華氏451度
焚書官。書物を燃やすものたち
本を発見しては燃やして処分する焚書官(ファイアマン)という役所仕事に務めているモンターグが、「自分に職業の選択などできなかった、父も祖父も代々その仕事をやってきたから」と語ったりもするように、本が禁止されてからも、すでにけっこう年代が立っている。テクノロジー的には近未来的と思われるが、世界観的には歴史改変小説にも近い。
建物は完全に防火装置を持っている社会だから、昔のような、真の意味で火を司る役人消防士は必要なくなっている。という部分は、テクノロジー的にやや興味深いか。
40年前に最後の大学が廃校になってしまったこととか、本が禁じられているがゆえの世界観だが、そんなだから、普通に科学技術が進歩しているのも面白い
1960年代以降、原子力戦争が2回も起こっているという、ディストピアを感じさせるような情報も。
作中で出てくる簡略的な歴史によると、アメリカ焚書官の創立は1770年。少し興味深いのが、その目的に関して「イギリス本国よりもアメリカに持ち込まれた、その影響を及ぼす恐れのある書籍を焼き払うこと」としていること。
そして初代長官はベンジャミン・フランクリンとある。
「アメリカの独立」宣言書、13の州、先住民、戦争により自由を
生命なき領域で生きる機械獣
《機械製シェパード》といった機械獣が、生命のない身を生きている存在、というように表現されている。
この8本足の機械獣の嗅覚装置にスイッチを入れて、放したネズミたち、時にはニワトリやネコなどの、どれを一番初めに捕らえるかの賭け事が、退屈しのぎの遊びとして描かれたりもする。
また、時には本当に、普通の生き物のようにふるまう、その機械獣は、本当に人間が設定したことのみを行う機械なのか。そのような
「人工知能の基礎知識」ロボットとの違い。基礎理論。思考プロセスの問題点まで
もし機械が、人間に考えることを許されたことしか考えられない存在なのだとしたら、殺戮のために作られるなんて、なんと残酷なのか。とも語られる。
本とともに焼け死ぬ者
ある老婆は、「本は渡さない」と強く抵抗するだけではなく、どうしようもないと悟ると、自ら本と共に焼け死ぬ運命を選んだ。
説得は印象的。
「法律を知らないわけではないだろう、常識を持っているなら、何が禁書になっているか知っているはず。ここの書物はそれぞれ矛盾したことを記している、あなたは数年間家に閉じこもり、いわばバベルの塔を守ってきた。しかしこの先は心を入れ替え、実世界の明るい人間として生まれ変わることだ。こんな書物の中に住んでいたのでは死人も同然だ」
そしてその死に際をしっかりとみたモンターグは、仕事を辞めようと考えるが、妻からは「どこかの女と、その女の本を焼いただけで昇級を諦めてしまうの」と説得される。
「本なんて持ってるのが悪い。自業自得、焼かれることが決まっているものなのに」という妻に、モンターグは語る。
「その場にいなかったからそんなことが言える。彼女の顔を見なかったから。本の中には何かがあるんだ。僕らには想像もできない何かが、女1人様燃え上がる家の中に引き止めておくほどのものが、それだけの何かがある」
モンターグは、書物の背後には人間がいることを知ったと言う。
ある人間が長い時間をかけて考え抜き、そして紙の上に書き記したもの、それが書物。それに一生が費やされることもある。世界を見て、人を見て、一生かけて考えぬいて書物の形に仕上げる。だが焚書官は、それの情報を受け取るや、駆けつけて、すぐさま何もかもおしまいにしてしまう。
この世界には、多くの人間が書いた多くの本がある。だが本とはいったい何だというのか。この小説ではしっかりと問われている気がする。
本から学べるもの。そこから広がる影響
本自体だけでなく、それから何を学べるか、ということについての問題も話題となる。社会や教育にはどのような問題があるのか。
もしも教育格差というものがあるなら、本というものは、それを大きくしている可能性は確かにあるのかもしれない。
人間は憲法に書いてあるように自由平等には生まれてこない。だが結局社会は、人間たちを平等にしようとする。
幸福とはどのようなものであるのか。
高い山が1つだけあれば、大多数の人間は怖気づく。自分の小ささを味わうから。
優等生などいないほうがいい。そして書物は、そのような者が持つ銃のよう。だから焼き捨てる。撃たれる前に弾を抜き取る。
考える人間なんて存在させてはいけない。本を読む人間はいつどのようなことを考え出すかわからない。そんな奴らを野放しにしておくのは危険すぎる。
また、少数派にどのように対応するか、という問題に関しても少し触れられる
一方で、大衆の心をつかむことは必然的に単純化につながってしまう。人間の思考なんて、出版業界、映画界、放送業界、社会の操る手のままに振り回されてしまう。不必要なもの、時間つぶしの存在なんて遠心力で跳ね飛ばされてしまうのが運命。というように、宣伝というものの有効性、大衆の簡単に騙されたり導かれたりしやすい側面が語られる場面もある。
文字として書き記された生命
中盤以降では、本というものに興味を持ったモントーグが、実際にいろいろ読もうとし、自分と同じように本に強い関心を抱く仲間を求めたりもする。
