「漢王朝」前漢と後漢。歴史学の始まり、司馬遷が史記を書いた頃

漢の仏教

陣王の亡秦の思想。鳳凰の志

 中国において、おそらくは初めて天下統一を成し遂げ、戦国時代(紀元前5世紀〜紀元前221)を集結させたしん(紀元前221〜紀元前206)。
万里の長城 「秦王朝」始皇帝政の父母、性格、政治政策、最期。統一国家、中華の誕生
だが始皇帝の死後、秦に滅ぼされ、統治されていたはずの旧六国が、次々反旗を翻していく。
特に、真っ向から秦と対決する姿勢を見せたのはの人々であった。

 まず楚にて、陣勝ちんしょうなる人物が、自らを陣王と称し、立ち上がったとされている。
彼は新たに張楚という国を立ち上げ、「亡秦(秦を滅亡させるべし)」の意思を掲げたが、結局、秦を滅ぼす前に、自らの生涯を終えてしまう。

 陣勝は兵を上げてから、わずか半年ほどで死んだ。
彼はかつて日雇いの農民だったという。
ある時、彼は雇い主にこう言った。
「もし私が高貴な身分となっても、あなたのことは忘れまい」
雇い主は、「どうして一介の農民などが、高貴になれるかどと思うのか」とバカにした。
陣勝はさらにこう返した。
「ツバメやスズメみたいな小さいやつに、鳳凰の志は理解できないものだ」
サンダーバード ロック鳥。ビッグバード。鳳凰。コンガマト「未確認動物としての巨鳥、怪鳥」

陣勝、呉広の乱

 二世皇帝の元年七月。
現在の北京に近い漁陽ぎょようという地に、守備に駆り出された900の農民たち。
彼らを率いていたのが、陣勝と、呉広ごこうという人物。

 しかし、不運にも大雨のせいで、一行は期日までに漁陽に辿り着けそうもない。
もし間に合わなければ斬刑である。
それは逃亡の場合も死。
どうせ死ぬならば国を立てて、あの秦と戦おうと、彼らは決意した。

 そうして彼らが起こした反乱は、『陣勝、呉広の乱』と呼ばれるようになる。
この戦いは結局鎮圧されたが、亡秦の思想を広め、各地の反乱を誘発した。

項羽と劉邦。覇王と皇帝。楚漢戦争の時代

始皇帝との出会い

 項羽こううは、楚の将軍の家の生まれ。
始皇帝の最後の巡行時に、その一行を見た項羽は「彼にとって代わるべきだ」と口にして、一緒にいた叔父の項粱こうりょうを慌てさせた。

 一方、劉邦りゅうほうは、東方の農民の出身であった。
亭長ていちょうという村で役人をしていた彼は、ある日、始皇帝を見て、「男たるもの、彼のようにありたいものだ」と言ったという。

項粱。王に従う将軍

 項粱は、陣勝が立ち上がってから二ヶ月ほど後に、自身も江南で兵をあげた。
楚の有名な将軍の家系であった、項粱のもとに、すぐさま兵は集まり、すぐにその数は数十万近くに膨れ上がった。
24歳だった項羽は、副将となった。

 彼らは、陣王に従う体でいたが、彼の死を聞き、次には楚の王の血筋のしんという人物を新たな王とした。
あくまでも自分たちは、王に従う将軍と考えていたわけである。

 そして紀元前207年、項羽は、秦軍との戦いで戦死してしまった叔父の後を継いだ。

普通の民たちの軍団

 陣勝に影響を受け、劉邦も立ち上がった。
彼はあまり高貴な身分の出身でない事が、陣勝とも共通していた。

 始皇帝の時代には地方の役人であった劉邦は、仲間たちと共に立ち上がった。
彼らの集団は、その身分や経歴にかなりバラつきがあったようである。
まさに普通の民たちの軍団であったのだ。

