河童、侏儒の言葉、蜘蛛の糸、地獄変、羅生門、素戔嗚尊「芥川龍之介」

河童。近代的異世界譚か

 精神病院のある患者が、自分が以前迷い込んだというカッパ(河童)の国について語る話。単に昔の話というだけでなく、精神病院に入ってからも、時々その国からカッパの知り合いが会いに来ていることも語る。
異世界に迷い込む昔話のようだが、書かれた当時における現代版のような感じなのだと思われる。カッパの国では科学がしっかり根付いていて、人間世界の哲学や芸術も、その文化に取り入れられているようである。しかし、カッパと人間は近しい存在、あるいは進化によって少し前に分岐した存在かのような印象も強い。つまりカッパというより、ホモ・カッパとでも言えるような。

 作中で、語り部も最初笑ってしまったという哲学者の言葉として「我々は人間よりも不幸である。人間はカッパほど進化していないから」というものも出てくる。

カッパはどのような生物なのか

 カッパという生物に関する作中の説明は以下のようなもの。
「実在するかどうかは疑問になっている動物。しかしそのカッパの国に迷い込んだ者にとっては確実に存在する生物。
水虎考略すいここうりゃく』 という本に書いている記述と、あまり違いはない。
頭に短い毛があり、足に水かきがついている。身長は1メートルを超えるか超えないかぐらい。体重は20~30ポンド(9~13キログラム)ぐらいが普通だが、たまに50ポンド(22キログラム)ぐらいの者もいる。頭の真ん中に楕円形の皿があり、その皿は年齢によってだんだん硬さを増していく。
しかし特に不思議なのはそのカッパの皮膚の色。カッパは 人間のように一定の皮膚の色を持っているわけではなく、カメレオンのように、周囲に合わせて色を変えて(周囲に似せて)いく。カッパを目撃したとしても突然どこかにいなくなってしまったり、記録によってその色が違っていたりするのは、この特徴のため。
カッパの国の平均気温は華氏50(摂氏10)ほどで、わりと寒いが、カッパは着物など着ないので、脂肪がかなりあついと考えられる。
財布やメガネやタバコの箱などを持つ場合もあるが、そういうのは、カンガルーのような腹の袋にしまう」
カンガルー「有袋類」袋を持った哺乳類の進化と生態  さらにいくつか、人間の行動についておかしい部分があるようである。例えばカッパは服を着ないが、逆にカッパからすると、人間が服を着ていることがおかしいのだという。
基本的に人間が真面目に考えるようなことが、カッパにとってはおかしいことのようでもある。正義とか人道とか。

カッパのオスメスと、子の出産

 カッパの性的描写に関しても、やや奇妙な感じに描かれている。
まず社会的にはメスが優位のようである。気に入ったオスを見つけたメスは、追いかけ回して自分のものにするのだという。
そうしてメスが妊娠し出産することもあるが、そういう場合、基本的には医者や助産師などの助けを借りてお産をする。しかしお産をする時、その父親は電話でもかけるように、母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界に生まれてくるかどうかよく考えた上で返事をしろ」などと大声で尋ねる。そして母の胎内の子は小声で返事をする「僕は生まれたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大変。その上、僕はカッパのような存在、悪いと信じています」というように。
しかし子供がどう思っていようと、子供は生まれる。そしてその調子で、歩いたり喋ったりするのは人間に比べてかなり早い。

進んだ機械文明

 カッパの国のテクノロジーには明らかに驚くべきところもある。
例えば書籍製造会社の工場で、本がいかに製造されるかの描写があるが、専用の機械の漏斗じょうご形の口に、紙とインクと灰色の端末を入れただけで、機械の中で混じり合ったそれらの原料は5分ほどで、様々なサイズの本になって出てくる。
灰色の粉末に関しては、それが何か尋ねられたカッパの技師は、 乾燥させて粉末にしたロバの脳髄」と答えている。

 とにかく製造のための機械が、次々と考え出され、作られ、実用化されているようだ。当然そんなだから、機械に仕事を取られる者も多いとも。そしてそのような職を失った職工(工場労働者)は、殺されて食料にされている。
カッパはそれに関して「人間の国だって、第4階級の娘たちは売春婦になっていたりするじゃないですか。職工の肉を食うことに憤慨したりするのは、感傷的すぎますよ」と語ったりもする。

