緑の目の部族の精霊信仰。少女と獣
異世界を舞台としたファンタジー小説だが、 世界や要素の設定的には、魔術や精霊のような概念についての解釈(その匂わせ)など、むしろリアル志向な作。この「獣の奏者」は作者である上橋菜穂子の代表的作品だが、リアル寄りのファンタジー世界という側面は、もう1つの代表作とも言えるだろう「守り人シリーズ」にも共通している。
その点は多分、作者の好み的な問題と思う。
この作品に関して言えば、主要キャラクター数人がその血を受け継いでいる『霧の民(あるいは緑ノ目ノ民)』の半族同士の関係とか、祖先や精霊信仰、いくらか擬人化の問題も含む生物に関する哲学的な見方とか、世界観にアボリジニ文化、神話の影響が強く感じれるか。
ただし翼を有する巨大な王獣と、巨大な龍を思わせる闘蛇の、捕食者と被捕食者の関係は、インド系の伝説のガルーダとナーガも思わせるかもしれない。
物語の構成としては、もともと2巻で完結だったようだが、「続きが読みたい」という周囲の声などを受けたり、アニメ化することになった際に作者自身がこの世界観での物語の続きに興味を持ったらしいことから、さらに3と4巻が書かれることになったらしい。しかし個人的には2巻で終わりと言われたら、ちょっと消化不良な感じに思う。
ただし3巻と4巻は、時間が経ってのキャラクターの関係性の変化なども大きく、全体的な雰囲気もある程度変わる。
1、2巻は、過酷な運命を背負った少女が、だんだんといろいろなことを知って成長していく物語というような印象。3、4巻は、もう自分で思うほど若くもなく、子供もいる女性が、愛する家族のため、自分の選べる最善の道を必死に探る、というような話になっている。
全体を通して共有されているテーマは人間と動物、自然との関係性と思う。それに、確かに自分たちも自然から生まれた存在であると考えられるのに、それでも自然を含むすべてを支配したがる人間の性のようなものか。
生物の本質、人間の本質
闘蛇や王獣という巨大生物を、武器や権威の象徴として使いながら、しかしそれらを特別に扱うための技術は、それらを人工的な領域 に縛り付けるようなもの。そしてそれ以外は、それらの生物を世話する者たちにすら、ほとんど知られていない。
そんな状況の中で、獣を操る、何か神秘的な術を知っているのではないか、とか噂されているような放浪部族のはぐれものだった母の死が、 物語の始まりとなる。
最終的に主人公のエリンは、その母が命をかけてまで守ろうとした秘密を、自分が暴くべきなのかどうか、選択を迫られる、というような展開になっていく。しかしその秘密に関しては、過去の記録から断片的に掘り起こされていくというような流れで明らかになっていくのだが、個人的には、一族の祖先たちの選んだ方法というか、対策は微妙な印象。それはつまり、エリンのような存在をかなりイレギュラー的に考えているものなので。その辺りは、人間は自分の性を、それが目立つ時にはよく理解しながらも、結局はあまり気にしなくなってしまう、というだけでなく、(それもまた性と言えよう)強い好奇心とか も同じように甘く見がちのところをよく描いている、と深読みすることもできるかもしれないか。
一応、作中エリン自身が、昔の人たちが「真実を知らされていない大衆がそれほど愚かなものであると考えていたのか」みたいな疑問を持つシーンが少しある
人間と動物に関する哲学
どれほどに利口であろうとも、どれほどに人間と絆を深めても、獣は獣であることをやめられない、そういう描写が結構ある。つまり、理性が本能に打ち勝つことができないというような。
また、「人間というのはどういう生物であるのか」、「彼らははたしてどうしようもないくらい愚かであるのか」というような疑問が結構示されているわけだが、普通に「人間」という部分を「知的生物」とおきかえてもよいかもしれない。
動物が動物である部分は、何か人間が知らない要素があるかもしれないとはされるが、少なくとも作中の描写から受ける印象としては、単純に賢さが不十分という感じがある。ようするに、物質の特定構造による本質的制約に縛られている、それを自らが理解して逆らう方法を探せるほどには知的機能が発達していないだけ、というような。
(やはり作中で示されているように)動物をうまく人間が育てて利用する場合のこと。たとえその目的が(武器として使うためとか)人間の基準からして悲しいものであったとしても、うまく育てられ、そうすることによって得られる楽しみとかを与えられている動物たちからしてみると、別に(感覚的なものとして)不幸とかではないかもしれない。そういう考え方をする時、構造に逆らうための知的機能とような発想も取り入れたなら、つまり動物をうまく使うというのは、他の生物の物理的制約をコントロールする知能の技と言うように見ることができるかもしれない。
シンプルに考えるなら、結局この話の中で一番印象強い哲学的疑問は、「コントロールされた幸福の中で生きることは本当に幸福か」というような、知的生物だろうが、そうでなかろうが等しく問題として考えれるようなものなのかもしれない。
SF、ファンタジーガジェットとしての闘蛇と王獣
闘蛇と王獣は、物語のガジェットとしては非常に重要なものと言えるだろう。どちらも音を利用する生物、それにまたそうした性質と関係があるのか、苦手な音によって決定的にコントロールされてしまう 場合があるというような設定。
竪琴の音でコミュニケーションをとるというのは、絵としてみた場合に幻想的な雰囲気があるだろうし、それに単純にアイデアとして面白いと思う。
それらの強力な武器、むしろ抑止力的に描かれている獣たちの存在は、現実世界の近代科学兵器と、それを抑止力として使うグローバル社会の比喩にもなっている感じもなくはない。元々世界観がリアルよりで、かつそういうわけで科学文明はそれほどには発達していない世界観なので、確かに(武器としての扱いのみで言うなら)闘蛇と王獣は現実世界での強力な科学兵器の扱いに近いかもしれない。