「魔女狩りとは何だったのか」ヨーロッパの闇の歴史。意味はあったか

魔女狩り

魔女という呼び方の紛らわしさ。男の魔女。

 sorcererは妖術使いと訳されたりもするが、これは基本的に男女を含めた魔女の総称である。
あるいはwitchを女の魔女として、sorcererは男の魔女である。

 magic(魔術)は占星術錬金術など、様々な超自然的な力の総称。
音楽魔術「現代魔術入門」科学時代の魔法の基礎 
sorcery(妖術)は、主に悪魔と契約を結び、授けられた、呪われし力。
月夜の魔女「黒魔術と魔女」悪魔と交わる人達の魔法。なぜほうきで空を飛べるのか

魔女狩りはいつ頃から始まったのか

妖術使いとされたワルド派

 12世紀頃のヨーロッパ。
後にフランスに合併される事になるリヨン。
この地の商人だったピエール・ワルドは、福音(キリストのよき知らせ、教え)に従い、清貧(富を求めず、貧しくとも清らかな生活に身をおく事)を説き、実践した。
十字架「キリスト教」聖書に加えられた新たな福音、新たな約束  しかし彼の教えは、ローマ教皇により異端と宣告され、『ワルド派』と呼ばれた、彼と彼の教えを信ずる者達は、迫害を受けた。

 ワルド派は、アルプスの谷間に隠れ家を見いだし、1184年にヴェロナの公会議て破門されてからも、フランス、イタリア、後のスイス領や、オーストリア、ドイツに広がり続けた。
1555年以降は、スイスのヴォー渓谷に教会を建て、礼拝式も制定したという。

 ワルド派の人達は、妖術使いとして迫害された、最初期の人達であったとされている、

サバト。黒ミサ

 アラスにいたワルド派達は実際に悪魔を崇拝していたとされる。
ワルド派の集会はヴォードリーと呼ばれ、これはサバトであったという説もあるし、ヴォードリーとサバトは別であったという説もある。

 いずれにしてもワルド派は、ヴォードリー、あるいはサバトに行く際に、体に特別な軟膏を塗り、さらに足の間に挟んだ小さな杖により、空を飛ぶ事が出来たという。

 サバトが行われたのはアラスから数キロ離れた森で、そこには人間、あるいは山羊や犬や猿など、様々に姿を変える悪魔が住み着いていたという。
 参加者達は、神を冒涜する悪魔を崇め、十字架を踏みつけ、聖母マリアを呪った。
最後は『黒ミサ』と呼ばれる行いで、締められた。
神聖なパンを食べさせたヒキガエルを微塵にした、呪いの粉を大地に撒き、畑を不毛にし、伝染病を広め、生命に死をもたらした。

悪魔崇拝は誰が始めたか

 アラスのワルド派が、そもそも本当に悪魔を崇拝していたのかすら、今となっては怪しい。
 なぜならこれまでのような記述は全て、公式教会側の判事によって無理強いさせられた供述に基づいたものだからである。

 この悪魔崇拝儀式のストーリーまで、裁く側の妄想だったかは定かでないが、その可能性は高い。

 ひどい拷問を受けて、自白させられた者達は、火刑に処される事を知るや、「騙された」と叫んだという。
彼らは、悪魔崇拝をしていると認めれば、命を助けてやると約束されていたのである。

弾圧の始まり

 魔女、妖術使いに対する弾圧が、ヨーロッパで激しさを増したのは、1420年頃からとされる。
最初は、ドーフィネ地方や、フランスとスイスのアルプス地方、ジュラ地方など地理的にごく一部の地域での悲劇だった。
それらの地域は13世紀以降にワルド派の人達が住み着いた地域だったという。

魔法使いだらけの町。悲劇を止めた貴族の訴え

 ヨーロッパの、参審制とは、裁判などにおいて、一般市民から選出された参審員と職業裁判官がともに評議を行い、事実認定や判決を行う制度である。
かつては(裕福な市民から選ばれる)職業的な参審員もいて、参審人とも呼ばれていた。

 1460年7月。
参審人であったアントアーヌ・サケスペと、ジャン・ジョセ。
それに執達吏(執行官)であったアンリ・ド・ロアヴィルらが捕らえられた。
 ここから有力者。
裕福な市民に加え、ついには貴族までもが、疑惑をかけられ、投獄されるようになってしまう。