西楚覇王。王の上に立つ覇者

 始皇帝が死に、六国が次々復活して、ついには項羽は、秦を滅ぼしてしまう。
その項羽は、皇帝などというものを否定し、自らは楚の王とした。
さらには西楚の九つの郡を領地として、西楚覇王せいそはおうと名乗った。

 覇王とは、王の上に立つ覇者。
項羽は、一つの国でなく、かつての周のような、国家連合を目指していたのだ。
彼は、復活していた六国を、旧王族を復興させるなどして、さらに分割。
諸将18人を、各地に王として封建した。

 劉邦はそうして、漢という地の王にされた。

国士無双、韓信。楚漢戦争の起こり

 劉邦には、韓信かんしんという臣下がいた。
彼は貧しい家の生まれで、知り合いにも厄介者扱いされたり、物乞いのような真似をして親切な老婆から食を恵んでもらったりもしていたという。
また、質の悪い少年たちから、図体が大きいくせに臆病者と罵られ、股くぐりをされた話などが伝わっている。

 韓信はもともと項羽に、仕えていたが、 待遇が良かったので、劉邦についたのだとされる。
劉邦の下にて、彼はいつからか「国士無双(天下に並び立つ者がいないほどの人物)」と称されるようになった。

「漢のような遠方の地に移されたのは、紛れもなく左遷であるし、兵士はみな、故郷の山東に帰りたがって いる。ここは東に向かい、天下を争うべきだ」
韓信はそう言って、劉邦を奮い立たせたのだという。

 そうして、秦なき後の時代、新たに支配権を巡り、楚と漢の戦い、『楚漢戦争』が起こったのだった。

新たな皇帝

 楚漢戦争の期間、一応漢は、楚の従属国という扱いだったから、時代は楚であり、楚漢戦争とは、一種の反乱であった。
何にせよ、結果的に、漢は勝ち、天下はまた統一された。

 秦の支配体制を嫌い、あくまでも自らは王だとしていた項羽に対し、始皇帝に心酔していた劉邦は、自身を新たに皇帝として、秦を次ぐような形となった。

前漢。史記の書かれた時代

呂太后と恵帝

 紀元前195年4月に、漢帝国の最初の皇帝、劉邦は亡くなった。
これにより、秦と同じく、漢も崩れるのではないか、と心配する者も多くいたようだ。
しかし結局、漢は以後も、続いた。

 劉邦亡き後、権力を握ったのは、皇后であった呂后りょこうだった。
彼女は天皇でなく、呂太后りょたいこうとして、17歳だった息子劉盈りゅうえい、すなわち恵帝けいていに代わり、政治を行った。

残酷な皇后

 ほとんど伝説だが、後に皇帝となる劉邦と、呂后が出会ったのは、まだ劉邦が、一介の地方役人であった頃。
人相見が出来た呂后の父は、劉邦に大人たいじんの相ありと気づき、娘を嫁がせようと考えたらしい。

 始皇帝、二代目皇帝の皇后は、なぜか記録されなかったようなので、呂后は、中国史上にはっきりと記録が残っている最初の皇帝の皇后という事になる。

 呂后はかなり残酷な女だったと伝えられている。
戚夫人せきふじんという劉邦に寵愛されていた女は、呂后に息子を毒殺され、本人も人豚などと呼ばれ、かなりひどい扱いを受けたとされている。

首都、長安。劉氏と呂氏

 呂太后が実質的に権力を握っていた恵帝の時代、首都であった長安ちょうあんは、だんだんと開発され、市場などが作られ、長安の城にも、城壁が築かれたという。

 呂后は自身の孫、恵帝からは姪にあたる娘を皇后とした。
中国においては珍しい近親婚であるが、呂后には、自らの周囲を身内で固めようとした思惑があったとされる。
呂后は、生前の劉邦の願い、「皇帝は劉氏にするように」に歯向かおうとしていた。

