ビデオゲームの世界観の進化
ナムコが開発した「ゼビウス」 というゲームは世界観の作り込みという意味で非常に衝撃的なものであった。
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ゲームの内容自体には基本的に関係がない、数多くのバックグラウンドストーリーの詰めこまれ、それがプレイする者の想像力を刺激する。
言うなれば、精神的領域を考慮したシステムを構成していたわけである。
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そう考えると、ビデオゲームというのは、テーブルゲームから独自に進化したというより、RPGのギミック的なものとも言えるかもしれない。
もっと言えば、結局はごっこ遊びを進化させたもの以上ではないかもしれない。
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ただし、ごっこ遊びのレベルがもう違ってきている。
『VR技術』というのはそう。
ビデオゲームとVR。どこまでただのごっこ遊びか
古くはごっこ遊びは、自分の想像力によって世界をクリエイションすることだったろう。
しかしVRへと続いてきたゲーム体験は、誰かが自分の想像範囲の外部、つまり現実の領域に擬似的にクリエイション(創作)した世界を共有している。
端的に言えばアクションゲームにおいて、ジャンプできる範囲はゲームごとに限られている。
現実の世界と同じで、誰かが設定した限界があるわけだ。
その世界で仮想の人生体験をする。
少なくともそのようなシステムこそが、ビデオゲームの目指してきたものなのではなかろうか。
もう一つ、VR技術というのは、もはや脳をごまかす技である。
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これは明らかに思う。
多くの人にとって理想のVR体験とは、完全に脳を騙せるほど、つまり自分が仮想世界にいることを、もはや感覚では判断できないほどに完璧な仮想世界が理想とされている。
つまり ビデオゲームはおそらくずっと、自分がその気になるためのツールとしてではなく、自分をその気にさせるためのツールとして研究開発、進化してきたとも言えよう。
以上のように考えると、伝統的なごっこ遊びの系譜は、せいぜいTRPGくらいまでであり、ビデオゲームはそれを参考とした、小説とかアートとか宗教とか社会に近しいものかもしれない。
神話的な要素はいまだにゲームに残っているか
ゼビウスは、ビジュアルが強化されたということ以外に関して、ようするにゲーム性においてはそう目新しいものはなかった。
しかし、深いSF設定が、単調なコースを繰り返していく度に想像力を刺激し、あたかも新しいエリアの展開が、新しい物語の展開と重なるようなゲーム。
それは現代的、コンピューター時代的神話という人もいたそうである。
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しかし、設定をゲーム内に詰め込めないというのは、たいていの場合が、ハード性能の問題にすぎなかった。
ハードのグラフィック表現能力や、データ容量が増大すると、 ゲーム内の壮大な物語を美麗なムービーで描き、ボリュームも贅沢なものが増えていく。
それが、売ってからも、完全版やダウンロードコンテンツで消費者に金を落とさせる商法にも繋がっていった。
二次創作とは何か
商法うんぬんは置いておくとして、とにかくプレイする側の想像力はあまり関係なくなった。
ただし、ゲーム自体には関係ないが、その世界を好きになった人が、自分なりに独自にそれを広げる、「二次創作(derivative work)」という文化においては、想像力が重要と思われる。
二次創作は本来は日本の文化とも言われていた。
普通にそういう行為は著作権的な問題が絡むことが多いのだが、日本では昔から、ファンによる勝手な派生作品があまり気にされない傾向が強いから。
二次創作はすでに完結してしまった物語をさらに楽しむためのものでもある。
素晴らしい人生ならいつまでも続けていたいように、素晴らしい世界観の物語をいつまでも体験していたいと思うのは当然ともいえよう。
ハード性能が向上したことによって、ゼビウス的な感性や想像力に訴えかける神話的要素が削れてしまったと言われることもある。
しかし、古い神話でも二次創作的に次々と新しいものが足されていったのでなかろうか。
だとすると、ビデオゲーム界にもまだまだ神話的構造がしっかり残っているとも言えるのでなかろうか。
なぜ日本人はアニメ的なゲームが好きか
しかし一時期に比べると、二次創作されるようなゲームが減ったことは間違いない。
これはやはりゲームというのが、リアルな体験に近づいてきているからではなかろうか。
リアルな人生の二次創作をする人はあまり多くないだろう。
そういう話はあまり面白くないことが普通だ。
なぜならたいていの人が、他人のリアルな人生なんて興味ないからだ。
よく、つまらないと言われる小説で、「主人公=作者で、願望を描いてるだけ」とか言われたりするのと同じようなものだ。
稀にそういう作品でも人気になっている作品があるが、そういうのは少数派と思われる。
リアルすぎるゲームを嫌う人も多い。
特に日本ではそうだろう。
これは今だに神話的、つまり一般的には漫画やアニメ的なゲームを求めてる人が多いからに違いない。
それには二次創作が楽しいからというのもあると思う。
ゲーム攻略コミュニティ文化の形成
神話的構造を有するものにおいて、新しい物語を付け足すまでいかなくとも、新たな表現が勝手に発見されるように、様々な新情報の連鎖が、ビデオゲームの楽しさでもあったはず。
例えばゼビウスでは、 背景グラフィックに紛れ込ませた高得点の隠しキャラを仕掛けたりして、プレイヤーの挑戦意欲をかきたてた。
そして、大堀康祐らが製作した「ゼビウス1000万点への解法」が注目を集める。
それをさらに、有力なゲームサークルだった「ゲームフリーク」が別冊として再編集し、雑誌の交流等などを通して最終的には1万くらいの発行部数を記録した。
ちなみにゲームフリークの主宰者である田尻智は、後に「ポケモン」というゲームによって、業界で非常に有名な人となる。
大堀や田尻らの仕事は、ゲーム雑誌におけるプレイヤーたちの交流や、攻略本の先駆けとなった。
エセ情報の楽しさ
興味深いのが真っ当な攻略テクニックのやりとりが広がりを見せる中で、 怪しげな裏技情報なども囁かれるようになったこと。
例えば「特定の順番に障害物を破壊すると、隠しステージが現れる」とかそういうのだ。
しかし最近は、少なくとも発売後はそういう偽情報は、大半すぐに駆逐されてしまうことが多い。
ソフトを直接解析した者が、ゲーム内でありうる全ての情報を漏洩させてしまったりもするからだ。
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ゲームの解析行為の裏側の愛
あるゲームを解析するほどの労力は、そのゲームに対する愛とも言えるかもしれない。
そうだとすると、ある意味で解析行為は、ゲームを想像力の領域から現実へとより近づけるための方法だろう。
現実は我々の世界である。
大好きなものに我々の世界に来てほしい、というような発想だ。
しかし、この世界のほとんどのものは、憧れていたとしても、手にいれてしまった時から憧れではなくなる。
そういうものだろうか。