「女性と科学」メスという性、神が決めた地位、大衆向け科学のよき面

女性の脳は小さい

ブロカの比較研究。ティーデマンの指摘

 現在でも、脳の一部分にその名を残すことで、一般的にもよく知られている、解剖学者ポール・ブロカ(Pierre Paul Broca。1824~1880)は、おそらく(彼の基準においては)決定的な根拠に支えられた純然たる事実として「同人種内で比べた場合、女は男に常に劣っている」ということを理解していた。
彼が主に、重要と考えていたらしい2つのデータの1つは「単純に、男の方が女より、脳が大きいこと」。そして彼はもう1つのデータ、「社会における男の優位性は、文明の発展と合わせて大きくなってきたようであること」から、女が愚かになってしまった理由に関して、ある仮説を打ち立てたいる。
つまり「共同体を築いた人たちの中で、頭を使う役割を主に担っていたゆえに男が賢くなって、頭を使う機会が限られていたから女は愚かになった」という説。

 ブロカは4つの病院で遺体解剖し、292個の男の脳の平均重量1325グラムと、140個の女の脳の平均重量1144グラムという結果を得た。数値だけだと明らかな差があるようにも思えるが、ブロカはそれよりずっと明らかに男女差が見いだせるもの、つまり体の大きさも考慮にいれた相対的な脳の大きさはあまり気にしなかったらしい。
体の大きさが、直接的に頭の大きさと関連するかもしれないということに、ブロカは気づいていなかった訳ではなく、ただ体の大きさのためかもしれない些細な違いは、(おそらく無視できるほど)まさしく些細なことと考えたようである。
「近代生物学の人種研究」差別問題、比較解剖学、創造された世界の種  当時としては珍しい、ほぼ完全な人種平等主義者であったとされるフリードリッヒ・ティーデマン(Friedrich Tiedemann。1781~1861)にとっては、平均して男性より脳が小さい女性たちは、平均して男体たちより体も小さいことは、重要な事実だった。
しかし「女性の脳が小さいのは、体のサイズにかなり依存しているためのようだが、そこで相対的に見た脳のサイズはむしろ女性の方が大きいかもしれない」とするティーデマンの研究を、ブロカは「そもそも女性は平均して男性より非理知的」であるのだから、つまり、やはり絶対的な脳サイズが重要なのでなかろうか、と書いたという。

最も大きな生物はメス

 文字通りに人間の世界しか知らない人がいるとしたら、抱いていておかしくない疑問に「なぜ平均して、男の方が女より大柄なのか」というのがあると思う。
実際のところ、性別というものを有していて、かつ、我々が視覚的に簡単に確認できるような生物の中で、メスがオスより小柄な種は少数派とされる。
「性の進化」有性生殖のメリット、デメリット。オスとメスの戦い  ただ、高等な生物に関しては、オスが大きいことが多いというような説もあるにはある。これと関連して、様々な人種の中でも、特に文明を発展させた優れた人種の方が、下等な人種に比べて男性優位の社会を形成する傾向があるというような話もある(言うまでもないだろうが、そもそもこのような説は(まともに考えるとしても)少し古い感じがある。仮に社会で優位となりうる様々な能力に関して、絶対的な男女差があるのだとしても、最近の、そして今後期待されているような多くのテクノロジーの開発と発達は、明らかに、そのような差を完全に無効にしようとする方向に進んでいる)
しかし、高等生物とよく定義されがちな哺乳類の種でも、メスの方が大きいという場合は、実はそこまで珍しくないとされる。コウモリやクジラのような、(人間を含めようと、含めまいと)哺乳類の中で特に優れているとされる種にも、メスの方が大きなグループが知られている。特に、(知られている全ての動物の中でも)最大の哺乳類であるシロナガスクジラは、メスの方が大きい傾向がみられるようなので、すなわち史上最大の動物個体はメスである。

