大統領と暗殺者。アポロ13。不吉な数字のアメリカ「ある数の都市伝説」

1ドル札

リンカーンとケネディの共通点。100年の呪いか、生まれ変わりか

 アメリカの、アブラハム・リンカーン大統領と、J・F・ケネディ大統領には妙に共通点が多いことがよく知られている。

 二人とも金曜日に、頭に銃撃を受けて、暗殺されている。
そして、現場には夫人が同席していた。
リンカーンが暗殺された場所はフォード劇場、ケネディが暗殺された時に乗っていた車はフォード社製のリンカーンコンバーティブル。
副大統領の名前がどちらもジョンソン。
二人とも任期中に、息子を亡くしている。

 また、リンカーンが当選した年は、1860年。
ケネディの当選年は、1960年。

 さらにリンカーンを暗殺したジョン・ウィルクス・ブースは、1839年。
ケネディを暗殺したリー・ハーヴェイ・オズワルドは、1939年生まれ。
二人とも裁判を受ける前に、別の人間によって殺された。

 彼らは、100年はさんで生まれ変わった大統領と、100年はさんで生まれ変わった暗殺者だと言う人もいる。 

事故に見舞われたアポロ13号。13の悲劇

 人類史上初の月面着陸を成し遂げたアポロ計画。
その内、アポロ13号は、酸素タンクの爆発事故という、恐ろしい危機に見舞われた事で、よく知られている。

 アポロ13号は 1970年4月11日の13時13分に打ち上げられたという。

 搭乗員であるジェームズ(James)、フレッド(Fred)、ジョン(Jhon)の名前の総文字数は13。
 また、13号には、本来、ケン・マッティングリーという飛行士が乗るはずであったが、彼はドイツはしか(German measles)にかかってしまい、キャンセルとなったのだ。
German measlesも13文字。

 13号は、順調に飛行を続けたが、4月13日の午後10時に酸素タンクの爆発事故が起きた。

13が不吉な理由。13に始まった国。フリーメイソンの影

 13はキリスト教圏では、不吉な数字とされている。
キリストを裏切る弟子のユダが、最後の晩餐で13番目の席に着いたからである。
十字架 「キリスト教」聖書に加えられた新たな福音、新たな約束  
 しかし普通、キリスト教圏とされるアメリカは、13という数字と深い関わりを持つという。
そもそもアメリカ合衆国は13の植民地から始まったとされる。
 また、1ドル札に描かれたピラミッドは13段。
コンドルは左足に 13本の矢を、右足に13枚の葉のついたオリーブの枝を掴んでいて、その頭上には13の星が輝いている。

 さらに、独立戦争の時、ワシントンが総司令官に任命された日は13日。
フランスとの同盟が成立したのは1778年6月13日。
国歌である「星条旗よ永遠なれ」が誕生したのは1814年9月13日。

 アメリカはフリーメイソンが作った国という説があるので、13と関係が深いのは、メイソンなのかもしれない。
フリーメーソンのイギリス 「フリーメイソン」秘密結社じゃない?職人達から魔術師達となった友愛団体

真珠湾攻撃とダイスゲームの広告

 1941年12月7日の早朝。
エトロフ島をから出航した6隻の空母。
そこから放たれた戦闘機が、ハワイ、オアフ島の真珠湾を攻撃した。
 第二次世界大戦の時代、日米の戦いの決定的な始まりとなった、有名な奇襲攻撃。
「ワレ奇襲ニ成功セリ」という意味の、「トラトラトラ」という暗号電文も、よく知られている。

 その真珠湾攻撃よりも35日前の、1941年11月2日。
ニューヨーカー誌が、「デッド・リーダブル(死が読める)」というタイトルのダイスゲームの広告を掲載した。
それは、二部構成。
85ページに、小さな口コミ広告が載っていて、それが86ページのメイン広告に繋がっているという仕掛けであった。
 広告主はモナーク・パブリッシングという会社だが、住所などの記載はなし。

 重要なのは、小さな口コミ広告の方。
そこには白と黒の2個のダイスが、3面を見せて描かれていた。
白いダイスは、12、24、ローマ数字のXX(20)。
黒いダイスは、0、5、7。
これが実は暗号なのだという。
 白いダイスは月、12と、12の二倍である24。
黒いダイスは日と時刻、7は7日、5は5時、0は午前を表している。
あるいは05時7日。
XXはこれだけローマ数字だから、ダミーともとれるが、これは「きっかり」の意味だとか、座標だという説もある。

 何にせよその広告の暗号が示している事はたったひとつ。
12月7日の午前5時(早朝)。
日本の奇襲作戦についてだったのだ。
 当時、FBIは、このモナーク・パブリッシングなる広告主を調べたが、結局見つけられなかったという話もある。

9年前のノルマンディー上陸作戦

 1951年8月19日早朝。
フランスノルマンディー島の港町、ディエップに、バカンスに来ていたふたりのイギリス人婦人が、いきなり激しい砲撃の音に起こされた。
 二人はそれから3時間にわたり、奇妙な体験をした。
4時頃に、男達の叫び声が聞こえ、爆撃機の爆音が轟いた。
4時50分、急に音が止む。
5時7分、再び爆撃機による爆撃の音が発生。
さらに遠くから、また、男達の叫び声が聞こえてきた。
5時40分、再び静かになる。
5時50分に、今度はまた飛行機の爆音。
6時には、全ての音が小さくなる。
6時25分、今度は叫び声が高まり、しかしすぐ弱くなった。
そして6時55分に、ぴたりと音は止んだ。

