刺青殺人事件、呪縛の家「神津恭介シリーズ」

刺青殺人事件

 「刺青殺人事件しせいさつじんじけん」という話は、名探偵神津恭介かみづきょうすけの登場するシリーズの1作目にあたる。
彼はもともと探偵志望の人物でなく、この話の時点においても明確に探偵というわけではないが、 ここで描かれている事件が、初めて解決した事件というわけでもないようである。作中で、彼が学生時代に、時計台に関する犯罪事件を解決したというような話が、少しだけ出てくる。

 神津恭介はまだ十代の頃に、世界の数学者たちを唸らせる論文を書いたことで、科学会では特に、大天才として知られている人物という設定。そういうわけで彼は、将来はもちろん数学者か物理学者になるものだと期待されていたのだが、彼はそのどちらでもなく、医学の道を志そうと考えていた。
しかしその道を歩み始めようとする前に、彼も第二次世界対戦の渦に巻き込まれ、そして帰国したところで、この話で描かれる事件の調査を、刑事の弟である友人から依頼されるわけである。それにあたっては「この時の依頼があったからこそ、この事件初め、後にも起こるいくつもの難事件が解決される運びとなったのだった」というように書かれてもいる。

 人物としては いかにも探偵小説の探偵という天才肌の人物(ようするに典型的なシャーロック・ホームズ的人物)として描かれている。自信家で負けず嫌いで、ほとんど真相がわかっていても、完璧な証拠が揃うまでは過剰ともいえる秘密主義を貫く癖を持つ。
ただむしろ一つ興味深いのは、彼が事件を解決する動機が、完全に正義というものに基づいていることであろうか。彼自身が作中で、「そもそも自分が法医学というものを学ぼうと思ったのも、この世界から悪をなくしたいという気持ちからだった」というようなセリフがある。
多くの天才型探偵が、「不可思議な謎を解明したい」、「自分の天才的頭脳を試したい」というような、欲が前に出る傾向があるのに対し、純粋に正義感強いというのは、案外珍しいところかもしれない。
ようするに、この神津恭介という探偵は、天才として描かれてはいるが、そんなに変人としては描かれていないように思う。

刺青にかんするあれこれ

 タイトルの読みは刺青(しせい)であるが、この刺青とは、いわゆるイレズミのことである。
シセイの方が本来は正しいようなのだが、 この話において、その読みは別にどうでもいい話である。

 序盤はかなり、刺青というものに関するいろいろなうんちくが溢れているが、「なるほど」というよりは、 その必要性とか意義とかについて、ちょっと考えさせられるかも。
特に最初に、「悪いイメージを持ってる人が多いが、これも芸術の形」というような感じの説明があるが、芸術とはなんであろう。例えば、そこに描かれるイラストとかだけなら、わざわざ人間の肌を使わなくても作ることができるはず。
ようするに、はたして美しい人間の肌と、それを見事に再現した偽物では、いったいその芸術的価値にどのような違いがあるのか、というような、よくある、その道のマニアが「これだから素人は」と言うだけで、具体的には反論できること稀な疑問が、ここにも現れている。
というか、確かに存在するような悪いイメージ(あと法的な問題)を抜きに考えるなら、刺青って、整形とかと似たような類の行いじゃなかろうか。
ただ人には好みがあって、(少なくとも日本では)整形によって作られた美人顔に比べて、刺青は魅力に感じる人が少ないから、社会的マイノリティが続いているだけ(?)

