古代ギリシアの寓話集
日本では英語読みのイソップ(Aesop)という名がよく知られている、古代ギリシアの奴隷(元奴隷?)でもあった寓話作家アイソーポス(Aísōpos。紀元前619~紀元前564)の作とされる寓話集。
ショートショートのように、ごく短い話が連続していて、それぞれ話の最後に、その物語が語っている教訓について触れられている。
神話の要素も混ぜているようなギリシア的世界観。また、当時の道徳観の参考にもなりうるとされる。
ここでは、個人的にいくらか興味深い話を紹介する。
木像売り
ある男が、ヘルメスの木像を作って、市場で売ろうとした。だが一人も買い手がつかない。
そして、「恵み深い利益のある、この神様の御用はいらないのでしょうか」などと叫ぶ彼に、ある1人が言った。
「おいおい、それがお前さんの言うようなものなら、それの利益を自分で受ければいいじゃないか。売る必要ないだろ」
彼はこう返した。
「私に必要なのは今すぐの利益ですが、この神様ときたら、利益をお授けになるのがいつも遅いのですよ」
この話は、神様さえ蔑ろにして、賤しい安い利益を得ようとする人に当てはまるもの。とされる。
しかし短い間に中に、なかなかユーモアがあり、喜劇的である。
ワシとコウチュウ
ワシに追いかけられてたウサギに助けを求められたコウチュウ(甲虫)は、ワシに対して、「この方を奪ってくださいますな」と頼んだ。だがワシはコウチュウが小さいことを侮って、彼の見ている目の前でウサギを食べた。
コウチュウは怒り、それからはずっと、ワシの巣を見張っていることにした。そしてワシが卵を産むと、いつでもコウチュウは空高く舞い上がり、その卵を転がして割ってしまった。
ワシはゼウスのところへと逃げた。この鳥はゼウスの神鳥だったから。そして、自分の子供を産むのに安全な場所を願った。
願いを聞いたゼウスは、自らの膝の上を貸してやった。しかしコウチュウは、糞の丸い塊を作って、ゼウスの膝の上に落とした。ゼウスはそれを落とそうと立ち上がってしまう。そして、うっかり卵を地上に落としてしまった。
ワシはもう、コウチュウが現れる季節には巣を作らないことに決めた。
「猛禽類」最大の鳥たちの種類、生態、人間文化との関わり
この話はどんな無力そうな者でも、顔に泥を塗られた場合、いつか自分でその仕返しができないとは限らない。だからよく考えて、何者もバカにしないように、ということを教えているという。
ゼウスが少しマヌケな印象か。
「ギリシア神話の世界観」人々、海と大陸と天空、創造、ゼウスとタイタン
ネコとニワトリ
ある家畜小屋の中のニワトリたちが病気しているということを聞いたネコは、医者に化けて、医術に必要な道具も手にしてやってきた。そして、「容態はいかがですか」とニワトリたちに尋ねる。するとニワトリたちは、「ありがとう。もしあなたがここから立ち去ってくれたら、一番いいのに」と言った。
人間においても悪い者は、たとえどんなに良いように装っていても、考えのある人には気づかれてしまう。という話。
ネコが、医者に化けるという技を披露している。
造船場のイソップ
寓話作家のイソップが、ある造船所にやってきた。船大工たちは、彼をからかって、なんとか返答しろと迫ってきたが、イソップはこう返した。
「昔々、混沌と水があったが、ゼウスは土の元素も出現させようと考えた。それで、土が3度海を呑み干すようににした。土地は1度目の時に山を現し、2度目の時に平原を現した。そしてもし、土が3度目に水を呑み込もうと決心したなら、諸君らの技術は役に立たぬものとなるだろう」
この話は、自分よりも優れた人々をからかう者は、自分では気づかずに、その人々から、より大きな悲哀を引き寄せるようなもの。ということを明らかにしているという。
これはイソップ本人が登場している話である。ギリシアの創造神話とも関連している。
(神々について言い争う)二人の男
2人の男が、2柱の神様、テセウスか、それともヘラクレスかの、どちらが大きいかということで言い争った。そして、それらの神様はそれぞれに自分を小さいと言った相手に腹を立て、彼らのそれぞれの土地に対して復讐を行った。
