「アメリカの独立」宣言書、13の州、先住民、戦争により自由を

アメリカ独立

自由と平等という理想

トマス・ペインのコモン・センス

 植民地であったアメリカが独立戦争を本格的に始めたのは1775年のこと。
翌76年の1月に、『コモン・センス』というパンフレットが出版された。
それは、イギリス生まれである哲学者のトマス・ペイン(1737~1809)が書いたもので、アメリカ独立の重要性をよく説いたものだった。
イングランドイギリス(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)について
「君たちが新しい世界を創るのだ」
ペインは巧みに人々の心に訴えて奮い立たせた。

 パンフレットはあっという間に大人気となり、議論を巻き起こし、植民地の多くの人たちの心に、独立という思想を与えた。
アメリカの自然「独立以前のアメリカの歴史」多文化な先住民。移民と植民地。本当に浅いか

トマス・ジェファーソンと独立宣言書

 独立は現実的な目標となり、コモンセンスが出版された1776年の 7月4日。

 北アメリカ13州の集まりである、『大陸会議(Continental Congress)』は、フィラデルフィアで「独立宣言書(Independence Declaration Document)」を決定し、6日に公布した。
原文を書いたのは、あるいはその中心人物であったのは、トマス・ジェファーソン(1743~1826)だったとされる。

 独立宣言文に関しては、ジェファーソンの原文をもとに、五人の起草委員会(Drafting Committee)、ようするに文書の得意な五人が議論した。

 特に奴隷制度を批判する部分は、せっかく団結していた13の州を分裂させる危険性があると考えられ、みなはジェファーソンを説得し、結局その部分は排除されたという話もある。

 最もジェファーソンの思想自体は、「黒人奴隷に自由を」というよりも、「黒人は(先住民も)いらない」というものだったという説もある。
彼はようするに、黒人も先住民もアメリカから追い出して、白人のための自由の帝国を作ることを夢見ていたのだという。

 何にせよ「人種も宗教も関係なく誰しもに平等に自由を」
そういう言葉が宣言書には書かれていたようだ。
それはヨーロッパにおいては、誰かが考えたとしても、理想で終わるしかなかった思想であった。
それを実際に、新しいこの国に実現させようというのが、アメリカの理念となり、13の地域を結びつけることになっていく。

 フランスやスペインもアメリカ側に味方したということもあり、1781年にイギリス軍は降伏した。

州、ステーツの独立と同盟関係

 植民地の人たちは、北アメリカが国というより、北アメリカにある自分たちの「ステーツ(州)」こそが、自分たちの国と認識していた。
イギリス軍の支配を逃れるために戦ったのは、各植民地の同盟だったのである。

 そして、イギリスとの戦いに勝利した後、13の植民地は新しく、それぞれがステーツとなった。

 大陸会議では、独立宣言書とともに、連合規約の案も出されていた。
その起草の中心人物であったのが、弁護士のジョン・ディキンソン(1732~1808)であった。

 連合規約のは1776年7月8日の独立宣言直後に大陸会議に提出されて、承認されたのは1777年の11月だった。
その連合規約の第1条には、この国の名前を「United States of America(アメリカ合衆国)」とすることが書かれていた。
続けて、それぞれのステーツはそれぞれの独立性を保持して、しかし強い同盟関係で結ぶ、というように書かれていた。

偽りの自由の国で、本当の自由を求めた人たち

なおも続いた黒人奴隷

 独立戦争時、アメリカもイギリスも、黒人奴隷たちに、自分たちの兵力になれば、戦争に終わった後、解放するという約束をしたが、基本的には守られなかったという。

 アメリカの北部は、より早くから奴隷解放に傾いていたが、南部は違った。
これは、良心とか宗教というより、単に奴隷人口の数が、南部のほうが圧倒的に多く、彼らを解放してしまった場合の労働力減少の問題が深刻であったからだとされる。

 奴隷に関する議論は、合衆国成立時点から広く議論されていたようだが、学者のトーマス・ロデリック・デュー(1802–1846)などは、「黒人というのは自由に向かない者たちで、奴隷としての仕事を与えられているというのはむしろ救いである」などと主張したりしたという。
普通に考えて意味不明だが、奴隷制を支持する者たちの間で、デューの理論はよく受け取られたとされている。

物扱いだった女性の低い地位

 女性も社会的地位が男性より低い傾向は、独立時点ではあまり変わらなかった。

 結婚した場合、妻は夫の所有物扱いも同様になるというイギリスの習慣を、そのまま引き継いでいたのだろう。

 例えば結婚した場合、結婚前の女の方が財産を持っていたとして、結婚した後はその財産は全て夫の所有物になり、それらの財産を元々所持していたはずの妻は、その管理権を与えられなかった。

 しかしこの国には初めから、強い女性を生む風土があったとも言われる。
イギリス製品のボイコットなど、独立戦争時期のいくらかの反英運動は女性たちが中心であった。
また、この国における最初の女性兵士は、男装して性別を偽り、勝手に独立戦争に参加した、無名の者たちだったと考えられている。
そういう者の何人かは後にバレている。

先住民たちの戦い

 そして、アメリカ先住民たちは大半がイギリス側についたという。
彼らの場合は、自由や独立というよりも、奪われた自分たちの大地を取り戻すための戦いであった。

 しかし敗北が濃厚となった時、 戦いを諦めていない先住民の同盟者たちを蚊帳の外に、イギリスはアメリカ側に国土を譲った。

 そうして先住民たちは、勝手にイギリスのものにされた自分たちの土地を、勝手にアメリカに渡されたのであった。
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シェイズの反乱。レギュレーターズのもたらした影響