近代教の生命の樹

 カッパの国で信仰されている宗教は何か、という話題もあるが、最も勢力のあるという『近代教(あるいは生活教)』以外の宗教として、キリスト教、仏教、モハメッド教(イスラム教)、拝火教(ゾロアスター教)が挙げられている。
そして近代教の大寺院は、カッパの国で第一の大建築と紹介される。

 近代教は、寺院の祭壇などにある、金の『善の果』と、緑の『悪の果』が実っている『生命の樹』を礼拝するなど、特別変わった感じの宗教ではないように描かれている。

侏儒の言葉。宇宙、宗教、生命、恋愛

 侏儒しゅじゅとは小さい人とか、無能な人に対する、バカにしてるみたいな呼び方とされる。
いろいろなテーマがあって、それに関しての短い文章が連続で語られているだけみたいな感じだが、興味深いものもけっこうある。
「これは必ずしも私の思想を伝えているものでなく、私の思想の変化を時々うかがわせるだけのものだ。1本の草よりも1筋の蔓草つるくさ。しかもそれは、蔓を様々な方向に伸ばしているかもしれない」というような序文は有名。
(作者が当時、用いることができたであろう知識も考慮して)いくつか個人的に関心あるものだけ紹介しておく。

『星』……宇宙の大に比べれば、太陽も1点の燐火りんか(火の玉)にすぎない。我々の地球もそう。遠い宇宙の極、銀河のほとりに起こっていることも、この泥塊の上で起こっていることと変わりがない。生死は運動の法則のもとに絶えず循環する。そういうことを考えると、天の無数の星にも多少の同情を禁じえない。明滅する星の光は、我々と同じ感情を表しているようにすら思われる。この点でも詩人は何者よりも先に真理をうたい上げた……

『修身』……良心とは厳粛なる趣味である。
良心は道徳を造るかも知れなが、道徳はいまだかつて良心の良の字も造ったことがない……

『神秘主義』神秘主義は文明の為に衰退し去るものではない。むしろ文明は神秘主義に長足の進歩を与えるもの。
古人は我々人間の先祖はアダムであると信じていた、と云う意味は創世記を信じていたと云うこと。今人は中学生さえ(先祖が)猿であったと信じている、と云う意味はダーウィンの著書を信じていると云うこと。書物を信ずることは今人も古人も変りはない。その上、古人は少なくとも創世記に目をさらしていた。今人は少数の専門家を除きダーウィンの著書も読まぬ癖に恬然てんぜんとその説を信じている……
 進化論ばかりではない。地球は円いと云うことさえ、ほんとうに知っているものは少数で、大多数は何時か教えられたように、円いと信じているにすぎない。なぜ円いか問いつめて見れば、上は総理大臣から下は腰弁こしべん(安月給取り)まで、説明の出来ないことが事実。
 もう1つ例を挙げる。今人は誰も古人のように幽霊の実在を信ずるものはない。しかし幽霊を見たと云う話はいまだに時々伝えられる。ではなぜその話を信じないか? 幽霊など見る者は迷信に囚われているからだ。ではなぜ迷信に囚われているのか? 幽霊などを見るからだ。こう云う今人の論法は所謂は循環論法だ……
 我々は理性に耳を借さない。いや、理性を超越した何物かのみに耳を借す。何物かに。わたしは「何物か」と云う以前に、ふさわしい名前さえ発見出来ない。もし強いて名づけるとすれば、薔薇とか魚とか蝋燭とか象徴を用うるばかりだ。たとえば我々の帽子でもいい。我々は羽根のついた帽子をかぶらず、ソフトや中折をかぶり、祖先が猿だったことを信じ、幽霊が実在しないことを信じ、地球が円いことを信じている。嘘と思う人は、日本においてアインシュタイン博士と、彼の相対性原理がいかに歓迎されたかを考えるがいい。あれこそ神秘主義の祭、不可解なる荘厳の儀式である。何のために熱狂したのかは「改造」社主しゃしゅ(オーナー。代表者)の山本氏さえ知らない……

