クスコ連合から始まった南米の大帝国
広大な南米大陸に、北はパスト地方(現在のコロンビア南部)、南はチリのマウレ川までの広大な地域を支配下に置いていたインカ帝国を、スペイン人たちが発見したのは16世紀前半のこと。
インカ帝国の統治下に置かれていた諸民族たちは、たいていが、まだ支配されてから日が浅いということを、スペイン人たちに語ったとされている。
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実際に、スペイン人がその名を初めて聞いた時、この国はまだ、建国から1世紀ほどしか経っていなかった。
インカ族の元になった部族は、もともとアンデス山脈のクスコ周辺に住み着いていたとされている。
そしてこの地よりクスコ連合が始まり、インカ帝国に至ったのだとされているが、わずか1世紀という短期間の間に、ここまで広大な帝国を建設できた事実は、けっこう謎とされている。
ただし、もちろんこの地に興った最初の文明がインカというわけではないから、長きに渡る過去の国々の土台を、クスコの人たちは参考に、あるいはそのまま使えたはずである。
スペイン人たちがやってきた時代の皇帝インカ・ワイナ・カパックの一族の伝える話では、 15世紀にこの帝国を建設したのは、インカ・パチャクティらしい。
通説では、インカ・ワイナ・カパックは11代目、パチャクティは9代目。
そして、神話が平気で入ってくるインカの歴史の中にあって、実在したことが確かな最初の皇帝もパチャクティとされている。
パチャクティは、度重なる戦によって荒廃したクスコの街を再建させた偉大な王ともされる。
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タワンティン・スーユ
インカは王の名前ではあるが、国の名前ではなく、クスコの人たちは、自分たちのその帝国を、『タワンティン・スーユ(4つ国)』と呼んだ。
この名前はそのまま行政区画を表す名称だったとされている。
インカ帝国は、東西南北に4分割された領土が、クスコを中心にして広がっているという形だったのだ。
クスコより北は『チンチャイスーユ』、南は『コリャスーユ』、西に長く伸びる『クンティスーユ』、東の『アンティスーユ』と呼ばれていたらしい。
ただし、アンティスーユは、なんども遠征は試みたものの、インカの支配下に置かれることはなかったともされる。
国家の統治体制。権力者の方法
兄弟王という二元統治説
インカ帝国が統治した様々な部族は、もともと敵対していた場合も多かった。
帝国は、それらの広い範囲の部族を支配するために、権力をクスコの街へと集中させる。
そしてその絶対権力の象徴たる存在が、皇帝、つまりインカであった。
インカは基本的に兄弟の兄か弟で、皇帝でない方も同じくらいに大きな権力を持っていたとされている。
あるいは、インカは2人体制だったという二元統治説もある。
またインカの地位自体は世襲制だったが、必ず長男がつくというような感じではなかったとも言われる。
基本的に一夫多妻制で、インカには数千人の妻がいたともされているから、子供も多かったろう。
その中でも普通は、王自らが最も後継者としてふさわしいものを選んだという。
一夫多妻制
少なくともスペイン人たちの征服の時代には、5000を越えたらしいインカの妻たちの中には、血の繋がった妹も普通にいたという。
またインカが処刑された際には、多くの妻たちも後を追って首を吊ったそうだ。
あの世でもお側に仕えてお世話するためらしい。
ちなみに、一夫多妻は王だけの特権でなく、各地方でも身分の高い者は、複数の妻を持つことが許されていた。
その場合、正妻は特に、「インカに与えられた女」と呼ばれていたらしい。
ただし、そのような複数の妻の中の正妻という概念は、 スペイン人が勝手に解釈したもので、インカには元々そういう概念はなかったという説も今はある。
また、大量の妻というのは、インカ王を下衆な悪とする批判の根拠とされる場合もあったようだが、各地方が有力者の娘を差し出してる場合が多かったようなので、この大量の結婚は、政治的な意味合いが強いだろうとは推測しやすい。
