黄巾の乱。三国への布石
太平道。黄巾賊。天公将軍、地公将軍、人公将軍
後漢(25〜220)の末。
184年。
宮廷は、内部の権力争いと、国を襲った自然災害や伝染病の対応に追われ、弱体化の一途を辿っていた。
「漢王朝」前漢と後漢。歴史学の始まり、司馬遷が史記を書いた頃
世が乱れる中、各地で次々と反乱が起こった。
道教から派生した太平道という宗教を基盤として、組織された「黄色の頭巾をかぶった者たち」もそういう反乱分子のひとつであった。
黄巾賊と呼ばれた彼らを率いたのは、張角という人物で、自らを大賢良師と称していたも言われる。
また彼は。自身を天公将軍。
弟の張宝ちょうほうを地公将軍
張梁を人公将軍とした。
曹操の登場
彼らは各地の官公庁を襲撃し、 中央政府の勢力を徐々に削り取っていった。
彼らが引き起こした本来の波はどんどん拡大したが、蜂起より半年後に、指導者である張角が病死。
さらにそれから、ほんの数ヶ月で、張梁、張宝もたて続けに戦死してしまう。
そうして、組織の柱である三兄弟を一気に失い、勢いを失った黄巾賊は、中央に命を受けた、地方の将軍たちに、次々と討伐されていった。
しかし、地方将軍らの何人かは、この黄巾賊の討伐を利用し、武勲を立て、自らの勢力を拡大。
特に曹操は、この機に一気に名を上げたという。
漢の最期の皇帝
董卓と献帝
189年。
霊帝が亡くなり、17歳の劉弁が、新たな皇帝となる。
実権を握った宰相の何進は、恨みあり、かつ敵対的な立場にあった宦官(子孫を残せぬように手術された官使)の排除を計画。
しかし逆に、計画を先に知られた、彼の方が殺されてしまう。
殺された何進の首を見た、彼を支持していた地方軍の武将たちは、宮廷に突入し、下手人たちを殺害。
新皇帝と、その弟である陣留王を保護した。
この時に主導権を握っていた武将、董卓は、そのまま洛陽にて、陣留王を献帝として即位させる。
以降、董卓は、傀儡の帝の裏側で、 実質的に権力を握った。
だが当然、これに強く反対する地方武将も多かった。
袁紹。呂布。孫堅
190年。
袁紹を総大将とした、反董卓の連合軍が結成。
曹操も、その連合軍側にいたとされる。
董卓側は連合軍が近づいてくるのを知るや、洛陽を捨てて、長安へ都を移す。
しかし、長安に落ち着いた董卓は、義理の息子でもあった呂布に裏切られ、殺されてしまう。
呂布とは、女性関係で揉めていたという話もある。
董卓側は、まるで戦いを避けたようだが、別に連合軍にビビっていたわけではないとされる。
実際、連合軍は一枚岩でもなく、なぜだか宴会ばかりして、やる気にかけていたともされる。
また、実際に、王匡、曹操、袁術などの率いた部隊は、惨敗だったようだ。
ただ、孫堅の軍は勝ったという。
また、董卓が死んだ後、各地を流れ歩いていた献帝は、196年に、曹操が、本拠地の許に迎え、庇護者となった。
三国初期の武将たち
公孫瓚。界橋の戦い。麹義
共通の敵である董卓が死ぬや、連合軍の団結はあっさりと崩れた。
特に、領土が隣接していた、渤海の袁紹と、幽州の公孫瓚は、互いに強く牽制しあった。
191年。
袁紹と公孫瓚の軍は激突する事になる。
公孫瓚は、広宗の地に布陣したが、袁紹は、そこに直接は、出撃せず、近場である界橋を戦いの場に選んだ。
袁紹側の将である麹義は、弓隊を率い活躍したが、この成功以降、だんだんと態度が傲慢になり、後には袁紹に処刑されたとされる。
張邈の謀反。兗州の戦い
194年。
東方の徐州に曹操が攻めていた最中、彼の配下であったはずの張邈が謀反を起こし、兗州を占領。
曹操の友人であったが、容赦ないその性格に恐れを抱いていた張。
それに、董卓を裏切り殺害した後、落ち着く先を探していた呂布も彼の味方となっていた。
曹操は苦戦を強いられながらも、兗州を奪還。
敗走した呂布は、陶謙より、徐州を譲られた劉備のもとへと逃げ込んだ。
孫策。劉繇。牛渚の戦い。笮融。于茲
孫策は、袁術の傘下だったが、いつか自分こそがのし上がるのだと、さっさと離れる機会をうかがっていたとされる。
