「水滸伝」長く愛されてきた登場人物たち。義と友情、悲劇の結末の意味

正義を語るアウトローたちの戦いと友情のお話

 中国はみん(1368~1644)の時代に成立したとされる古典小説。

 北宋ほくそう(960~1127)の時代が舞台。
汚職官吏かんりが幅を利かせた暗い世の中で、 様々な人生を送っていた豪傑ごうけつたちの出会いと、戦い、それに別れを描いた壮大な物語。

 序盤から中盤にかけては、それぞれいろいろな事情で社会からはみだしてしまった豪傑たちが、水路と小島が入りくんだ沼沢しょうたく地帯である梁山泊りょうざんぱくに集っていく様が描かれる。
そして義賊集団として、腐敗した国を救う戦いも始めていく。

 終盤は、招安(罪人が罪を許してもらうのと引き換えに、朝廷に仕えること)された梁山泊の豪傑たちの、さらなる戦いの果ての、仲間たちとの別れや死別が描かれる。

 また、水滸伝は、勧善懲悪の物語とされているが、現代的な倫理観からすると、頭をひねってしまうようなシーンは多い。
だから、義賊たちによる正義の物語を期待すると、けっこうがっかりする人もいるかもしれない。

 以下は、なるべく原典に忠実に訳そうと心がけていたらしい(ただし版にもよるが、忠実すぎて文体が古臭いとか言われている)岩波文庫版全10巻の感想など。

1巻。解き放たれた108の魔星

 始まりは、108の魔星の封印が解かれる場面から。

 北宋の第4代皇帝である仁宗じんそうの時代(1022~1063)より、世に疫病が溢れ、民の苦しみは増大していた。
そして朝廷は、竜虎山りゅうこざんの道士たちに頼ろうとする。

 朝廷から使わされた洪信こうしん大将は歓迎されたが、その内に彼は、伏魔之殿ふまのでんと書かれたがくがかかった扉を発見。
洪信が、「いったいこの扉の先はどういうものなのだ?」 と尋ねると、道士らは「逃げれば、たちまち由々しき事態になるだろう、魔王を閉じ込めたほこら」だと説明。
それで恐れを抱くどころか興味を持った洪信は、「どれ、では魔王とやらを見てやろう」と、道士たちの反対を押しきって、封印を解いてしまうわけである。

天罡星、地煞星

 開かれた祠からは、 封印を解かれた108の光が四方八方に飛び去るわけだが、それらこそ、36の天罡星てんこうせいと72の地煞星ちさつせいの魔王たちの魂。
そして、それらの魔王が転生した者たちこそ、後に梁山泊に集う百八星の豪傑たち、という設定とされる。

 上記の設定は有名だが、作中でそんなに詳しくは語られてないような感じがあるから、もしかしたらけっこう後付けなのかもしれない。

 天罡星は、古い占星術の形式の「六壬神課りくじんしんか」を参考にされているようである。
これらは元々民間伝承において、大昔に悪事をなした者たちが封印された星々という説もあるが、やはりけっこう怪しい。
「方術」仙人、道士の魔法。不老不死になる術。古代中国の錬金術、占星術  封印を解かれた魔物たちを退治していく話というのは古くからあるだろうが、これはその逆で、そこはやや王道から外れた感じだったかもしれない。
つまり水滸伝は、封印を解かれた魔王たちが、さまざまに生まれ変わり、再び集結して義賊集団になり、悪の権力者に妥当するという物語である。

 百八星の魔王の中にも、元々穏健派と過激派がいたのか、魔王の生まれ変わりとは思えないくらいに普通な善人もいれば、わりと殺人狂的なやばいやつもいる。

ファンタジー世界における迷信という概念

 洪信の「貴様ら、どうせ不思議をでっち上げて、罪もない民たちを惑わそうと、こうした場所を適当に置いたのだろう。魔王を封じ込めたなど言い、貴様らの道術を大袈裟にひけらかそうというのだ。わしは相当な書物を読んだが、魔物を封じ込める術など聞いたこともないわ。神や化け物など遠い世界のこと。魔王がここにいるなんてこと、わしは信じないぞ」などいうセリフは興味深い
彼が、世の厄災を、道術で払ってもらうためにやってきたということを考えると特に。

