「魏晋南北朝時代」分裂した中華、異民族たちの国家、中国史上の大混乱時代

中国史上最大級の混乱期

 統一国家(とされている)周(しゅう)の時代は、 紀元前11世紀から紀元前3世紀頃まで続いたとされるが、少なくともその後半は、 いくつかの有力な国家がその覇権を賭けて争い合う『戦国時代(春秋戦国時代(しゅんじゅうせんごくじだい))』と呼ばれる時代であった。
その戦国時代は、秦(しん)という国が天下統一を成し遂げるまで続いた。
西の城 「周王朝」青銅器。漢字の広まり。春秋時代、戦国時代、後の記録 万里の長城 「秦王朝」始皇帝政の父母、性格、政治政策、最期。統一国家、中華の誕生
 秦はわりとすぐに滅んだが、そのまたすぐ後に統一国家として現れた漢(かん)は、そこそこ長く(紀元前206~紀元220)続いた。
漢の仏教 「漢王朝」前漢と後漢。歴史学の始まり、司馬遷が史記を書いた頃
 漢も終わりの時が近づいていた184年頃に、三国時代は始まったとされる。
大規模で組織的であったとされる農民反乱、「黄巾の乱」の勃発あたりから、成立しだした、魏(ぎ)、蜀(しょく)、呉(ご)が争いあう時代である。
三国の始まり 「魏呉蜀の成立」曹操、孫権、劉備。三国時代を始めた人達の戦い
そして三国時代の次とその次。
五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)(304~439)や、南北朝時代(なんぼくちょうじだい)(439~589)もまた、激動の時代であったとされる。

 中国の歴史には、政治的な混乱の時代と、安定の時代とのサイクルがあると言われる。

 三国時代、五胡十六国時代、南北朝時代の頃を まとめて「魏晋南北朝時代(ぎしんなんぼくちょうじだい)」と呼ぶ。
それは、新たな統一国家、隋(ずい)(581~618)と唐(とう)(618~907)の時代までの、混乱期とされている。

いくつかの課題。階層社会、民族間抗争

 400年ほど続いた漢の時代は、国家の社会経済の文化に大きな進歩をもたらしたとされる。
そしてその恩恵は、庶民のレベルにまで及び、それ以前の時代において経済的にほぼ均一であった、その(庶民の)領域においても貧富の格差を生み出した。
それは、社会のより複雑な階層化を発生させ、絶対的なはずの中央の権力を弱めたとされる。

 平和な安定した時代は、中央権力の腐敗も招き、各地における、国の再構築をめざす反抗勢力の発生と拡大も招いた。
そうした流れから、漢の滅びは、当然の成り行きだったのかもしれない。

 また、 大きく発展した社会や文化は、周辺諸国、 つまりアジアの他の古典文明にも大きな影響をもたらし、 中国外の地域の(つまり漢民族以外の)民族たちも、多く引き寄せることとなった。
そうして中華の地に、漢民族と、非漢民族が集い、争いあう、混沌の時代は始まったのだった。

 階層社会の安定化と、民族間の抗争の解決。
魏晋南北朝時代の国家には、大きな課題として、それら二つが立ちはだかっていたのだという。

漢の終わりと、三国時代

 漢は、紀元に入って間もなくくらいに一旦滅び、しかし15年ほどしてから再興されている。
そして、いったん滅ぶ以前を前漢(ぜんかん)(紀元前206~紀元8)、再興してからを後漢(ごかん)(25~220)と呼ぶ。

 後漢の八代目皇帝である順帝(じゅんてい)の頃(125~144)くらいから、災害や飢饉が連続した影響で、農民の反乱もよく行われるようになった。

 同じく順帝の時代。
かん(かんきつ)という人が、「太平清領書(たいへいせいりょうしょ)」という書で神仙の教えを説いた。

 そして後に、河北省(かほくしょう)は鉅鹿郡(きょろくぐん)の張角(ちょうかく)が、太平清領書の教えに民間信仰を加えた独自の道教、「太平道(たいへいどう)」を創始。

 大賢良師(だいけんりょうし)と自称した張角の太平道こそ、農民の組織的な大規模反乱である黄巾の乱の核であったとされる。
信者が増えて組織としての規模が大きくなってくると、政府もさすがに警戒をするようになり、弾圧をかけたりもしたが、それが逆に信者の団結を煽り、反乱思想は革命思想へと転じていくことになった。

 政府は、かなり時間はかかったが、黄巾の乱はなんとか鎮圧に成功する。
しかしそれによる弱体化に続いて、内部の権力闘争により、実質190年くらいまでに漢は滅んだ。

 それから、それぞれに紆余曲折を経て219年までに成立した、魏、蜀、呉の三国の内、280年に中国を再統一したのは、魏を前身とした、晋(しん)であった。

慈悲深き司馬炎

 魏に生まれた司馬炎(しばえん)(236~290)は、若くして「寛恵にして仁厚(寛大で思いやり深い)」などと称されていたそうである。
また、母方の曾祖父である王朗(おうろう)や、父方の祖父である司馬懿(しばい)も、魏の元勲(げんくん)、すなわち国家に大きく貢献した有力政治家として知られている。

