「死とは何かの哲学」生物はなぜ死ぬのか。人はなぜ死を恐れるのか

死という現象に関する我々の認識

幼い子供にとっての母の死

 まず『死(death)』とはなんであろうか。
ひとつには「お別れ(farewell)」だろう。
だが感覚的に永遠かどうかは異なる可能性が高い。

 例えば20歳の人のお爺ちゃんが死んだとする。
その人は多分、葬式で遺体が燃やされ、灰と骨となったお爺ちゃんに、また会えるとは考えないだろう。
もしかしたら死後の世界というのがあって、自分が死んだ後に再会できるかもしれない。
夢の中や、妄想で、再会できたかのように思い込めもするかもしれない。
だが、自分が生きている間に、現実の世界でまた会えるなどとは思わないはず。

 だが幼い子供の場合はどうであろう。
幼い子供はよく、身内、例えばおじいちゃんやおばあちゃんが亡くなった場合、葬式にて、焼却されて、骨になったところを目の当たりにした場合ですら、 そのうちに、おじいちゃんやおばあちゃんは帰ってくるのではないか、というふうに考えていたりする。

 また、母親が死んだ子供に対して、「お母さんは天国へ行ったんだよ」と教える父が、天国なんてものを信じているかは怪しい。
しかし、少なくとも子供はまったく素直に、お母さんは天国という場所へ行っただけなのだと考えるかもしれない。

 何にせよ、両親の片方が死んだ場合と、両親が離婚して片方が離れて暮らすことになってしまった場合の子供の反応は近しいという。

狭い世界での因果関係の推理

 子供の認識について、一つの有力な仮説がある。
もしお母さんが何か気に入らなくて、「お母さんなんて嫌い」と言った子がいたとする。
それからすぐにお母さんが死んでしまった場合、おそらくその子供は、狭い自分の世界の中から、ひとつの答えを見つけ出すだろう。
それはつまり「お母さんは、自分がひどいことを言ったからいなくなったのだ」という考え。

 だが実際問題、子供にすこしばかり嫌いと言われたからといって、すぐさま死ぬほどショックを受ける親もそういないだろう。
子供も成長すると、母親の死には別の理由があると悟る。
というより、そもそも死とは誰にでもやがて訪れるものであり、かつ人は簡単に死ぬということを理解する。

 では実際に、普通の人が誰かを傷つけてしまって、その傷つけられた人がショックで死んでしまった場合はどうであろう。
傷つけてしまった人は、(普通なら) 後悔することだろうが、それは子供が母親を殺してしまったと認識してしまった時と比べて、ショックの度合いはどうであろうか。
おそらく少ないはずだ。
なぜなら我々は、死というものに関して、その原因が直接的な何かだけでないことを知っている。
仮に、 自分の言葉が相手を広げる、助けて死に追いやったのだとしても、その言葉だけが死の原因でないと知っている。

 そもそも我々が死ぬことは生まれた時から決定していることだ。
死のうと思ったら人は簡単に死ねるが、死にたくないと考えて、いつまでも生き続けることは、おそらくはできない。
極端な話、人が死ぬ一番の原因は、簡単に死ぬことができるような我々の脆さであるとも言えよう。

 だが、幼い子供が理解せず、我々が理解している死とはいったい何なのか。
本当に我々は理解しているだろうか。

我々は目を背けているか

 「我々は日常的にあの言葉を使っている」とは、ある映画(十二人の怒れる男)のセリフである。
あの言葉とは、「死をくれてやる」というような言葉だ。

 よく、このような言葉を使う場合の、たいていの場合は本気ではないとされる。
しかし普通に考えて、これは冗談として考えるなら悪趣味だ。
死をもたらしてやるような宣言や、死んでしまえばいいなんていいなんて発言は、我々が実は、いかに死というものを軽く見ているかということの証明であろうか。

