「隋王朝」賢き皇帝、愚かな皇帝。あまりに早かった滅亡

短命な、しかし重要な統一国家

 中国の歴史全体の中でも、大混乱期にあたるとされる「魏晋南北朝時代ぎしんなんぼくちょうじだい」を終わらせたずい(581~618)は、半世紀にも満たない短命に終わったけれども、非常に重要な仕事をいくつも成し遂げた王朝だったとされる。
「魏晋南北朝時代」分裂した中華、異民族たちの国家、中国史上の大混乱時代
 三国時代以来、400年ほども続いた分裂を修復し、多民族、文化的多様化、学の広がりなどにより、しんの頃より、ずっと難しかったと思われる統一国家の形成に成功した。
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さらには次に300年続くとう(618~907)の基盤となり、結果的に多くの影響を後世に残すこととなった。

魏晋南北朝時代の結末

 広大な(ただし現在の領土に比べればまだまだ狭い範囲だったとされる)中国の北と南に王朝が分かれていた南北朝時代なんぼくちょうじだい(439~589)の末期。
さらに北斉ほくせい(550~577)と北周ほくしゅう(556~581)に別れていた北側において、北周が北斉を滅ぼしたのは、577年のこと。

 そして中国北を統一した北周は、581年には隋と名を改めた。
禅譲により、新たな皇帝となった楊堅ようけん(541~604)は、久々の統一王朝の皇帝にもなるわけである。

 勢いにのって隋が、当時の南の王朝であったちん(557~589)を滅ぼして、 中国を再統一したのは589年のこと。
長い分裂期の事を考えると、わりとあっさりした戦いだったようだ。

賢き文帝

三省六部。中書省、門下省、尚書省

 北周は名前通りに、古代王朝のしゅうを意識したという、「六官りくかんの制」という政治体制を採用していた。
これは、 天官、地官、春官、夏官、秋官、冬官の横並びの政治組織が王の下についているもの。
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 古代の中国よりの系譜を有するという漢族の他。
匈奴きょうど」、「けつ」、「鮮卑せんび」、「てい」、「きょう」などの「五胡ごこ」と呼ばれる諸部族たちが入り乱れていた混沌とした時代。
六官の制は、漢族が理想としていた方式だったので、彼らを味方につけるために有効だったらしい。

 しかし隋の文帝(楊堅)は、わりと北周の影響からの脱却を図っていたようである。
そもそも広大な国土を統治する場合、皇帝を頂点とするピラミッド形の政治体制が望ましいと考えられていたので、そういう意味で横に長い六官は、はなから微妙であった。

 むしろ隋の政治体制は、打ち破った敵であった北斉の影響が強かったとされている。

 隋が採用した『三省六部さんしょうりくぶ』は、後の時代の中国の政治にも大きな影響を残しているという。

 三省とは、中書省ちゅうしょしょう門下省もんかしょう尚書省しょうしょしょう)という三機関のこと。
中書省は、皇帝と相談して、法案などの文章を用意する。
門下省は、出された法案を審査する。
尚書省 は、門下省の審査を通った法案を実施する。

 中書省は唐以降の名称で、隋の頃は「内史省」だったらしい。

科挙の始まり

 戦乱の時代であったとされる魏晋南北朝時代は、地方貴族が自分たちの地方で強い権力を持った、貴族の時代でもあった。
だが、この地方の貴族が力を持つことによって起こる権力争いが、統一国家の安定を常に危険にさらしてきた。

 そこで文帝は、 各地の行政に関する人事権を中央に回収した。
つまり、それまでは中央に選ばれ各地の長官が、 自分の担当する地域の下の者たちを選んでいたわけだが、長官以外の官吏かんり(役人)も、中央が任命する形とした。
さらには、赴任先は出身地以外という、「回避の制」と呼ばれる原則も実施。
明らかに、故郷のコネを警戒してのことであろう。

 また、古くから(特に中央)政府の役人は、貴族の家の生まれというのが最低条件とされていたが、文帝はここにきて、『科挙かっきょ』と呼ばれる、 毎年、州ごとに数名ずつの合格者を出す、官僚雇用試験を用意した。
この試験は身分に関係なく誰でも受けることができた。

