「秦王朝」始皇帝政の父母、性格、政治政策、最期。統一国家、中華の誕生

万里の長城

戦国七雄の時代。正義のための侵略戦争

 しん始皇帝しこうていは、紀元前259年。
ちょう邯鄲かんたんに生まれたとされる。
50年の生涯のうち、25年は秦の王として、12年は統一帝国の皇帝として生きた。

 彼が生まれた時代は、七つの強国が、群雄割拠の様を見せていた戦国時代(紀元前5世紀〜紀元前221)の末期。
争っていた七国は、秦、さいちょうかんえんの『戦国七雄』。

 始皇帝は、秦の王として、他の六国を支配して、広大な中国大陸において、史上初の天下統一を成し遂げたとされている。

 始皇帝は天下統一の後、自らを称える文を刻んだ石を、各地に置いた。
そこには、「六国の王たちは、民を虐殺したり、道に反する行いをしていた。それをやめさせるためには、正義を持って、全てを制圧する必要があった」
少なくとも秦側の理屈としては、統一のためとかでもなく、正義のための侵略戦争だったわけである。

喜の記録。睡虎地秦簡

千以上の竹簡文書

 1975年に、湖北省こほくしょう雲夢県睡虎地うんぼうけんすいこちにて、『睡虎地秦簡すいこちしんかん』は発見された。
これは秦の官吏を務めていたという人物が個人的な所有していたもので、彼の墓に、彼と共に収められていたのだ。
それは、秦代における、貴重な一次資料となっている。

 睡虎地秦簡は、千以上にもなる、竹簡ちくかんの文書群である。
内容はお上からのお触れなどから、喜という人物の経歴まで、多岐にわたる。

 また、竹簡とは、紙の普及以前に主流であった、文字書きの為の竹の札である。

地方官史が見た秦の始皇帝

 睡虎地秦簡によると、喜は、始皇帝の曾祖父、昭王しょうおう45年(紀元前262)に生を受けた。
後に始皇帝となる嬴趙政えいちょうせいは、 紀元前256年の生まれだから、少し年上だが、ほぼ同年代である。

 喜は、 中央から派遣されたわけではなく、地方に生まれ、地方で採用された、史とか掾史えんしとか呼ばれた、地方官だった。
17歳で成年男子として登録され、19歳で県の史、28歳での『獄史ごくし』となった。
史は、文字の読み書きができることが求められるが、獄史は、さらに法律や判例に通じ、長所や裁判文章をまとめる能力も求められた。

 喜は、紀元前234年、29歳の時に従軍した。
統一戦争が終結すると、始皇帝は地方を巡行し、地方官である喜にも、皇帝を見る機会があったという。

 紀元前219年。
始皇帝の一行を迎えた喜は、竹簡に「今、目の前を皇帝が通過した」と記録した。

最初の皇帝の前世代の人たち

昭王の治世。最初に帝を名乗った秦王

 昭王は、しゅう(紀元前1046年頃〜紀元前256年)の第四代、昭王と区別する意味でも、よく昭襄王しょうじょうおうと呼ばれる。
彼は19歳で秦の王となった。

 56年もの治世をかけて、昭王は、秦の領土を東方へと拡大させた。
始皇帝に先駆け、天下には帝と名乗ったとされる。
彼の代の秦は、殺戮と戦争を繰り返した。
六国というより、国境を接する楚、魏、韓の領土を次々奪っていった。
また、紀元前255年に、周を滅ぼした。
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その過程で殺した、東方諸国の人間は、100万くらいに及ぶとも言われる。

呂不韋。考文王。華陽夫人。子楚

 昭王の次代の考文王こうぶんおうは、即位から三日ほどで急死したとされている。
普通、太子は、最も寵愛を受けた正夫人の子がなるものだが、子楚しそは、そうではなかった。

 呂不韋りょふいと呼ばれる商人がいた。
彼は韓の都であった陽翟ようてき(河南省禹)と、趙の都である邯鄲かんたん(河北省邯鄲)をよく行き来していた行商人であり、商人としては大きく成功していた