 まあまあファンタジー要素もある世界観なのだが、ちょっと控えめな感じなのは、よく比較される、同じような古典長編の、封神演義や西遊記とは異なっているところか。
仙人界原作「封神演義」全訳本、安納版、漫画版の比較しながらの感想 また、あちら2つと違い、神話関連の人物はほぼ出てこない。

 登場人物の何人かは実在した人物とされるが、当然のように脚色されてたり、足りない情報を想像で補われてたりする。

最後に悪が勝つという話

 姦臣かんしんとは、それに立場を利用した悪党の家来たちのことだが、水滸伝では、四姦臣という悪役が登場する。
そしてこの4人が朝廷側というのは、水滸伝という物語の大きなポイントである。
彼らは悪い政治を行い、民を苦しめながらも、哀れなみかどにあることないこと報告して、 気に入らない部下を罪人におとしめたりしているという設定。
梁山泊に集う内の何人かも、元々彼らの下にいて、汚名を着せられた者だったりする。

 この四姦臣が別に死んだりせず、それどころか最終回で、義を持って朝廷に仕えようとした、梁山泊の総大将そうだいしょうだった宋江そうこうを彼らは毒殺する。
実質、物語はそれで終わりなわけだが、そこに納得できない人もけっこう多いようだ。
一方で、それだからこそ水滸伝という物語には深みがあるという意見もある。

 とにもかくにも、この四姦臣の中でも、最重要な悪党として描かれる高俅こうきゅうは、すでに初期の回から登場する。
彼は全編にわたって根性の悪い悪党みたいに描かれているが、最後の最後で罰を受けずに終わるというのが、リアルなのか、そうでないのか。

最初の一人と、謎の師匠

 百八星の中で、最初に登場する人物である史進ししんは、 豪傑になる過程の物語まで少し描かれているというのが、いかにも主人公っぽいが、別にそういうわけでもなく、彼の活躍はほぼ初期だけである。

 史進の師匠となる王進おうしんもまた、高俅の元部下で因縁があるが、梁山泊の仲間とはならない。
というか、史進はなんとかこの師匠にまた会いたいと、何度か探す描写があるが、結局見つけられないまま終わる。

梁山泊の登場

 1巻最後の、第11回は、最終的には梁山泊の第6位の席に座ることになる林冲りんちゅうが、いくつかの事情を経て、梁山泊に仲間入りしようとする

 梁山泊の盗賊集団はすでに存在しているが、まだまだ規模は小さく、別に他と比べて特別な盗賊集団というわけでもない。
特に総大将の座にいる王倫おうりんは、 自らの地位を守ることにばかりこだわっている、器の小さな人物で、有能な人物に対しては、適当な理由をつけて山入りを断ったりもしているという設定。

 林冲も最初は断られるも、紆余曲折の後に仲間となる。
そしてこの時に仲間入りした彼が、後に物語の非常に重要な画面でのキーパーソンとなる。

 ちなみに林冲は、 仲間になるための条件として、偶然通りかかった旅人を殺して、その首を持ってくる、という条件を出されるが、まったく平然と了承したりする。
そういう感じで、この話は多くの現在のファンタジーに比べても、(善玉側のキャラの)命の認識がある程度軽めな感じだが、時代背景などを考慮するなら、こっちの方がリアルではあるのかも。

2巻。 対立しあう豪傑たち、意気投合する豪傑たち

 後に梁山泊に集う多くの者たちもそれぞれ別のところで盗賊していたり、普通に真面目に生きていたりする。
というわけで立場の違いから、後に仲間になる豪傑同士戦いになる場面も結構あるが、たいていの場合、また別の、共通の友人である豪傑が仲裁に入ったりするパターンが多い。

