「猫は手がかりを読む」感想。擬人化をあまりしない猫探偵ミステリー

書斎

シャム猫ココシリーズの第一弾

 猫探偵(?)のカウ・コウ・クン、通称ココと、その相棒の新聞記者、ジム・クィラランの活躍を描いたシャム猫ココのシリーズ第一弾。
邦訳版としては、実はこれは二作目にあたるようだが、実際に原書的には、この「猫は手がかりを読む」がシリーズ一作目。
ココとクィラランの出会いも描かれているので、このシリーズを読み始めるなら、まず最初に読むべきと思われる。

猫探偵ミステリーとしてのココ

擬人化要素少なめ

 猫を探偵役とするミステリー小説は案外多いが、これは特に、よく愛されてるシリーズ。
そういうシリーズとしては、動物の擬人化要素が控えめな事が、むしろ特徴かと思う。
ココは、人間の言葉を理解しているようには描かれているが、猫自身の言葉が描かれたりはしない。
 そのためか、人間の猫への理解度が、わりと高め。
また、人間視点も多いというか、猫視点があまりない。
猫がいかに、謎を解いていくかより、いかに猫が掴んでいる謎を、その行動から読み取れるか、という感じである。

人らしい猫。猫らしい人

 ココは賢いのはもちろん、文字が読める猫。
作中で、ココの飼い主である、美術評論家で、大の猫好きのマウントクレメンズが、猫という生物の魅力や、その優れた知性について熱く語るシーンがある。
彼が、説明する、少し大げさなような事も、まるきりすべて当てはまるような猫であるココ。

 擬人化要素が控えめという印象が強いのは、そういう部分もある。
つまり、猫を、猫として描いているのだ。
人が知らないだけで、普通に人みたいな猫がいるでなく、人とは明らかに違う優れた能力を、猫は持っているというような感じ。

 もっとも、クィラランが、ココを「多くの人より、むしろ人らしい猫」というシーンはある。
ここは、作者自身が、それを意図していたかどうかはともかく、解釈が別れやすいかもしれない。
クィラランの評価は、そのまま、ココの作者評か。
あるいは、そのクィラランのココ評は、よくある勘違いかうぬぼれを描いているのか。

 実のところ、むしろココが特別な猫というより、クィラランが特別な人というような描かれ方をされてる節すらある。
微妙だけど。
でも、最初、クィラランが実は猫なんじゃないか、とちょっと勘ぐったぐらい。

芸術評価がひとつのテーマ

 この「猫は手がかりを読む」というミステリーの、大きなテーマは、芸術と芸術評である。
初登場時、クィラランは、芸術というものに、一切関心ない人である。
「ミロのヴィーナスと、自由の女神の違いがわからない」と言いきってしまうような人である。
 そんな彼が、個性的な様々な芸術家達、芸術評論家の異なる意見に混乱する様は、なかなか楽しい。
「AはBの作品をゴミだと言い、BはAの作品をゴミだと言う。CはAをインチキやろうと言い、AはCをインチキやろうと言う。いったい誰が正しいんだ」
というような感じだが、特定の人にしかよさがわからないような芸術とか、大衆が好きなのに自分には何がいいのかまったくわからない作品とか、芸術を評価する事の難しさを考えさせられるかもしれない。

仲良くなる過程

 ストーリー性やキャラクター性を重視してる作品で、本格派ミステリーではないから、ものすごいトリックとか、意外な展開とかは期待してはいけない。
 むしろキャラクター性重視なのに、基本的に猫探偵の擬人化なしなのが、かなり上手くいっていると思う。
人間キャラクターも、猫も、それぞれにキャラがたっている。
それだから、クィラランとココが、友情を育んでいく過程が凄く微笑ましくて、笑顔になれる。

 特に、終盤、事件解決の糸口になるかもしれない、ある品を、気になっている婦人に、こっそりあげてしまおうか、とクィラランが迷った時。
自分を責めているようなココの視線に観念して、「ああ、お前の言うとおり」と、警察に告げる決意をするシーンが、個人的に凄くよかったです。

エンターテイメントとしての人間と猫の友情

 動物主役の話にはよく、人間という生物が、いかに効率悪い生き方をしているかとか、愚かな連中かとか、そういう事を論ずるシーンがあったりする。
しかし、擬人化要素が薄いこの作品に、そのようなものはほぼない。
猫好きのマウントクレメンズが、少しばかり触れる程度である。

 それもよかったと思う。
別にそう変わらないだろうに、テンポがよかったように感じる。

 しかし、人間社会と関わる動物を描いた物語という事で、そういうの期待する人は微妙かもしれない。
逆に、単にエンターテイメントとして、人間と猫の友情や、猫探偵の活躍を見たいという人には、かなりよいはず。

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