 最後の山本氏とは、改造社という出版社の社長であり、アインシュタインを日本に招くことに尽力したという山本実彦やまもとさねひこ(1885~1952)のことであろう。

『古典』古典の作者の幸福なる所は、とにかく彼らがすでに死んでいることだ。

『仏陀』悉達多(シッタールダ)は王城を出た後、6年苦行したが、6年も苦行した理由は王城生活時代に豪奢ごうしゃを極めていたたたりであろう。その証拠にナザレの大工の子(イエス・キリスト)は、40日の断食しかしなかったようだから……

 これに関しては、単にある種のジョークみたいなものに思える。

『地獄』人生は地獄よりも地獄的である。
地獄の与える苦しみは一定の法則を破ったことはない。たとえば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食おうとすれば飯の上に火の燃えるたぐいだ。しかし人生の与える苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食おうとすれば、火が燃えることもあるが、同時に、楽楽と食えることもある。のみならず楽楽と食い得た後さえ、腸加太児(腸カタル。腸炎)になることもあると同時に、また楽楽と消化し得ることもある。こういう無法則世界に順応するのは誰にも容易に出来るものではない。
もし地獄に堕ちたとすれば、わたしは必ずとっさの間に、餓鬼道の飯も掠め得るであろう。針の山や、血の池なども、2、3年そこに住み、慣れさえすれば、格別跋渉ばっしょうの苦しみを感じないようになってしまうはずである。

 これも興味深いというより、むしろおもしろい話と思う。

『危険思想』危険思想とは常識を実行に移そうとする思想である。

『悪』芸術的気質を持った青年の「人間の悪」を発見するのは誰よりも遅いのを常としている。

『神』あらゆる神の属性中、もっとも神に同情するのは、神には自殺が出来ないことである。
また、我々は神を罵殺ばさつ(罵倒)する無数の理由を発見しているが、不幸にも日本人は罵殺するのにあたいするほど、全能の神を信じてない……

 不幸な理由は、かつて偉大と考えられてるようなものとかを、貶めたりすることで得られる何かを、得られないからであろうか。

『処女崇拝』我々は処女を妻とするために、どのくらい妻の選択に滑稽なる失敗を重ねてきたか。もうそろそろ処女崇拝には背中を向けてもいい時分であろう。
また、処女崇拝は処女たる事実を知った後に始まるもの。すなわち、卒直なる感情よりも、零細なる(つまり細かな)知識を重んずるもの。処女崇拝者は恋愛上の衒学者げんがくしゃ(論理や厳密性、正確性などに過剰にこだわるような人)と云わなければ。あらゆる処女崇拝者が、何か厳然と構えているようなのも、あるいは偶然でないのかも知れぬ。
また、処女らしさ崇拝は処女崇拝以外のものだ。この2つを同義語とするものは、おそらく女人の俳優的才能を軽々に見ているのだろう。

 今の時代でも通じそうに思えるが、情報という概念の捉え方の変化などが、影響を与えるかもしれない。

『火星』火星の住民の有無を問うことは、我々の五感に感ずることの出来る住民の有無を問うことである。しかし生命は必ずしも我々の五感に感ずることの出来る条件をそなえるとは限っていない。もし火星の住民も我々の五感を超越した存在を保っているとすれば、彼らの一群は、今夜も篠懸すずかけ(修験者が着る麻の上着。あるいは植物のスズカゲ)を黄ばませる秋風と共に、銀座へ来ているかも知れないのである。

 火星の生命体について、当時はどのくらい信じられていたのだろうか。

『結婚』結婚は性慾を調節することには有効である。が、恋愛を調節することには有効ではない……

 これこそ現代にも通じるかもしれないが。

蜘蛛の糸。お釈迦様が救おうとして救えなかった話

 お釈迦様が、地獄へ堕ちた犍陀多かんだたという男を、生涯でたった1度、殺せたクモに憐れみをかけて殺さなかったという善行のために、救いのクモ糸を垂らしてやる。しかし、その糸を使って地獄から這い上がろうとする他の罪人たちに対し、自分だけが助かりたいがための怒りなど見せたため、糸が切れてしまった話。