 この科挙というのは、しん(1616~1912)の時代まで存続していたそうである。

幼き頃の伝説

 文帝は中国の歴史に数多くいる仏教に傾倒した皇帝の中でも、信者としてのレベルが特に高いひとりだったとされる。
実際、北周は仏教をわりと弾圧していたようだが、文帝は即位するや、出家制限をすぐ解除し、経典や仏像を作る自由を認めたという。
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 こんな伝説もある。
寺で産まれた楊堅がまだ幼い頃。
そこに智仙尼ちせんにという尼が現れ、「この子は特別に教育する必要がある」などと言って、実際に特別に教育した。
実の母は、子に会うことを禁じられていたが、ある日ついに我慢に耐えかねて、こっそり会って抱いてみた。
すると、彼の頭から角が生え、体中が鱗に覆われ、母は驚いて子供を床に落としてしまった。
そこで尼が現れて嘆いたという。
「これで、この子の天下取りが少し遅れることになってしまいました」

宇文愷。皇帝に仕えたエンジニア

 北周は、陝西省せんせいしょう西安せいあんの町に、首都を置いていたが、文帝はそこに新しく、大興城だいこうじょうという巨大な城(と呼ばれる都市)を建設させた。
これは唐の時代には、「長安城ちょうあんじょう」とされるようになる。

 大興城は、東西約9700メートル、南北約8600メートルという、凄いスケールの構造であったらしい。

 これの建設の責任者であったとされる宇文愷うぶんがい(555~612)は、今に名を残す大建築家。
彼は文帝の次の煬帝ようていにも仕え、彼の時代の洛陽城らくようじょうの建設にも関わっているという。

 他にも大規模な運河の開設や、高精度な水時計の設計、移動できる折りたたみ式宮殿など、技術者としての宇文愷のエピソードはかなり多いようである。

独孤伽羅。強すぎた女

 文帝の皇后である独孤伽羅どっこから(544~602)は、(少なくとも当時の基準では)とても強い女であったとされる。
西魏せいぎ(535~556、北周の前身)の、匈奴の将軍であった独孤信どっこしん(502~557)の娘のひとりである彼女は、14歳の時に楊堅と結婚した。
そして結婚の際に、他の女と子供を作らないことを誓わせたという。

 独孤伽羅の立場は、楊堅が皇帝となってからも強いままだったようで、彼はこの誓いをほぼ完全に守らされていたという。

 いつでも監視の目があったというのは大げさな話であろうか。
文帝は一度だけ、奴隷の娘と関係を持ったらしいが、その娘は見事に殺害されている。
そしてなかなか興味深いのはこの後である。
皇帝は浮気相手の娘を殺した件に関して、皇后にかなり怒りを持ったそうだが、それを面と向かって言う勇気はなく、とりあえずは宮殿を出ていったらしい。
ようするに怒って家出したらしい。
そして説得に追いかけてきた大臣たちに対して、「俺は皇帝であるのに、女一人自由にできない」と不満をぶちまけたという。
大臣のひとりは「たかが一婦人のご乱心などあまり気にされますな。天下の方が大切なりましょう」などと説得したが、どこでそれを聞いたのか、たかが一婦人などと称されたことにムカついていた皇后は、後に理由をつけてその大臣を失脚させたそうである。

暴君とされる煬帝

皇太子の座を上手く奪う

 文帝と皇后の間には6人の子がいて、その長男の楊勇ようゆうが最初は皇太子として立てられた。
しかし、皇后の性的潔癖症の範囲は息子にも及んでいたため、彼女は女好きと評判だったこの長男を嫌っていた。

 特に楊勇は、愛人のひとりに入れ込んで、正式な皇太子妃を殺害したともされている。
これに皇后はかなり怒ったようである。

 一方で次男である楊広こうようは、その隙に取り入った。
つまり彼は、兄とは違い、女性に対して紳士な男を装い、皇后に取り入ったとされている。
また父、文帝に対しても、真摯な姿勢を心がけ、気に入られたという。
後の記録から考えるに、大なり小なりそれらには演技、演出があったと思われる。

 そして600年頃、次男は見事に、長男から皇太子の座を奪うことに成功したのだった。

美女を巡る親子喧嘩

 皇后が602年に亡くなった後。
ある意味で、ようやく解放された文帝は、宣華夫人陳氏せんかふじんちんし(577~605)と、容華夫人蔡氏ようかふじんさいしという、二人の美女を新しく愛した。

 しかし604年。
文帝もまた病で弱った時に、以前から二人の美人に目をつけていた楊広は、これを好機と見て、とりあえずは陳氏に関係を迫った。
文帝はそれを知って怒り、楊広を皇太子から廃そうとすら考えたらしい。
ところがその後、文帝は急死。
一方、父が死んだのと同じ夜に、楊広は陳氏を無理やり寝室に招待したそうである。