配下の者たちが争うと、その主人たちは焚きつけられ、相手の家来たちに怒るものだ。という話。
実際のところ、明かされない真相が気になる話である。
ギリシア神話の神々が、かなり身近な感じのするイソップ寓話の中でも、特にそういう傾向が感じられる話。
人殺し
人を殺したある男が、その殺した相手の身内の者に追いかけられていた。人殺しは、ナイル川のほとりにやってきた時、オオカミと遭遇し、慌てて木の上によじ登った。だか、次に大ヘビが自分の方へ登って来るのが見えたので、川の中へと身を投げた。ところが川の方では、ワニが待っていて、彼を食った。
地のも空気のも水のも、いかなる元素であろうと、追われる犯人には安全ではない、ということを明らかにしている話というが、その教訓が特に興味深いか。
(王様を求める)カエルたち
自分たちに支配者がいないことを悲しんでいたカエルたちは、自分たちに王様をくださるようにとゼウスに願った。ゼウスは、彼らがバカなのを見たので、木片を1つ、沼の中に落としてやった。
カエルたちはしかし、その木片が全然動かないので、そんなのが王様であることを恥ずかしく思い始めた。
それから、再び彼らはゼウスに、「最初の王様はあまりに呑気すぎます。自分たちの支配者を取り替えてください」と願った。
ゼウスは怒りを見せて、水ヘビを彼らに送り、そして彼らはヘビに食われてしまった。
この話は、悪い支配者よりも、バカでも悪くない支配者の方がよいだろう。ということを明らかにしているという。
ゼウスの木片は、からかっていたのだろうか。
北風と太陽
北風と太陽が、力比べとして、旅人を裸にさせた方の勝ちだというゲームをした。
北風は、激しく吹いて、その旅人から服を剥ぎ取ろうとしたが、旅人は服をしっかり押さえ、むしろ寒さをしのぐために、さらに上着を着込み始めた。
一方で太陽は、最初はほどよく照りつけて、そしてだんだんと暑くしていき、旅人はついに服を脱いで、水を浴びるために近くを流れている川へと向かった。
この有名な話は、言って聞かせる方が、無理強いするよりも効き目の多いことがしばしばある、ということを明らかにしているという。
メスネコとアプロディーテ
あるメスネコが、人間の若者に恋をした。彼女は女神アプロディーテに、「どうか自分を人間の姿に変えてください」と祈り、女神はその願いを叶えてやった。
綺麗な乙女となったネコに、若者はすぐに惚れて、結婚してくれた。
その後、アプロディーテは、メスネコが、その身体と共に気性をも入れ替えたのかどうかが気になって、1匹のネズミを彼女の部屋に放った。すると彼女は、今の自分の立場も忘れ、跳ね起き、ネズミを食べようと、それを追いかけた。女神はその事に怒って、彼女を再びネコに戻してしまった。
人間においても、生まれつき悪い人は、たとえその姿を変えても、決して気性まで変えることはできない、という話。
これもネコの変身が描かれている話だが、その変身は、女神アフロディーテの業である。
弁論家デマデス
弁論家デマデスは、アテナイで演説をやっていたが、人々はちっとも彼の言葉を聞いてくれなかった。そこで彼は、イソップの寓話を話すことを許してくれるように願った。人々が了承したので、彼は話し始めた。
「デーメーテールとツバメとワニとが同じ道を歩いていたが、彼らがある川の岸にやってきた時に、ツバメは空に飛び上がり、ワニは水に潜っていった」
人々は、「デーメーテールはいったいどうなったのか」と尋ねた。
デマデスは、このような続きを語った。
「国事をほっぽり出して、イソップの寓話に夢中になっている諸君に腹を立てている」
必要なことをおろそかにして、面白い事の方を選ぶ人々は考えなしだ。という話。
この話もイソップの名前が出てくるが、前の話よりも、よりメタネタ的な印象があるか。
旅のディオゲネス
ディオゲネスは旅をしていたが、水の勢いが強い川を前に、どうしようかと途方に暮れた。すると、その川で人々をいつも渡してやっている男たちの1人が.彼のところにやってきて、ディオゲネスを肩に乗せ、運んでくれた。ディオゲネスは、「自分は貧乏で、親切なあなたにお礼をすることもできない」と言って、自分の貧乏を責めて落ち込んだ。