 しかし、恵帝は皇后との間に太子を産まなかった。

 恵帝には、側室との間に、子はたくさんいた。
そこで彼の死後、呂太后は、幼子を二代続けて即位させ、実権を握り続けた。
その二代のうちの一人目は、青年になった時に、実母が殺されている事に感づき、おそらくは真相発覚を恐れた呂太后に、幽閉され、そのまま死んでしまった。

 そうして、恵帝の時代が7年。
恵帝の死後の、呂太后の時代が8年であった。

肉刑を廃止した文帝。文景の世1

 呂后が病死した後、劉氏の勢力は、呂の一族を滅ぼし、大臣たちは、代王劉恒だいおうりゅうこうを新しい皇帝に選んだ。
代王、すなわち文帝ぶんていの後世の評価はかなり高かった。
次の景帝けいていの頃と合わせて『文景の世』と称され、平穏な時代だったと伝えられる。

 文帝は、実際には、まだ激動の時代の帝であったとも言われ、 彼は内政を重視した。
農業政策を打ち出し、軍備を縮小し、法制度を改革したという。

 文帝はいくつかの肉刑を廃止したとされる。
肉刑とは、殺しはしないものの、身体に回復不能な傷を与えるという罰である。
その背景には、一人の少女の訴えがあったとされる。

 紀元前167年頃の事。
斉に暮らす、淳干意じゅんういという医者が、治療を受けられなかった患者に訴えられ、裁判の結果、肉系の判決を受けてしまった。
彼は、長安に呼び出されたが、「お前らなど役に立たない」と五人の娘を、置いて行こうとした。
しかし、幼い娘の一人が涙ながらに、ついてきた。
そして彼女の訴えが文帝の心を動かしたのだという。
「父の清廉公平せいれんこうへいさは、斉中で賞賛されてきた。なのに今、法によって父はひどい罰を受けようとしている。罰を受けた者の体が元に戻ることはない。やりなおそうとしても、その術すらない。どうか父を許してあげて」

恵帝と呉王。呉楚七国の乱。文景の世2

 恵帝の時代には、劉の家系である呉王が、東方諸国を率いて、反乱を起こした。
紀元前154年頃のこと。

 同じ劉の家系でありながら、恵帝と呉王には、様々な摩擦があったとされる。

 ある時、呉の太子が、漢の皇太子(後の恵帝)と、酒を飲みながら、六博りくはくというゲームをしていた。
だが、局面が熱くなりすぎたのか、二人はケンカを始め、呉の太子は、盤で殴られ死亡してしまう。

 太子の遺体が届けられた時、呉王は、同じ劉氏なのだから、長安に埋葬すればいいではないか、と送り返したという。

 呉楚七国ごそしちこくの乱と呼ばれた、この反乱は、結局鎮圧され、諸侯としては、中央からの風当たりを強くしてしまうというマイナスの結果を招いた。

武帝。司馬談と司馬遷の頃

 劉徹りゅうてつは、紀元前156年に生まれた。
彼は恵帝が死んだ後、16歳で武帝となった。
前漢(紀元前206〜紀元8)という時代は、彼の代が最盛期だったとされている。

 司馬談しばたんは、武帝の治世の前半頃まで太史令たいしれいをしていた。

 太史令とは、太史寮の長官。
太史は、天文、暦、祭祀、歴史文書などを司った官職である。

 後に息子の司馬遷しばせんが完成させた、有名な歴史書『史記しき』は、もともと、司馬談が始めた仕事である。
史記は、伝説的な古代王朝の存在などを今に伝える、貴重の資料となっている。
夏王朝 「夏王朝」開いた人物。史記の記述。実在したか。中国大陸最初の国家 殷の玉座 「殷王朝」甲骨文字を用いた民族たち。保存された歴史の始まり
 また、武帝は、始皇帝と同じくオカルト趣味であった。
天を祀り、神仙を求めたという。

後漢。説文解字と仏教伝来の時代

周を手本とした王莽の新

 前漢、後漢(25〜220)と呼ばれる時代の間には、王莽おうもう(紀元前45〜紀元23)を皇帝としたしん(8〜23)があった。
王莽は武力行使というより、政治的な策略の上で、前皇帝から、その座を禅譲されたとされている。(つまり正統な家系ではないが、優れていたので皇帝を継げた)