 もはや、アラスは魔法使いだらけの町となっていた。
だが、捕らえられた者の内、特に有力な貴族であったパイヤン・ド・ボーフォールは、最終審裁判所だった、パリの高等法院に控訴(新たな判決を求める不服申立て)した。
 彼の家柄の高さのおかげもあり、他の被害者達も、上告を認められた。
そして1491年。
パリ高等法院は、従来の判決を全て無効として退けた。
告発者達は罰金刑が言い渡され、その罰金で集められた金で、かつての刑場には十字架が建てられた。
また、断罪されてしまった犠牲者達の魂の安らぎを願うミサも行われたという。

魔女狩りの概念の誕生

 アラスの悲劇の一連の流れは、判明している限り1459年のロビネ・ド・ヴォーの死刑から始まったらしい。
彼は死ぬ前に、二人の共犯者を告発したのだという。
そこから芋づる式に、容疑者は増えていき、最後には、悲劇を止めた立役者であるボーフォールへと続いていったのである。

 これは15世紀の話であり、後に魔女狩りと呼ばれるようになる暴虐における、法的手段が完成したのはこの時代であった。
しかしこの時代はまだ、良心を捨てなかった人々もいて、悪夢は妨げられたのである。

魔女狩りの時代

二元論的世界観。ただ善悪だけがあるだけか

 科学は、「この世界は複雑である」という事実を受け入れてきた。
宗教はしばしば世界を単純に解釈してきた。

 魔女狩りの原因の大きなひとつは、かつてのヨーロッパにおける、異常なくらいに極端な二元論的思想だったとされる。
つまりこの世界にはただ善と悪だけがあったのである。
自然災害も、流行り病も、それどころか、邪な誰かの身勝手な犯罪まで、悪魔の仕業、妖術師の仕業とされたのだ。

 また、キリスト教こそ正義だった。
他の宗教の信仰者も、時には(ワルド派のような)古くさい主義のキリスト教徒さえ、異端であり、悪とされたのだ。

悪魔学の起源。インノケンティウス8世の教書

 おそらくはキリスト教が広がる以前から、ヨーロッパ各地にあった神話などが、凝縮され、魔女伝説は作られた。
ギリシアの遺跡「古代ギリシア魔術」魔女の起源。哲学主義。魔法使いピタゴラス とにかく弾圧を正当化する為に、キリスト教外の様々な風習や文化が悪魔と結びつけられ、ひどく脚色された。

 特に悪魔学の理論の定説が生まれたのは1480年代だったとされている。

 1484年12月5日。
教皇インノケンティウス八世は、『限りない愛情をもって要望する』という名で知られた、教書を公布した。
それは、北ドイツのケルンとマインツで奉職していたふたりの異端審問官の権限を拡大させるものであった。
そのふたりとは、ヤーコプ・シュプレンガー(1436~1496)とハインリヒ・クレーマー(1430~1505)。
課せられた任務は、妖術使い達の排除。

 教書にて、インノケンティウス八世は述べている。
「北ドイツの様々な地方。マインツ、ケルン、トリール、ザルツブルク、ブレーメンの至るところで、カトリックの信仰を捨て、インキュバス(男夢魔)やサキュバス(女夢魔)に身を任せてしまっている。そうした人々は、恐ろしい呪文やまじないにより、大地の収穫を無駄にし、人間や動物を死に至らしめるのだという」

 これは悪魔信仰と、妖術(呪文やまじない)との繋がりが、はっきりと語られた、最初の公式文書だったともされている。

魔女の槌。異端審問の手引き書

 インノケンティウス八世が教書から2年後。
フランス、ストラスブールのジャン・プリュスの印刷所から、『魔女の槌』という本が出版された。
これは異端審問官向けの手引き書であり、とにかく、妖術による犯罪の追及のみを目的とした内容であった。
著者は、ヤーコプ・シュプレンガーとハインリヒ・クレーマー。

 この本は、悪魔学の本としても、異例の大好評を博し、17世紀に至るまで魔女狩りの基礎的な手引き書となったのだった。

 魔女の槌の実質的な作者は、生涯をかけて、魔法使いを弾劾し続けたという、クレーマーだとされる。
しかし、彼はそれをどういう訳だか、シュプレンガーとの共作とした。
そのシュプレンガーは、ドミニコ派の修道会で高い地位にいた人物だったようで、彼の知的、宗教的権威が、この忌まわしい本に説得力をもたらしてしまったのだという。