女性に科学研究が許されなかった頃

ステレオタイプの進化パターン

 男の方が、女よりも知性的に優れているという説はかなり古くからある。あまりに当たり前すぎて、差別感覚がなかったろうことも多い。
科学的な説においても、まるで女は透明人間だと考えられることがある。例えば知能の発達に関連する説。食料としての肉を確保するための狩りを、力のある男たちが行うことは効率的と思える。知能は、そのような外での活動、大物をうまく仕留めるための共同作戦などの経験が発達させたとか。
では基本的に家で待っていたとされる女たちは、そもそも必要だったろうか。もちろん子供を産むために必要である。だから彼女らは、男にとって魅力的になっていったのである。ついでにもしかしたら、男に対して従順な存在になっていった(男の誘いにあまり興味ない女は必然的に子孫を残せない)。というような男女の進化感(?)は、かなり近代にまで、もしかしたら現在にも普通に残っている「女は男よりもおしとやか(逆に男は積極的、攻撃的)」というステレオタイプなイメージ、「女の方が、中身よりも容姿がより重視される」という傾向などに繋がっているかもしれない。

文化の影響。テクノロジーの修正

 実際には性別による性格などの差異は、文化的な環境に関係しているのではないかという考えも、今は結構ある。
「グローバル化」情報工学は、国家、階層、ジェンダーをどう変えていくか また、昔どう考えられてきたかはともかくとして、現在は、男の子だろうが女の子だろうが、その遺伝子は半分ずつを両親2人ともから受け継いでいるということがほぼ確かとされている。つまり女の子が母親ばかり、あるいは逆に男の子が父親ばかりの性質を受け継ぐわけではない。極端な遺伝論者であっても、生まれつきの性質としての男女の違いを考えることはちょっと難しいかもしれない。もちろん女の場合と男の場合とで、利用される遺伝子領域が異なったりしている(それによって、結果的にはシステム全体に大きな違いが生じる)と考えることは可能である。だが遺伝的に生物を考えるとしたら、そもそも遺伝子なんてものは機械のプログラムコード的なものであって、テクノロジーの発達は、(例えば人間という)そのような機械を様々な形で補助し調整するだろう。そうして(もちろんテクノロジーだけでなく、社会に存在する様々な圧力も受けて)調整された現代人のいろいろな性質に関して、男女間での違いというのは、確実に少なくなってきているだろう。

本当に男の方が積極的か

 男の方が積極的というイメージに関しては、いわゆる性欲の強さが誰でもすぐに思いつく原因だろうが、おそらく気軽さもある。性的な快楽に結びつく行為のリスクは、原理的に男の方がはるかに軽いことはほぼ確かである。社会には、結婚とか養育費とかいった、リスクを男女に分散させようという工夫もあるが、結果的にはうまくいかないケースも多いと思う(望まぬ妊娠、妊娠中絶の是非などが社会における重要な問題になるくらい)。

 実際問題、リスクが関係なくなったら、(そうした行為に快楽を感じる機構はあるわけ(むしろ男よりかなり上という説もあるくらい)だから)、そうした行為に積極的な女の人はほぼ確実に増えるだろう。逆に男の方がリスクがずっと大きいのだとしたら(簡単に、妊娠するのが男の方になっただけでも)、男はどれほど積極的でいれるだろうか。

植物学の門

 近代において、科学の領域になかなか女性のための門を開こうとしなかったのは、先史時代からの偏見と差別の影響もいくらかはあったろう。 ほぼ20世紀くらいまで、名だたる科学者の機関が女性学者の加入を(その理由といえば、おそらく女性という理由で)許可しなかった。
ただし植物学の分野は、それでも基本的には限定的だったとされるが、女性研究者が受け入れられやすかったらしい。しかしその理由は、女性的な精神、高い感受性がこの分野の研究において重要だろうという、ようするにある種の性別偏見に基づいた理由のため。
(割合的に少数ではあるとしても)19世紀前半には科学機関に所属もできた植物学の分野においても、自身が書いた論文が学会内で発表されることは実質なかったとも。
そもそも明らかな制限が多かったらしい。ロンドン植物学会では、女性は評議員の候補になれず、会合での投票の権利はあるのに、まず会合に参加するために紳士の学会員の代理人として指名される必要があったという。

