周とはいつの事か。西周、春秋、戦国
古くからの通説では、殷( 紀元前17世紀頃〜紀元前1046年)という国がかつてあって、それを滅ぼし自分たちの王朝を新たに築いたのが周(紀元前1046年頃〜紀元前256年)である。
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ただし周と言えば、中国大陸各地に、強国が覇権を争いあった、戦国時代(紀元前5世紀〜紀元前221)以前というイメージが強い。
また、西周(紀元前1046年頃〜紀元前771年)の時期を、前期周。
春秋時代(紀元前770〜紀元前5世紀)を、後期周と呼ぶ場合もある。
周のイメージ。歴史記録、伝説、創作
殷と周。武王と紂王。牧野の戦い
周が殷を滅ぼしたのは、かなり確からしいが、その詳細については謎が多い。
最も確かな事のひとつが、殷を滅ぼした時点の周のトップが、武王なる人物であった事。
また、殷側のトップが紂王であった事。
戦国時代の『逸周書』によると、武王十二年(紀元前1023)四月。
武王は、四方すべての征服を各国に通告した。
四方とは、 東西南北ということではなく、殷の従属していた小国群の事とされる。
武王が、紂王征伐の為に周を発ったのは、武王九年一月の事らしい。
しかし、彼は一度引き上げる。
それから、武王十一年二月には、殷と接する地に至り、そこで紂王の悪臣100人を平らげた。
その後、王命により、殷の諸侯の攻めを防いだ太公望は、天に生贄を捧げた。
「太公望」実在したか?どんな人だったか?釣りと封神演義と
そのような生贄をともなう祭祀は、殷の属国の、討伐の度に行われたようである。
やがて周と殷の最終決戦は、牧野という地での総力戦となり、周はついに勝利した。
最初的に周が平らげた国は、九十九国。
服属した地域は六百五十二にもなるという。
史記、封神演義の影響
前漢(紀元前206〜紀元8)の頃の『史記』には、周の本拠は、西土であったように書かれている。
現在の我々も、基本的に周を、西の地域というように認識しがちであるが、それは封神演義の影響も大きいと思われる。
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だが、これは、周がそれまでより東の地である中原を本拠に変えた東遷以降、つまり春秋時代(紀元前770〜紀元前5世紀)以降の認識という説もある。
周を理想化した、戦国時代の国々
伝承され、創られ、利用される周
戦国時代において、戦国以前よりかなり続いていた周は、他の新興国家にとって、打倒する相手であると共に、継承するべき権威も持つ存在だった。
そのために、特に初期の人物や制度は、かなり理想化されたと考えられる。
周王朝は、幽王という悪王により、一度没落しかけた時期がある。
結局は、幽王が、紀元前771年に殺された後、次代の平王は中原(河南省)にて、周を立て直したのだという。
この再興時期も、権威の根拠として、よく重視されていたようだ。
周公旦。召公奭。成王
知識人たちには、周公旦が摂政を行っていた時期が、よく持ち上げられた。
摂政とは、幼いなどの理由で、満足に仕事を行えない王に代わり、政治を行う者である。
史記によると、周が成立してから程なくして、武王は死んでしまった。
そこで幼い成王が 後を継ぐことになり、それを周公旦や召公奭などの優秀な補佐が支えた。
周公旦は、一時、王位に継いだとする説もあるが、そうだとしても、彼は幼君が王になると、しっかりと立場を返上したという。
召公奭は太公望や周公旦と並び称されるほどの人物であり、武王の父であった文王、それに武王に、成王、康王と、四代に仕えるなど、長く活躍した。
共和。金文。追放劇の真相
共和の頃も、利用されやすかった。
周のある時の王、厲王は暴君であり、彼はついに、耐えかねた家臣たちに追放された。
それから次の宣王が即位するまでの期間(おそらく紀元前841〜紀元前828)、召公奭と周公旦それぞれの子孫が、摂政を行った。
この時期が共和である。
ただし史記の共和に関する話は、戦国時代の『竹書記年』と矛盾している。
竹書記年によるて、共和とは、人名なのである。
暴君の追放後、次代まで政治を行ったのは、共伯和なる人物であったというのだ。
西周時代の、青銅器に刻まれた漢字である『金文』には、共伯和に相当しそうな人名が見つかっている。
また、金文研究により、共伯和が政権を握ったのは、一年にすぎない事も示されている。
追放されたはずの厲王が、すぐに帰ってきたか、戻されたのである。
ただし、彼は実質的な引退状態に追い込まれ、実権は、養育された宣王のものだったようだ。