 当然の流れではあろうが、その後は、蔡氏も楊広と夜を共にした。

 そうして、後の世に、ひどい暴君として語り継がれる煬帝が現れたのだった。

 煬帝は暴君として知られているが、彼をよく研究している者はたいてい、後の世の意図的な脚色などがあるという点では、わりと意見が一致するらしい。

大運河の建築事業

 一般に、アジア全体でもかなり長い川である「長江ちょうこう」や「黄河こうが」に挟まれた地域を「華中かちゅう」と言う。
そして華中より、北に「華北(河北省、山西省、内モンゴル自治区、北京市、天津市)」、東に「華東(山東省、江蘇省、安徽省、浙江省、江西省、福建省、上海市)」、南に「華南(広東省。広西チワン族自治区。海南省)」。
それに西には、西北(陝西省、甘粛省、青海省、寧夏回族自治区、新疆ウイグル自治区) と西南(四川省、貴州省、雲南省、重慶市、チベット自治区)
ちなみに華北より東には、東北(黑龍江省、吉林省、遼寧省)
もある

 煬帝は、長江や黄河で分断されている北と南の中華を繋ぐ大運河の建設事業で有名である。
そして彼は、この建設に関してかなり焦っていたともされ、かなり大量の人員を投入したそうである。
そしてそんな労働環境が、結構ひどかったことも、彼が暴君と言われる理由のひとつらしい。

朝鮮半島の国々

 隋の時代。
中国の東北の方、つまり朝鮮半島の方には、「百済くだら」、「新羅しらぎ」という国があり、また それら両国と中華との間にも「高句麗こうくり」という国があった。

 三国のうち最も勢力が強かったとされる高句麗は、隋が成立した時、すぐに使者を送って、良好な関係を築いた。
だが、隋が中国を統一した後は、今度は自分たちも侵略されてしまうのではないかと恐れ、両国の外交はかなり緊張したものとなった。

 そして598年に、隋は高句麗に軍を派遣させた。
しかし、文帝がわりと強行したらしい、この遠征は敗北で終わったようである。
その後、二代目皇帝となった煬帝も、たびたび高句麗遠征を試みたが、地の利は守る高句麗側にあった。

 隋側は、また密接な関係を持とうと提案もしていたが、高句麗は聞く耳持たなかった。
まず間違いなく、結局は自分たちを支配しようという将来の計画に感づいていたのであろう。
高句麗からしてみれば、 自分たちの国を自分たちの国のまま守るためには、戦いしか道はなかったのだろうと考えられる。

 煬帝はといえば、どうも彼は高句麗に対して拘りがあったらしい。
ひくにひけない状態だったのかもしれない。
とにかく彼は、失敗しても失敗してもめげないで、力任せな侵略戦争を繰り返した。
しかしそれが国を弱らせて、また民の不満をもたらしたのだとされる。

大反乱と皇帝の諦め

 610年頃。
弥勒菩薩みろくぼさつを自称する白装束の集団が、洛陽の城の前に現れ、隙をついて門番たちから武器を奪った。
これは、後の時代にも時々現れる、弥勒の降臨による世直しを目指す、「弥勒教」の最初の反乱であったとされる。

 弥勒教は、地上における理想世界の実現を説く。
そして、天命を受けた偉大な天子の出現を説く「讖緯説しんいせつ」と結んで,隋より以後の、宗教的な反乱をよく起こしていくことになる。
さらに南宋南宋なんそう(1127~1279)の頃には、「白蓮びゃくれん教」という宗教結社と合流し、さらに一大勢力を成すようにもなる。

 大運河事業、高句麗遠征などの政策を強引に急がせたために、そのしわ寄せをこうむっていた民たちは、各地で反乱を起こす。
弥勒教は一部にすぎない。
それは、中国全土で数百もの反乱集団が蜂起するという、歴史の中でも、他に例を見ないほど壮大なものだったという。

 煬帝も、最初は何とかしようと考えたようだが、あまりにも反乱の規模が大きくなりすぎて、もはやどうしようもないことを悟り、そして耳を塞ぐという手段に出た。
616年くらいから、彼は政治から意図的に離れて、ただひたすら遊び呆けた。
だが、外部で現実は動き続け、618年に、彼はついに殺された。

 そうして隋という時代も終わったのだった。

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