また、妻の中に妹がいたという記録に関しては、元々インカ側の認識において、従妹は妹と同じ言い方であり、妻としていたのは、実のではなかったという説もある。
官僚体制。大きな耳のオレホン
支配された地方には、地方ごと官僚が置かれた。
その各地方の官僚の最重要人物は、スペイン人たちにはオレホンと呼ばれた人たちだった。
オレホンとは「大きな耳」という意味で、その名前の通り、大きな耳飾りをつけて、耳たぶを巨大にしていたのだとされる。
おそらくはオレホンは、基本的に王家の親族であった。
どうも、王家の親族として生まれた少年は、特定の年齢になると、「ワラチコ」という通過儀礼を受けるのだが、その時に耳たぶに穴をあけられるのだという。
それは戦士となる儀式でもあり、王朝の過去の偉業を語る歌を聞き学び、さらにはワナカウリの聖なる山にこもって、数々の苦行を行ったそうである。
物々交換で成り立つ経済
インカ経済には貨幣が存在しなかったもとされている。
基本的な物々交換があちこちれなされることによって、生産物は流通していた。
税という概念もあったが、それは実質的に、王や役人との物々交換に等しかった。
例えば、民はみな、それぞれの土地の生産物を税としてインカに送るのだが、逆に帝国のあちこちには、インカの土地の生産物が届けられた。
インカからの贈り物は、クスコから直接届くこともあったが、各地域にある倉庫に保存されている生産物が、別の地域へと移されるということもあったようだ。
帝国の支配下の地域の25~50歳の男は、誰でも納税の義務があった。
25歳というのは、帝国において一人前と認められる年齢だったようで、それ以下の年齢では、両親に尽くさなければならず、結婚も恋愛も自由には行えなかったそうである。
国家宗教、民間信仰
クリエイター魔術師、ピラコチャ
インカは神聖な太陽の子とされた。
そこからも明らかなように、インカ帝国は太陽崇拝の国であった。
当然帝国が支配した各地方でも、太陽崇拝は強制されていたが、しかし一方で、地方ごとの土着宗教も禁止はされていなかった。
年代記作者が伝えるインカの伝説には、人類のクリエイターを、ティティカカ湖に住んでいた、ピラコチャなる魔術師、あるいは最初のインカとするパターンがあるという。
最初の人間は、ピラコチャが作った粘土の人形から生まれたそうだ。
しかし人間があまりにも不誠実を多く働くため、ピラコチャは生者たちの世界を去ってしまったのだという。
インカ・ピラコチャを、単に初期のインカとする説もある。
ミイラと、生命の永遠性
死んでも魂は残り、死者たちの世界でも、生前と同じように、飲み食いしたり寝起きしたりして、生きるのだと、インカの人々は信じていたという。
基本的に、貴族の魂は空の太陽へと帰り、庶民は大地にとどまったともされる。
すでに死んだ祖先たちをよく崇拝していたインカ人たちは、ミイラ作りの技術も持っていた。
ミイラは、死者の内臓を抜き取って、遺体の内部にタオルを詰めてから、厳しい太陽の光に繰り返しさらして乾燥させるという方法で作られた。
それはつまり、アンデスにおいて、ジャガイモや肉を保存するために用いられていた方法と同じである。
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ミイラは、生命に永遠性を与えるものだった。
普通は特別な身分の者がミイラにされ、埋められたりはしないで、壁のくぼみ(壁龕)とか、洞窟などに置かれた。
そして祭りの際には、ミイラはいちいち持ち出され、豪華に着飾らせられ、食べ物などをお供えされ、神々と一緒に、躍りによって崇拝された。
ミイラは死後も自分の土地を持っていて、それを崇拝する大勢のインカ人たちが、土地をしっかり管理していたされる。
だが、ミイラの周囲には大抵効果の品々があったために、スペイン人たちの征服以降は、よく略奪の対象になってしまった。