 司馬炎は、魏の最後の皇帝である元帝より禅譲(ぜんじょう)、つまり帝の地位を譲られることで、自らが新しく建国した晋の初代皇帝となった。
彼らはそれから間もなく 三国の争いによる混乱によって、途絶えていた、優れた庶民への爵(しゃく)の賜与(しよ)(目上の者が目下の者に何かを与える行為)を施工したとされる。

 安定していた漢の時代においては、年齢秩序を重視しながら、各地の農村などの指導者に、爵位を与えることはよくあったという。

 当時の混乱期においては異例であったろう司馬炎の政策は、分裂感のあった政府と民との団結を促す、いわば安定した未来を見据えたものだったと評価されることもある。

 また、後漢末くらいからは、宗室(そうしつ)、つまり王家の同族の者は、(おそらく身内の者すら信用できないような環境であったため)政治的に冷遇され監視下に置かれるというのが、ほとんど通例だった。
しかし司馬炎は、同じ司馬一族や、それに近しい血筋の者たちに、積極的に各群の指導者として地位を与え、むしろ政治的に優遇されしたという。
これもおそらく彼なりの礼教に基づいた政策だったのだろうとされる。

 それに司馬炎は、魏や蜀など、すでに滅びた国家の官僚の宗室の者たちにも、 あっさりと新たな官職を与えるなど、寛大な態度を見せている。

より安定した社会を目指して

 三国時代を始めた三国の内、最後まで残っていた呉だが、241年に皇太子の孫登(そんとう)が死亡した際の、後継者を巡るいざこざより、政府内には亀裂が走っていた。
そうした状況が解決せぬまま、264年に、まだ20歳ほどと若い孫皓(そんこう)が即位。

 孫皓はろくでもない皇帝だったとされている。
王宮自体が崩壊の危機にあるというのに、残虐な振る舞いなどが目立ったという。

 そうした呉の内部の混乱は、晋からしてみれば好機であった。
皇帝の権力が強くなりすぎることを恐れた貴族たちの慎重な意見などもあったようだが、結局のところ、呉は晋によって滅ぼされることになった。
それが280年のことで、三国時代の終わりである。

 新たに統一国家皇帝となった司馬炎、武帝は、より安定した社会を目指してか、州ごとの軍備を撤廃。
地方ごとには常には軍隊を置かず、有事の際に中央から派遣するという形式を設定したわけである。

五胡十六国時代。大戦乱の頃

 三国時代は、名君とされる司馬炎が率いた晋が終わらせた。
しかしその晋の天下も長くは続く運命でなかった。

八王の乱

 290年頃に亡くなった司馬炎の後を継いだ恵帝(けいてい)、司馬衷(しばちゅう)(259~307)は、司馬炎の次男であるが、皇太子時代より、わりと無能であることが心配されており、その心配は見事に現実のものとなってしまう。

 司馬衷は、飢餓で農民が苦しんでいるという話を聞いた時に「米がないなら肉を食えばいいじゃないか」などと言うほどに無能だったらしい。

 そして皇帝が愚かであったのだから、その周囲の者たちが実質的な 権力を有することになったが、だからこそ、政府内での権力闘争は激しくなってしまった。

 (側室の子であった)皇太子の司馬遹(しばいつ)が、皇后である賈南風(かなんぷう)(257~300)の策略により廃され、殺害されたことなどをきっかけとして、 権力争いはさらに激化。
それが、八王と呼ばれることになる有力豪族たちの抗争にまで発展。

 汝南(じょなん)の司馬亮(しばりょう)。
楚(そ)の司馬瑋(しばい)。
趙(ちょう)の司馬倫(しばりん)。
斉(せい)の司馬冏(しばけい)。
長沙(ちょうさ)の司馬乂(しばがい)。
成都(せいと)の司馬穎(しばえい)。
河間(かかん)の司馬顒(しばぎょう)。
東海(とうかい)の司馬越(しばえつ)。
以上八王が、抗争の中で重要とされたので、306年くらいまで続いたそれは、「八王の乱」と呼ばれる。

 内部にまで大きく広がった混乱は、各地にまた独立思想を持ついくつもの勢力を残してしまった。
最後の八王である司馬越も311年に亡くなり、晋はもうほとんどなんの支えも失ってしまう。

