理想的な国家
229年に、孫権が皇帝を称した時に始まったとされる呉(229~280) は、三国時代に争っていた魏、呉、蜀の三国の中で、地味な存在と捉えられがちである。
ただ、豊かな実りに満ちた大地に、豊富な人材に恵まれ、三国の内、最も理想的な国家であったという説がある。
呉の皇帝、孫一族
孫堅。孫氏の子孫か
孫堅(156〜192)は、呉を建国した孫策、孫権の父である。
兵法家として名高い、かの孫氏の子孫であるという説がある。
17歳の時、父と一緒に船で出かけたが、その途中、海賊達が、奪ってきた金銀財宝を分配しているところに出くわしてしまう。
他の旅人達は、海賊達を恐れて近づこうとしなかったが、孫権は父の静止を振り切って、刀を手に、彼らの前に出た。
海賊達は、孫堅を、自分達のことを捕まえに来た兵だと思いこみ、財宝をそこに置いたまま逃げた。
孫堅は、それをさらに追いかけ、海賊のひとりの首を斬って、戻ってきた。
この事件は、彼を非常に有名にしたとされる。
172年に、会稽の許昌が起こした宗教的なクーデターを鎮圧した事から、塩涜の県丞に任じられた。
その後も、任されたどの任地でも、評判よく、民衆から親しみをもたれたという。
孫策。主に失望し、自分で立つ
孫策(175〜200)は、孫堅の長男。
父が、各地の諸侯と手を組み、有力者であった董卓討伐に立ち上がった時、孫策は母と共に、舒に移り住み、戦火を逃れた。
192年に父が死ぬと、江東に移るが、近場の州を治める陶謙に嫌われていたため、親戚である呉景のもとに身をよせた。
194年に、孫策は袁術の配下となった。
孫堅も袁術に仕えていたので、親子二代にわたり配下となってくれた事に、袁術は感心し、孫堅の部下だった1000人を、与えたとされる。
袁術は孫策を非常に評価していたが、なればこそ恐れも抱いていて、彼をあまり高い地位には出世させなかった。
それで失望した孫策は、独立し、自身の国、呉を持つに至る運びとなっていく。
孫権。優れていたが、最後には失敗を続けた太陽の子
孫権(182〜252)が生まれた時、父である孫堅は、赤子の彼を見て、「これはよい。高貴な位に昇る相だ」と喜んだという。
母は、孫権の兄である孫策の出産前には、月が懐に入ってくる夢を見た。
孫権の時にも似たような夢を見たが、懐に入ってくるのは、月でなく太陽だったという。
その話を聞いた孫堅は、「月と太陽はそれぞれ、陰陽において最高の象徴」
父が戦死した後、袁術のもとに身を寄せていた孫策が、決起した時に、孫権も兄に従った。
孫策はかなり孫権を頼りにしていて、策略を練る時は、必ず相談し、その頭脳は、自分を上回ると、高く評価していたとされる。
200年に孫策が殺されてしまった後、19歳の孫権は、兄の後を継いだ。
208年、孫権は、魏の曹操から逃げてきた、劉備の使者、諸葛亮からの説得もあり、劉備と同盟を組んで、曹操と戦う事を決意。
降伏もかなり検討したようだが、開戦を決めた後は、机を刀で斬り、「以後、降伏を口にした者は、この机と同じ運命だ」と言ったという。
しかし、一時は手を組んだ劉備とは、領土を巡る確執などもあり、217年に、孫権は曹操に取り入った。
219年には、劉備軍の関羽の勢力を恐れた曹操に、「関羽の首をとって、忠義の証としたい」と上奏した。
そして、実際に関羽を捕らえ、処刑した彼は、その首を曹操に送った。
220年に、曹操が亡くなると、その後継者の曹丕は、皇帝(文帝)を名乗るようになる。
蜀の劉備もまた、皇帝として名乗りをあげたが、孫権は文帝の配下に甘んじた。
そして同年に、呉に責めてきた蜀に対し、防衛戦を繰り広げながら、魏からも責められないよう、文帝の期限取りに必死になった。
象牙や真珠など、国宝級の珍品を献上せよ、という要求に、臣下達の反対を押しきり、品を全て魏に送った。
「劉備が攻めてきた今、領民達を守るのが私の役目。魏帝が求めてきたものなど、ガラクタにすぎぬ」と、彼は述べたという。
しかし結局、魏との関係も悪化していき、呉もまた、ひとつの独立国として、立つ事になった。
優れた人物であったはずなのに、晩年には耄碌してしまったのか、愚行が目立ったともされる。
呉の将軍、軍師
周瑜。生涯変わらなかった忠義
周瑜(175〜210)は、若い頃から音楽に精通していて、 酒の席であっても、演奏家がミスをすると、気づいて振り返ったという。
舒に家族を移住させた際、孫策と出会い、同じ歳だった事もあり、特に親しくなった。
周瑜は、自分の家の南側の屋敷を、孫策の家族に提供した。
父孫堅を失った孫策が、呉に本拠を定めようという時、要請に応じて、周瑜は孫策のもとに自らを置いた。
孫策は、「願いが叶った」と喜んだという。
強い絆で結ばれていた孫策が、200年に死んでしまうと、今度は孫策の弟であった孫権に仕える。
