「空手道」稽古の精神、心構え。一点集中、一撃必殺の武道の哲学

空手の道

 単に空手と言えば、普通は空手道のことを指す。
沖縄発祥とされる空手は、現在では、日本人にとって最も馴染み深い武道の一つであろう。

 他の多くの武道でもそうであるように、空手の道というのは、ただ肉体的な強さを鍛えるための術ではない。
その道にはおいては精神的なもの、心が重要となってくる。

 精神論といえば非科学的と感じる人も結構いるかもしれないが、実はむしろ、武道の精神論とはたいていが、なぜ強くなるのか、なぜ強くいれるのかを科学的に考えるということにも近しい。

 ただオカルトじみた思考が、伝統的に少なからずあるのは事実ではある。

必勝は不敗であることではない

 武道は力の戦いのためだけにあるのではない。
精神論も戦いのためばかりでない。
不屈の精神は、優れた人格にいつでも繋がるというような感じではなく、例えば、何をしてでも勝つというようなチンピラ的思考にも繋がりかねない。

 実際に浸透した、勝敗重視のスポーツ的発想は海外からの影響であろうとされる。
公式の試合の場で勝てるような流派がもてはやされているのは確かなことである。
それはいつでも道を極めんとする達人や、その見習いたちが目指す頂と、素人が思うような憧れにズレがあるからかもしれない。

 本来の武道は勝つためのものではない。
それはたとえ空手道が、一撃必殺を極めるためのものであっても、変わりはしない。

 別に戦いの場で勝とうとすることが悪いというわけではない。
それにこの話は、結果よりも過程の方が大事とか、そういうような話でもない。
ただ、何としても必勝必殺を追求する事しかできないうちは、初心者の域を出ないともされる。

「必勝は不敗であることではない」
それはおそらく、たいていの人にはバカバカしいような話だろう。
だが実はこれが真理であることを身をもって知った時にこそ、その道が始まるのだともされる。

 力を競う戦いで強い者が勝利するというのは、ある意味当たり前の話である。
では空手を極めるには強くある必要があるのだろうか。
弱い者に空手を極めることは不可能なのだろうか。
実際のところ、それはわからないというのが現状かもしれない。
真の天才などいないという説もある。
だとするとこの世界には凡人しかいない。
ただ一部、戦いに強い者が天才と言われるだけ。
実際に道を極めた者などいやしない。
だから現状では、弱くても空手を極めることができるのかどうかという疑問に、確信を持って答えることなど不可能なのかもしれない。

 なればこそ、空手道に一度入門した者は、やめることはあったとしても、卒業することはないと言われるわけである。

 実際的に空手道を極めることは不可能だろう。
誰もが必勝を得ることは不可能だろうから。
だが実は、そのような協調の道こそが、空手道の目指すところなどという説もある。

稽古とは人間の探求

 「稽古けいこ」は人間の探究と呼ばれる。
多くの人が、生まれてから死ぬまでの間に両親と出会い、兄妹姉妹と出会い、友や師と出会う。

 空手道において精神が重要だというのなら、おそらくそのような相手は人間でなくとも、直に接することができるような存在でなくともよい。

 稽古は常に人間の探求。
自己を知り、相手を知り、かかわり合いを知ること。
向かい合った相手がたとえ悪意を抱いていようとも、稽古相手となるならばありがたい存在と考えるべきともされる。

 いつでもそう上手くいかないとしても、それが理想であるとされる。

 相手の立場に立って考える。
相手の立場を知って行動する。

 戦いにおいては「入身いりみ」と呼ばれる。
それは相手の死角に身を入れたりする「合気道」でよく知られた技術。
精神的な相手との和合(互いに知り合うこと)のためのものという説もあり、空手道でも近しい考え方がある。

 もし互いに相手のことを知り合うことができたなら、そこには勝ちも負けもない、ある種の境地へと行き着く。
それこそ相手と共に生きるという極意なのだともされる。

 人の気は全て調和するということを知ることも、稽古の大目的というわけである。

 また、肉体的な鍛錬を訓練。
精神面の鍛錬を稽古とする流儀もあるという。

理屈的な批判は後と知るべし

 特に初心者であるうちは、用意された特訓方法に関して、何かおかしいとか、理不尽だと感じても、疑問をなるべく持たないことが大切なのだとされる。

「理屈的な批判は後と知るべし」
固まった頭は固まった心と同じ。
ああすればよい、こうすればよいとか、もっとああするべきとか、こうするべきというのは後で考えればよいのであって、まずは全てが自己のためになるものと考えること。
その愚直さこそ、身になる稽古に必要なものなのである。
そしてそうしてこそ柔軟な心が培われるわけである。