 独立戦争直後は白人の中にも経済的に苦労する者が多かった。
経済危機の度合いは地域ごとにわりと差があり、苦しんでいた人たちはこの危機を乗り越えるための、裕福な地域への税金や、ある程度の商売の規制の権利などを、どの州に対しても持った中央政府の必要性を感じていた。

 独立直後の経済危機に関しては、戦争で勝利するために他国の力を借り過ぎたというのも大きい。
ヨーロッパの戦争投資家たちが見返りを求めたわけである。
そして、自由の国になる前と後で、貧乏な経済状況が変わらない者や、あるいは、より財産を多く失ってしまった者もいた。

 一方で中央政府というものに不安を感じる者も多かった。
少し前まで自分たちを植民地としていたイギリスのように、まさしく中央集権的な体制に逆戻りしてしまうのではないかという不安があったのだ。
連合規約が、各ステーツの独立性を保持すると認め、かつあくまでも強い同盟関係であるということを強調したのは、そういう恐れからだ。

 そして 1786年には独立戦争時にはアメリカ兵だったダニエル・シェイズがマサチューセッツ州の辺りで起こした「シェイズの反乱」は結局、最終的には鎮圧されたが、強力な統一軍を使うことができる中央政府の必要性を、さらに印象付けることになった。

 シェイズ含め、「レギュレーターズ(世直し屋)」と呼ばれた反乱軍の者たちは、その多くが貧乏で、自分たちの州政府に税金も払えず、家を取り上げられたような者たちだった。

フェデラリストの台頭、中央政府の設置

 中央政府設置を求める者たちは、「フェデラリスト(連邦派)」と呼ばれるようになった。
そのフェデラリストの中心人物とされていたのはアレクサンダー・ハミルトン(1755~1804)。
独立戦争時においては、総司令官だったジョージ・ワシントン(1732~1799)に次ぐ副官であった人物である。

 フェデラリストは、反対派を押しのけて、すべての州に適用される「アメリカ合衆国憲法(United States Constitution)」を1787年9月に作成。
1788年にそれは発効され、連合規約は失効した。

 各ステーツは、 独自憲法など、それなりの独立性は維持できたが、単独の独立国家ではなくなり、文字通り、行政単位としての州となった。
アメリカ合衆国はその名称をそのままに、複数の国家連合から一つの大国に変わったわけだ。

 そして、ジョージ・ワシントンが新たな大国の指導者。
初代大統領(First president)として選出された。

先住民たちを恐れさせた、飽くなきフロンティアスピリッツ

 「フロンティアスピリッツ(開拓精神)」とは、実にカッコつけた言い方である。
独立直後のアメリカはまだ、白人が言っていた未開拓地域が多かった。
しかしそれらの土地の多くにはすでに先住民が暮らしていて、独自の文化を育んでいた。

 アメリカの開拓行為とは、たいていの場合、先住民からの略奪行為にすぎなかった。

 ワシントンが大統領となった翌年の1789年には、ヨーロッパでフランス革命が勃発し、その波紋はヨーロッパ中に広まっていった。
アメリカにとっては、ヨーロッパ内で問題が起こるのは好都合だった。
あまり干渉を受けずに、独自の国づくりに努めることができたからである。
しかし先住民との摩擦は、目前の危機であった。

 ワシントン大統領が議会に提出した様々な法案には、あまり不当な感じは見られなかったとされる。
「先住民の土地は正式に保証され、彼らの所有する土地の購入は、政府が行う場合以外は禁止される」
「先住民を酷い目にあわせる白人、あるいは逆に白人を襲う先住民は処罰される」
「自分の所有する土地に先住民がいる場合、彼らに対して税の要求など、合衆国市民と同じような扱いをしてはならない。彼らには彼ら自身の部族が定める法律が適用されるべきである。しかしもし白人社会に住みたいという者があれば、合衆国の市民として歓迎する」
これらのような基本方針は、多くの人のフロンティアスピリッツのために、ほとんど適用されなかったという。

 当時、大統領と面会を求め、実際に会って話をした先住民の首長はかなり多かった。
彼らはたいていが平和協定を求めた。
「自分たちはもう白人たちに何もしないから、白人たちの方も自分たちに何もしないでほしい」と訴えたのである。
そして土地をさらに奪われるかもしれないという彼らの不安は、合衆国の歴史の中で現実のものになっていく。

メキシコとの戦争は正当だったか

 歴史的に見て、アメリカという国が新しい領土を獲得することになった戦いは、ほとんど侵略であった。
自ら独立を願っていたテキサスはともかくとして、カリフォルニアなどを奪ったメキシコとの戦争は、アメリカから挑発したものとされている。
メキシコの遺跡「メキシコの歴史」帝国、植民地、そして自由を求めた人々
 第16代目の大統領エイブラハム・リンカーン(1809~1865)は、メキシコとの戦争の時代(1846~1848)は、下位の議員であった。
その彼は後に述べた。
「メキシコへ軍隊を派遣した行為は明らかな憲法違反であった。メキシコはいかなる点でも合衆国やその人民を苦しめたり、脅かしたりはしていなかった」

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