 それぞれ会ったことがない、面識がない者たちでも、それぞれの世間に流れる噂を聞いていて、名前だけは知り合っているというパターンもかなり見られる。
それにしても、ついさっきまで普通に果し合いをしていたにも関わらず、お互いに名の知れた素性が知れ、急に意気投合したりする様は、さすがに豪傑たちである。

後1位のカリスマ、宋公

 物語全体の主人公的存在である宋公が登場する。
彼はものすごいカリスマ性を持つ人格的な感じで描かれているが、水滸伝の時代の「人格者とはどのようなものか」というイメージが垣間見える。

 どうも宋公は、 家庭において大変な孝行者。
また、義侠心きょうぎしん、 つまりは礼儀を重んじ弱き者を助けるという心が厚い。
さらにかなりの世話好きで、金に対する欲がなく、求められれば誰にでも金をくれてやるというような人物だそうである。

 しかし、一応は役所働きで、真面目な設定のはずの宋公だが、友人が大金を強奪するという罪をやった知らせを受けて、なんとか救おうと迷わず画策するあたり、この物語の友情観もよく見える。
これは、政府権力が腐敗している世の中だからこそのものであろうか。
なんにせよ、(もちろん、別に立派な目的というわけでもない)盗賊だろうが、人殺しだろうが、 最初は怒りを感じたりしても、下手人が友人だとわかると、さっさと許すどころか、力になろうとするのが美徳、というような風潮がこの作品にはあるようにも思う。

新しい梁山泊の誕生

 第20回においては、新たに梁山泊に仲間入りしようとした豪傑らを見て、決心した林冲が、王倫を殺し、いよいよ梁山泊が、真に豪傑たちのものとなる。

 ここで、誰か頭領になるか、何番目の席に座るかという、譲り合い合戦が少し描かれているが、このような譲り合い合戦は、これ以降も何回かある。

3巻。虎を殺せるくらいが、かなり強いくらい

 この巻では、23回~32回の話があるわけだが、この部分に限っては、やはり後に梁山泊の仲間となる、武松ぶしょうという豪傑が主役的な感じである。
ただここで性格が二転三転しているとして、おそらく元は別の人物の物語として書かれていたいくつかを、主人公を統一してまとめたのだろうという説もある

 虎殺しのシーンがあるが、それはものすごい豪傑の成せる技というような描写であるため、この物語における強いキャラの、具体的な強さの指標になるかもしれない。

しかし、「もし殺されたというなら、夢枕に立って犯人を教えてくれ」と願うや、「無念だ」とほんとに化けて出てきたりする。
無条件にそれを信じたりせず、夢かうつつかと見た本人も疑う辺りは、やはりローファンタジー的か(?)
ファンタジーの水場ハイファンタジーとローファンタジーの違い。SFについて「ファンタジーとは何か?」

4巻。どんどん勢力を大きくしていく梁山泊

 この巻ぐらいから、梁山泊の勢力がどんどん大きくなっていく様が、なかなか痛快だったりする。
盗賊の一団が仲間になろうとやってきた時に、そのあまりの砦の威厳ぶりに、「これは政府も手を出せないわけだ」と関心したりもする。

 また、気に入った豪傑を仲間にするためならば、殺人、闇討ち上等な、宋公の大豪傑(アウトローな本性?)ぶりも、この辺りから露となってくる。
まだ梁山泊入りする前だが、すでに盗賊と通じている彼は、例えば秦明しんめいという豪傑を仲間にするために、彼に無実の罪をきせて逃げ場をなくしたりする(そして、この過程で普通に何人も殺している)
彼の家族も処刑されたというのに、実に冷静と「実はどうしてもあなたを仲間にしたい私の計略です」と打ち明ける宋公。
一瞬秦明も、怒りに任せて戦おうとするも、それを抑えた理由の1つが、戦っても勝ち目がないだろうということのあたり、こちらもなかなか冷静である。