サンプルコレクターとして

 女性でも、サンプル提供や、論文の挿し絵などといった補助によって、科学研究の最前線に関われる機会はあった。例えば、博物学者の夫の書いた本の挿絵を、妻が描いていたというようなことが結構ある。
化石貴婦人(フォッシルウーマン)と呼ばれ、地質学、古生物学の研究において重要な貢献を果たした収集家のメアリー・アニング(Mary Anning。1799~1847)は、よく知られている。ただ、知られているといっても相対的にである。逆に言えばこのアニングほどの(化石蒐集家として、歴史上最も偉大な人物と評されることも珍しくないような)研究家でも、現在に残されている記録はかなり乏しい。
また、アメリア・グリフィス(Amelia Griffiths。1768~1858)というアマチュア植物学者は、「1万人コレクターを集めても、彼女には及ばないだろう」と評されるほどの海生植物(藻類)収集家であったが、現在その名は、彼女が生きていた時代の大量の専門書籍で挙げられた、感謝するべき人物としてしか知られていない。
メアリーアニング「メアリー・アニング」化石に生涯を捧げた女の子 もちろんサンプル収集とか、頼まれた絵を描いたりするのに必要なのは、努力によって得られる経験や技術とかで、男性が明らかに優れている(と明らかに常識的に考えられていた)知的能力でなかったからだろうと思う。植物の研究にしたって、植物は動物よりずっと単純な生物であるという考えもあったろうから、その研究に必要な知能も相対的に低くてよい、と理解されておかしくなかったはず。

ポピュラーサイエンスの可能性

エドガー・アラン・ポーの貝の本

 エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe。1809~1849)と言えば、ホラー寄りの作風の小説で有名な人であるが、彼は有名な『アッシャー家の没落(The Fall of the House of Usher)』とほとんど同じ時期に、ある生物学に関する教科書に関わっていた。それは『貝類学者入門(The Conchologist’s First Book)』という本で、 ホラー作家が書いた本のタイトルとしては妙なものと感じざるをえない。
この『貝類学者入門(The Conchologist’s First Book)』に関して、ポーには貝類の知識など必要なかった可能性は高い。彼の役目はおそらく、執筆以上にその名義を貸すことだった。
この本の内容に関する真の貢献者はトーマス・ワイアット(Thomas Wyatt)という教師で、彼はポーの友人だった。
「貝」二枚貝、巻貝の進化分類。生物ジャングル、家、畑、特殊化の謎

パクリと翻訳

 元を辿れば、ワイアットが最初にその軟体動物の殻をテーマとした本を書いたのは1838年のことで、その時は大して売れなかったらしい。
その後ワイアットは、図版を白黒にするなどして、(明らかに高すぎた最初(8ドル)に比べると1/5程度に)値段を抑えた廉価本廉価版れんかばんを出そうとしたが、出版社のハーパー(Harper)からは(最初の高額本がますます売れなくなるだろうから)反対された。
しかしどうしても自分の本を普及させたいワイアットは、安く雇えそうな新たな編集者を求めて、結局、酒ばかりで金に困っていたポーに頼むことにしたのだった(最終的にポーは、印税も受け取れなかったとも)。そしてハーパーとまた揉めたくないワイアットは、本の著者名にポーの名前だけを使わせてもらった。
また、この本のために、ポーは剽窃ひょうせつ(パクリ)疑惑も持たれてしまったが、彼の弁解は、「この本はワイアットと、さらにマクマルトリー(McMultrie)という教授との共作で、その流通の助けになると思って、最も有名な自分の名前だけが使われることになった」というようなものだったらしい。

 とにかく、本(新版)は無事に出版され、ワイアットが期待していた通り、今度は売れ行きよく(この本は、ポーが関わった本の中で、彼の存命中に、アメリカで第2版が出された唯一の本らしい)、学校の教科書にも採用されたという。

