曹操、曹丕、夏侯惇、荀彧、郭嘉「魏の国の武将12人」

魏の国

三国最強だった国

 三国時代(184~280)と言っても、争いあう構図であったしょくの力関係は対等だった訳ではない。
三国の始まり 「魏呉蜀の成立」曹操、孫権、劉備。三国時代を始めた人達の戦い
 実際には、三国の中でも、魏(220~265)の規模が圧倒的で、中原の2/3ほどを、支配していたという。

魏王。魏皇帝二代

曹操。機知に富んだ実力主義者

 曹操そうそう(155〜220)は、幼名を吉利きつり、または阿瞞あまんと言った。
 宦官かんがんの養子の子であり、その事がコンプレックスだったとされる。
石碑 「中国、三国志の時代の主な官位、階級」全・読み方、ふりがな付き
 体が小さかったという話がいくつか伝わっている。
世説新語せせつしんご後漢ごかん末から東晋とうしんまでの、著名人の逸話いつわを集めた、5世紀くらいの小説集)によると、曹操は魏の王となってから、使者に対し、体格の立派な部下に代わり身になってもらい、自分は側近のふりをしてしまう事があったという。

 幼い頃の話も多いという。
ある時、遊んでばかりの彼を見かねた叔父が、彼の父に忠告した。
それを知った曹操は、叔父の前で、 突然苦しむふりをした。
慌てた叔父は、すぐに父を連れてきたが、曹操は平然とした様子で言った。
「おじさんは僕を嫌ってるから、いつも悪く言うんだ」
以後、曹操の思惑通り、父は叔父を信用しなくなったという。

 20歳くらいの時に、推薦されて郎(官吏かんり)となり、洛陽北部尉らくようほくぶいという役職に任命される。
これは不正などを取り締まる立場で、曹操は、とにかく、法を破る者には、身分の高い者だろうが、身内だろうが、容赦なかったという。

 189年くらいに、当時権力を握っていた董卓とうたく妥当の名目で兵を募る。

 曹操は、敵軍を打ち破ると、優秀な人材をよく自軍に吸収した。
戦利品を武功を立てた者に惜しみなく与えるなど、完全実力主義だった。

 無差別らしき大量殺戮の記録があるために、創作などでは悪役として描かれがち。

 196年に、呂布に領地を襲撃され、逃げてきた劉備りゅうびを、「こいつはずっと人の下についてるような奴じゃない」という、配下の進言にも関わらず、受け入れた。
当然、そうなったが、つまり後に劉備とは敵対するが、曹操としては、「時期ではなかった」のだという。

 208年に丞相じょうしょうの地位となる。
赤壁で、劉備と孫権そんけんの連合軍と対峙。
この戦いで、火攻めにあって退却する事になった時に、曹操は、劉備を「わしと同等らしい」と認めていたという。
ただし、「詰めがわしより甘いがな」と笑いもしたらしい。

 本が好きで、兵法書を持ち歩いていた。
優れた戦術は、優れた軍師譲りだったのかもしれない。

曹丕。魏の国を豊かにした初代皇帝

 曹丕そうひ(187〜226)は、曹操の子で、父の勢力を受け継いだ、魏の初代皇帝。
幼い頃から特別な教育を受けて育ち、6歳の頃には弓術を極めた。
さらに8歳で、騎乗したままの射的を体得したという。
 剣術も好み、様々な流派の師に教えを受けた。

 また、8歳の頃から、文章をよく書き、父と同じく本好きだった。

 曹丕は正室の子だが、実は曹操は、側室との子である曹長沖そうちゅうの方が優れていると考えていた。
曹沖が13歳で病死してしまってからも、曹操はなかなか彼を後継者として認めなかった。
彼は、あるいは器用貧乏という奴だったのかもしれない。
ようやく認められたのは31歳の頃とされる。

 曹操は、あくまでも後漢の皇帝の下の魏王として、自分を置いたが、それはほぼ形式だけのものであったから、彼はあっさり、禅譲ぜんじょう(つまり譲られる)形で、皇帝(文帝)となった。
 この経緯は、穏便な形であったが、劉備の蜀においては、「皇帝は殺され、地位を奪われた」というように伝わったか、あるいは宣伝され、劉備が皇帝を打倒する大義名分となった。

