「老子の言葉。道の思想」現代語訳、名言、格言。千里の道も一歩から

老子のタオ

老子道徳経が書かれた経緯

 紀元前600年頃、周(紀元前1046年頃〜紀元前256年)の時代の事。
西の城「周王朝」青銅器。漢字の広まり。春秋時代、戦国時代、後の記録 西方の国境で関所の番人をしていた(インキ)という男は、暇な仕事の毎日の中で、ひたすら勉学に打ち込んでいたという。

 ある時、関所を通りかかった青い牛にまたがる老人を、只者ではないと見てとった尹喜は、老人が纏うその不思議な空気に物怖じしながらも、弟子入りを志願した。
 「わしは弟子など持った事がないのじゃが」
と困り果てる老人だったが、結局は尹喜の熱意に負けて、しばらく関所に留まる事にする。

 それから、老人が語る教えを、尹喜が文章として記録した書こそが、道教思想において最重要の書とされる、「老子道徳経(ろうしどうとくきょう)」、つまり老子のタオ(道)である。

 その後、男の元を去ると、彼は二度とそこに戻る事のなかった。

老子とは何者だったか

周王朝の司書

 老子の本名は李耳 (リジタン)
出身は現在の河南省鹿邑県(カナンショウロクユウケン)とされている。

 流れ星が落ちた衝撃で身籠った子。
七十二年の妊娠期間を得て、杖をついた老人の姿で生まれたなど、
出生から既に異様なエピソードに満ちている彼は、生涯の多くの時間を、周王朝の王室図書館の司書として過ごしたとされる。

 当時から高名であったらしいが、地位や名声、容姿などにはまるで無頓着で、いつも貧相な身なりだったという。

 やがて周の終焉を悟った彼は、職を辞して、姿をくらます。
消息を絶つ前、最後に彼と会った人物が尹喜であった。

太上老君。仙道の神

 老子は死んだのかどうかも不明だが、やがて彼は仙道の世界観において、偉大なる存在として神格化される。
神格化された彼は太上老君という新たな名前を得て、西遊記や封神演義といった創作作品にもよく姿を見せている。
仙人界原作「封神演義」全訳本、安納版、漫画版の比較しながらの感想  実際の伝承などの太上老君としての姿は、黄色い体に五色の雲を纏い、鳥の嘴のような口を持ち、全身に八卦が浮かびあがっているという、異形のものである。

 仙界の、金色の屋敷に暮らし、亀をベッドにしているという。
彼はタオそのもの、つまり万物であり万物でないような存在とも。
札などの、仙人が用いるあらゆる物は、彼が作ったという話まであり、彼はいわば仙人達の神。

 封神演義の影響からか、民間伝承などでは、太公望と共演することもあるが、時代的に明らかにおかしい。
太公望の釣り「太公望」実在したか?どんな人だったか?釣りと封神演義と

そうだと言えるいつも通りなんてない

 これは道だと言える、いつも通りの道なんてない。
こういう名前とか言える、いつも通りの名前なんてない。
 天地の始めには名前はなく、現れた万物に名がついた。
 欲を持たないでいれば、何事もその真理が見える。
欲深くあった時は、万物は動いて見える。
 万物は同じものからできてるのに、名を変えることもある。

タオとは何か

 道は「タオ」と読む。
タオとは、ただ歩いたり走ったりするような道というものではなく、全てのことである。
全ての本質。
全てに共通しているもののこと。
そういう何かを、ここではタオと呼んでいる。
 
 何かを永遠のものと言葉にしても、それができるようなもの、いつもそこにあるようなモノではない。
おそらくは、最初の時には、名前なく、何を表現する事も出来なかったのであるから。

 同じものを、心の視点を変えて見てみると、確かに違う。
それを欲しいとして見てる時、 我々が見てるのは表面上の良さだけだ。
だからなるべく、限界まででいいから、欲を捨てた状態で、同じものを見た時、それは、いいにせよ、悪いにせよ、ただ純粋なそのモノだけが見える。

 この世界はひとつだけと解釈できる。
少なくとも、我々が知っている世界はひとつだけだと解釈できる。
それなのに、我々のタオはおそらく異なる。

世界について。有と無。賢くある事、愚かである事

 どいつもこいつも、 美しいもの、良いものを好むが、そんなのどれも、醜いとも、良くないものとも言える。
有と無は、対でないと存在しえない。
 聖人は見返りを求めない。
功績は消えないと知っているだけ。