 ワイアットらの『貝類学者入門』は、博物学者トマス・ブラウン(Thomas Brown。1785~1862)の貝類の本からかなり参考にしていた(あるいは文章そのまま引用していた)ようだが、それは参考資料として示されていない。ポーは最初、自身の書いた序文にブラウンの名を出していたが、後の版でカットされたようだ。
ブラウンの本は(それにワイアットの元の本も)、特に貝殻ばかりに注目していたそうだが、廉価版には、貝殻を生成する動物体の方の記述がかなり増えた。動物体の方の記述に関しては、フランスのジョルジュ・キュヴィエ(Baron Georges Léopold Chrétien Frédéric Dagobert Cuvier。1769~1832)からかなり翻訳引用した。
結果的には、貝殻と、中の生物体両方に注目した本として、ワイアットらの本は、おそらく総合的には、当時の水準としてよい教科書だったといえる。

 序文以外の本の内容に関しても、ポーは全く関わらなかったわけではないとされる。彼は、動物学にはともかくフランス語にはかなり明るかった。つまり彼は、ジョルジュ・キュヴィエの文の翻訳も担当していたらしい。

一般人に科学を教えること

 ワイアットが、著者名の名誉を捨ててまで廉価版にこだわった理由は、本屋を通さない、独自の販売ルートのためだったもされる。
ワイアットは研究者でなく教師であって、つまり理解することよりも、教えることを本業としていた。そして19世紀のアメリカにおいて、彼のような教える人の(もちろん実質的な動機としては金になる仕事としてだったろう)活躍の場は学校だけでなかった。(現代であるなら、例えばテレビに出演して、広く一般向けに説明したりするように)ワイアットも、町のアマチュア研究会や研究サークル、それに幅広い教養を求めた上流階級の趣味人たちのクラブなどでの講演をよく行っていたのだという。

 軟体動物は、彼の得意分野、あるいは人気があるテーマだったのだと思われる。 だから興味を持たせた好奇心旺盛な客たちに販売できる、手頃な価格の入門本を彼は求めていた訳である。

 ワイアットが行なっていたような講演は、現代のポピュラーサイエンス、つまり一般の人のための科学解説という分野の先駆けであったとも言われる。そして彼が相手にし、『貝殻学者入門』を売った学外生徒の中には、(アメリカが他の多くの国に比べて女子の高等教育の道を開いたのが早かったことを考慮するとしても)当時はまだまだ、一般に教養など大して必要ないと考えられていた女性たちが多かったろう。
ポピュラーサイエンスという文化は、実は教える側、学ぶ側の両方において、科学に恋する女性たちが、(相対的に人目も気にせず、今となっては奇妙な差別も受けずに)科学に関わることができる数少ない領域だった。
イギリスの大学者マイケル・ファラデー(Michael Faraday。1791~1867)は、ろくに学校にも行けず、子供の頃に働いていた本屋で科学を独学したとされているが、彼が親しんだ本の中には、本来は女性向けの科学解説本もあった、という話もある。

メアリー・ロバーツの謎

 19世紀ヨーロッパにおいて、今で言うポピュラーサイエンス、一般向けの科学解説書を書くことは、女性学者が科学に少しでも貢献するための現実的な数少ない道の1つだった。
そのような大衆向けの科学本は、現在よりずっと学会の科学者とかからバカにされてたと思われる(現在においても、文字通りちゃんとした研究もできなかったアマチュアたちが、余暇に書いた、ひどい著作群というように評価されることがわりと普通とも。例えば人と動物の絆とか、そういう感傷的なドラマ集みたいな本がいっぱいあったようだが、それだけなら生物学の本として優れてるとは言いにくい)。そうした本の書き手で、後世に名前を残せた者なんてほとんどいない。
生物学者だが、すぐれた科学史でもあるスティーヴン・ジェイ・グールド(Stephen Jay Gould。1941~2002)は、そのような、歴史のどこかのページに消えた、科学書(曰く「神の善意の根拠である我々という創造物の素晴らしさを世に広めることこそが目的である出版物」)の書き手の女性メアリー・ロバーツなる人の記録を掘り起こそうとしたことがあったという。
ダーウィン以来、ワンダフルライフ、人間の測りまちがい「グールド著作」