 曹丕がよき王であった事は確かなようである。
曹操よりも優れていると称された彼は、官吏を選ぶのに、生まれより才能を重視した。
一方で、貧しい人達を援助した。
魏王朝は大いに発展し、彼の代の頃は黄金時代と言えた。

 曹丕は、兄弟と不仲で、何人か殺したという説もある。
ただし、正室の子なのに、曹操に冷遇されてたのが真実ならば、兄弟を恨むのは仕方なかったかもしれない。

曹叡。曹操も期待していた二代目皇帝

 曹叡そうえいは、曹丕(文帝)の子。
幼い頃から才気があり、祖父である曹操も大いに期待していた。
しかし、母であるしん皇后が誅殺ちゅうさつ(罪に問われ殺害)されたために、太子になかなかなれなかった。

 曹丕と狩猟に出かけ、母子の鹿と遭遇し、先に母を射抜いた父に、子を射るよう言われ、「陛下が母を殺した後で、私がその子を殺すのは嫌です」と答えた時に、太子となったという話がある。

魏の将軍、軍師

夏侯惇。短気か。真面目か

 夏侯惇かこうとんは、激しい希少の持ち主で、14歳の時に、学問の師を侮辱した相手を殺した。
しかし、偉くなってからは、真面目で親しみやすい人柄で、余分な財産は人に分け与えるような人だったという。

 曹操が最初に挙兵した頃から、彼の軍にいたようである。

 曹操が徐州じょしゅう陶謙とうけんと対立し、遠征すると、夏侯惇は濮陽ぼくようの留守を任される。
張邈ちょうばくと呂布が謀反むほんを起こすと、鄄城けんじょうにいる曹操の家族を救出しに行こうとする途中、呂布の軍と遭遇。
呂布は降伏すると見せかけ、すきをつく作戦で、夏侯惇を捕らえ、人質にしたが、構わず攻撃しようとしてくる夏侯惇の軍に逆に怯えさせられ、結局彼の救出すら許してしまう。

 それから、徐州から戻った曹操と、呂布討伐に従軍するが、その戦いで矢が当たってしまい左目を失う。
それからは軍内で、盲夏侯もうかこうと呼ばれるようになったが、彼自身はこの呼び名をかなり嫌っていたという。

 曹操の厚い信頼を受けていて、同じ車に乗ったり、寝室に出入り狡事すら許されていたという。
また、216年の孫権討伐の際には、26の軍の総司令官となっている。

夏侯淵。急襲の達人

 夏侯淵かこうえんは、夏侯惇の従弟にあたる。

 曹操が罪を問われてしまった時に、彼の身代わりとなった。
その後は、曹操に救出された。

 曹操が、挙兵した時に、彼は騎都尉として従い、やがて陳留ちんりゅう潁川えいせんの太守に任命された。

 彼は急襲戦法を得意として、敵の不意をつくのが得意だった。
「3日で500里、6日で1000里」と讃えられていたという。

夏侯覇。蜀と別れた血筋

 夏侯覇かこうはは、夏侯淵の息子。
父である夏侯淵は、蜀との戦いで戦死したために、復讐心を抱いていた。
しかし内輪もめの末に、蜀に亡命する。

 蜀に向かう途中、道に迷い、疲れはてた彼を蜀は助けてやった。
実は、夏侯覇の従妹の娘が、張飛の妻となっていたので、その縁ゆえだった。
おかげで、蜀でも、待遇はかなりよかったようである。

荀彧。人の才を見抜く才能

 荀彧じゅんいくは、曹操と敵対する袁紹えんしょうに仕えていたが、「彼は大事をなすような男ではない」と見限り、曹操のもとにくだった。
 才能豊かと評判であったので、実力主義の曹操は大歓迎した。