かつて大学の教授をしていて、本が失われようとしている社会を密かに悲しんでいたフェイバーは、モントーグの協力者となるが、本に関する彼の持論は、その捉え方からしてなかなか面白い。
「なぜ書物は重要なのか。物の本質がその中にある、本質とは核心、それを覗かせる気孔が書物の中にある。顕微鏡で覗くと生命が息づいているのも見れる。気孔が多ければ、人の世の様々な出来事を、文字が伝えてくる。 その喜びに触れられる」
何かが道をやってくる
とある街にやってきたカーニバルの恐ろしい秘密と、それに立ち向かうことになった子供たち、ウィルとジム、それに ウィルの父の戦いを描いたファンタジー長編。 描写的にはともかく、設定的にはSF的な面もある。描写的にはむしろ、ホラー的なところもあるか。
闇の一族のカーニバル
魔術団を率いるダーク氏。人間粉砕機。一寸法師。溶岩を飲む男。骸骨。死刑執行人ムシューギロチン。そして、土の中から骨をさらっていく、闇路の魔女ダストウィッチと、カーニバルメンバーのイメージが子供のファンタジーらしい感じする。
年齢をコントロールする装置を得て、長く生きてきた者たちとして描かれてもいるが、それ以上に不気味な存在を思わせる場面も多い。闇の一族という雰囲気がある。
そして、そんなカーニバルの恐ろしい連中との関わりを続ける中で、だんだんと恐怖は増していく。少年たちが、心強い味方になってくれるはずの大人さえも、特に少年ウィルが自身の父チャールズ・ハロウェイが待つはずの「図書館すら怖くなってきた」と言って、推測する、最悪の1つかもしれないシナリオなどは、興味深くもある。
「もしもやつらがずっと前にやってきて、パパを悪魔に変えてしまっていたらどうなると思う? パパは奴らに嘘の約束を信じ込ませられているかもしれないんだ。僕たちがノコノコとあの中に入るとする、今から15年先にある日に誰かがあそこで本を開き、僕と君が乾いた蛾の羽みたいにぱらっと床に落ちるというわけ。僕たちがもしそんなふうに押しつぶされて、本の間に挟んでおかれたら、僕たちの行方はまるっきりわからなくなってしまうわけだだから」
魔法でもなんでも、とにかくそういうものがあって、それで何ができるかということを考えるのはワクワクするものだが、それで何をされるかと考えることは非常に恐ろしかったりするものだ。おそらくは。
永遠の中で人類が選んだ道
終盤、チャールズ・ハロウェイは、カーニバルのことを知って、それを信じ、自分なりの答を、あるいは答に近い推測を得て、それを子供たちに語る。人間の歴史をさかのぼるところから、敵の出方に関しての考えを語ったりする。
「もし人間が永遠に凶悪な原子状態のままでいることを欲したなら、そうもできたはず。だが人類の祖先は野獣と一緒に原野で生活することをしなかった。どこかでゴリラの鋭い爪を捨てた、肉食動物の牙も引っ込めて、草の葉を噛みはじめた。短い人生の間に、営々と敷藁を作り、人類の哲学を作り上げた。さらに自分たち自身にもものさしをあて、類人猿よりは高等でも、天使の半分にも及ばないことも知った。新しい概念、それを忘れてしまうことを恐れた……人生は短く永遠は長いことを最初の1人が知った。その知識から憐憫と慈悲が生まれた。心情はさらに複雑となり、神秘的になり、愛情を生んだ。人間はあまりに多くのことを知りすぎた。笑うべきか泣くべきかを選ばなければならない重荷を背負った。人間は理性と要求で両方ができるようになった。カーニバルのはやつらは我々を見張って、我々がどちらを選び、なぜどんな方法をとろうとしてるかを見極めてから行動を取るつもりでいるような気がする」
このような話を聞いた子供たちは、「面白くなってきた」と興奮を見せるが、面白いとは物語的な面のことだろうか。もっと深い意味があり、そこに構造的な面白さが見いだせるような感じもする。
塵よりよみがえり
別々の話をひとつの物語として繋げたらしい長編。そういうわけだから一応長編ともされているが、短編集的なところもある。
各話の繋がりに関しても、短編集などに収められている場合がある単独短編から、特に大きく変えていたりしてなさそうで(少なくても知っている話に関してはほぼそのままだった)、繋がりが微妙な感じもする。
先に紹介した「何かが道をやってくる」と系統的に近いこともあって、何か関連があるように考えたくもなる。
魔法に関する、あるいはそういうふうに思われるような異能種族の一族なのだと考えられる。キリスト教世界の白魔道士(善き魔術師たち)という印象もあり、最初の方のエジプトの話などから、この一族の真の故郷がどこか、どの辺りの地域か、なんとなく察せるようにも思う。
ちなみに、登場する一族の者の中で、一番年寄りだと思われる〈ひいが千回つくおばあちゃん〉が、4000年前のエジプトにおけるファラオの娘のミイラ。
ブラッドベリの小説には、キリスト教(とそれに関連した宗教)が、世界の中での特別感を強調してるようなところもよくあるが、この小説は特にそういう傾向が強い。「戦いとは、その始まりはキリスト教とイスラム教との戦いだった」というような感じの説明まである。