 また、私見を捨てることにこそ、稽古の真髄はあるとも言われる。
私見を捨てるとは、つまり自我に囚われた自分を捨て去るということ。
そして自我を捨てた、無意識の境地の中でこそ、本物は見えてくる。

礼に始まり、礼に終わる

 武道における型とは、その内容の攻防の技を通して、それを行う者の人間像を表現するものともされる。
その形は心の現れなのである。

「礼に始まり、礼に終わる」
礼はそれ自体が一つの型と呼ばれる。
その形は心の現れであるからして、優れたお辞儀ができる者は、良き人間の境地にたどり着けた者なのである。

 本当のお辞儀は堅苦しいものではなく、実に自然的で、しかし隙だらけのようでどこにも隙などないというものとされる。

 能ある鷹は爪を隠す。
しかし自分に能があることすら忘れさった状態こそが、真なる極意の境地なのだ。

 いつでも心をそこに込めて、あくまでも自然体で、そうして初めてお辞儀は形を伴うわけである。

空手に先手なし

 昔から言われている有名な格言。
「空手に先手なし」
通常は「先に攻撃を仕掛けてはいけない、やむを得ない場合に初めて戦いに転ずる、そして手を出す場合であっても基本的には受けるだけで相手を殺傷するようなことがあってはならず、どうしても争いを止めない相手でも、できる限りは、ただたしなめる」というような空手道の精神と解釈される。

 この言葉は時に、実践的な意味として解釈される向きもある。
古くからある空手の型は、基本的に全て受け技から始まる。

 常に先手を取り続けようとする心は実は弱い。
責められた時に、それを受けきれないかもしれないという恐怖心、不安。
やられてしまった時の憎しみや怒り。
それらを抑えられないが故に先手を取られることを恐れる。

 達人ならば、相手の心の動きに応じて自分の体が自然と動くという。
そのような境地へと至る時、そこにはほんのわずかな抵抗も対立もない。

 自然の全ての気の流れを知り、自然な形で敵の攻撃を受け流せるようになれば、それはもはや防御のための後手ではなくなる。
常に「後の先」を取り続けることになる。
先手なしとは、常に後手という意味ではない。
真に極めた者なら、先手も後手もそもそもなしで、ただそこには自然な形の後の先があるわけである。

柔軟体操は準備運動か

 準備運動として「柔軟体操」を行う場合がある。
しかし、柔軟体操も稽古に含まれると見る向きは強い。
そうだとすると、これを準備運動とするのは少々おかしな言い方であろう。
稽古をする準備ではなく、これ自体が稽古なのであるから。

 柔軟体操は単に稽古のための体を作るためだけのものではなく、それ自体、しっかり訓練すれば、一つの流派を作れるほどに奥深くもある。
健康を保つため精神の集中力を高めるためという実用的な意味合いも強い

立ち方。なぜ重要なのか

 立ち方は空手における基本の一つとも言われる。
特に不必要な力を全て押さえ込み、やはり自然な形で立てることは重要である。

 立ち方については古くからの議論があり、より実践的なものが追及されてきたとされる。
実戦を想定し、あらゆる場合に対処できるような体制とはどのようなものか。
どのような立ち方がどのような動作につなげることができるのか。

 時代が進むと、より柔軟な変化も、心身集中のための技として重要視される場合もでてきた。

 以下にいくつかの立ち方を紹介すれが、流派によって細かい違いがあることもあるし、紹介した以外にも様々な形がある。
ただ、どの立ち方も、ある基本の立ち方からの変化とされる。

自然の立ち方。八字立ち

 両足を肩幅程度に開き、足の先を正面においた、言ってしまえば普通の立ち方。
それが「八字立はちじだち」である。 
全ての立ち方の基本と言われることもあり、他のすべての立ち方が、この立ち方からの変化という説もある。