 194年の、曹操の陶謙討伐のための遠征に際し、留守を任され、謀反を起こした呂布達の動きを、いち早く察知。
兵を準備して、曹操を待ち、最終的には呂布撃退へと繋がっていく。

 出世してからも、公平な目で人を見る人だった。
身分を気にしないどころか、時には身分の低い人にへりくだりもしたという。
また、才能がないと感じていた甥を、要職にはつけなかった。
 曹操は、軍事、国事を問わず、あらゆる事において、彼に意見を求めた。
とにかく荀彧は、才ある人を見抜くのが得意だったようである。

程昱。太陽を掲げる

 程昱ていいくはもともと程立という名前だったが、「若い頃に、太陽を掲げる夢」を見たという話を聞いた曹操が「日」の字を加えさせた。

 黄巾の乱が勃発した時、賊を恐れ、東阿とうあ県令けんれい(県を取り締まってた人)達は、逃走して行方知れずとなり、官吏や民衆は家族を連れて東の山に避難した。
 程立は、賊を観察し、城を守りきれると判断。
山に逃げた者達は説得に応じなかったが、数騎をやって、「賊が来たぞ」と慌てさせ、城に戻らせた。
そして、賊はしっかり撃退出来た。

 荀彧と共に、呂布が反乱した際には、曹操が戻るまで、前線を維持した。

 劉備が曹操の下に来たとき、「殺すべき」と進言したのは彼であったという。

郭嘉。先見の目を持った、変わった人

 郭嘉かくかは、少し浮世絵離れしているところがあり、英雄の資質ある者とは付き合うが、俗世間とは関わりを持とうとしなかった。
 袁紹と会った時は、彼が英雄の器でないと判断し、早々に立ち去った。

 しかし、彼を知る少数の人は、誰もが彼を高く評価していた。
計略を相談できる相手を求めていた曹操に、荀彧は、郭嘉を推薦した。
 それから郭嘉は、曹操と直に会って、天下について議論。
「彼こそが天下をとる器」だと考えた。

 呂布討伐の際、守りを固め、なかなかしぶとい呂布に対し、一時ひこうとした曹操に、追撃を進言。
結果的に曹操は、呂布を捕らえる事に成功する。

 驚くべきほどの先見の目を持っていたようである。
袁紹と劉備の軍に挟まれている形になっている時、劉備を攻めたいが、背後から袁紹が不意打ちしてくるのではないかと懸念していた曹操。
郭嘉は、「問題ない、袁紹は優柔不断な奴だから、何もしてこない」
その通りになり、曹操は劉備を打ち破ることに成功した。
 また、劉備か曹操のもとに来た時には、程昱と共に、「生かしておくのは危険」と進言したという。
ただし、「劉備もまた英雄の器であり、殺すことは悪評につながる」と進言したという、まったく逆の話も伝わっている。

張遼。冷静かつ勇猛

 張遼ちょうりょうは呂布の配下であったが、曹操が呂布を破った後に、軍を率いて、降伏する。
 そうして、曹操に仕えてからは、次々に武功を立てた。

 常に冷静沈着かつ勇猛で、ある時、反乱を企てた者が、夜中に火を放ち騒いだが、「反乱に加担していない者は動くな」と騒ぎを沈め、下手人を切り捨てたという。

楽進。小さな体に強い度胸

 楽進がくしんは、小柄な体格に、強い度胸で知られていた。
 もともと、単に記録係の役人だったのだが、兵として、戦いに参加するようになってからは、次々と武功を立てた。

 張遼、李典りてんと共に、合肥ごうひの駐屯を任じられる。

李典。軍事より学問

 李典は、共に曹操の配下である張遼、楽進と仲が悪かった。

 しかし、ある時、合肥をかけた、孫権の軍勢との戦いを、曹操に任せられた時、「これは国家の一大事。個人的な戦いは今は置いておいて、国家のために協力しあおう」と告げたと言う。
結果、三人は協力し、見事、数で勝る孫権軍に打ち勝った。

 李典は、軍事より学問を好み、武功に拘らなかったので、曹操軍への貢献のわりには、あまり出世しなかったようである。

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