 新は、周の時代の政治を手本としたが、上手くいかなかったようで、紀元前25年には、皇帝はまた漢の王朝の劉秀りゅうしゅう、すなわち光武帝となった。
西の城 「周王朝」青銅器。漢字の広まり。春秋時代、戦国時代、後の記録
以降、220年に、漢が滅亡するまでの期間を、後漢と言うのである。

光武帝の治世

 後漢は、前漢の政治体制をかなりそのまま継いでいたという。
皇帝を頂点として、派遣された官僚たちが、共通の法律に基づき、各地を支配するというもの。

 後漢最初の光武帝の治世は、そのほとんどが、前漢、新、後漢の交替期間の高まった混乱の収束のためとなった。
離反していた周辺諸国も、徐々にまた漢との和睦を求めだした。
後漢の始まりは25年からとされるが、実質的に、また国々が統一されたのは、30年頃だったとされる。

 しかし光武帝の代に、上手く軌道修正出来たのか、次代の明帝めいていの時代は、非常に安定した治世だったようである。

道教と仏教。漢字と数学

 おそらくは前漢末期に、インドから、アジアを経由して伝来した仏教は、この後漢(25〜220)の時代には、かなり広まったとされる。
お寺 「仏教の教え」宗派の違い。各国ごとの特色。釈迦は何を悟ったのか
ただ、道教とごちゃ混ぜにされてたような節もあるという
また、光武帝の子であった楚王は、道教と仏教のどちらも重んじていたようである。

 また漢字研究の書(漢字辞典)である『説文解字せつもんかいじ』、数学書である『九章算術きゅうしょうさんじゅつ』は、この後漢時代に書かれた。
これは、官史用の教科書であったと考えられている。

 説文解字は現存している最古の漢字辞典であり、9353の漢字が収録されているという。
九章算術は、タイトル通り、九章かけて、 比例や、体積の計算、連立ニ次方程式などの、様々な算術の問題と、その解答を246収録しているもの。
さすがにギリシャには及ばなかったろうが、算術に関しては、そこそこのレベルに到達してたのかもしれない。
幾何学 なぜ数学を学ぶのか?「エウクレイデスと原論の謎」

五斗米道。太平道。黄巾の乱

 後漢後期。
桓帝かんていの治世(146〜167)や、霊帝れいていの治世(168〜189)などは、社会経済が乱れていた時期だった。
また、洪水や地震などの災害が頻発。
人々を飢饉や伝染病が襲った。
各地で、反乱も次々起こったが、たいていはすぐに抑えられた。

 そんな中、二世期前半頃に、長陵ちょうりょうという人が、蜀にて、新しい宗教を開いた。
これに教えを受けた者たちは、五斗ごと(20リットルほど)の米を寄贈したので、組織化されていった、その宗教集団は、『五斗米道ごとべいどう』と呼ばれた。

 また、184年2月、東方で、張角ちょうかくという人が組織した、太平道たいへいどう(道教の一派)の集団は、黄色の頭巾をかぶり、仲間同士を識別したので、『黄巾賊こうきんぞく』と呼ばれた。
また、彼らが各地で起こした乱は、『黄巾の乱』と呼ばれる。

曹操。曹丕。魏、呉、蜀の三国時代へ

 しかし結局、黄巾賊は、曹操そうそうに鎮圧されていった。

 黄巾の乱が起きた頃、五斗米道を率いていたのは、長陵の孫である長櫓ちょうろだった。
彼も三十年ほどは、勢力を保ったが、215年に、やはり曹操のもとへと降った。

 さらに、220年に、曹操の息子、曹丕そうひが、漢の献帝けんていから、禅譲を受けて、新しく魏の王朝を開いた事で、後漢の時代は終わった。
そして魏、呉、しょくの三国による、乱世が幕を開けるのである。

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