そんな中、その助けてくれた男は、また別の旅人が川を渡ることができないのを見て、駆け寄って、ディオゲネスと同じように助けてやった。
ディオゲネスは、その親切な男に近づいて言った。
「ねえ、僕はもう君に感謝していないよ。君が助けてくれたのは、ものを見分けた上でのことではなく、病気によってだということがわかったからさ」
この物語は、立派な人と同じように、その値打ちのない人にも親切をする人々は、親切というより、むしろ考えなしだという評判を受ける。ということを示しているという。
ようするに、八方美人はよくない、という話なのだと思われる。
ライオンの王位
あるライオンが、怒りぽくもなく、残酷でもなく、無道でもなく、人間のように優しく正しい王様となった。
そして彼の御代に、全動物の集会が催された時、オオカミはヒツジに、ヒョウはカモシカに、トラはゾウに、イヌはウサギに、といった具合に、それぞれ償いをしたり、されたりした。
そしてサルが言った。「弱い者が無道なものに恐い者と見えるように、この日を見ることを切に願っていました」
正義が国に行われ、全ての事が正しく裁かれるなら、弱い者も安心せて過ごせるということを示す話。
とても平和な世界観なのが、ちょっと珍しい。
ライオンとイルカ
あの時にライオンがイルカに、自分と同盟を結ぶように勧めた。それが似合っているというのだ。なぜかというと、片方は海の動物の王様で、片方は陸の動物の王様だから。
イルカは喜んで承諾。
そしてそれから、ライオンはウシたちと戦争することになった。そこでライオンは、イルカに助けを求めたが、イルカは海から上がれない。そこでライオンはイルカに対して、「裏切り者だ」と責めたが、イルカはこう返した。「いや、私でなくて自然を攻めなさいよ。それは、私を海のものに作って、陸に上がることを許さないんだからさ」
友情を求めるのならば、危険の際に側にいることのできるものを同盟者に選べ。という話。
イルカが海の王とされているが、これは、クジラも含めた意味でのイルカなのだろうか。
「クジラとイルカ」海を支配した哺乳類。史上最大級の動物
(戦争する)オオカミ共とイヌ共
ある時に、イヌたちとオオカミたちが敵意をいだきあった。
そしてイヌたちは、ギリシアのイヌを将軍として選んだ。しかしこの将軍は、ぐずぐずし、なかなか戦争を仕掛けない。
オオカミどもは、激しく脅してきたが、彼は言った。
「まあ、何のために私がぐずぐずしてるのか考えてみたまえよ。前もって考えるのは常に適当なことだろう。というのは、諸君の種族は1つで、みんなの形状も1色だ。しかし我々の兵隊たちは、いろいろな性格を持っていて、自分たちの国々を自慢にしている。そればかりか、みんな色も1つでない。それなのに、どうして私は、戦争のために不一致で同じようなものを全く持たぬものどもを統御できようか」
これはすべての兵隊たちが、1つの意と1つの考えとを持っている時にこそ、敵に対して勝利を得るだろう。という話。
(仲直りをした)オオカミどもとイヌども
オオカミたちがイヌたちに言った。
「我々はこんなにも似ている。だがなぜ兄弟のように、我らは同じ考えを持てないのか。というのも、我々が違ってるのは考えだけだろう。僕らは自由にみんなで暮らしているが、諸君は人間たちに従い、彼らに殴られたって我慢する。首輪をはめられ、羊たちの番をする。人間が食べ物を食べる時に、彼らが諸君にくれるのは、ただ骨だけだ。だが諸君が承知するなら、ヒツジたちをみんな僕らにくれたまえよ。そしたら、それをみんなで分け合ってたらふく食べることにしようよ」
イヌたちは賛成した。そして彼らは、オオカミたちの洞窟の中に入って行った。
オオカミたちは、まずイヌたちを殺した。
この話は、自分の祖国を裏切る者はこのような報酬を受け取るのだ、というもの。
前の話の直接の続編のような感じだが、結末がちょっとシュール。
オオカミと老婆
飢えたオオカミが獲物を探して歩き回っていた。そしてあるところにやってきた時に、子供の泣き声が聞こえてきた。どうも家の中で、老婆がその子にこう言っているようだった。「泣きやみなさいよ。でないと今すぐにお前をオオカミにあげちゃうよ」
オオカミはそのお婆さんが本当の事を言っているのだと思い、長い間をそこで待った。