共和を重視したのは、特に文化的に周との繋がりを示せないような国家だったようだ。
王の座は、血縁などではなく、優れた資質を持つ者こそがふさわしい、ということの証明としたわけである。
東遷。春秋時代へ
幽王と笑わぬ美女。崩壊の予兆
かつて殷の紂王は、絶世の美女である妲己のために、堕落してしまったのだ、という話が伝わっている。
同じように幽王は、褒姒という女を愛するあまりに堕落したともされる。
褒姒は、とても美しかったが、めったに笑わない女だった。
幽王が、彼女を皇后に迎えるよりも一年前。
周の支配地域一帯に、地震が起こり、崩壊の予兆なのではないか、という意見が飛び交っていた。
そして、幽王三年に、褒姒は現れた。
笑顔と反乱
ある時、間違って狼煙をあげた幽王のもとに、何事もないというのに、諸侯たちが集まってきた。
その様がおかしかったのか、褒姒は笑い、以後、幽王は、褒姒の笑顔見たさに、何度も狼煙をイタズラにあげた。
幽王は、褒姒を愛するあまり、ついに、正室であった申后と彼女との子である太子宜臼を廃する。
そして、褒姒を后に、彼女との子である伯服を太子に立てた。
これに申后の父である申侯は怒り、反乱を起こす。
幽王は反乱鎮圧のために軍を集めようとしたが、彼はもう諸侯の信頼を失っていた。
狼煙をあげても、兵はこなかったのだ。
幽王も伯服も殺され、褒姒は、犬戎(反乱に加担していた西部の遊牧民族)に連れ去られたとされる。
春秋時代。孔子と老子の哲学の時代
幽王と伯服が殺された後、おそらく紀元前772年頃に、携王が即位した。
しかし、元々の太子である宜臼を立てた諸侯たちは、河南省洛陽の地にて、彼を平王として即位させた。
こうして、周は一時、 東西に分裂したが、最終的には、争いに勝利した西側、つまり平王の方が、周をまた立て直す事になったのだった。
これが周王朝の東遷であり、春秋時代の始まりであった。
春秋時代と言えば、有名な孔子や老子が生きた時代でもある。
今にまで影響を残している東洋的哲学思想が、誕生した時代でもあったわけだ。
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戦国時代。七国の世
漢字の広まり
おそらく春秋時代までは、周のような強大な中心国はあっても、地方は従属しつつ、しかし小国家として独立していた。
だがその周の権威が落ちてきて、あるいは同じように強力な国家が現れるようになった。
また、どこからか殷に伝わり、あるいは殷で開発された漢字が、周を通じて、各地に広まるようにもなった。
甲骨に刻んだ文字を、自分たちで独占していたらしい殷と違って、周は春秋時代になってから、青銅器に刻んだ文字を、自分たちの影響を受けている諸地域に流布させたのだ。
ただしこれは周の政策によるものでなく、東西分裂の混乱により、各地に周の技術者たちが散らばったせいらしい。
新しい文書政治と戦国七雄
多民族に共有の文字は、各地に新しい政治体制を生んだ。
つまり、文書による、法律などの整備が行われ、連合でなく、統一国家としての道が開けたのである。
有力な国は、次々と、周囲の小国を吸収。
やがて、秦、斉、楚、魏、趙、韓、燕の七つの大国が、群雄割拠する時代となった。
この時代は戦国時代と称されていて、上記の七大国は、『戦国七雄』と呼ばれる。
また、この戦国時代そのものも、古くは、『七国の世』などと呼ばれていたらしい。
情報戦闘。捏造家系、歴史、古代国家との繋がり
後に中国をついに統一する秦は、西周王朝が崩壊した地を、制圧した者たちだった。
彼らは、自らたちを、夏王朝の後継のように称していたようである。
秦国の女から生まれし子は、夏の子としたのだ。
「夏王朝」開いた人物。史記の記述。実在したか。中国大陸最初の国家
一方、山東の斉の威宣王は、殷王朝を開いた偉大な湯王は、自身の先祖であるという金文を残しているという。
また、斉は太公望が始祖らしいが、威宣王の時代には、もうその血の繋がりはなくなっていたとされる。
同じように、当時の争いあうどの国も、すでに伝説的だったろう、夏、それに殷、周と自分たちを、どこまで本当かわからないような歴史で繋げ、自分たちが支配領域を拡大する事の正当性を説いた。
自分たちの書いた文書を、敵国に送りつけたりもしたようだ。
これは、挑発か、自分たちの正当性を主張しようとしたのかはわからない。
また、スパイが敵国の文書を盗み出す事もあった。
いずれにしても、敵国の文章に刻まれた、自分たちの主張するものと異なる、古代国家との繋がりなどの記録は、怒りを巻き起こしたという。
プロバガンダを利用した情報戦は、この頃からあったのである。