匈奴の王朝

 「匈奴(きょうど)」は、紀元前4世紀くらいに、中央アジアの辺りで遊牧民族だった者たちが出自とされる部族。

 「月氏(げっし)」は、紀元前3世紀くらいに、東アジアに存在した遊牧民族。
紀元前2世紀に匈奴との争いに負けてからは、中央アジアの方にも多くが移住したそうである。
この時に青海省(せいかいしょう)の方に逃れた者たちがいて、そちらの方は「小月氏」、中央アジアに行った者たちは「大月氏」と呼ばれるようになる。

 そして「羯(けつ)」は、4世紀には中国北部の山西に存在した小部族。
その起源は、匈奴か小月氏だろうとされている。

 八王の乱とその前後の混乱により、晋が急激に弱体化していた頃。
山西(さんせい)の匈奴のリーダーだった劉淵(りゅうえん)は、羯族の石勒(せきろく)や、流民の漢族である王弥(おうび)を下につけて、河南(かなん)や山東(さんとう)の地を席巻(せっけん)、ようするに片端から支配を広げていた。

 劉淵は自分たちの国家を漢(かん)と称していたが、彼の後を継いだ者たちは、趙(ちょう)と改めることになる。

 東海王司馬越が亡くなった後、石勒は晋を攻めた。
さらにすでに死んでいた劉淵に代わり、その子であった劉聡(りゅうそう)は、首都である洛陽(らくよう)を攻め落とす。
この戦いというか、侵略は「永嘉(えいか)の乱」と呼ばれる。

 その乱により、晋の三代目皇帝である司馬熾(しばし)(284~313。懐帝(かいてい))も捕らえられ、皇后羊氏(ようし)も匈奴たち側の武将である劉曜(りゅうよう)の妻とされた。

 さらに匈奴の拠点であった平陽(へいよう)にて、拉致された懐帝が殺されると、武帝の孫である司馬鄴(しばぎょう)(300~318)が長安(ちょうあん)で、愍帝(びんてい)として即位。
しかし、この愍帝もまたすぐに匈奴たちに拉致され、318年には殺害された。

 その後は、司馬睿(しばえい)(276~323)が、江南(こうなん)(南のかなり広い範囲)にて、新たに即位し、一応は晋を存続させた。
通常、歴史書などでは、これ以前の晋を「西晋」、以降420年まで続いた王朝を「東晋」と呼び、区別する。

部族どうしの戦国

 「鮮卑(せんび)」は、紀元前3世紀くらいから中国北部をなわばりとしていた遊牧騎馬民族。

 「氐(てい)」は、おそらくはチベット系民族とされていて、紀元前2世紀ぐらいから青海の方にいたとされる。

 「羌(きょう)」は、かなり古くから中国西北部の方に住んでいた民族らしい。

 漢は(318年より)新たに劉曜が皇帝となってから、その国名を趙と改める。
石勒もまた、自分の国を作り、趙を名乗ったが、通常、こちらは「後趙」、劉曜の方のは「前趙」と呼ばれる。

 また華北(かほく)(北中国)では、匈奴、羯以外にも、いくつかの諸部族、あるいはその連合がいくつかの国家を作っていき(そして争いにより滅亡するという繰り返しの)、中国の歴史上でも特に大戦乱と呼ばれる時代である、五胡十六国時代に突入するわけである。

 五胡十六国の五胡とは、漢族を除き、特に有力な部族だった匈奴、羯、鮮卑、氐、羌。

 この時代に興った国は、匈奴の前趙(304~329)、夏(か)(407~431)、北涼(ほくりょう)(397~439)
羯の後趙(319~351)
鮮卑の前燕(ぜんえん)(337~370)、後燕(こうえん)(384~407)、南燕(なんえん)(398~410)、南涼(なんりょう)(397~414)、西秦(せいしん)(385~431)
氐の成漢(せいかん)(304~347)、前秦(ぜんしん)(351~394)、後涼(こうりょう)(386~403)
羌の後秦(こうしん)(384~417)。
そして漢民族の、前涼(ぜんりょう)(301~376)、冉魏(ぜんぎ)(350~352)、西涼(せいりょう)(400~421)、北燕(ほくえん)(407~436)など。

 一般的に十六国と呼ばれるのは、前趙、後趙、夏、北涼、前燕、後燕、南燕、南涼、西秦、成漢、前秦、後涼、後秦、前涼、西涼、北燕。

 胡という字には差別的な意味合いがあるよなので、「東晋十六国」とか単に「十六国時代」と呼ばれることもけっこうある。

中華の思想はどのくらい影響力があったか

 中国外から来た、あるいは漢民族以外の民族たちも、より古くから洗練されてきた中国の文化や思想に影響を受けていたようである。

 例えば劉淵は、儒教の経典や、中国の歴史書(春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん))や兵法書(孫子(そんし))にも通じていたとされる。