また先住民の死者崇拝を止めさせようと、ミイラを引っ張り出してきては焼き捨てる者もいた。
また、征服初期の時代には、 スペイン人たちが押し付けたキリスト教的な埋葬を気に入らない先住民たちが多く、夜中にこっそり死体を掘り出しては、本来の先祖の場所である壁龕や洞窟などに持っていくということもあったらしい。
埋められた死体は、土の重みで苦しんでいるはずと、考えられていたようだ。
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それぞれのワカ。聖なるものの地図
インカにおいては、神聖なものはなんでも『ワカ』と呼ばれていた。
特別な場所、建造物、彫刻など、すべてはワカであった。
インカ人たちは、それらのワカを各基点として、『セケ』という想像上の線を描いたとされている。
帝国の中心都市であったクスコを始め、多くの町を中心としたセケが伸びていた。
そしてその神聖な地図は、キリスト教のスペイン人たちが、悪の崇拝対象を探す役にも立ってしまったとされる。
当然、セケを頼りに見つけ出されたワカは、それが壊せるものなら壊された。
山や井戸みたいな、容易に壊せないものに関しても、それにまつわる儀式は厳重に禁止された。
こんな話が残っている。
征服初期の頃。
中部ペルーの先住民たちが集団で、急にひきつけを起こした。
そして発作を起こした人たちは、まるで狂人のようになって、畑仕事を放棄し、ワカが自分たちの体に宿ったのだと語り始めた。
キリスト教徒がやってきて以来、ワカは先住民たちに見捨てられたと思って宙をさまよっていた。
そして干からびたワカたちが、人の体を求めてそこに入り込み、その口を通して神託をもたらしたのだという。
彼らは生きたワカとして崇拝も集め、「インカは再来する。そして、スペイン人がもたらした動物、小麦、武器、宗教と共に、スペイン人自身もこの地から完全に消え去るであろう」と予言をしたそうだ。
しかし、この予言は今に至るまで実現していない。
またワカは、血縁集団ごとにそれぞれの物を持っていたそうだから、かなりの数があったろうと考えられている。
広大な空自体も、夜に見える星々もワカと考えられていたともされる。
生きている人は、それぞれのワカの星を持っていたという話もある。
星は男たちのワカで、女たちは共通して月をワカとしていた説もある。
家族が代々大事にしていた、加工された石とか、小さなワカもあったようだ。
それに双子や逆子といった、ものというより現象も、ワカとされたという。
インカのワカは太陽で、それはすべてのワカの上に君臨する存在とされていた。
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伝統文化。人身御供は本当にあったか
南米中米の人身御供は、後は侵略しに来たヨーロッパ人が最も嫌った文化であった。
当然、植民地時代が始まると、すぐさまそのような儀式は禁止されたわけだが、実は20世紀ぐらいまでは、共同体の中で、そのような伝統的な生贄の儀式がひそかに行われていたともされる。
しかし実のところ、南米においては、人間を生贄にする伝統は、各地に散らばっていたいくつかの民族に固有のものというだけで、インカ人のものではなかったという説もある。
むしろ残された記録の中には、インカ帝国が、自分たちが支配した地域に対し、人間を生贄にする儀式を禁じたというような話もあるらしい。
かなり確かなことは、もしもインカにおいて、人間を生贄にする儀式が行われていたのだとしても、それは中米のアステカ帝国におけるほど頻繁なものではなかったということ。
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また、生贄にされる人間は基本的に幼児に限っていたという説もある。
いずれにしろ、動物を生贄にする儀式は、けっこう頻繁に行われていたようだ。
生け贄は捧げ物だったか
インカの支配下に置かれた共同体は、毎年生け贄の子供を差し出すことになっていたともされる。
