劉備、関羽、張飛、趙雲、諸葛亮「蜀の国の武将7人」

蜀の国

三国志演義でメインとなった国

 三国時代(184~280)に対立していたという、しょくの三国の中で、蜀は一番規模が小さい。
三国の始まり「魏呉蜀の成立」曹操、孫権、劉備。三国時代を始めた人達の戦い  三国時代を、伝説や創作を交え、ドラマチックに描いた、三国志演義においては、メインとして扱われている事もあって、関羽かんう諸葛亮しょかつりょうなど、人気の武将や軍師が多い。

 形式上は、曹丕によって滅ぼされた漢王朝を復興させる流れで建国されたので、蜀漢しょくかんとも言われる。

蜀の皇帝。二代

劉備。人に好かれた破天荒坊主

 劉備りゅうびは幼くして父を亡くし、幼い頃は、母と共に、わらじやカゴなどを作って、生計をたてていた。

 読書よりも音楽や衣服を着飾ることを好んだ。
一方で口数少なく、感情をあまり表に出さなかった。
周囲の人達から、よく慕われていて、彼のもとに集まってくる若者も多かった。
そうして集まってきた中に、関羽と張飛ちょうひもいた。
 ただし、三人、義兄弟の誓いを立てたという、有名な「桃園とうえんの誓い」は、創作の可能性が高いようである。

 黄巾こうきんの乱にて、戦功を立てたので、官職についたが、長続きしなかった。
以降、戦功を立てては、官職につき、しかし辞める、という事を繰り返した。
石碑「中国、三国志の時代の主な官位、階級」全・読み方、ふりがな付き

 やがて、徐州じょしゅうを手に入れた劉備だったが、魏の曹操そうそうに敗れ、逃走してきた呂布を受け入れたために、侵略され、結局土地を失ってしまう。
 しかし呂布とは和解し、捕らわれていた妻子は返してもらう。
だが、兵を集めた劉備をよく思わなかった呂布は、また攻撃を仕掛け、敗れた劉備は、曹操のもとへ逃げて行った。
 曹操の配下には、「こいつは人の下につくような奴じゃないから、殺すべき」と意見する者もあったが、曹操は聞き入れず、劉備は好待遇で迎えられた。
魏の国曹操、曹丕、夏侯惇、荀彧、郭嘉「魏の国の武将12人」  その後、後漢最後の皇帝である献帝の叔父が、曹操の暗殺計画を企て、劉備はそれに関わっていた。
 そんなある日、劉備を食事に招いた曹操は言った。
「今、天下に英雄といえば君と私だけだ。袁紹えんしょうなど取るに足らない」
劉備は驚き、箸を落としてしまったという。

 その後は、結局暗殺計画は失敗するが、それに気づいていたのか、いなかったのか、劉備はさっさと、曹操に反旗を翻す。
 しかし200年に、曹操に敗れた劉備は、今度は袁紹のもとにくだる。
 さらには、袁紹が曹操に敗れた後には、今度は劉表りゅうひょうのもとに身を寄せ、やはり歓迎された。
しかし、妙にカリスマ性ある劉備のもとに集まる人は多く、劉表も警戒するようになっていく。
有名な諸葛亮が、劉備に仕えるようになったのは、この頃とされている。

 208年に劉表が亡くなると、後継者の劉琮りゅうそうは、交戦していた曹操にすぐに降伏。
 しかし劉琮の側近や、民も、多くの者が劉備に付き従い、共に戦線を離脱した。
民の足は遅く、先に行くべきという人もいたが、劉備は一緒について来る者達を見捨てなかった。
彼は言ったとされる。
「そもそも大事を成し遂げるためには、必ず人間を基本としなければならない。今、人々がわしに身を寄せてくれている。それを、わしがどうして見捨てることができようか」

 その後、夏口かこうに逃れた劉備は、孫権と同盟を結び、曹操とあらためて激突。
赤壁で曹操軍を見事に打ち破る。
呉の国孫策、孫権、周瑜、魯粛、諸葛瑾「呉の国の武将9人」 その後は、武陵ぶりょう長沙ちょうさ桂陽けいよう零陵れいりょうの四郡を平定した。

 以降も、孫権、曹操、劉備のつばぜり合いは続いたが、220年に曹操が死に、後継者の曹丕そうひが、文帝を名乗るようになると、事態は一変。
実際には、曹丕が皇帝となった経緯は、禅譲ぜんじょうという平和的なものだったが、蜀には、それが、まるで皇帝が殺害され、地位を略奪されたかのように伝わってきた。
 そして、諸葛亮の進言もあり、劉備もまた、皇帝を名乗るようになったのだった。
しかし、皇帝として生きた期間は短く、223年に、病死。
後の事を諸葛亮に託したとされている。

劉禅。無能とされる、三国一の嫌われ者

 劉禅りゅうぜんは、蜀を滅亡に追いやった張本人というイメージが強く、父である劉備に比べると、全然人気がないという。
 劉備が死に、皇帝に即位したのは、17歳の時。
皇后には張飛の娘が立てられた。
 若かった事もあり、丞相じょうしょうに任命された諸葛亮が、実質的に政治を行う事になった。