 また当時は、移民族の者が中華(中国)の皇帝になれるのか、という議論がけっこう盛んであったらしい。
劉淵は自分の意見として、「王となるのに常にということはあるまい。漢族が聖王としている夏王朝の禹(う)や、周王朝の文王らも、元は移民族ではないか」などと述べているという。
夏王朝 「夏王朝」開いた人物。史記の記述。実在したか。中国大陸最初の国家
 劉淵以降も、偉大な禹と文王を、移民族の王の根拠とした者は多かったようである。

 また、最初は劉淵に取り入り、後には自立して、自分の国まで建てた石勒は、若い頃、漢民族に奴隷にされた経験もあるというのに、漢文化を重んじていた。
そこで、329年に前趙を滅ぼした彼は、漢族が嫌った自分たちのいくつかの(例えば亡くなった父や兄の妻や妾を、新たに妻に迎えたりする)風習を禁じたりしたそうである。
これが漢族との融和を考えた政策なのはほぼ間違いない。

 当時、漢民族は、文化的には他に比べて優位にあったが、軍事的、政治的に負けてしまっていたのだと言われることもある。

 また、中華の王は代々漢民族であるのだから、自分たちはそれ(東晋)に帰属するべきという考えを持っている民族も相当数いたようだ。

南北朝時代。尚も分裂した中華

 420年のこと。
様々な乱にて功績を建てることにより、なりあがった劉裕(りゅうよく)という東晋の将軍が、自らが皇帝の座に招いてやった恭帝(きょうてい)から、禅譲を受けて、新たな王朝宋(そう)を始めた。

 この宋(420~479)は、後に斉(せい)(479~502)、梁(りょう)(502~557)、陳(ちん)(557~589)と続いていく、「南朝」の系譜の始まりであった。

 一方で北(華北)では、鮮卑の拓跋氏(たくばつし)という一族が北魏(ほくぎ)(386~534。魏)という国を建てる。
この北魏は、436年に北燕を滅ぼし、さらに439年には北涼を滅ぼして、華北の統一に成功した。

 こうして、北と南に王朝が置かれた、南北朝時代が始まったのだった。

六鎮の乱

 孝文帝(六代目皇帝)の時代(471〜499)に、北魏の宗室は、その姓を拓跋から、中国的な元(げん)に改め。王朝の首都も、平城(大同)から洛陽へと移す。

 北魏は534年に、東魏と西魏に分裂している。

 もともと平城の北方の守りは最重要とされていて、北魏の政府は、鮮卑や匈奴の有力者を、六鎮(りくちん)という守備兵団として雇っていた。
ところが首都が洛陽に移されてから、 重要度が落ちた彼らは、とたんに冷遇されるようになった。
そしてたまった不満が爆発する形で起きた「六鎮の乱」により、国は分裂までいってしまったのである。

 それから、東魏は550年に北斉(ほくせい)(550~577)に、西魏は556年に北周(ほくしゅう)(556~581)に変わり、さらに577年には、北周が北斉を滅ぼして、華北をまた統一する。

後世に残された仏教寺院

 石窟(せっくつ)というのは、岩場などを人為的に掘削(くっさく)して作った人工的な空間のこと。
広義には、人為的に利用される自然の洞穴もそう呼ぶ。
中国においては、石窟の仏教寺院を単に石窟と呼ぶこともある。

 そして、このくらいの時期の、道教と仏教美術の多くの骨董品と芸術作品が、今も残っている。
5世紀半ばから後半にかけては、大同近郊に「雲崗石窟(うんこうせっくつ)」という東西1kmほどの石窟寺院が建設された時期である。
王朝の後半の首都である洛陽の近くにも「龍門石窟(りゅうもんせっくつ)」という、雲崗の流れを汲んだ石窟が作られている。

 北魏は、支配者階級が仏教に傾倒し、その美術文化を熱心に支援したことで、中国に仏が浸透した時期としても知られるわけである。
お寺 「仏教の教え」宗派の違い。各国ごとの特色。釈迦は何を悟ったのか

新たな統一国家、隋

 北周が577年に華北を統一した時に、楊堅(ようけん)(541~604)は摂政だったようである。

 彼は、般若寺という寺院に生まれ、幼名は金剛力士を意味する那羅延(ならえん)だったのだとされる。
また、尼僧の乳母(うば)により、 幼い頃から仏への信心を仕込まれたとも考えられている。

 この楊堅が、禅譲により、北周を自身の国「隋」に変えたのは581年のこと。
そしてさらに、589年。
隋は南朝の陳を滅ぼす。

 慎重な楊堅は、彼が隋を建国した時点からあったらしい、統一のための戦争に備え、8年の時間をかけて兵を集め、海戦に勝利するための軍船を大量に用意したそうである。

 とにかくこうして、中国はまた統一され、それは南北王朝時代の終わりで、魏晋南北朝時代の終わりとなった。

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