「吾輩は猫である」主人先生、猫先生と、微妙に秘密な研究物語

とある猫が観察していた記録

 作家、夏目漱石の作品の中で最も有名なものではないだろうか。(おそらくは彼自身が知る限り)同族の中でも特に賢き、ある猫が、人間の話、人間の世界で飛び交う知識、人間の特異性などを学んで、自分たち猫の世界までも新たに見直したりと、様々なことを考察していくという内容。
普通に、猫と人間の物語というよりも、ある猫が生きているうちに体験した、世界の記録という感じがする。

 おそらく夏目漱石自身の、様々なものの考え方などが散りばめられていて、ある種の思想書みたいでもある。風刺的な一幕も多い。
参考として引用されたりする哲学や科学的思想、歴史などはその多くが西洋のもので、「先に優れた文明を完成させたあちらに習おう」という、当時の日本の風潮がよく反映されている

これは猫の話か、人間の話か

 この物語は、人間世界で、人間の知らない生き方をする猫のものとも言えよう。猫の主人である教師も含めて、人間キャラクターはみな背景的ガジェットとも捉えられる。
逆に人によっては、(語られる場面のほとんどが、猫が見た人間たちのやりとりなため)これは客観的存在としての猫の視点を背景ガジェットにした人間ドラマという印象を持ちやすいだろう。そういう視点で読んで楽しめるなら、夏目漱石の他の小説も楽しめる可能性が高いと思う。

 しかしこの猫は、かなり擬人化動物的な印象が強い。もっとエンターテイメント色が強い作品ならごく普通であるが、このような作品では、素直に思想の語り手としての擬人化の意味も考えたくなるか。ただ、終盤の幽霊猫や、人間らしい猫ゆえのユーモアな語りの頻度、特に序盤にいくらか描かれている猫の乱暴者とか、恋の話から、賢い猫というキャラクターにスポットをあてたファンタジーというような解釈もありうるかもしれない。
少なくとも世界観的には、現実世界にファンタジー的要素を加えたローファンタジー的な側面があると思う。

この猫はどれくらい特別か

 この小説をどのように捉えるとしても、たいていの場合は、その語り手たる猫自身の話は、(少なくとも相対的に)特に興味深いものが多いと思う。

 まず猫族という存在について語っている描写として、例えば以下のようなものがある。
「人間の心理ほど解し難いものはない…… 猫などはそこへいくと単純なものだ。食いたければ食い、寝たければ寝る。怒る時は一生懸命お怒り、泣く時は絶対絶命に泣く。そして日記などという無用なものは消してつけない、つける必要がないから。主人のように裏表のある人間は、日記でも書いて、世間に出せない自己の面目を暗室内に発揮する必要があるのかもしれないが、我ら猫属に至ると、行住坐臥ぎょうじゅうざが(日常的な立ち居振る舞い)、行屎送尿こうしそうにょう(日常のごくありふれたこと)ことごとく真正の日記であるから、別段そんな面倒な手数をして己の真面目を保存するには及ばぬと思う。日記をつける暇があるなら、椽側えんがわ(日本家屋の部屋の外側に設けられた板敷、廊下、上がり口など)に寝ているまでのこと」
こういうところだけ見ると、人間をもっと単純化しているものが猫というようにも思えなくもないだろうが、しかし結局のところ猫と人間がはっきり別の存在であることや、時に見方により、猫の方が複雑性ですら勝っているのでないかとも思えるような(人間を単純化しているかのような)描写から(もちろん単純な猫の視点で見た、人間の単純化という表現かもしれないが)つまり、そう単純な話ではないようである。
作者の意図がどのようなものだったかはともかくとして、システム的に複雑だからこそ、表面上に現れる単純さというようなものがあるようにも。
他にも「一度やったことは二度やりたいもので、二度試みたことは三度というのは、人間のみの好奇心ではない。猫といえども、この心理的特権を有してこの世界に生まれてきたものと認定していただかなければならぬ。三度以上繰り返す時、初めて習慣なら語を冠せられて、その行為が生活上の必要と進化するのもまた人間と相違がない」と、猫と人間という2種族の違いに関して、心の領域においてはあまり分岐がないようなイメージがある。
猫の年齢に関する話もある。物語は2年よりは短い期間の話のようで、最後の章でもこの猫は2歳である。「吾輩は去年生まれたばかりで当年とって一歳だから……猫の一年は人間の十年に懸け合うと云ってもよろしい。人間の年月と猫の星霜せいそう(年月)を同じ割合に打算するのははなはだしき誤謬ごびゅうである。第一、一歳何ヶ月に足らぬ吾輩がこのくらいの見識を有しているものでもわかるだろう」

 とにかく、語り手猫は猫だが、 しかし猫としてはとても賢いのだと自分では思っている感じである。
個人的には一番面白いか興味深いのが、ナショナリズムという感覚を有すること。猫は自分が日本の猫だということは自覚している、というか、言わば国家の中の構成要素民族として自覚がある。
「先だって中から、日本はロシアと大戦争しているそうだ。吾輩は日本の猫だからむろん日本贔屓である。出来得べくんば(できるものならば)混成猫猟団を組織して、ロシア兵を引っ掻いてやりたいと思うくらいだ」というように。

「吾輩は猫である。猫のくせにどうして主人の心中をかく精密に記述し得るかと疑うものがあるかもしれんが、このくらいのことは猫にとっては何でもない。吾輩はこれで読心術を心得ている。いつ心得たなんて、そんな余計なことは聞かんでもいい。ともかくも心得ている。人間の膝の上に乗って眠っているうちに、吾輩は吾輩の柔らかな毛衣をそっと人間の腹に擦り付ける。すると一道の電気が起こって、彼の腹の中の経緯が手に取るように吾輩の心眼に映ずる。せんだってなどは主人が優しく吾輩の頭を撫で回しながら、突然この猫の皮を剥いでちゃんちゃんにしたらさぞあたたかでよかろうと、とんでもない了見をむらむらと起こしたのを即座に気取って覚えず、ヒヤッとした事さえある。怖いことだ」
ここでの読心術能力は、猫特有の能力とも、この猫の特別な能力とも解釈できる。素直に読むなら猫の能力だが、この猫が何か勘違いしているような印象も、全体から推測できるかもしれない。