202年に、袁術を破り、勢力を大きくした曹操が、人質を送るよう圧力をかけてきた時には、断固として、従わないように進言。
208年の時は、数十万の兵を率いた曹操が迫り来る中、やはり周瑜は開戦を主張した。
ただし、208年の時に、曹操を絶対的に拒んだのは、魯粛とする記録もある。
彼が36歳で病死した時、孫権は悲しみ、「私はこれから誰を頼りにすればいいのか」
「もし周瑜がいなかったら、私は皇帝にはなれなかった」
と悲しみ、嘆いている。
208年の、曹操との赤壁の戦いの後は、「人の下にいるような奴じゃない」と、劉備を警戒していた。
また、劉備の方は、孫権と周瑜の仲を裂こうと、同じように、「周瑜のような優れた男が、いつまでも人の下に仕えてはいないだろう」と述べた事もあったようだが、周瑜の忠義は、生涯変わらなかった。
魯粛。大局を見ていた
魯粛(172〜217)は裕福な家に生まれ、有能な人物と交流しながら、貧窮している人には遠慮なく金を分け与える人格者だった。
しかし、若者を集めて集団を作り、野山を駆け回ったりして、兵法の練習をしていたから、年老いた者の中には、「あれはうつけ者だ」と陰口を言う人もいた。
ある時、彼は袁術に召されたが、袁術は大事をなせる器でないと考え、前から親交のあった周瑜のもとに来た。
そして周瑜の推薦で、孫権に仕える事となった。
208年に、曹操の大軍が迫った際、多くの臣下が、孫権に降伏を勧めた。
しかし、魯粛は、孫権を手洗いに誘い出し、告げた。
「降伏を主張する者は、自分のことしか考えてない。私達臣下は、曹操のもとであっても、それなりの待遇を得られるかもしれないですが、殿は違います」
生前は、劉備との同盟を大切にしていたようで、彼が尽力したおかげで、彼の生前に、呉と蜀の同盟が崩れる事はなかった。
後に孫権は、魯粛について、「成り行きを見通せる人物だった」と述べている。
呂蒙。関羽を追い詰めた将軍
呂蒙は幼い頃に、孫策に仕える親戚のもとに身を寄せ、こっそり軍について行っては母に怒られたという。
呂蒙はしかし、母に「今は貧しくとも、運よく手柄を立てることができれば、出世することもできます」と答えていた。
呂蒙はもともと武芸一筋であったが、ある時、仕える孫権に、「 将軍というものは広く学問を修め、あらゆる物事に通じていなければならぬ」と言われて、猛勉強をした。
そして、周瑜が死んで、呉の軍の最高司令官となった魯粛と、久々に会談した時に驚かせた。
「お前はもう、出会った時の阿呆ではないな」と魯粛が言ったのに対し、呂蒙はこう返した。
「士たる者、3日会わなければ、どう成長しているか、わからないものですよ」
魯粛が死んだ後、呉と蜀の同盟が、崩れた際に、上手く策略を巡らして関羽を追いつめ、死においやった。
歴史上、人気のある関羽を殺したという事で、創作などではひどく描かれたりする事が多いという。
陸遜。仲間集めの達人
陸遜(183〜245)は、江東の豪族の一族の生まれ。
身を寄せていた親戚が、勢力を拡大していた袁術と敵対した時、一族の者を任せられた陸遜は、呉の国に避難した。
孫権が将軍になると、県の役人となった。
貧しい人達に施しをするなど、民衆の生活の向上に努めた。
呉は異民族の侵略に悩まされていたが、陸遜は志願兵を募って、賊軍を次々と打ち破っていった。
さらに降伏してきた者達から、優秀な者を選び、自分の軍勢に加えることで、自軍の強化も図った。
このような仕事は、孫権からも大いに評価されていたという。
関羽の死後。
蜀の皇帝、劉備は、大軍を率いて、呉に侵攻してくる。
軍の指揮を任された陸遜は、自軍に対し、守りに徹するように命令。
臆病者と、不満をあらわにする者達に対し、彼は「殿の御恩に報いようともせず、滅ぼすようなことをしてよいと思うのか」と返した。
そうして、陸遜の軍は、見事に蜀軍をくい止めたという。
程普。年長の古株兵
程普は、呉軍の中でも、かなり年長の兵士で、孫堅の代から仕えた古株である。
もちろん孫堅亡き後は、孫策、そして最後には孫権に仕えた。
軍内にも彼を尊敬する者は多く、程公と呼ばれていたという。
赤壁の戦いにおいては、周瑜と共に、軍の最高司令官に任命されたとされる。
諸葛瑾。蜀の諸葛亮の兄
諸葛瑾は、蜀の国の有力人物である諸葛亮の兄である。
徐州の生まれであったが、ある時、戦火から逃れるために、兄弟は生き別れとなった。
頭脳明晰で、物事をわかりやすく説明するのが得意で、孫権に仕えるようになってから、彼から大きな信頼を寄せられていたという。
弟が有力な軍師であるからか、よく蜀の国への使者として使わされたが、兄弟で私的な会合をする事はなかったとされる。
呉軍の中には、彼が裏切るのではないか、と懸念する者もあったが、孫権は「私達は強い絆で結ばれている。彼が私を裏切る事がありえないように、私も彼を裏切らない」と、返したという。