魔女の罪。疑いをもたれてしまった者達

 魔法使いは異端者であり、自らそれが罪と自覚して罪を行う。
同情の必要もない。
とにかく火刑に処すべし。

 このような思想はもともとあったろうが、魔女の槌によって、大きく広まってしまった。
 魔女の疑いをもたれてしまった者は、罪を認めた時点で、死が決まり、(子供とか)同情をひいた者は、あらかじめ絞殺されたので、生きながら火あぶりにされずにすんだ。

 魔女と疑われたら、生き残る術は、どんな拷問にも屈せず、ただ自分の身の潔白を訴え続ける事だけ。
そうして、強靭な精神力により、無罪を勝ち取った者は、しかし、別の地方へ追放となった。
そしてその追放先で待っていたのは、その地方での魔女裁判だった。

悪魔崇拝の薄い地域での魔女

 16世紀末くらいからは、神に仕えた悪魔たちの所業は、カトリックでなく、イギリスなどのプロテスタント国にまで及んだ。

 ただし、悪魔という存在自体があまり信じられていなかった、アングロサクソン(イングランド)やスカンジナビア(北欧)の地域では、魔女は、単なる妖術使いの犯罪者であり、火刑などはなく、普通に絞首刑が行われた。

 この点に関しては、もう理由などどうでもよかったのだと考える向きもある。
魔女狩りしたら、その魔女の財産は奪えたのだ。
多くの聖職者達が、神でなく、己の欲望に従っていた訳である。

魔女ハンター

 16世紀以降は、魔女狩りはだんだんと、宗教裁判所の手からも離れていったという。
魔女狩りの手引き書を元に、裁判は世俗の裁判所で行われるようになった。

 さらに、魔女を見分ける事が出来る、魔女とは違う特殊能力者も現れ始め、たいていの領主が、彼らの言うたわ言を信じ、もはや裁判と言えるのかも怪しい魔女裁判を行わせた。
 別に、怪しげな奴らのたわ言を心から信じてたのではなかった可能性はある。
普通に、没収できる財産の為だった領主も多いであろう。

魔術研究

 17世紀になる頃には、魔女の槌に続く、魔女や悪魔崇拝の本が、出版業界を潤し、狂気を加速させた。
 特に魔女狩りの担当者に人気だった手引き書は、スペイン領フランドルのイエズス会修道士マルタン・デル・リオの『魔術研究』という書であったという。
1599年に、ベルギーのルーヴェンで出版されたこの本は、かなりのベストセラーだったとされている。

魔女裁判の実態。契約の刻印。涙を流さない魔女

 告発された魔女は、まず魔女である事を確かめられた。
古くからあるのが『水神判』という方法。
魔女疑惑のある人に重りをつけて、水に沈めるという方法で、自力で浮かんできたら、魔女らしい。
どうも、悪魔に助けられたと判断されたようである。

 また、悪魔と契約した証拠として、体のどこかにあるという刻印は、体のどこにあろうとよかった。
別に模様として見えなくてもよい。
疑惑をかけられた者は、全身の毛を剃らせ、とにかく体のあちこちに針を刺された。
そしてどこかで痛がらなかったり、血が出なかったりしたら、そこが刻印だったのだ。
 体毛を剃るのは、魔女が体毛に隠しているかもしれない、護身用の札などを排除する為であったらしい。

 拷問を受けて、涙を流さない者も、悪魔が涙を止めているとされた。
ある異端審問官が、泣かない老婆の魔女に「なぜ泣かない?」と聞いた記録がある。
老婆は、「あまりの痛みと苦しさに、涙なんて枯れました」と告げたが、聞き入れられず、やはり彼女は魔女とされたという。

なぜ悪魔は教会に手出しできないのか

 ある疑問がある。
それは悪魔の誘惑がそれほど多くの人を魅了するのだとして、なぜ、おそらくは最も、そのような悪魔に見いられた人達と接触している聖職者の異端審問官達は、悪魔に全然魅了されないのか。
という疑問。
 そこで、教会や、強い信仰心を有する聖職者に、悪魔は手出しできないとする説が生まれた。
なぜかはよくわからないが、そういうものらしい。