 人間社会というのは、(さすがにそこまでのものは少ないだろうが)百害あって一利なしというようなものでも、多くの人が愛好しているなら、まったく自然になってしまうことがあるものだ。
それに、同じような美人と、整形美人とでは、 整形でない方がいいというふうに考えてしまう心理を、我々の多くは持っていやしないだろうか。胚発生の段階での調整ならとか、遺伝的なことを考えているのではないかとか、その辺りまで考えると、もう複雑すぎて何が何やらである。

機械的密室トリックと、非ユークリッド的考え方

 作者は金田一耕助シリーズの「本陣殺人事件」の影響を受けているようだが、確かに、そっちを読んでいる人なら、言われるまでもなく感づけるくらいのレベルである。しかし、こういうお決まりのアレを使った機械的トリックの密室殺人というのは、 ミステリー好きな人には(使い古されすぎて)微妙と思われる可能性が高いためか、それを解き明かす探偵その人が「こんなこと大したものではない」みたいな評価を下す場合が多いように思う。
この作品も例に漏れない(おかげで、それにやたら驚く警察とかが無能に見えなくもない)

 作中で何度か非ユークリッド幾何学に関する話が出てくるが、単に発想の逆転が重要なことの例え程度なもので、あまり数学が絡んでくるような話ではない。
機械仕掛けトリック、特に密室のようなものは、それが殺人だとバレバレの場合、なぜ手間をかけてまでそんなことをしたのかというのが、一番の謎になる。そこでもなかなか逆転の発想があって、よかったと思う。

 それと、作中で、悪魔が起こしたような不気味な事件とか、怪奇に彩られた不可思議な事件とか、そういうふうにいろいろ言われるわけだが、そういう類のミステリー小説と考えた場合、怪奇的演出はそれほど顕著でもないとは思う。

呪縛の家

 神津恭介のシリーズの初期長編のひとつ。とある田舎町で、新興宗教によって富を築いた一族の者たちが、異端派として追放された裏切り者(?)の預言の言葉を思わせる方法で、殺されていくという事件を描いている。

 古代ギリシアに起源を持つともされる、火水地風の四元素思想を基盤としている怪しげな宗教。どこか互いに無関心というか、不気味さを感じさせる関係の一族。神がかりな予言。犯行とともに姿を次々見せる猫と、 逆に次々となくなっていく玩具の短剣。というように、いろいろあちこちに怪奇趣味が見える。
そしてそういう系の不気味さを描く作品としては、この作品はデビュー作の「刺青殺人事件」以上の傑作と思う。
ただ、純粋にミステリーを求めている人には微妙かもしれない。

横溝正史の影響。獄門島との比較

 田舎を舞台とした和風怪奇趣味な連続殺人事件と言うと、やはり個人的には横溝正史を連想する。刺青殺人事件も、あちらの「本陣殺人事件」に影響を受けているようだから、やはりそういうことなのかもしれない。
特に、序盤はかなり、「獄門島ごくもんとう」を思わせるような構成になっている。
「獄門島」は、戦時中に知り合った友人の死に際の頼みで、 探偵の金田一耕助が、舞台となる田舎へとやってくる。一方こちらは、探偵神津恭介の助手にあたる、松下研三まつしたけんぞうが、学生時代の友人に呼ばれる形で舞台に現れる(神津恭介は旅行中であったが、事件が起きた話を聞いて、急いで駆けつけてくる)
ここまでなら、単によくある展開で終わりだろうが、問題は、恐ろしい魔の手が迫っているらしい3人の姉妹である。金田一耕助が、三姉妹のどこか不気味な感じに驚かされたように、松下研三も、三姉妹の雰囲気に少し恐れを感じる描写がある。
ただ、あちらの三姉妹に比べると、どこか悪意というか、意図的な神秘性というような面が薄めに思う。

シチュエーションは面白いが、トリックは微妙

 この事件には密室殺人が2回あり、そのどちらにおいても、 密室の部屋の出入り口の前に見張りがいるという、なかなか厳重なもの。ただ、例によって読者への挑戦があるにも関わらず、その(特に最初の事件の)トリックはなかなか酷い。
個人的にはそこはあまり気にならなかったが、人によっては、作者が作中のみならず、読者への挑戦の文章においてもはっきりと書いている、「密室トリックは機械的なものではない」というヒントが明らかなアンフェアと思えるようである。これは機械的なトリックというのがどういうものか、という認識の違いからくる批判であろう。