 昭王の治世の終盤。
後継者と目されていたのは、太子、安国君あんこくくんであった。
しかし問題は、さらにその次代。
安国君の正夫人、華陽夫人かようふじんは、子に恵まれなかったのだ。

 ある時、呂不韋は、邯鄲に人質として滞在していた、安国君の二十数人の子供の一人である、子楚を見た。
彼の母、夏姫かきは、特に安国君から寵愛されてはおらず、不遇の子であった。
だが彼を見た呂不韋は、言ったという。
「この奇貨きかおくべし」(価値あり、置いておこう)

 呂不韋は、昭王の年齢や、華陽夫人の状況、子楚の立場から、ある計画を思いつく。
彼は商人として貯めた金を惜しみなく使い、華陽夫人に取り入り、子楚を彼女の養子として引き取らせた。
 
 そして昭王の死後に、安国君が考文王になると、かれは呂不韋の思惑通り、子楚を太子とした。

荘襄王の丞相として

 考文王も急死し、子楚が荘襄王そうじょうおうとり、呂不韋は狙い通りに、丞相じょうしょうとなった。
丞相は、君主を補佐する最高位の官吏である。

 そしてこの荘襄王も、3年で亡くなり、その息子である政が13歳で後を継いだ。
少年王は母である太后と、呂不韋は、よく支えた。

 政は、実は呂不韋の息子であったという説がある。
子楚はある時、呂不韋と同居していた踊り子を見初めた。
呂不韋は、彼女を譲ったが、彼女はすでに子を身ごもっていた。
そこで呂不韋は、その事実を子楚には隠し、生まれてきた子を、子楚の子という事にしたのである。

呂不韋の失脚。李斯の登場

 呂不韋は、「天下は一人のものにあらず」という思想を持っていたようである。
だから、彼が失脚しなければ、歴史は変わっていたかもしれない。

 呂不韋は、かつて踊り子であった太后との密通を続けていたともされる。
そして彼は発覚を恐れるあまり、さらにひとりの男を太后と引き合わせ、密かに子を産ませた。
だが、これが裏目にでてしまう。
太后の不義が告発され、そこから、呂不韋の事も、明るみとなってしまったのだ。

 こうして、裏にいた者たちが自滅した為に、政は、存分に権力を我が物としたのだった。
また、新たに政のもとに登場した李斯りしは、彼に天下統一の重要性を説いたとされている。

始皇帝はどんな人か。秦とはどんな国だったか

天下統一。斉、楚、魏、趙、韓、燕との戦い

 秦は、紀元前230年に韓、 紀元前228年に趙を滅ぼした。
紀元前227年には、秦王の暗殺未遂事件が起きたが、これはむしろ、秦側としては、他国を攻める、よき大義名分となり、統一への流れを加速させたという。

 さらに紀元前225年には魏、紀元前223年には楚、紀元前222年には燕を滅ぼした。
そして、 紀元前221年に斉を滅ぼし、天下統一を成し遂げたのだった。

 実は、斉、楚、燕は、秦からは遠方すぎるので、治める為には王を復活させるべきという意見もあったという。
だが、李斯は、断固として反対し、始皇帝は彼に従ったとされる。

なぜ王でなく皇帝なのか。違いは何か

 ある時、秦王は、丞相らに、従来の王号を変える是非を議論せよと命じた。
審議の結果、秦王の功績は伝説的な夏王朝よりもさらに以前、いにしえの五帝を超えるものだから、それ以上として、古典の中から、泰皇たいこうとい称号を選んだ。
泰とは泰一、天や地の支配者たちより、さらに上の天帝を指す。
五帝は、あくまでも地上の偉大な支配者であったから、それ以上は天であるのは当然である。

 だが秦王は、なぜだか帝の字に拘り、泰皇を退け、皇の字だけを帝の前につけ、皇帝としたのだった。
皇は、王と同じニュアンスでもあったが、「光り輝く」という形容詞としての使われ方もあった。
だから、皇帝とは、「煌々たる上帝」の意となる。