わりと印象深い神行の術

 第38回では、百八星の中でも、立場や能力的に、いろいろ重要な役割といえる、戴宗たいそう李逵りきが登場する。

 特に戴宗は、戦闘描写などは全然無いキャラにも関わらず、そのものすごく早く移動するという方術のおかげで、情報伝達や偵察任務などで大いに活躍し、わりと強い印象を残すキャラである。
彼の術、神行しんこうの術は、足に札を貼り付けると、ものすごく歩くのが速くなるというものだが、ものすごく早く「歩く」というのが、なかなか面白いところかもしれない

5巻。この辺りからはっきり正義の集団

 またしても虎退治の描写がある。
それ以上に、虎に李逵の母が食われてしまったという展開が、かなり衝撃的。
そしてこの話が、わりとすぐ後に梁山泊で笑い話として語られたりする辺りも、やはり衝撃的(?)

 また、この時点で、梁山泊の総大将であった晁蓋ちょうがい自身の「今や我々は忠義を持って第一とし、民に恵みを施すことを信条とする」などと言うわけだが、 ここまでの描写的には、そういう感じはほとんどない。
ただ一応、 盗賊行為はかなりなりを潜めているようにも思えなくはない。
というか、描写だけから判断すると、 ただ屋敷に引きこもって大勢で酒飲みながら宴ばかりしているだけ(?)

 まあ多分、描かれていないところで、いろいろ善行もしているということなのであろう。

6巻。はたして本当に正義の集団なのか

 朱仝しゅどうという人が仲間になる過程が、またなかなかすごい。
流されてきた町の知事に良くしてもらっていた彼を、梁山泊から数名が、仲間にしようと誘いに来るわけだが、本人は、「自分はまだ堅気の身でいれる立場ゆえ、お断りします」と告げる。
しょうがないから、誘いに来た者たちが急遽立てた計画が、彼が一時見ていた知事のお子さんを殺し、逃げ場を無くすというもの。
こんなだが、やはり彼らに悪党集団という認識はもはやなく、「どうぞ我々、正義の一団にあなたも加わってください」というような言い方すらされる。

 また、57回と58回では、史進や武松を初め、3巻ぐらいまでで大いに活躍していて、しかしその後はフェードアウトしていた者たちが、次々と再登場し、梁山泊の仲間に加わっていく。
これがまた、なかなか熱い展開な感じ。

 戦場に自ら出てくるやすぐさま戦死してしまう晁蓋は、何か物語に殺された的な感じがしないでもない。

方術対戦の描写

 この巻の52回では、戦場でなかなか大規模な方術が使われる描写が、初めてくらいに出てくる。
それは敵の攻撃なのだが、札を握りながら剣をふるや、黒い気、怪しい風、黄色い砂が巻き起こり、猛獣や毒虫が大群となって襲いかかってくるというようなもの。

 さらには、敵の神通力に対抗するための、やはり道士である豪傑仲間、公孫勝こうそんしょうを呼びに行く過程で、その師匠の道士(仙人?)も出てくる。
その師匠道士の羅真人らしんじんが、なかなか公孫勝を連れ出す許可をだしてくれないため、李逵が殺そうとする描写がある。
その後がなかなか興味深く、羅真人は冷静に「この男は、今の世の人たちが、みな悪しき心を持っているために、罰として地上に与えられた、とにかく殺しまくる業を背負った存在」というように結論する。
「道教」老子の教えと解釈。タオとは何か、神仙道とはどのようなものか

