないようなレベルでのなんでもありな存在こそ神なのだと言われるか)

 (理解できない神の領域のようなものを想定しない)科学的手法で神を考えることの批判への返しとして、認識方法に関して、例えば信仰心を持つきっかけとなったろう、個人的、主体的な体験などの話がある。原理はともかくとして、神が彼らの頭の中で別の人間が話しかけるように語ってくる現象、そのような現象を考える時、もしも神様が本当に人間と意志疎通をしているのなら、その事実は科学の埒外にあるはずがない。神本来のすみかがどのような領域でも、神が突然現れ、人間の脳が認識するメッセージをまいたのなら、私たちの世界に現れる必要があるはず。そうしたら、それは、私たちが科学的に考えられる現象となるはず。関わりを持っているようなものとなるはずと。

究極的な問いに関して

「もし科学には答えられない究極的な問いというものがいくつかあるとして、いったいなぜ宗教にはそれが出来るという話になるのだろう?……宗教がそれ以外に人類の英知に貢献すべきものを持たないからといって、私たちに何をすべきかを教えるフリーライセンスを宗教に手渡すべきだ、ということにはならない。そもそもどの宗教を選べばいい?」というような、むしろとっくの昔に話しあいまくって、何らかの答が出ている(しかしなぜか宗教信者たちはそのことについて外部の者たちに説明したがらない)と考えないと、何かおかしいと感じてしまうような、(ようするに誰でもすぐに思いつきそうな)疑問もけっこう示される。

 個人的に、この本で紹介されている疑問の中で、一番知りたいのは「世界を作った神様がいるのだとして、なぜそれが人間に特別な愛を示し、自分を信仰する者を救うというような性格なのだとわかるのか」というようなもの。これはかなり幼い頃から疑問だったことだ。

 科学的な文脈に限った話ではないか。問題の解決のためにどういう答を用意するにせよ、より複雑な問題が生じるなら、それは解決とは言えないというような考え方があるようにも思える。

進化の存在証明

 シンプルといえばシンプルな、ただただ進化理論に関する本。これまでの著作に比べても、ダーウィンからの引用と、それに関する考察がかなり多い。

進化の理論と、それの証拠だけでなく、いかにしてそれが発見されてきたか、どのように研究されてきたかについての話も非常に多いから、内容的には進化の教科書というような感じでもある。
科学全般に興味があって、ドーキンスの本を1冊だけ読むなら、「虹の解体」がいいかもしれないが、特に生物に関心があるならこちらがいいと思う。
「この生命観には壮大なものがある」という結論は楽しげ。
残された(むしろ残されてきた)謎に関する話も、謎なりにどう考えているのか、けっこう書いてもいる。

悪魔に仕える牧師

 様々なところに投稿された、ドーキンスの様々な文を、いくつか選出してまとめたらしい本。
基本的に多くの話が、彼の本の最終章とかに書かれるようなもの(つまりまとめや、はっきり個人的な見解。科学的、客観的な観点からも少し離れた、著者自身の素の意見みたいな)に近いと思う。当然ともいえるかもしれないが、系統的にはグールドのエッセイシリーズにやや近いような感じもする。

 やはり個人的には、この本の出版の前年に亡くなった、スティーヴン・ジェイ・グールドに対する、いくつかの肯定的と思われる記述。
著名なポピュラーサイエンスの作家でもある科学者たちは、世間的な自分のイメージをある程度わかっていて、意識しているというような説を聞いたことがあるけど、それは正しいのかもしれない。

 進化論を認めない(ドーキンスの他の著作からして、明らかにここでの怒りは、認めないということよりも、子供たちにそれを教えようとしないこと)創造論者たちに立ち向かう時なら、私たちは仲間になれたろう
「あなたが教えてくれたあの理由が、今でも創造論者との討論会を私が断り続けてる理由です……私とあなたの連名で……」
グールドは返事する「すばらしい考えです。喜んでご一緒します」
そして叶わなかったことが語られている。