 この立ち方を自然体とみる向きもある。
自然体であるとはつまり、自然と最も一体となっている、最も近しい状態であるとも言える。

 そして相手が動くことで、自然が動かされた時に、自らもそれ(自然の動き)に対応するように動くことこそ、技の極意であるのだという。

 最も自然体であることを追求しているから、不自然に力を入れておくのは間違いともされる。
これは身構えた立ち方ではなく、自然体の立ち方なのである。
まるで大気と溶け込むかのように限界まで力を抜き、心を静かに、しかし気を早く保つように。

 相手に応じて変化した後は、最後には元の姿、自然体に戻ることは理想的な流れである。
これ以外の立ち方全ては、瞬間的な変化に過ぎないのだ。

閉足、騎馬、四股、前屈、後屈、猫足、不動

 両の足とつま先とかかとをくっつけるように立つのが「閉足立へいそくだち」。
逆に肩幅よりも足を開くのが「騎馬立きばだち」である。

 騎馬立ちは実戦では使いにくく、足腰を鍛えるための訓練のように考えられる向きもある。
足先を開いた後は、なるべく膝を足の親指の方向へ曲げるわけだが、そのイメージは重心を体の中心から真下に落とすように、などと表現される。

 そして騎馬立ちと同じような足幅で、足先の方向がなるべく真横を向くようにする立ち方が「四股立しこだち」である。

 姿勢低めに前進しようとすると、体が前のめりになりがちだが、そうならないように注意しながら、膝を曲げると同時に片足を軽く前に出しす立ち方が「前屈立ぜんくつだち」と「後屈立こうくつだち」。
前につきだした足の膝を曲げて支え軸とするのが前屈立ちで、後ろ足を曲げて支えとするのが後屈立ちである。

 「猫足立ち」は、後屈立ちより前足を引き付けた形で、前足のつま先と後ろ足のかかとが一直線になるような形ともされる。
「不動立ち」は、前後に大きく開いた両足を、そのどちらの膝も曲げて、重心を両足の真ん中に置くような形としたもの。

実戦において

 実際の戦いのために必要な行動は攻撃と防御、すなわち攻めと受けのみである。

攻め。一点集中、一撃必殺の突きと蹴り

 空手における攻めは基本的に「突く」と「蹴る」だとされる。
空手において攻めの方法としてはこれら二つを学ぶ。

 重要なのは「効き」である。
最大限に効きを活かした突きと蹴りは、文字通り相手に伝わり、多少の筋力差などものともしないかのように、効くものとされる。

 突きにしても蹴りにしても、効かすには、それを相手に当ててからも重要とされる。
時にはひねたりもして、相手に当てた突き拳や、蹴り足の一点に、自分の全ての力を込めてぶち込むことにこそ、一撃必殺、空手の攻めの極意がある。

 空手の技は集中の技ともされる。
なぜ自然体の立ち方で全身の力を極限まで抜くのか。
そのような過程が、一点集中の前にあるからとも言えよう。
一点集中である。
他に力はいらない。
ただ、攻めの瞬間に、その攻めの一点に全ての力をこめることこそが達人の技なのだという。

 さらに相手の流れに対応しておくことも、効きには重要。
ただそこに置かれてるだけの置物などと違って、人間の体というのは抵抗がある。
だから、最も抵抗に逆らわないために、その呼吸、気、心の流れを 悟り、合わせ、それに逆らうのでなく、ただ突き抜ける攻めこそ、理想である。

 全身を柔軟に、攻めの手足に力を集中し、突き貫く。
それが空手の最強の技なわけである。

受け。払って、集中された力を乱す

 一方で実戦において、敵が常に空手家であるとは限らない。
むしろそうでない場合のほうが多いだろう。
攻撃の方法自体は、突くと蹴る以外にも、殴る、打つ、つかむなど、いろいろあり、 敵がどのような攻撃をしてくるかは時と場合による。
そこで受けに関しては、様々な攻撃に対応するものがある

 そして空手に先手なし。
空手の受け技は基本的に、ただ受けるだけの技ではなく、受けから攻めに、後の先に転じるための技ともされる。

 空手の受けは、払いに重点を置いているとされる。
つまり受け流しである。
仮に一点集中の空手の突きが本気で来たなら、その突きを利かないでいることは難しいから、払って、その集中を乱すわけである。

 受けの実践的な稽古では、当然のことながら攻めを受けなければならない。
特に自分よりも高い実力の相手に攻めてもらう場合、受ける側は相当に痛い思いをしなくてはならない場合もある。
だからこそ、そこに少しでも悪意を持ち込んではならない。
空手はいじめのための技ではなく、武道だからである。

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