しかし夕暮れ時に、そのお婆さんが、子供の機嫌を取りながらまたこう言っているのを聞いてしまう。
「オオカミがここへ来たら、坊や、そいつを殺してやるよ」
オオカミはそれを聞いて、「この家じゃ、言うこととやることが別々のようだ」と言いながら、去っていった。
この物語は、行いがその言葉通りでない人間たちに向いているという。
これもまた、喜劇的な話である。
しかしお婆さんは、本当に襲ってくるオオカミを殺すことができるのだろうか。普通に考えたら武器を使うのだろうが。
ランプ
油によって光輝くランプは、「自分は太陽よりももっと明るい」と自慢した。するとその時、風が一息ふっと吹いて、ランプの火はすぐに消えてしまった。再び人はランプに火をつけて、彼に言った。
「ランプよ。照らして黙っているんだ。星の火は消えることなんかないんだぞ」
人が獲得したものは、本当は何でも自分のものではない。人は人生の名声や高名を鼻にかけて、盲目になってはいけない。という話。
スケールが小さいような、大きいような、ちょっとばかり妙な話である。
だがこの話はファンタジー的なのだろうか。すぐ目の前に灯されたランプの光は、(ある瞬間においては)星の光よりも強い可能性があると考えられる場合もあったろうか。
乞食坊主たち
ある乞食坊主たちは1匹のロバを飼っていたが、それの背に道具を積んで旅をしていた。ところがある時に、そのロバは過労で死んでしまった。
坊主たちは、ロバの死体から皮を剥いで、その皮からいくつかの太鼓を作り、それらを用いた。
それからまた別の時。他の乞食坊主たちが、「ロバはどこにいるのか」と尋ね、彼らは答えた。「あいつは死んだが、しかし生きている時にもありえなかったくらいに、たくさん打たれまくっているよ」
召し使いの中には、例え奉公をやめたとしても、召し使え続けることを免れない運命の者たちもいる。という話。
これは文化的な、あるいは仕事に対しての誇りとか、そういうふうな話なのだろうか。それとも、世の中は不平等だとか、そういう真理を説いているのだろうか。
アリ
アリという生物は昔は人間だった。彼らは農業に専念していたのだが、自分の労働の結果では満足せず、他人のものにまで羨望の目を向けて、終始隣人たちの果実を盗んでばかりいた。
ゼウスは彼が欲張りなのに腹を立てて、その姿を、アリと呼ばれる今の姿に変えてしまったのである。
しかし彼は、その姿を変えられても、気質は変えなかった。というのは、今日に至るまで、彼は田畑を這い回って、他人の小麦や大麦をかき集め、自分のために蓄えるのだから。
この話は、生まれつき悪い人々は、非常にひどく懲らしめられても、その性格は変えない。ということを明らかにしているという。
ある動物の起源を語る話として、人間が変身したというものだが、ずいぶん小さくなっている。
アリとコウチュウ
夏の季節に、アリが田畑を歩き回って、小麦大麦を拾い集め、冬の自分の食物を蓄えていた。するとコウチュウが、その勤勉なのを見て、「君たちは他の動物たちが仕事を辞めて、のんきに過ごしているそんな時にも、精が出るんだね」と驚いた。アリは黙っていた。
そして後に冬が来た時、ウシの糞が大雨に溶かされてしまって、コウチュウは飢えた。そこで食物のお裾分けをアリのところへ頼みに来た。
だがアリは、コウチュウに対してこう言った。「ねえ、コウチュウさん。私が精を出して、あなたがその私を非難した時、あなたが働いていたら、今食物に事欠くことなんてなかったでしょうよ」
盛んな時に、将来のことをあらかじめ考えておかない人は、時節が変わった時に、ひどく不幸な目に遭うもの。という話。
有名な「アリとキリギリス」の原型だろうか。
アリとハト
喉が渇いていたアリが、泉へやってきた時に、流れにさらわれて溺れそうになった。しかし、偶然通りかかったハトが木の小枝をもぎ取って、泉の中に投げてやった。アリはその小枝に乗って助かった。
その後、ある鳥刺が、鳥竿を継ぎたしてハトを取ろうと進んでいた。アリはそれを見て、その鳥刺の足を噛んだ。鳥刺は痛がって、鳥竿を投げ捨て、ハトも逃げることができた。
恩人には恩返しをしようという話。
平和な世界観というわけではないが、この話もまた、毒もなく、単純にいい話みたいな感じである。