貝類学者必携。性差別への静かなる抵抗

 グールドとメアリー・ロバーツとの出会いは、古書店で目についた、彼女が書いた『貝類学者必携』という本だったらしい。しかし彼女に興味を抱いたグールドが確かめられたのは、彼女が、どうやら生前は自然史関連の本を多数書いた人気作家だったこと、商人の家の生まれで未婚でなくなったことなど、ごくわずかなことだけだった。だから彼は、自身のエッセイで彼女のことを紹介するのに、彼女の著作から、そこに込められている様々な考えをどうにか読み取ろうとする、というかなり間接的な方法をとっている。

 『貝類学者必携』の内容は、かなりありきたりで、一般的に当時の女性著者の本として、この上なく正統的だという。つまり、神が世界を創造された世界観で、あらゆる自然物にその美しき調和の法則を見出そうとするような。有害と思われる生物も、全体としての善のシステムに関わる要素であり、つまり神の善き意図が全てに見られると。
特に興味深い記述として、女性や労働者階級に生まれた者は、生まれつきの不利を、それこそ人間社会というある種の自然の中で必要な、自身の役割として受け入れるべきだ、というような説得があるという。最終的には誰もが天国において報われるが、もちろんその時に平等であるのは、つまり自分の役割をしっかりと果たした者たちなのだ、というような理屈。

 「貝類学者必携」には、性差別と政治的保守性、 男らしさとか女らしさとかいった偏見にあふれているという。しかしグールドは、ミス・ロバーツは大衆向けの本の書き手として、当時の社会における一般的で、月並みな期待に従っていただけだと指摘する。しかしまた、彼女の著書に関して考察していくと、ミス・ロバーツの 静かな声の抵抗が見えてくるとも。
例えば彼女は、創造者の真の意図を、人間が理解することなど不可能であるかもしれないと何度も示唆し、この世界における男性的な要素の優位性を曖昧にするとか。

創造の進展。彼女は何か変わっていたか

 グールドのエッセイでは、メアリー・ロバーツのもう1冊の本『創造の進展』という生物学について語った本も紹介されている。そしてそれは、保守的内容が似ているものの、方法的なものが明らかに違っていたそうだ。
つまり「創造の進展」は、聖書を直解し、地球の年齢は数千年にすぎないと語り、長い地球の歴史と古い生物たちのことを以前よりずっと深く理解するようになっていた、名だたる(言うまでもないが男性ばかりの)古生物学者(地質学者)たちを批判しているのだという。

 一方の本では「やがて神の前に立つ時は、性別関係なく平等だから、今はその時に備えて、神に与えられた役割(女の役割)を女は果たせばいい」と穏やか(?)に書きながら、別の本では、当時すでに地質学者たちの間で一般的になりつつあった「地球に長い時間があったはず」とか「化石が絶滅した動物」を、聖書に矛盾するとして徹底的に非難する。
「何が彼女に影響を与えたか?」グールドもその答については、それらしい推測をすることもできなかった。

信仰に裏切られた時

 もし「神が見ているから、女は女の役割果たしなさい」と聞き、男のように生きたかったが、生きれないことに納得した人がいたとしたらどうなるか。ある日、自分が選べなかった道の男たちが「深く考えたけど、神の話いくらか間違いかも、ごめん」みたいに言いだしたら、怒り狂うのも当然だったかもしれない。
もしメアリー・ロバーツのような女性学者が、自らが知的分野に受け入れられないという事実を、その性差別を受けいれるにあたり、「この世はお試しの場であって、あの世でこそあらゆる階層の者が、その行いに応じた平等な報いを受けるのだ、恩恵を受けるのだ」というような教義に救われていた、依存していたとしたらどうか。聖書に書かれていることが次々と論破されていく科学の発展に対し、男よりもずっと後ろ向きになりやすかったというのは仕方がないことといえるかもしれない。