7巻。いよいよそろった百八星

 百八星で、宋公に次ぐ第二位となる、盧俊義ろしゅんぎや、第五位となる関勝かんしょうが登場する。
2人とも、個人の実力も高く、指揮官としても優秀で、仲間になってからは戦闘で大いに大活躍するわけだが、百八星がそろった時点まででは、かなり出番が少ないと言える。

 実は水滸伝は、百八星が揃うまでが面白く、それ以降は微妙という考えを基にする、終盤をばっさりカットした、全70回版の版があるようなのだが、確かに盛り上がりという点に関しては、百八星が全員揃い、それぞれ天よりの役割を与えられるという辺りが、 一番盛り上がる部分ではあろう。
ただ百八星そろっての戦いが見れるのは、当然のことながら、この後のことである。
だが確かに、元々の版らしい100回本では、この後の戦いがあんまり長くないのがちょっと残念な気がしないでもない。
百八星の戦いのシーンを追加した120回本の版は、そういう不満に端を発するのだろう。

8巻。がんばってなんとか招安を受けようという話

 この巻では納められている話ほぼ全部にわたって、なんとか招安を受けようというお話。

 宋公も、前回までは、1位の席を譲りたい譲りたい、という感じだったが、今回は、さっさと招安受けたい受けたい、という模様。
そして同じように招安に賛成し、早く受けたいと考えている者たちですら怪しむような、都合がよすぎる話に簡単に騙されそうになる総大将の様は、もはやコメディである。

 この巻で一番の見どころというか、重要なポイントは、梁山泊に捕らえられた高俅と、宋公たちとのやり取りかもしれない。
命を見逃してもらった礼として、招安の件を皇帝に伝えると約束し、山を降りていった彼だが、当然のように信じられていないのはまたご愛嬌なところか。

9巻。朝廷への忠義、仲間たちとの友情

 ここからは戦いの描写があっても、テーマは一貫してずっと忠義心のような気がする。
正式に国軍となった梁山泊だが、彼らを嫌う高俅たちに手を回され、武功をいくら上げてもなかなか評価がされない。
それでも、国への忠義を捨てず、敵国にもっと良い待遇での招待を受けても、断る宋公。
「朝廷が私を裏切っても、私は朝廷を裏切らない。正義を裏切る反逆などしようものなら、天がそれを許さないだろう」というような彼のセリフが、いろいろ物語ってるだろう。
しかし結局、悪の政治家が正義を貫く彼らを許さなかったというのは、なかなか皮肉な話なのか。

 もうひとつ重要なのは、ほとんど国家に盲目的な忠義を誓っている宋公に不満を抱いても、結局は彼に対する義を裏切りたくないために、その助けになろうとする梁山泊の仲間たちであろう。
ここにも、国とは違う、友情に対する正義の心を描こうとしていたような印象を受ける。

10巻。悲劇的とされるいくつかの結末

 ここでは、梁山泊軍としての最後の戦い。
その後の別れや、それぞれの結末が描かれるわけだが、まさしくそれぞれの最後をしっかり描きたいがために、と思われても仕方がないくらいの、怒涛の戦死ラッシュがある。
ある意味で、戦場というものの悲惨さが結構描かれているのかもしれない。
仲間を失うたびの宋公の嘆きは、なかなかけっこうな悲壮感がある。

 また、言ってしまえば一番の悪が勝つというような結末に不満を覚える人は多いようだが、個人的には、だからこそこの物語は高く評価されてきたのだと思う。
この作品が一番描きたかったものは、まさしく正義の心と、それに対する誠実さなのではなかろうか。
正義は勝つという様を描く話は王道とされているし、非常に数が多い。
また、悪が勝つ話にしても、その場合は悪側が主人公だったりすることが多いが、この水滸伝という話は、正義側が主役で、悪が勝つ話である。
別にリアリティとかそういうわけでもなくて、この話では、たとえ悪に負けるのだとしても、正義を貫く強い意志、つまりはただ純粋に正義というものが何かを描こうとしたのではなかろうか。
そんな気はする。