樵夫とヘルメス
ある人が川の近くで木を切り倒していたが、自分の斧を飛ばしてしまった。しかし途方に暮れていて泣いていた彼からその理由を聞いたヘルメスが、彼を可哀想だと思って、川の中に潜って、金の斧を持って上って、「これがお前のなくしたものか?」と尋ねた。
「いえ、それではありません」と男は答えた。
ヘルメスは再び潜って、今度は銀の斧を持ってきた。しかし男は「それも自分のものでありません」と答える。
そしてヘルメスは、3度目に彼自身のものを持ってきて、男は「それが私のなくしたものです」と言った。
ヘルメスは、彼の心が正しいのお喜びになって、彼に3つの斧すべてを与えてやった。
そして、その樵夫から話を聞いた仲間の1人が、同じことをしようと決心し、川へ行って、自らの斧を流れの中に投げ込み、泣きながら待った。するとやはりヘルメスが現れて、嘆きの理由を知り、前の男の時と同じように、まずは金の斧を持ってきた。
ところが、「お前のものはこれか?」と尋ねるヘルメスに、今度の男は「はい、それこそ私のです」と言った。
ヘルメスはその図々しさを憎み、金や銀の斧はおろか、彼自身のさえもお返しにならなかった。
この物語は、神が正しい人々に援助をなされた分だけ、不正な人々には反対なさる。ということを示しているのだという。
これはまた非常に有名な話であろう。しかし問いかけをするのが、泉の精霊とかでなく、神様のヘルメスであるというのが、なかなかスケール大きい。
旅人たちとクマ
友人同士の旅人2人が、同じ道を歩いていた。すると突然クマが現れた。一方の旅人は、急いで近くの木に登って隠れたが、もう1人は捕まりそうになってしまった。
そこで彼は、地面に倒れて死んだふりをした。クマは彼に鼻を近づけて匂いを嗅いだが、彼は我慢して息を吐かずにいた。というのも、その動物(クマ?)は死体には触れないということだったから。
それからクマは立ち去ったが、降りてきて男は、なんとか助かった友人に、クマは耳元に何を言ったのかを尋ねた。
彼は答えた。「今後、危険の際にそばにいてくれないような友人とは一緒に旅をするなって」
友人たちというのを、災難が試して、本当の友人かを示してくれる。という話。
しかし現代においては、もはや迷信ということで有名な迷信に関しての描写があり、しかもクマははっきりその死んだふりという対処に気付いている。友人関係について警告してくれていることといい、このクマはいかにも賢者っぽい。
ヘビとゼウス
ヘビがあまりにもたくさんの人に踏みつけられるから、そのことをゼウスに言った。するとゼウスはヘビに対しこう返した。
「もしお前が、お前を最初に踏みつけた者を殴ってやってたなら、次の者もそういうことをしようとしなかったのだろうが」
踏みつけにした最初の相手に手向かう者は、他の人々に恐れられる。ということを明らかにしている話だという。
しかし、ヘビもゼウスも、キャラが少しポップ。
悪戯をする羊飼い
ある羊飼いは悪戯好きで、ある村にやってくるたびに、大声で(嘘の)助けを求めた。オオカミたちがヒツジたちを襲ってくるのだと。村の人たちは2、3度、驚いて飛び出してきたが、その後彼は笑って立ち去った。
しかし、やがて本当にオオカミたちがやってくるようなことになった。オオカミたちはヒツジたちを引き裂き、羊飼いは助けを求めたが、村の人たちは、またいつものように悪戯なのだと考えて、気にかけなかった。
こうして彼は、ヒツジの群れを失ってしまった。
この話は、嘘つきは本当の事を言う時でも信じられない、ということを明らかにしているという。
おそらく、イソップ寓話の中でも最も有名な話であろう。しかしオオカミ少年ではなく、悪戯好きな羊飼いの話である。
ウサギとカメ
ウサギとカメが速さのことで争っていた。そして彼らは日時と場所を決めて別れた。
ところがウサギは、生まれ持った速さのために自惚れ、道をそれて眠った。カメは自らの遅さを知っていたから、ひたすらに走り続け、ついには眠るウサギを追い越して勝利した。
これも非常に有名な、ウサギとカメの話。
生まれつきの天才にあぐらをかいてる者は、しばしば努力に打ち負かされてしまうものという話。