 では、もう明日にでも死ぬようなくらいに、病気で体の弱った人は、誰かに出して、そういう言葉を言えるだろうか。
また、そのような近日中の死がはっきりしてる人に対してそういう言葉を言う場合、そういう状況でない人に対して言う場合とで、変わらないと考える人など、そういないと考えられる。
そうでなくとも、そういう人の周囲の人たちは、死ぬことを連想するような言葉を使わないように、調整している場合もある。

 これは我々が、普段から死というものをそれほど身近に感じてはいないが、それが迫った時に、ようやく実感するということを示しているのだろうか。
必ず死ぬという事実から、目を背けてしまっているのだろうか。

どれくらいに離れることか

 死ぬことが少なくとも、生きている者から、かなりのレベルで離れてしまうことと、我々が認識していることはほぼ間違いない。

 例えばあなたがある部屋にいるとする。
そして、その部屋にはあなた以外には、命を奪うことが快楽となっているような人がいるとする。

 そういう状況だと、多分あなたの方がすぐに死んでしまうことになるだろうが、ここでもし、その危険な人の方が先に死んだらどうであろう。
おそらくほっとする人が多いのではなかろうか。

 あなたに、死なせたいと思うだけで、対象を死なせるような能力が与えられていたとしたらどうだろう。
この場合でも自分の身を守るために、相手を死なせる者が多いと思われる。

 しかしどういう場合にせよ、危険な相手が先に死んだなら、あなたは自分が助かったと思うはず。
死ぬということは明らかに、はるかかなたに遠ざかるようなことを意味している。
つまり、もう物理的に関わることがなくなるのだ。
というふうな認識が我々にはおそらくある。

 これはわれわれが自分の死を特に恐れ、それと同じかそれ以上くらいに自分の好きな誰かの死を恐れていることからも、かなり明らかなことだ。

なぜ我々は死ぬのか

老化とは何か、本当に劣化か

 死は老化と関係あるだろうか。
老化というのは、死に着実と迫っている現象なのだろうか。

 よく知能などの面から、我々がロボットであるのかとかシュミレーションされた存在であるのかという議論があるが、それとは別に、我々が明らかにロボットと似ている部分がある。
人工知能の基礎「人工知能の基礎知識」ロボットとの違い。基礎理論。思考プロセスの問題点まで宇宙プログラム「宇宙プログラム説」量子コンピュータのシミュレーションの可能性 それが壊れることだ。
死ぬと壊れるは、ほとんど言葉の違いにすぎないようなもの。

 ロボットは丁寧に扱ったらなかなか壊れない。
何か破損があったとしても、そこを修理することで持ち直したりできる。
同じように人間も丁寧に扱えばなかなか死なない。
何か破損(怪我)したとしても、そこを修復することで助けることができる。

 だがロボットも人間も、最後には必ず壊れる(死ぬ)運命を絶対に避けることはできない。
もし避けることができるなら、おそらくそれは人間やロボットと定義されるような存在ではない。

 我々を構成している物質は、永遠にくっつきあっているようなものではない。
あるいは劣化、秩序の崩壊、ある方向への時間の流れに逆らう術は知られていない。
熱力学エントロピーとは何か。永久機関が不可能な理由。「熱力学三法則」タイムトラベル「タイムトラベルの物理学」理論的には可能か。哲学的未来と過去  だが仮に、そういうことができるようになったとしたら(劣化や時間の流れなどに逆らうことができるようになったら)、おそらく死の克服は人間とロボットに等しく発生する。

寿命を調整したカエノラブディティス・エレガンス

 ここで一つ謎が出てくる。
老化は仕方ないにしても、その速度に関して、なぜ同じような環境で生きている生物間にも違いがあるのかということ。

 これは老化という現象が、遺伝子などによって調整されているからではないか、という説がある。
小さな領域「利己的な遺伝子論」進化の要約、恋愛と浮気、生存機械の領域 モデル生物と知られているカエノラブディティス・エレガンス(Caenorhabditis elegans)などに関しては、それを調整するらしい遺伝子を組み替えて、寿命を増やす事に成功している。

 よく言われるように、遺伝子がコントロール機構で、我々がロボットのようなものだとするなら、遺伝子は、必要がなくなった時点で、我々自身の機能をシャットアウトするような感じで、それが死ぬことなのだと考えられる。