一方、劉繇が強い影響力を 持っていた呉郡では、彼の一族が、劉繇と対峙していた。
そこで孫策は、一族の者たちと協力し、呉郡を劉繇より奪う計画を立てる。
195年。
一族かは支援を求められたという事で、孫策は、出撃の許可を袁術からもらい、すぐに軍を出し、劉繇のいた牛渚を攻略。
孫策軍はその勢いにのるが、しかし、籠城していた笮融の軍との戦闘中に、孫策は、大腿部に矢を受けてしまう。
それで、孫策はいったん撤退。
ところが重傷を負い、前線から離脱したためか、総大将である孫策は死亡した、という噂が広まった。
孫策死亡の噂は、笮融にまで届き、これを好機と見た彼は、配下の武将、于茲に追撃を命令。
しかし孫策は、囮を餌に、誘った敵部隊を一気攻めする作戦で、于茲率いる笮融の主力部隊を撃破。
そうして、劉繇軍を破った孫策は、手に入れた地を拠点にして、袁術から自立をはたしたのであった。
孫策は、呉、会稽、丹楊、豫章などを次々と領有。
勢力を拡大していった。
しかし、200年に孫策は刺客により暗殺され、その跡は弟の孫権が継いだ。
劉備。信用ならぬ奴
呂布は、天下に名高い大豪傑だが、かなり悪名高くもあった。
董卓を始め、主君を何人も裏切ってきた経歴があった。
そんな彼だから、仕官を申し出てきた彼を、劉備はあまり信用しなかった。
しかし、劉備が戦に出ている隙に、呂布はすぐに徐州を乗っ取ってしまう。
劉備は、許の曹操を頼り、共に呂布を打ち負かし、捕らえた。
呂布は、「俺を味方にすれば天下が取れる」と豪語。
しかし、劉備が「董卓の例をお忘れなきよう」と曹操に進言。
曹操は決心を決め、呂布を処刑した。
呂布の最後の言葉は、劉備に向けた、「信用ならぬ奴め」だったという話もある。
官渡の戦い
関羽。顔良
200年を迎えた頃。
特に強大な勢力を持っていた将は、袁紹と曹操、次いで孫策という感じだった。
この頃起こった、官渡の戦いは、袁紹と曹操の、まさしく頂上決戦であった。
曹操軍にいた関羽は、袁紹側にいた劉備と、立場上は敵対している。
しかし関羽は、劉備の信頼する将であり、必ず味方についてくれる。
などと劉備が言っていたせいで、油断した顔良という名将はあっさり打ち取られたという。
関羽の話は伝説だとされるものが多い、この騙し討ちは史実らしい。
逃げ足早い劉備
劉備は、呂布に領地を奪われた後、曹操のもとに降った。
曹操は、劉備を臣下の武将としたが、それはおそらく、そのうちに抜け出て行くことを承知した上での、彼の能力を見極めるための雇用だった。
官渡の戦いの少し前に、やはり劉備は、沛にて、軍閥としての名乗りを新たにあげる。
曹操は、劉備という男に完全に見切りをつけ、討伐隊を彼のもとへ送った。
大胆に裏切ったものの、逆襲は予想していなかったのか、劉備は妻子も部下もほって逃亡したとされる。
その後に彼が頼ったのが、袁紹。
こうして、官渡の戦いにおいて、彼は袁紹側の兵になったのだった。
袁紹の敗北が濃厚と判断すると、彼はすぐ、汝南の黄巾賊の残党を懐柔するという口実で、いち早く戦線から離脱。
劉表の荊州へと逃げて行った。
許攸の裏切り
曹操は、敵の補給経路を重点的に攻め、戦いが長引いたことによって、その効果は絶大になっていった。
さらに袁紹側の幕僚(指揮官補佐)の許攸が、曹操側に寝返り、彼からもたらされた情報を頼りに、曹操は敵の兵糧貯蔵地に奇襲をかける。
そうして、食料のなくなった袁紹軍は、ほとんど自然消滅し、兵のほとんどは曹操側となった。
袁紹は追われ、この敗北の二年後に死んだ。
袁一族の抹殺
袁譚。袁熙。袁尚
202年に、袁紹が死んだ後、三人の息子、袁譚、袁熙、袁尚の間に、遺産(領地)を巡る争いが勃発。
特に、袁紹は生前、末子の袁尚を後継者にするつもりだった為に、袁譚と袁尚は完全に対立。
長男に明らかな問題がないにも関わらず、後継者に他の兄弟を指定するのは、明らかに当時としては愚の骨頂と言える。
戦を招く元である。