通常は共同体の中でも有力者の子供の中から、特に美しいとされる者が選ばれた。
生け贄として選ばれた子供は、みなの尊敬を集め、クスコに招待され、盛大な歓迎も受ける。
そして村に帰ってから、洞窟に埋められるか、峡谷に突き落とされるかして殺されるわけである。
この生贄の儀式により、インカは病気などの厄災から逃れることができるのだと考えられていた。
また、犠牲となった生け贄の残された家族は、大変な名誉も得られたとされる。
共同体の繁栄などを願っての生け贄もあったという。
動物の生け贄の儀式
生け贄とされるのは人間だけではなかった。
むしろ生贄にされる数は動物の方が多かった。
基本的に動物の場合、単色でかつ光沢のある手を持つ個体が、生け贄としてふさわしいと考えられていたようだ、
少し大げさすぎるとも言われているが、かつてクスコの街においては、1度の儀式で1万もののリャマが火に投げ込まれたという記録もあるという。
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アクリャ。太陽に仕える女たち
また統治されている各民族の共同体の中で、通常、最も美しいとされる少女は、『アクリャ』という役割を与えられることがあった。
アクリャはインカ(でなくても権力者)に仕え、世間からは隔絶されて暮らす女性たち。
彼女らは、太陽を伴侶とし、インカの許可なしには恋愛や結婚も認められない。
また、彼女らが住まう家に勝手に侵入することは死罪とされた。
アクリャは家では、ひたすらにインカのための織物を織っていたともされる。
共同体が、美しい容姿の女性をアクリャとして選ぶのは、生け贄を 差し出すのと同じく、インカへの忠義の証明でもあった。
また、インカの方が領主たちの功績をたたえて、アクリャを与えることもあったようだ。
結局はアクリャとなるのは自分の意思だと思われるような記録もあるらしい。
どうやらアクリャ候補の少女たちは、12歳の時に儀式を経て、修行を3年間積む。
そして修行を終えた後、世俗の人間と結婚するのか、そのまま太陽にその身を捧げるのかを選択するのだという。
アクリャとなる決心がそこでついたなら、あらためて儀式を行うのだが、その儀式でもまた生贄が捧げられるとされる。
そういう事情で、アクリャとなった女が、人間の男と結ばれてしまった場合、女の方は生き埋めにされ、男の方は逆さ吊りにされて殺され、さらに男の妻子、子供、その他の親戚一同、所属する共同体の人々、飼っていた動物まですべて皆殺しにされたとも伝えられている。
そして、征服者のスペイン人たちは男ばかりで、先住民の女を結婚相手に選ぶ場合に、当然のことながら美しい者を優先し、インカの掟など意に介さなかったから、植民地時代に入るとアクリャの制度も急速に廃れていった。
ペルーはウルバンバ谷に沿った山の尾根で、ハイラム・ビンガム3世(1875~1956)というアメリカ人が、1911年に発見した有名な遺跡『マチュ・ピチュ(Machu Picchu)』は、このアクリャたちの住居だったのでないかという説がある。
ビンガムに同行していた解剖学者が「出土した骨の大半は女性の骨」と結論していたからだ。
しかし後の研究では、骨の男女比率は同じだったという報告もあるという。
共通語と文字
インカ帝国は、支配下にある民族たちに、共通語として自分たちの言語、『ケチュア語』の使用を義務付けていたらしい。
偉大な王とされたパチャクティは、各地方に学校を建設させ、さらにさまざまな特典により教師たちも集め、 教育水準の向上とともに、自分たちの地方の言葉を普及させたともされている。
ちなみにケチュアとは、クスコを含む、アンデスの中心の方の、 比較的標高が高めな地帯の名称らしい。
カハマルカ、ワラス、アレキパなど、いくつか、クスコ以外の重要都市も、この地帯に属しているという。
ただ、おそらく利用者の数の問題で、一部の地域の共通語はケチュアでなく、『アイマラ語』という言語だったとされている。
キープ。数字と歴史を記録する術