死のためのシステムスイッチはあるか

 だが、我々がしっかりと長く生きて、老化して死ぬことに関しては、むしろ不自然なプロセスなのではないかという意見も多い。

 確かに歴史を見てみると、大半の時代の大半の地域で、人間の平均寿命は今よりもはるかに若いとされている。
長い間、我々に関して、寿命で死ぬということは相当に例外的なことだったのだ。

 もしかしたら寿命というのは本来は緊急手段なのだろうか。
本来、想定されていないような長い時間を生き続けることを防ぐために、一定時期までに死ななかった場合に、自動的に死なすためのシステムスイッチがあると考えるのは、妥当かもしれない。

 なぜ古い世代が死ななければならないのかについても、かなり明らかであろう。
この地球の資源には限りがある。
生命体は刻一刻と変化する環境に対応する世代を生み出して、生存してきた。
進化の分かれ道「進化論」創造論を最も矛盾させた生物学理論 新しい環境に対応しているのは、新しい世代の方であって、古い世代の方は、あまり長く生きていると、ただ資源を浪費するだけの邪魔な存在になりかねない。

 我々は自己意識という文化を持っているから、 このことについては悔しく思う人が多いかもしれない。
誰かのために自分が犠牲になっていいなんて考える人は、多分そういうふうに考えれる人がイメージするよりもずっと多い。
コネクトーム「意識とは何か」科学と哲学、無意識と世界の狭間で  ただいま人間がちゃんと寿命、寿命じゃないにしても長生きできるようになったことに関しては、単に我々が、ウイルスなどに対してようやく対抗できるようになったから、というだけの話かもしれない。
つまり、我々はずっと勝負に負けっぱなしだっただけ、という話だ。
「ウイルスとは何か」どこから生まれるのか、生物との違い、自然での役割

人間社会とは何か

 人間の頭脳と、それがもたらした社会というのは、まずいことであろうか。
その可能性はわりとあるだろう。

 社会は大人たち、 つまり、(前の遺伝子どうたらって話が正しいなら)近々不要になる上の世代が作るものだ。
大人たちは教育というものをして、子供たちを自分たちが望んでいるような存在に、近づけたがらせる。

 だが、上の世代の者たちにとってよい世界というのはどうであろう。

 もっとも、人間はもはや遺伝子の都合とか、生物の進化とか関係ないような、自分たちの理想郷を目指しているような感じもするが……。
比喩でなく、我々は神に近づいているのかもしれない。

天国はあるだろうか。自分が失われる時、それは死か

 天国はあるだろうか。
死後の生は。

 よく高齢者は死を恐れているというよりも、自分を失うことを恐れていると言われる。

 おそらく記憶力がはっきりし、自分という存在を認識している時点で、認知症のことを知っているか知っていないかだけでも、恐怖感がまるで違ってくるに違いない。

 自分が自分でなくなってしまうことを想像するのが辛いのだ。
何もかも忘れてしまった自分。
そんな自分はもう死んでいるのも同じようなものだ。

 あるいは、ちゃんと自分という存在を知っている状態で、最期を迎えたいと望んでいる人が多いのだと思われる。

 死はお別れなら、お別れとはなんであろうか。
脳に損傷が与えられて、(何かのショック状態で忘れてるとかじゃなくて)正真正銘まるっきり記憶をすべて失ってしまった場合、その人は記憶を失う前と同じ人と言えるだろうか。
物理的(肉体的)には同じと言っていいかもしれない。
だが同じ人だろうか。

 記憶力を失っただけでは、まだその人がその人であると信じたい人でも、その人の人格まで決定的に変わってしまっていたとしたらどうか。

 そしてどういう場合にせよ、ある人が生存していると判断されるような状況を保ったままで、別の人になってしまった場合、前の人は死んだと言えるのであろうか。
新しい人が、新たに誕生したのかどうかということを考えると、もっと奇妙に思えてくる

 仮に天国なるものがあるとしたら、いつのタイミングで、誰が行くのであろう。

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