 彼については、諸葛亮の死後の無能な政治もそうだが、魏に降伏し、蜀を滅亡させてからの話もけっこうひどいようである。
ある時、宴会の席で、蜀の音楽が流れ、蜀の臣下だった者達は、感激のあまり涙を流したのに、彼は平然としていた。
 「蜀を思い出したかな?」と聞かれた彼は、「ここは楽しくて、そんな事は全然思い出さない」と返したという。
 この様子を見ていた臣下のひとりが、「もし再び同じ質問を受けたら、涙を流し、先祖の墓がありますゆえ、西を向いては心悲しく、一日として思い出さないことはありません。と言って、目を閉じなさい」と進言した。
そしてもう一度聞かれた時、劉禅は、まったく言われた通りの返答をした。
ただ、目は閉じたが、涙は流せなかった。

蜀の将軍、軍師

関羽。劉備のよき友

 劉備、張飛、それに関羽は、同じ寝台で休むほど仲がよかったという。
そして公式の場においては、関羽はいつも、劉備の側で護衛に努め、彼の為ならどんな苦労もいとわなかったとされる。

 実は演技などの創作における華々しい活躍ぶりとは打って変わって、正史などでは、出番が少ない。

 200年に、劉備が曹操に敗れ、袁紹のもとに逃げた時、彼は降伏し、曹操も彼を歓迎している。
しかし関羽は、曹操のもとに長くとどまるつもりはなく、「曹操殿の 気持ちはありがたいですが、私は劉備様から厚い恩恵を受け、共に死のうと誓った仲なのです。裏切ることは絶対にできません。私はここにとどまりはしませんが、しかし必ず手柄を立て、あなたに恩返しをしてから去るつもりです」と伝えている。
 そして、言葉通り、袁紹との戦いで敵将を討ち取る手柄を立ててから、彼は劉備のもとへと帰っていった。
曹操は、それを止めも、追いもしなかったという。

張飛。命をかけて、仲間の盾となった豪傑

 張飛は、若い頃から、関羽と共に劉備に仕えていたが、関羽の方が少しばかり歳上だったので、張飛は彼を、兄のように慕っていたされる。
 ただし、関羽同様、実は真っ当な記録が少なく、事実関係はあまりはっきりしない。

 彼は赤壁の戦い前、曹操軍から逃げる劉備達のしんがりを努めたようである。
張飛は迫り来る曹操軍に対し、川の橋を切り落とし、「我輩が張飛だ。さあかかってこい。死をかけて戦おう」と叫んだ。
誰も、彼に近づく事は出来なかったという。

趙雲。信頼を寄せられていた古株

 趙雲ちょううんも、わりと古くからの劉備の臣下。
劉備が、公孫瓚こうそんさんという人に仕えていた頃、彼もまた公孫瓚に仕えていたのだという。
 趙雲は、劉備と同じ軍で戦い、彼から大きな信頼を寄せられるようになった。
臣下にしてほしいと、劉備に申し出たが、「今はその時でないが、いずれ必ず共になろう」と返されたという逸話もある。

 実際に、劉備の配下に加わったのは、袁紹のもとに劉備がついた時とされている。

 赤壁の戦い前には、逃げ遅れた劉備の妻子を助ける活躍をしている。
この時、「趙雲が裏切ろうとしている」という話を、劉備に告げる者があったが、「趙雲は決して味方を裏切らぬ」と、劉備は、その者を打ち叩いたという。

諸葛亮。三顧の礼は真実だったのか

 諸葛亮は、劉備に仕えるようになる前から、優れた人物として、一部にはよく知られていたようである。
そこで、劉備は自らが彼のもとに出向き、三度目にようやく会う事叶い、彼を自軍に引き入れたと伝えられている。
 「三顧さんこの礼」と呼ばれている、この逸話は、若干怪しいらしいが、正史にもしっかり採用されてるようなので、少なくとも、古くから真実と考えている人は多いのだろう。

 演技において、多くの武将や軍師の手柄が彼のものにされてたり、かなり大げさに描かれがちとも言われるが、劉備にかなり頼りにされてた事は確かなようである。

 劉備は死の間際に、諸葛亮に告げたという。
「君の才能は、曹丕など遥かに凌いでいる。もし劉禅が君の目に叶う男なら、君が補佐してやってくれ。しかし、彼に器がないと思ったのなら、国を奪ってよい」
諸葛亮は、しかし、この劉備の全幅の信頼に感激し、後世に無能ともされる二代目皇帝を助けてやる道を選ぶのだった。

龐統。諸葛亮にも高評価されていた名軍師

 龐統ほうとうは、「眠れる龍」と称されていた諸葛亮に対し、「鳳凰のヒナ」と称されていた。

 彼は呉の周瑜しゅうゆに仕えていたが、周瑜の死後は、劉備に仕えるようになった。
 劉備は当初、彼にはあまり目をかけていなかったようだが、呉の将軍である魯粛魯粛や、諸葛亮にも説得され、龐統は軍師となった。

 真面目な正確だったようで、ある時、戦に連勝し、浮かれていた劉備に、「征服を喜ぶのは、よい趣味とは言えないでしょう」と叱ったという話も残っている。

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