 ただ確かに、本格推理系として考えると、アンフェアだと思われても仕方がないような書き方は多い。ちょっと極端な例えかもしれないが、「この話に供述トリックはありません」という説明が嘘であるというような書き方をされ、それが供述トリックですと言われてるような印象すら受けるかも。

 事件の真相というのはトリックだけでない。それが起こった背景とか、そこに隠れた人間関係のようなもの全部が真相と言えよう。そういう全体の骨組みが、全体としてしっかりしているなら、事件のトリックがどれだけショボイものでも面白いし、それを解き明かす名探偵の凄さを実感できるものである。
しかしこの小説は、読者への挑戦においてはっきりと、解き明かすべきは犯人と密室トリックだと書いているし、さらには推理を待たずして、事件の背景とか人間関係みたいなのものもほぼ明らかとなってしまう。なればこそ、そのトリックが肝心に思えるわけだし、その肝心のトリックがトンデモだから微妙なわけである。

 トリックに関しては、明らかに説明不足の問題もある。例えば、あるものを見つかりにくい(そして必要になればすぐ取り出せる)場所に隠した、という説明があるが、具体的にどこに隠したのかは一切説明がないとか。

ミステリーというジャンルの難しさ

 ミステリーというのは難しいジャンルだと思う。個人的にそう思う理由の1つにアイデアの停滞がある。
確かに、どのようなジャンルの創作においても、お決まりの展開とか、典型的なパターンというのはある。しかしそういうのは時代によって、それもけっこう早い速度で変化していくものだし、面白いかどうかはともかくとして、斬新なことに挑戦しようと言う作家はあちこちにいる。
そういうわけだから、同じジャンルの昔の作品を読んでみると、古臭さを感じたり、気になる点がかなり際どく目立ったりすることもある(例えばSF作品なら、H・G・ウェルズの「宇宙戦争」など、古典名作として有名であるが、火星人の侵略というアイデアは、現代人にとってはどうしてもしょぼく感じてしまうだろう)

 しかしミステリーに限っては、その古臭い作品で使われていたような古臭いトリックや、描きかたが平然と使われやすい(もちろん多少アレンジを加えたり、趣向を変えたりはしているのが普通)
別にそれだけならいいのだが、「過去の名作でもそれをしているから」というのは、情けない言い訳でなかろうか(正直、思ってても言わなきゃいいのにと思う)
この作品では、作中ではっきりとそう書かれているが、作品外でもこの言い訳を使う人は、ミステリー作家に非常に多いように思う(正確には、他のジャンルでもアマチュアはよくこれを使うが、ミステリーに限っては商業作家にも多い)

やはり科学者になるつもりだった探偵

 むしろこの小説の最もな見所は、登場作である「刺青殺人事件」と比べると、神津恭介という人物の弱さとかが、強く描かれていることかもしれない。
彼をして、最も苦戦した難事件と作中でも表現されるように、彼が見張りに立っている部屋の中で起こった殺人など、確かに苦労感は強い。
「自分という人間の才が知れたよ」というような弱気な発言もあったりする。

 個人的には、学生時代の回想で、「将来はいろいろな犯罪事件の捜査に関わる人になるだろう」と予言された神津恭介が、何をバカなと笑い「僕は数学を学ぶつもりなんだよ」と告げたのが面白かった。

宗教と科学の対立。正義と悪の立ち位置

 この小説には、宗教と科学、あるいはその対立というテーマが、あからさまにあるようにも思う。この科学の時代にあって、胡散臭い宗教の信者となり、騙される信者たちという、大衆のそういう心理への批判が感じられる。
別に騙されて幸せなままならそれでいいだろうが、 それで結局家族の人が悲しんだりすることもあるし、実際この小説で描かれてるような ものより、もっと恐ろしい悲劇が、エセ宗教の信仰がきっかけで発生することもあるだろう。
騙す側の目的はいつでも一方的な搾取であり、傷つくのは騙されている人ばかりでないのかもしれない。

 そして、「正義は結局、悪の力に及ばない」という神津恭介のセリフは、どこか悲しい。