「殷王朝」甲骨文字を用いた民族たち。保存された歴史の始まり

殷の玉座

中国の伝説の時代。夏、殷、周

 中国の最初の王朝とされる『』の最後の王とされる、桀王けつおうは、悪しき王であった。
夏王朝「夏王朝」開いた人物。史記の記述。実在したか。中国大陸最初の国家 この桀王の夏王朝を倒し、新たな王朝である『いん』を創立させたのが、湯王とうおうであった。

 だが、やがて殷にも、悪しき王が誕生する事になった。
特に、美女に惚けて国を私物化し、残酷な刑罰などで民を苦しめた、殷の紂王ちゅうおう
この紂王を打倒し、殷を終わらせたのが、第三の王朝となった『しゅう』の武王ぶおうと、彼を支えたという軍師、太公望である。
西の城「周王朝」青銅器。漢字の広まり。春秋時代、戦国時代、後の記録太公望の釣り「太公望」実在したか?どんな人だったか?釣りと封神演義と  伝説によると、紀元前1050年頃。
後の時代の河南省の、汲県きゅうけん付近の、牧野ぼくやという地で、殷と周の軍は戦った。
殷軍は70万、周軍は50万。

 上記のような、いわゆる『殷周革命』の話は、伝説的な色合いが強く、中国は歴史書などでも、やたらと数を多く盛ることが多いので、少なくとも、70万とか50万という軍の数は、かなり怪しい。

董作賓の甲骨文字研究

漢字の原型。亀の甲羅に刻まれた古代文字

 殷時代には、文字が存在していたことがわかっている。
遺跡などに残された、それらの古代文字は『甲骨文字こうこつもじ』と呼ばれ、後の漢字の原型ともされている。

 甲骨文字で作られた文章を『甲骨文』といい、主に亀の甲羅や、牛の肩甲骨けんこうこつに上に、記録されていたという。
この甲骨文が、 初めて学者に取り上げられたのは、1899年のことだったとされる。

 殷の事を『しょう』とも言うが、これは甲骨文字では、そう記載される場合が普通だかららしい。

甲骨文の五つの区分

 董作賓とうさくひん(1895~1963)は、 1922年、北京大学で甲骨文に出会い、強い感銘を受けた。
彼は、自らが参加した発掘調査により見つかった、甲骨文が刻まれていた亀の甲羅4つをもとに、丹念に調査して、甲骨文はどうやら、王の世代により、第一期から第五期までと、五つに区分されるということを示した。

 董作賓は、殷という時代の研究史において、最も大きな功績を残した人とされる。
彼は甲骨文の五つの区分の発見の他に、殷時代の暦法の復元。
当時の祭祀さいしの規則の発見。
新派、旧派と呼ばれる、二つの文化が、交互に殷の歴史に現れてくるという事実など。
多くのことを発見、あるいは推測し、後の研究者たちの土台となった。

ト辞。占いに使われた甲骨

吉凶の判断

 甲骨文は、『ト辞ぼくじ』とも呼ばれる。
亀の甲羅などに、細いナイフで刻まれたこの文章は、基本的にそのほとんどがト占ぼくせん、つまりは占いの記録であるからだ。

 刻まれた占いの内容は、狩猟、戦、旅行、農作、天気、病気、妊娠、毎晩の吉凶、10日毎の吉凶など、なかなか幅広い。
卜占に使われた甲骨の、裏側には、深い楕円形のくぼみと、浅い半円形のくぼみが彫ってある。
深い方はさく、浅い方はさんと呼ばれている。

 鑽の方は、 黒く焼け焦げがあるものが多く、ト占の時、この部分に、燃えている細い木をあてたのだと考えられている。
そうしたなら、鑿の表面に縦、鑽の表面に横の、割れ目が生じるのだ。
その縦と横の、線の具合によって、吉凶を判断したというわけである。
ト占をした後は、 その結果を、割れ目近くに刻んだとされている。