また後継者争いという問題自体は、三国時代にはかなりありがちなことであった。
そういうものがなかったのは、血縁深い者などいない、劉備の蜀だけであったとも言われる。
曹操に降る公孫康
曹操は袁譚を援助し、袁尚を攻めた。
また、予想通り、袁譚は裏切ったので始末した。
袁尚は、袁熙を頼ったが、ふたりは部下にも見切りをつけられ、さらに逃げた。
そして207年。
袁尚と袁熙は、東の公孫一族を頼ったが、もうこんな、落ちるとこまで落ちた者たちなど、彼らは相手しなかった。
公孫一族の当主、公孫康は、袁尚、袁熙を処刑し、その首を曹操への手土産とした。
長坂坡の戦い
諸葛亮孔明。天下三分の計
袁一族を倒した曹操の、次なる標的は、劉表の荊州であった。
208年に、劉表が死に、父よりは小物らしい劉琮が跡を継いだと聞いて、曹操はいよいよ、本格的に荊州攻撃を決める。
曹操軍が近づいてきていると聞いて、すぐさま勝ち目はないと、劉琮は降伏を申し出た。
この時、荊州にいた劉備も非常に慌てた。
実は彼は当時、この荊州にて、軍師として自分のもとへ迎えた諸葛亮孔明の提案した、「天下三分の計」を決行するかで揺れていた。
すなわち、大きな勢力の曹操、孫権に対して、この荊州に挙兵し、対抗するという計画である。
しかし迫ってきた曹操の軍に焦り、計略どころでなくなり、また彼は逃げ出す。
ところが撤退可能な陸路には避難民が押し寄せていて、大渋滞状態であった。
だが、そこに関羽の水軍が到着。
したのはよかったのだが、劉備は何らかの思惑か、自己犠牲の精神か、船に避難民を乗せ、自軍は、陸路を使った。
趙雲。張飛の活躍
何はともあれ、軍事的な要所として知られていた江陵を目指した劉備軍。
劉備を慕ってついてきたらしい避難民たちは、かなり足手まといであったろう。
あっさり追いついてきた曹操軍の追撃。
混乱の中、またしても真っ先に逃げて、妻子と離れ離れになった劉備。
夫人のひとり糜は、井戸に身を投げて自害。
しかしもうひとりの夫人、甘と、その子である阿斗は、趙雲により救出された。
普通なら全滅してもおかしくなかったろうが、殿をつとめた張飛が、長坂橋にて、曹操軍を食い止め、なんとか劉備軍は逃げる事が出来たのだった。
しかし、曹操軍に邪魔され、江陵へは行けなかった。
赤壁の戦い。三国史上もっとも有名な戦い
呉。孫権。魯粛
呉の孫権は、外交を駆使して、武力に頼らず力を蓄えてきていた。
そのような外交政策では、優れた交渉手腕を持つ周瑜が大いに活躍していたとされる。
そして荊州は、当時最大級の穀倉地帯であったから、孫権もまた狙っていた。
曹操の動きを察知した孫権軍内部では、曹操を討つべきとする声が高まっていた。
有力武将の魯粛は、逃亡する劉備を味方に引き入れようと、接触。
孔明。魯粛。周瑜の説得
孔明も、こうなっては、いっそ孫権軍と曹操軍を戦わせるのが得策と、主君に提案。
劉備も、その案に賛成した。
孔明は、魯粛と周瑜と一緒になり、孫権を戦いへと促す。
曹操はかなり強大であり、呉の内部でも、和睦交渉をするべきという声はあった。
しかし、今更曹操のもとに降る事など出来ないだろう劉備軍からしてみれば、それは非常にまずい。
孔明は、情報提供を惜しまず、敵は強大ではあるが、遠征軍であるがゆえの、弱点もある、と説き、孫権に戦いを決意させたとされる。
こうして208年。
三国時代における最も有名な戦いである、赤壁の戦いは始まったのである。
曹操の魏、孫権の呉、劉備の蜀。三国の成立
赤壁の戦い。
最も有名な戦いであるからこそか、この戦いに関しては、虚実がかなり多いとされる。
とりあえず、周瑜が偽の降伏の手紙で、曹操側を油断させる作戦が上手くいったようである。
曹操軍は、慣れない敵地での戦いだった事もあり、敗北した。
そしてこの戦いで、周瑜軍に加わり、活躍した劉備は、その人望もあって、曹操、孫権に並び立つほど有力な存在となった。
ここに、曹操の魏、孫権の呉、劉備の蜀という、覇権を争う三国の基盤が成立したのである。