 仏の昔話には、1度の善行のため、仏が人を救うという話がわりとある。しかし、この話は結局助からない。

古典と神話より

 芥川龍之介の作品は、古典や神話から題材をとったものも多いとされる。

地獄変

 優れた絵師であった良秀よしひで(りょうしゅう)という人が、大殿の命を受け、地獄図の屏風びょうぶを描くことになったが、良秀は自らが見たものでしか描けない画家。そこで地獄絵を構成する要素を、次々と現実に見いだしていく。 火事に灼熱地獄を見いだし、罪人の苦しむ姿に囚人たちを見いだし、夢の中に現れる鬼たちに獄卒を見出した。
そして最後には、燃え盛る檳榔毛びらうげの車(檳榔という木の葉を編んだもので、上面や側面を覆った車)の中で苦しむ女を見たいと、大殿に頼む。そして、用意された車には良秀の娘が乗せられていて、火がつけられた。最初は娘を助けようとするような雰囲気でもあった良秀は、しかし炎によって娘が悶え苦しむその有様を見て、途中からは嬉しそうなところすら見せた。
そうして屏風は完成したものの、みんなそれを恐ろしがり、描いた本人である良秀も、すぐに自ら命を絶った。という話。

羅生門

 平安京の正門の1つであった羅生門での、ひとつの出会いと、 そこで起きた出来事のために移り変わる心の話。
生きること。生きていくために悪をなすことを描いた、かなり有名な作品。

 仕事を解雇されてしまった下人が、羅生門にやってきたところ、そこでは多くの遺体があって、女の遺体から髪の毛を抜き取っている老婆がいた。
下人は怒りに震え、その心の中で正義が強くなり、もし餓死か正義を選ぶなら迷わず正義を選ぶだろうというような気分にもなる。
しかし、「これでカツラを作ろうと思っとったんじゃ。全ては生きるために。そもそもこの髪の毛を抜かれてる女だって、生きていた頃は、ヘビを魚として売ったりとか悪いことをしてたんだよ」という老婆の弁解を聞き、下人はひとつの勇気に目覚める。
そして、「これは俺が生きるためだ」と老婆の衣服を剥ぎ取り、下人はその場を去った。

素戔嗚尊。老いたる素戔嗚尊

 スサノオノミコト(建速須佐之男命)の物語であるが、昔の時代の人間たちの物語を描いているようである。スサノオはものすごい怪力持ちではあるが、あくまでも人間であるということを、何度も強調されている感じ。
高天原がどこのどういう場所なのかはともかく、醜い容貌の彼ははみ出し者として描かれる。
記紀神話の中で描かれている話とはかなりの違いがあるが、高天原で 乱暴な男として知られていたスサノオが、問題を起こしてしまって追放されることになる。という流れは、神話の方をわりと意識しているのだろうか。
ほぼ現実の話のようにも思われるが、最後の方に少しだけヤマタノオロチの話が出てくる。ただし怪物自体が直接出てくるわけではなく、出てくるかもというところで、話自体が終わる。

 序盤の、高天原に関する描写が最も興味深いか。
「春になった高天原では、四方よもの山々を見渡しても、雪の残っている峰はひとつもない。ウシウマの遊んでいる草原は、一面にほのかな緑をなすって、その裾を流れていく天の安川の水の光も、いつか何となく人懐かしい暖みをたたえているようでもあった。ましてその可下にある部落には、もうツバメも帰って来れば、女たちがかめを頭にのせて水を汲みに行く噴き井の椿も、とうに点々と白い花を濡れ石の上に落としていた」
また、スサノオが追放された後に、「高天原の国は、ネズミがイノシシより強いところだ」という説明もあるが、イノシシとはスサノオ自身のことなのかもしれない。

 続編と考えられる『老いたる素戔嗚尊』ではすでに、ヤマタノオロチを退治した後から話から始まる。そちらもやはり記紀神話の話の流れが見られるが、そもそも元の神話の方でも神秘さが前より薄くなってる部分なためか、脚色度がやや下がっているような感じがある。