インカ帝国がついに文字を持たなかったことは有名である。
しかし代わりに、この国には、様々な色の細い紐で作られる、結び目の大きさなどで区別する、『キープ』という記録用言語があった。
キープを使って物事を記憶するのは、基本的に『キープ・カマヨック』と呼ばれる、土地ごとの名士。
そしてキープは、地域ごとの農作物の量や、住人の数なども記録できたために、征服以降のスペイン人たちにも重宝された。
数以外にも年代を記録する「歴史キープ」は、 インカ王朝の歴史上のエピソードの記録にも役立ったという。
また、多くのコードが謎になってしまったが、かつてキープは、数以外にも、歌や物語などの情報も記録できたらしい。
衣服の役割
インカ人は服を着たが、そこには基本的に2つの分類があるようだった。
庶民たちが身につける、アルパカやリャマの毛で作られた『アワスカ』。
それと、一部のエリートが身につけていたという、ピクーニャの毛を使った『クンビ』である。
服は実用性ばかりじゃなく、社会における各々の立場をより明確にしていた。
クンビは、インカが自らの寛大さを示すために、相手に与えるというもの。
それはインカ帝国に忠誠を誓った各共同体の首長(リーダー)に対し送られ、主従関係をはっきりさせた。
スペイン人が征服しに来た時代。
王位継承をめぐって争っていた相手であるワスカルに、アタワルパは織物を送ったが、まるですでに上に立っている気でいるということで、ワスカルはかなり激怒した。
多くが失われてしまったらしいが、もともとインカの『ケユカ』と呼ばれる織物の図柄には、様々な記録を記すための文字が書かれていたともされる。
ケユカは植民地時代には、先住民の文字を意味する名称としても使われていたという。
インフラ。情報伝達システム
太陽の道を走る者たち
谷に挟まれた、山の一番高い所の連なりの道を、尾根とか、稜線とかいう。
インカ帝国には、海岸沿いと、アンデス山脈の稜線伝いの道が整備されていて、交差しあうそれらが、見事な交通網が形成されていたとされている。
勾配が急すぎるところは、歩きやすいように階段状にもなっていた。
所々に道標も置かれたインカの道路は、『カバクニャン(Qhapaq Ñan。王道』、あるいは「太陽の道」と呼ばれ、帝国が支配領土を広げるたびに、その道も延長していったようである。
もちろん通信機などない時代で、(例えば馬のような)人を乗せて素早く走る家畜動物も存在していなかったから、帝国内の情報の流れは、もっぱら『チャスキ』という飛脚たちに頼っていたという。
チャスキは交通網の中で、それぞれ2キロメートルごとくらいの範囲で情報の伝達を行っていた。
本来は多様な地形が人の行く手を阻むだろうアンデス地帯において、この整備された道路と、配置された飛脚たちの情報伝達システムは、非常にうまく機能していたようだ。
各地方間で情報は流れ続けた。
またインカは、山の上に君臨しながら、チャスキが階段から運んできた新鮮な魚を食べることもできたとされる。
宿泊施設にもなる倉庫
太陽の道のあちこちで、『タンボ』という宿泊施設的なものも 設置されていたとされる。
タンボは、チャスキや旅人、移動中の軍隊などの宿泊施設としても利用されていたが、基本的に建物と広場の他、様々な物資を保存する倉庫が備えられていた。
民が納めた税の見返りが、タンボから放出される場合も多く、それは、広い制服地の支配を確実なものとするための、大規模な工夫の1つでもあった。
敵に対する行い
アマゾンの方の先住民たちは、敵対する相手に対する首狩りを行っていたようで、後からやってきたヨーロッパの人たちを恐れさせた。
しかしインカ族は、敵を戦争によって打ち負かした場合に、首は別に斬らなかったとされる。
ただ、インカ族は、戦争で負かした相手たちは皆殺しにした後、その首長の皮をはがし、それを引き延ばして、太鼓の皮などに利用したという記録があるという。
また、敵が保有していたワカ、つまり神聖な品々は、その力を弱める効力があるらしい奇妙なデザインの仮面や服を身につけさせられてから、壊されたらしい。