 王が人を差別しなければ、誰も争わない。
王が物を区別しなければ、人は盗まない。
 よき王なら、無知無欲であり、賢さなど求めない。

 タオは空っぽみたいだが、いざいっぱいにしようとしても、そんな事は出来ない。
どこまでも深い。
 少しは馬鹿になれ、知恵が邪魔な時もある。
何かそこに存在しているけど、それが誰の子であるのかは知らない。

 世界にとっては万物なんて、わらの犬。
偉大な人にとっては普通の人々なんて、わらの犬。
 天地の間は空っぽみたいなのに、どんどん万物は生まれてくる。
 言葉が多すぎると、たびたび止まってしまうから、何もないのがよい

老子道徳経は、自分のために生きる術

 何かを美しいと思う時、それは何かが醜いということ。
比べる相手がないなら、何がいいも悪いもないから。
これは確かにそうと言えるか。
少なくとも、欲を持ってしまう事はなんでも。

 実際には老子は王という表現は使ってない。
ただ上に立つ者と表現してるという。
人は、賢い人を偉いと思いたがるとは、個人的には思う。
けど賢いってのを定義するのは案外難しい。
理解することすら難しいもの、手に入れようとしないことが一番賢いのかもしれない。

 難しく考えすぎてしまうことって、確かにあるだろう。
多分、そんなものに殺されてしまう人だっているって考えたら、確かに馬鹿でいるのもいいのかも。

 上の人達からしたら、下の 人たちの価値なんて同じようなもんだから、見栄はっても仕方ない。
自分に必要な言葉は、多分、自分の為の言葉だけなのである。

思想について。自分の道をよきものにする

 天地が永遠にあるようなのは、ただ生きようなんてしないから、そこに存在してるだけだから。
この体でどうにかしようなんて思わないことが、かえってその身のためになる。
自分でいれる。

 最も良くあるということは、水であることだ。
いろんなものに恵みを与えてるのに、自分は一番下にいる。
 下を嫌だって思う奴は多い。
でも良き心は、一番下にいることを恥だと思わない。

 満ち足りた状態が、永久であることはない。
欲しいものを全て揃えたなら、それが危険を引き寄せる。
何かを成し遂げたなら、さっさとその場から離れるがよい。
それが天の道だ。

 あらゆることを理解したとしても、 知恵を持たないでいる。
あらゆるものを生み出したとしても、見返りなど求めない。
最大限に成長しても、支配などしない。
それが、誇りだ。

個でなく、いくつもが個としてある

 車輪、器、部屋、どれも空虚な部分に働きを促している。
物の形は、空虚な部分があるからこそだ。

 美しいもの、素晴らしいもの、美味しいもの、楽しいものは人を麻痺させる。
 聖人は、何かを満たす時、何かは捨てる。

 人は愛されたら失うことを恐れ、愛されなかったら孤独を恐れる。
 大きな災害を恐れてるのは、自分の身に執着してるのと同じだ。
自分に執着してなければ、大きな災害など恐れる必要がない。

 目に見えないもの、耳で聞けないもの、手で触れられないものは、理解できない。
 だから混ぜ合わせればいい。
そしたら、姿形もない、それは根源的な道、古代の法則。

 空虚に、静かな心を守る。
ただいつも通りであれば全てと同じ。
全てなら、永遠の天も含まれる。
なら一生ものだ。

空間の中で。自己矛盾の中で

 どんなものもそう、形があるのは、その周囲が存在しているから。
この空間にいるという事、ここが空間である事もわかる。

 全て手に入れたら、何か失うのかもしれない。

 持ってても、持ってなくても、結局は恐れる。
そうやって人は袋小路に迷い込んでしまう。

 老子の思想は、自己矛盾、世界の矛盾への反撃のようでもある。

支配者。人民。国家の在り方

 よき支配者はただそこにいるだけ。
次は親しまれ、さらにその次は恐れられ、一番悪いのは馬鹿にされる。
支配者がよくないと、人民もよくならない。

 タオが弱まって、人の道が出来た。
賢者が現れた時、嘘つきも現れた。
家族が嫌いになって、偉大な先祖が出来た。
国家が腐敗して、忠臣が現れた。

タオに従い生きる事。タオが何かを知る事

 学ばなければいい。
美しいものと醜いものにどれだけの違いがあるか。
誰もが恐れることは誰もが恐れるものだ。
 一方でタオは、ひたすらに続いていく。
 みんなが楽しんでる時、僕だけは笑わない赤子でいる。
今、安らいでいる時、僕だけが心愚かな貧しい人でいる。
みんなが輝いている時、僕だけがぼーっとぼんやりしている。
みんな有能なのに。僕だけがとろくて田舎臭い。
ただ僕だけが、みんなと違ってタオを大切にしている。