 しかしこの日、ノルマンディーで、軍が演習を行ったりした事実はなかった。
奇妙に思いながら、過去の記録を調べてみたふたりの婦人。
すると、ある事がわかった。

 9年前、1942年8月19日である。
連合軍はドイツ軍が占領していたディエップに、上陸作戦を敢行したのだった。
かの有名なノルマンディ大作戦のリハーサルだったとも言われる。
しかし連合軍の兵士は6000人だったようだが、3600人の死者を出した、大失敗であったという。

 軍の記録によると、
午前3時47分より、ドイツ軍とのこぜりあいの末に、なんとか守備隊が海岸陣地を確保。
この時、兵士同士は大声で情報の交換を行いあった。
4時50分に、攻撃は一旦停止。
5時7分に、駆逐艦がディエップを砲撃。
さらに爆撃機が、海岸沿いの建造物を爆撃。
5時40分、また砲撃が一旦停止。
5時50分、ドイツ空軍が激しい反撃を開始。
そして8時30分には、激しい損害のために連合軍は撤退したという。

世界の出来事は記録されてるのか

 出来事は記録されている、という説がある。
例えばこの世界で起きてきたどんな出来事も、一度起こった後は、記録されてるのである。
起こるまでが、どういう感じになってるかはともかく、一度起こったことは、記録されるのだ。
量子 「量子論」波動で揺らぐ現実。プランクからシュレーディンガーへ
 例えば1時間かけて、ある惑星が崩壊したとしよう。
すると時間を1時間巻き戻す場合、 おそらく崩壊した惑星が再生していく様が確認できることだろう。
ビッグバン 「ビッグバン宇宙論」根拠。問題点。宇宙の始まりの概要
 それは当然のように思えるが、それが当然であるためには、おそらくその瞬間に星があり、崩壊していった過程が記録されていなければならない。
そうじゃないと、時間を巻き戻したところで、その惑星が崩壊した順序と逆に、再生するとは限らないのではないだろうか。
「宇宙プログラム説」量子コンピュータのシミュレーションの可能性

342号室の消えた母

 1889年5月。
フランスのパリで万国博覧会が開催し、世界中の人々が、この花の都を訪れた。
そんな人々の中にいた、インドからやってきた、とある母娘の話。

 母娘はパリに着くと、とりあえずホテルに宿を取った。
部屋は別々で、母の方は342号室、娘はその隣の部屋だった。

 それから、自分の部屋で着替えた娘が、隣の母親の様子を見ようと部屋を訪ねてみたが、ドアをノックしても応答がない。
鍵がかけられてなかったので、ドアを開くと母親がベッドに倒れて、意識がない。
 娘はすぐに、ホテルの医者を呼び、診察してもらった。
医者は当然フランス語だったので、何を言ってるか、娘にはなかなか意味がわからなかったが、母親が重病らしいことはわかった。
また、医者は身振り手振りで、何か特別な薬が必要らしいことを伝えてきた。
それはセーヌ川の向こう岸の診療所にしかないという。
 医者に取りに行ってもらっては母親が心配。
そこで娘は、自分がその診療所へと向かう事にした。
 そして4時間後にホテルに戻り、薬を持って母親の部屋に帰ってきた娘。
だがベッドで寝ているはずの母親も、医者の姿もなかった。

 母親と医者がそうして消えただけなら、単に誘拐事件か何かのように思えるが、話はそれで終わらなかった。
娘がロビーに戻ってフロントに聞いても、そんな夫人は宿泊などしていないという。
母親が確かに記入していたはずの宿泊名簿も見せてもらったが、母親の名は確かにない。
しかしそのすぐ下の記入欄には、しっかりと自分の名前も書かれている。
だが母親がとった342号室の記入欄には、まったく別人の名前が書かれていた。
 さらに、ホテルにいた誰も、そんな人物は知らないし、そもそも病人なんていなかった、と口をそろえた。

 一説によると、当時インドでペストが流行っていて、ホテルにペスト患者がいるという噂が流れることを、ホテル側が恐れていたのだという。

高松塚古墳。21の呪い

 1972年3月21日、奈良県明日香村にて発掘された、高松塚古墳は、当時、戦後の考古学史上最大級の発見と言われていたという。
直径18mの円状の遺跡で、中には一体の人骨と、人物像や、四神の壁画などがあった。

 古墳の発見から2か月後の5月21日。
発掘作業のために費用集めしてくれた明日香村の観光課長が、倒れ、そのまま亡くなった。
彼は、古墳が発見された、頃から、よく寝てる時にうなされるようになっていたという。
 
 次に8月23日。
発掘作業を手伝っていた女性が亡くなった。
彼女が突然、体調を崩し、苦しみだしたのは、亡くなる2日前の21日からだった。

 さらに翌年、 1973年の8月21日。
古墳のある平田地区の代表者さんが、事故で亡くなる。

 また、高松塚古墳のある場所の番地は、平田地区の444番地だったという。
444(死✕3)である。

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