安陽の時代。甲骨文の出現時期

 殷の19代目の王、盤庚ばんこうは、都を新たに安陽あんように定めたという。
そしてまた、甲骨文が出現したのは、この安陽に都が置かれた時代以降だとされている。

 殷の最後の王は、30代目の紂王であり、甲骨文は彼の時代までしっかり使われている。

 つまり甲骨文は、12の王の時代に渡り、使われていた文字ということになる。
ただし、甲骨文が扱っている資料は、基本的に、23代の武丁ぶていより以後のものだという。

占い師。祖先の名前

 甲骨文は、そこに登場する占い師の名前や、祖先の名前などによって、五つの時期にわける事が出来る。

 武丁の第一期。
祖庚そこう祖甲そこうの第二期。
廩辛りんしん庚丁こうていの第三期。
武乙ぶいつ太丁たいていの第四期。
帝乙ていいつ帝辛ていしん。紂王の第五期。

 これらの時期の違いによって、甲骨文の内容、固有名詞、字体、書風、語彙ごいなどに、特色があるという。

三代古代国家の真実

文明、社会、国家の起こり

 殷王朝の時代も、おそらくはその前の夏王朝の時代も、それらはおそらく、中国大陸で唯一の国家ではなかった。
多くの地域の歴史がそうであるように、中国でも、まずは、農作を行い、ある地域に定住する者たちが現れた。

 彼らはその内に、村のような小社会を築いた。
様々な社会が生まれ、やがて、それらの内、大きな勢力を持つ者たちが小勢力の者たちを従えるようになった。

漢以降の記録の問題点

 夏殷周の時代の様々な記録は、かん(紀元前206〜紀元220)以降のものも多い。
漢の仏教「漢王朝」前漢と後漢。歴史学の始まり、司馬遷が史記を書いた頃 夏の時代などは、漢代からかんがえても、もう2000から1500年前。
殷は1500から1000年前。
また、特に夏に関しては、文字もなかった可能性が高い。
そういう時代に国家が存在した、という記録が残ってはいても、その実態に関しては、ほとんどわかっていなかったのは間違いない。

 封神演義のような小説においても、殷や周は、すでに中国大陸全土を統治している大国家のように描かれがちである。
仙人界原作「封神演義」全訳本、安納版、漫画版の比較しながらの感想  夏や殷を、古代に存在した、自分たちのそれのような国家、というふうに勘違いする者は多かったと思われる。
漢、正確には、しん(紀元前221年〜紀元前206年)以降の、国家とは、つまり中央政府によって統治された全体のようなもの。
万里の長城「秦王朝」始皇帝政の父母、性格、政治政策、最期。統一国家、中華の誕生  しかし、周はともかく、少なくとも殷までは、おそらくその実態は、 様々な小国家の連合のようなものだったのではないか、と考えるのが、妥当とされる。

文字があった事が特別だったか

 様々な少国家があったのだとして、夏や殷は、特に強力、あるいは何か特別な存在だったのであろうか?

 おそらく殷に関しては、文字(甲骨文字)があった事が、他の多くの小国家と、異なっていたのだろうと考えられる。
だが甲骨文字の開発は、殷の時代である可能性は高い。
つまり夏の時代には、なかったということ。

 夏は、単に殷の前身だったのではないだろうか。
つまり文字を開発したことにより殷は、それなりの規模の国家として記録された。
そしてその殷の前身、あるいは崇拝されていたのが夏だった。
それらの記録が漢字と共に、周代に、さらには、それよりもさらに後の時代に伝わった。

都市国家の連合体

 中央が、地方に文書行政、つまり法律などを広く流布させるようになったのは、戦国時代(紀元前5世紀〜紀元前221)からという説が有力であるという。
だとすると、やはりそれ以前の国家は、我々がイメージするようなものとは異なっていただろう。

 周の後期ともされる春秋時代しゅんじゅうじだい(紀元前770〜紀元前5世紀)までは、 地方のそれぞれは、独立した都市国家だった。
そして、それぞれの地方国家は、従属する中心の国に、物資を貢いだりした。
また、中心国は従属国に対し、口頭によって命令していたのである。

殷、周、国家の規模は大陸だったか

 中心国とそれに従う地域の連合全体も、広大な大陸そのものとはほど遠い、せいぜいが日本や韓国程度の大きさだったと思われる。
それでも、十分に大国と言えるレベルである。
殷や周はおそらくそのような大国であった。 
また、他にも、大国はあったのだろうが、文字がなかった為に、記録を残せなかったのかもしれない。

 後の戦国時代に争いあっていた国々は、おそらくはそのような大国であり、それらは殷や周の時代には、小であった国家が、強力になったものだと考えられる。
そのような強力な国家が増えた理由は、おそらく鉄器の普及であるという。
鉄器の開発は、もっと昔の可能性もあるが、普及はほぼ確実に戦国時代かららしい。

 つまり統一国家(周)が分裂して戦国時代になったというよりも 、地方国家それぞれが成長した事で、戦国に突入したわけである。

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