 偉大な者はタオに従っている。
タオは最初からあって、果てがなくて、純粋に確かな存在がある。

 一つのタオだけで生きている者。
その人は物事をよく見てる。
無理に正しくあろうとしてないから、本当の善悪がわかる。
才能をひけらかさないから、何事も楽しい。
誰とも戦わないから、誰もその人と戦えない。

 雨風は永遠には続かない。
あの天ですら物事をずっと続けられないのに、人が続けられるはずはない。

 つま先で立つ者は長く立ってられない。
大股で歩く者は、遠くまで歩けない。
自分を賢いと考えている人は、物事がよく見えてない。
自分が正しいと考えている人は、自分が正しいことを証明できない。
 余った食べ物なんて誰でも嫌いだ。

 混沌の中から、最初、何かが生まれた。
その何かを知らないから、とりあえずタオと呼んでる。
 タオ、天、地、王こそが四つの大いなるもの。
人は地を、地は天を、天はタオを手本とする。
タオは根源。

人の社会の中の自然的選択

 上に立つ者は重い。
上に立ちながら、身を軽くなど出来ない。
軽ければすぐ落ちるだろう。

 優れた行いは、跡を残さない。
だから後から誰でも同じ事が出来る。
誰も見捨てられない。

 それが良き事だから、良いとされる。
大いなる決まりなら、役割分担はない。

暴力、戦い、支配。尊い命について

 力での支配は報復される。
戦争の後は凶作になる。
 威張り散らす必要ない。
成し遂げて、力は示さないのが、タオの道理だ。

 武器なんて不吉で、多くの人々はそれを嫌う。
使わなければならない時に、少しだけ使うがよい。
 戦で上に立つ者は、奪った命だけ、悲しみを受けなければならない。

 それを支配できる人なんていないが、タオが、我々のとこにあればいいのに。
そしたら全部がよくあり、命令などなくとも一つになれるだろうに。

 他人に勝てる奴は強い。
自分に勝てる奴は、本当に強い。
自分のいるべき場所を失わない者は、死んでも滅びることはないだろう

 全てがそれから生まれてるのに、タオは偉そうにしない。

少ししか知られてない真理

 人が教えることを、わたしもまた教えよう。
力でごり押しする奴はまともな死に方をしない。
わたしは、この事を教えの根本とする。

 わたしは、無が有である事を知った。
それに匹敵するものは少ない。

 偉大な完成は、欠けてるように見える。
偉大な充実は、空っぽのように見える。
偉大な直線は屈折してるみたいに見えて、意外な技巧は下手くそに見えて、偉大な演説は口下手に見える。

 物事を知るのに、部屋から外に出る必要はない。
窓から覗かなくても天は見える。

 上手く生きてる者は、死ぬ理由がないから。

遅れて千里を行く賢者

 もし私が賢者だというなら、大きな道を行こう。
人は近道を行きたがる。
大きな道こそ平坦であるのに。
 美しい服を纏い、立派な剣を持って、飲み食いばかり、財産は有り余るほど。
それはタオでなく、盗人の親玉だ。

 完全な正常はない。
正常はいつでも異常に、善は悪になりうる。
この相対的原理に、人が迷いはじめてから長い時間が経った。
だから良き人は、自らが高めても、人を傷つけない。

 人が善でないからって、見捨てられない。
昔の人がタオを大切にしてたのは、なぜだった?

 安定してるうちは捉えやすい。
兆しがないうちは手を打ちやすい。
 大木も小さな芽から、千里の道も一歩から始まる。
人はたいてい到達寸前で失敗する。
最後まで、最初の頃のように慎重であれば、失敗などない。

 私には三つの宝がある。
一つは慈悲。
一つは倹約。
一つは人々の先頭に立たないこと。
 慈悲深いから勇敢で、倹約であるから広くて、先頭に立たないから上に立てるのだ。
もし慈悲を捨てて勇敢であろうとし、倹約を捨てて広くなろうとし、人の後ろにいることを捨てて先頭に立とうとすれば、私は死ぬだろう。

哀しむ者。常識知らず。善人

 敵を侮る事ほどひどい災いはない。
敵を侮る者は、大切な宝を失うだろう。
両軍の兵力が互角なら、哀しむ者の方が勝つ。

 正しい言葉は常識外れだ。

 天の道にエコ贔屓はない。
いつも善人に味方する。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA