王子と乞食、ハックルベリィ・フィンの冒険、不思議な少年「マーク・トウェイン」

アメリカ文学の父とも呼ばれる作家

 マーク・トウェイン(Mark Twain。1835~1910)あるいはサミュエル・ラングホーン・クレメンズ(Samuel Langhorne Clemens。(こっちが本名らしい))は、アメリカ合衆国という国を代表する文学作家の1人と言えよう。
(おそらく代表作である「トム・ソーヤーの冒険」の児童向けというイメージのために)比較的子供向けの作風のイメージもあるが、文明社会や、権力の集中するような社会構造、宗教や人種差別などに対する批判精神が色濃く見られるところもある。

 一方で、(冷たくも?)真実を見つけるのに適した科学という方法への信仰みたいなもの。宗教批判の一方で宗教の存在しない世界観への不安。差別批判の一方で(進化を進歩と捉えた上でのことと思われる)進んだ優等人種(文明人)と遅れてる劣等人種(野蛮人)というような比較を容易に行ったりも(つまり生物学的な差はともかくとして、洗練された文明に生きている者の方が、より優れてるかのような)。
言うなれば、19世紀の知識人らしい、思想の矛盾性のイメージが、わりとそのまま見られもする。

王子と乞食

 自分が読んだトウェインの本の中で、どれか1冊だけを他人に薦めるなら、迷わずこの本を推す。
偶然に見かけが似ている、見かけがそっくりな王子様と乞食の少年が、些細な手違いから入れ替わってしまって、という話。自分がこのような「入れ替わりもの」が好きだから、というのもあるかもしれないが、普通にただエンターテイメント的に、とても面白い物語であると思う。

 突然王子になってしまった乞食少年側の話と、乞食というか、急に貧乏人暮らしとなって辛い日々を送ることになった王子側の話がそれぞれに展開されるが、どちらのパートでも、世の中の不平等とか、無知な大衆の愚かさとかを、あちこちの部分で描いてる感じである。

 王子が乞食少年の陰謀を疑ったりとか、乞食少年が王子としての暮らしに慣れすぎて、元の生活など忘れたいと考えたりなど、悲劇的な展開へと向かうような予感を感じさせる場面もいくつかあるが、物語の全体的な構造要素として必要あるかは疑問。どちらかと言うとそれらはキャラクターを印象づけるための演出のよう。

迷信と大衆。無実の魔女

 作中で、ついには王となった乞食少年は、王になってから知った残酷な刑罰とか、明らかにおかしな罪で捕らえられている者たちを救うことに専念し、人格者として人気を集めることになる(一方で、下々の者の悲惨な暮らしぶりに次々直面した本物の王子の方は、自分が王座に戻ったら、必ず世の中を良くしてやろうと決心する)。

 魔女狩りに関しては、時代設定(16世紀くらい)ということも考慮し、なかなか興味深いかもしれない。
ある女たちが、悪魔に魂を売ったことは確実に証拠があることだという。悪魔と契約したところは誰も見ていないが、彼女らが古い教会に向かった姿と、その後に嵐が起きて大きな被害が出たことは確か。嵐が起きたことは多くの人が直面した危機であるから、確実に彼女らは魔女。
奇妙なことに、暴風の被害にあったのは彼女たちも一緒で、彼女たちは家を失ってしまっていること。さらには、「罪にはしないどころか助けてやるから暴風を起こすところを見せてくれ」と王に言われても、「そもそもそんなことできない」と必死に答えるところなどを、はっきり民衆に見せても、迷信深い人たちが、まだ恐怖を捨てきれないと言うところは、滑稽というより、それが恐怖。
魔女狩り「魔女狩りとは何だったのか」ヨーロッパの闇の歴史。意味はあったか  肝心の暴風のよび方だが、靴たびをぬぎ、心の中や、口にだして必要な呪文をとなえると、暴風が起こるというもの。

アーサー王宮廷のヤンキー

 原因はほとんど全く意味不明と言ってもいいが、19世紀の工学屋であるアメリカ人が、6世紀頃、ようするにアーサー王が統治していたという伝説的な時代のイングランドにタイムスリップしてきてしまうという話。未来で学んだ科学知識を武器に、急に昔の時代に来てしまったがための困難を乗り越えたり、その時代の狂気的な迷信とかに立ち向かい、生きていかなければならないその時代を、自分なりにまともにしようという主人公の計画が描かれる。

 6世紀頃のイングランド人たちに関して、白人ではあるが、文明的に遅れている。ようするに、白人なのに(当時の一般的認識において、劣等人種と考えられることがあまり珍しくなかった)インディアン(アメリカ先住民)並に遅れている、というような捉え方が見られる。
絶対的、生物的に遅れているというよりも、やはり、文明が進歩している世代、文明を進歩させた(と考えられる)人種群が、より先進的で優等生的な人類というような。
他の作品とも合わせて、トウェインは、教育の不公平性のために人種の性能(というか知的レベルだろう)に差が生じてしまっているというような考え方をしていたのかもしれない。
「近代生物学の人種研究」差別問題、比較解剖学、創造された世界の種

キリスト教的なある理想

 カトリック、というか宗教の教え(その知識の独占といった状態)を利用した、人類間での階層構造、権力主義というものに対しての批判が、特に強く見られると思う。
主人公は、自分なりに世界をよりよく変えようと、こっそりと田舎に機械開発工場の村を作って、優秀だと思う者たちを集めて色々教育する。その中で、未来風の日曜学校もあって、基本的なクリスチャンになるように教えるが、しかしどの宗派に属するかということに関しては完全に自由にさせる。

 自分の宗派だけとくべつ扱いにもできたろうが、「それだと人間性の掟にドロを塗るだけ。精神的な欲求や本能は、人間という種族にあって、肉体的欲望やら、顔の色艶、容貌やらがそうであるごとくに多岐多面にわかれており、だからこそ宗教という衣を羽織っているときでも、その色と形と大きさが、それを着ているかけがえのない本人の、いわば精神の色艶、角張りぐあい、背丈といったものにどこからどこまでピッタリと合わさるべきものである」であるからこそ、人は道徳的に可能な最高のところに到達できるのだろう。というような主人公の持論は、トウェインの思想か、あるいは理想と、どれくらいか重なっていたのだろうか。

 キリスト教(プロテスタント?)は、宗教の中でも特に文明を進歩させるのに有利であるかのような考え方がトウェイン作品のあちこちに見られるわけだが、この作品においても、結局は「キリスト教の中での宗派を自由に選べる」のが理想的というような考えが透けて見える感じもする。
特に興味深いのは、君主制という独裁体制の社会における問題点を表現し、そうした考えに批判的でありながらも、しかし完璧なる統治者による君主制であるならば、それはそれで理想。というような考え方が示されていることだろう。
「際限なき権勢というものは、それが安心できる手中に収まっていれば、まことに理想的なものなのである。だから天上における君主専制政治こそ、唯一絶対的完全無欠の体たるゆえんなのである。地上の君主専制政治も、諸条件が天上と同一だったならば、すなわちその専制君主が人類の中でもっとも完璧なる人物で、さらにその人物の寿命が永遠に続くというのならば、地上における絶対的完全無欠の政体となったはずだ」
ようするに、(これを善なる神様であるということを決めつけている)絶対的な唯一の神様が全てを支配する世界は、確かに理想であるのだが、地上の人間たちの社会でそれを真似しようとすると、人間たちが神様と比べると全然完璧な存在でないために、次々と問題が生じてしまうというような。

科学テクノロジーと魔法

 中世の時代にはかなり普通だったという多くの迷信が描かれ、それは他のトウェイン作品とわりと同じだが、特にこれは、未来(現代というか19世紀)の科学を信奉する技術屋の目線から見ている古い世界ということで、特にそのような迷信を信じたために行う様々な行動とか、生まれた思想の異常性とか、あるいはあまりにも簡単に信じすぎる懐疑的精神を欠いた大衆の愚かさなどを、かなり滑稽に描いている。

 最も理性的と言える人間でも、魔法の存在を大した根拠もなく信じたがるということをどう考えるべきか、という点に関して、そもそも最初から与えられた教育の違いによる差が大きいと推測する。ようするに、未来の様々な乗り物とか通信機器(蒸気機関車、気球、電話)とかの話をしても、おとぎ話にしか思えないだろう。それはようするに、現代人が、魔法が存在するような世界観を聞いて、おとぎ話としか思えないような感覚と同じなのだろう、というような指摘。
こういう話はむしろ、この本が書かれたのがまだ19世紀ということを考えると、より興味深いかもしれない。トウェインの時代すらも原始時代と表現できるかもしれないくらい、科学テクノロジーの発展した現代の人ですら、魔法とかの存在を信じて、そういうオカルト系の話を利用した詐欺に引っかかったりする人が非常に多いことを考えると。
教育などによって、信じるようにされる世界観とはいったいどういうことなのか。

 その世界の人々の常識に合わせるために、いくつかのことを否定できなかったという話で、平べったい大地と、上空の全空間を占めるひと宇宙分の水をはね返すための天蓋というような世界観が持ち出される。
これはイングランドの話であるから、6世紀頃に実際どんな科学的な話が伝わっていたのかは謎も多い。しかし、中世のキリスト教社会において「平べったい地球が信じられていた」という思い込みが、どんな知識人たちの間でも普遍的だったという、逆に過去の人たちの迷信深さを大げさに語る現代(近代)神話が、ここで影響を与えているかもしれない。

トム・ソーヤーの冒険。ハックルベリィ・フィンの冒険

 どちらもトウェインの代表作として有名であり、少年たちのちょっとした冒険を描いた物語というところは共通しているが、一応時系列的には続編的に考えられようハックルベリィ・フィンの方は、子供向けという印象が薄い。

 ソーヤーの方は、個人的にはあまり面白い物語とも思わない。ただちょっと不良気味な少年の視点で描く、子どもたちの社会と、大人たちの社会というような感じ。

 一方でフィンの方は、物語的な面白さはともかくとして、人種差別や、大衆の愚かな思想に関しての批判精神をよく詰め込んでいて、トウェイン文学の研究における重要な書とされているのも納得しやすい。
黒人を物として扱うことが一般的であった社会。虐げられている奴隷を助けようという行為が、人の物を奪う泥棒も同じだった頃。自分が悪い方なんだと自覚した上で、悪ガキだからこそ、救ってあげよう(悪いことをしよう)という、読む人の倫理観によっては、かなり皮肉だろう物語の構造が見える。
「アメリカにおける人種差別の根」虐げられた者たちの声は届いたか いわゆる(大人にとっての)生意気なガキが主人公だということをすごく活かした展開で、そういう意味でも見事と思う。

 この話では脇役の役回りとなっているトム・ソーヤーも、出番の少なさのわりに、わりと存在感あると思う。

不思議な少年

 個人的にはトウェイン作品の中で最も面白いと思った。終盤はわりと急展開であるが、これはトウェインの生前にはまだこの作品が未完で、しかし彼のアイデアを基にしている結末を最後に付け加えたためらしい。

 それまでの作品に見える、教育の重要性や、権力構造の危険性の示唆とか、そういうことだけでなく、というよりもはやそういうことではなく、どんな優れた文明でも、そもそも人間という知性的な生物そのものの存在が、どうしようもなく悲劇的であるというような話。この世界そのものがあまりよくないものだろうと、超常的な存在である天使に語らせている。
トウェインの最後の作にして、彼の書いた物語の中で、最も悲観的に物事を捉えたもの、と評価されているようだが、そういう見方をするならば彼の作品全体を通して、どうしようもないこの現実の世界で、必死に希望を探したが、結局見つけられず諦めた物語、というように解釈できるかもしれない。

SF的な側面

 トウェインの作品では、よくタイムスリップを要素に含む「アーサー王宮殿のヤンキー」がSF的と考えられることが多いようだが、個人的にはこっちの方が、そういうSFマインドに溢れているものと思う。

 天使は、人間が何かを殺したりすることを悪いと考えたり、何かが苦しんだり死んだりすることをかわいそうだと言う時、その原因となる”良心”というものこそバカげてると語る。それに対して、ただ純粋に普通に優しい存在であり続けるようないろいろな高等動物たち。その辺りの議論に、生物哲学的な視点。生物学を空想で考えてみよう、という著者なりの精神を感じる。
大天使ガブリエル「天使」神の使いたちの種類、階級、役割。七大天使。四大天使。  他者を痛めつける行為なんて、人間の所業じゃない、というような表現に対して天使は言う。
「獣みたいだなんて、とんでもない言葉のはきちがいだな。獣のほうが侮辱だと怒るよ。あんなことは、獣はしやしない……ありもしない道徳なんてものをふりかざしたがる。そして実際はほんとうに道徳をわきまえている人間以上の動物に対して、道徳知らずだなどとけなしつけてるんだな。第一、獣はけっして残忍なことなどしやしない。残忍なことをやるのは、良心なんてものを持っている人間だけなんだ。そりゃ獣も他を傷つけることはあるよ。だが、それは無心でやってるんであって、したがって、けっしてそれは悪じゃない。第一、獣にとっちゃ、はじめから悪なんてものはないんだからね。獣には、他を傷つけてよろこぶなんてことは、けっしてない。それをやるのは人間だけなんだ」
天使は良いか悪いかを決めるのは確かに人間の良心というものなのだろうが結局人間の多くは基本的に悪を選ぶからそれが悪いことでしかありえない。
しかしここでもやはりキリスト教的な思想から抜け出せないトウェインの世界観の限界が垣間見えるような気もする。結局のところ、善と悪を決めることができる、というような考え方がすでに普遍的にあるかのような印象がちょっとある。