 自らは、天帝でなく、あくまでも地上の中心であると考えていたともされる。

規格の統一。秦の規模

 秦は天下統一後、天下を三十六郡に分けたとされているが、その内約については、わかっていない事も多い。

 始皇帝の行った統一事業として、様々な単位や、乗り物、文字などの規格の統一が有名である。
七国時代は、それらの基準が国ごとに違っていて、かなり不便だったのだろう。
これは、秦の使用していた基準を参考にし、かなり厳しく管理されたようだ。
また、当時は、庶民が単位や文字を問題にする事はほとんどなかったであろうと考えられるので、規格統一は、工人や官史のためである。

 天下統一といっても、秦が支配した七国だった領域は、現在の中国の領土の半分ぐらいだったと考えられている。
領土はかん(紀元前206〜紀元220)以降の時代に、またどんどん拡大していく事になる。
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張良の暗殺未遂

 始皇帝への暗殺未遂は、天下統一後もたびたび起こったようである。
正義の戦争という認識は、あくまでも勝者側の見解だったということがよくわかる。

 紀元前218年に、博浪沙はくろうさ(河南省鄭州の東北)に巡行に来ていた、始皇帝暗殺を企てた張良ちょうりょうという青年がいた。
彼は、秦側には、単なる盗賊とされたが、実は韓では丞相の家系であった。
少年時代に、母国は秦に滅ぼされ、 その時に弟を殺され、復讐を誓ったのだった。

中華の誕生。始皇帝の死。秦の終幕

中華とは何か。中心と蛮夷。万里の長城

 秦が敵対する六国を滅ぼしたばかりの頃は、それでもう天下統一、戦いは終わりであった。
だが、世界はもともと七国だけだったのではない。

 次第に秦は、自分たちの領域の外の者たちを意識し始める。
自分たちの領域を中夏ちゅうか(中華)とし、外側の者たちを蛮夷ばんい(野蛮人)とする思想は、この頃に広まったようである。
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 有名な長い城壁、『万里の長城』は、この時代に、北方からの蛮夷の攻撃の対策に建設されたものが土台となっている。

仙人たちと不老不死への旅。水銀は始皇帝を死なせたか

 蛮夷との戦いが一段落した頃に、始皇帝は、中止していた五度目の巡行を行ったが、その途中、紀元前210年に亡くなった。

 一年ほどの長期に及んでいたともされる最後の巡行は、特別なものであったという説もある。
なんとそれは、不老不死の秘密を求めた旅だったというもの。

 生前、始皇帝は、東の果てに、仙人たちが暮らす島があるのだという伝説を信じていた。
仙人、道士を自称する者たちを召し抱え、 不老不死の霊薬を 求め続けていたという。
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 もちろんその願いが叶うことはなかった。
一説によると始皇帝の死の直接の原因は、彼が道士たちに勧められた長寿をもたらす薬の主成分(おそらく水銀)だったのだという。

二代目皇帝の短い天下

 始皇帝の死後、李斯は始皇帝の子のひとり湖垓こがいを、二世として立てたが、その天下はわずか三年ほど(紀元前209〜紀元前207)
しかも内輪の権力争いに敗れ、李斯自身は、秦の終幕を見ずして死んだ。

 秦の次は、漢の時代と言えようが、その間のわずかな期間(紀元前206〜紀元前202)は、楚が復興された時代ともされる。
始皇帝なき後の秦に反旗を翻し、滅ぼした項羽こうう(紀元前232〜紀元前202)は、その復活した楚の王であった。

 この時期(紀元前206〜紀元前202)は、また、楚漢戦争期とされる。
項羽と、彼と敵対した新たな勢力、漢の劉邦りゅうほうの戦いの時期である。
そして戦いに勝利した劉邦の漢が、新たな中華となり、秦の時代は完全に終わったのだった。

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