「任天堂の歴史」ファミコンによる家庭用ゲーム機の市場制覇まで

ファミコンの世界征服

赤い帽子の配管工

ゲームは誰のものか?

 ゲームは本来、イメージはどうあれ、中身は決して子供向けではなかった。
古くからあるチェスや将棋から、若かりし頃のゲイリー・ガイギャックスを夢中にさせたウォーシミュレーションまで。
ゲームは「死人が出ない戦争」みたいなものだった。
あるいは大真面目なファンタジーやSFだった。
選択 「ゲイリー・ガイギャックス」D&Dの歴史の始まり、最初のRPG誕生の物語 チェス 「チェスの歴史」将棋の起源、ルールの変化、戦争ゲームの研究物語
 思うに、それらはすでにクールだったけどポップではなかった。 
以前のゲームは、オタクな大人や、フィクション好きな少年達を虜にする事は出来た。
でも一般人の友達や、お母さんにその面白さを理解してもらうのは難しかった。

兵士でも勇者でもなくて

 
 その状況を変えたのが日本のゲーム会社『任天堂』だった。
ある時、何を血迷ったのか、彼らはゲームの主人公として、赤い帽子をかぶったオッサンを設定した。
兵士でも、勇者ですらなく、配管工(注釈1)のおじさんである。
 しかもその配管工おじさんは、剣も銃も使わず、踏みつける事で敵を倒すのだ。
おまけにキノコを食べてパワーアップしたり、敵も魔物でなくシイタケやカメなのである。
 このようなぶっ飛んだユーモアを、任天堂という会社はゲームに持ち込み、全世界を征服したのである。

 さすがの一般人もお母さんも、配管工おじさんにはきっと笑ってしまったろう。
「楽しそう」だと思ってしまった事だろう。
子供に嫉妬すらしたかもしれない。
その配管工おじさん。
マリオ登場以降の世界は、あまりに楽しくなりすぎてしまったのだから。

(注釈1)実は配管工ではない(?)

 実はマリオの初期設定は大工であった。

 元々ゲーム内でマリオの職業設定は明らかにされてなかったが、マリオが一度実写映画化した時に、配管工という設定が授与され、それがいつの間にか定着したという訳らしい。

カードショップの任天堂

山内房治郎

 工芸家として生きていた山内房治郎(やまうちふさじろう)が『任天堂骨牌(にんてんどうこっぱい)』を開店したのは1889年の事。
任天堂骨牌は、名前通り骨牌(遊びに使う用のカード)の店で、最初はほぼ『花札』の専門店であった。
 
 職人としての腕を活かして、一から百まで自作した、オリジナル花札は、それなりに好評となる。

 そして1907年。
房治郎は、任天堂の事業を、西洋式カード、つまりトランプにまで拡大させ、これも成功させる。
トランプ 「トランプの雑学」カードの意味や強さから、基本ゲーム用語まで
 また、この時期より、任天堂は支店以外の流通経路の確保にも乗り出していく。

会社形態へ

 房治郎には息子がいなかった為、任天堂の2代目店主となったのは、娘婿の積良(せきりょう)だった。
1929年の事である。

 積良は、1933年に任天堂本店を、家から鉄筋コンクリートの建物に移した。
また、全国を走る営業部隊の編成や、生産ラインの構築など、店でなく、会社という形での任天堂を築いていく。

 ただ後継ぎはまたしても問題となった。
義父と同じく、積良もまた男の子に恵まれなかったのだ。

 しかも今回はもっと悲惨だった。
1932年の事。
娘婿の鹿之丞(しかのじょう)は、妻子を捨てて失踪したのである。
 なので、1949年。
任天堂の3代目社長となったのは、鹿之丞が置いていった息子、房治郎からは曾孫にあたる溥(ひろし)だった。

三代目の不良社長

 夫の裏切りにひどくショックを受けた母に代わって、博は祖父母に育てられた。

 祖父母は、任天堂の社風がそうであったように、孫を厳しくしつけたが、生意気な小僧だった博は、臆せず反抗するのが常だった。

 そして博は21歳の時、死の床にあった積良から、任天堂を継いでほしいと頼まれる。
用心深く、計算高い博は、この引き継ぎを確実なものとするために、社内で働いていた親戚の追放を条件として提示した。
積良は了承し、任天堂は山内家の会社から、山内博の会社となったのだった。

 この若き不良社長は、社内の、特に古参の重役から疎まれた。
しかし持ち前の傲慢さをもって、不良社長は古参の従業員達を、権力に任せて、次々に切り捨てた。

 こんなロクデナシがトップになってしまったからには、この会社も終わりだと考えた者もいたかもしれない。
だが現実はまったく逆の結果となっていくのだった。

玩具会社の任天堂

インスタントご飯、ホテル、タクシー

 1953年。
任天堂は、輸入される外国のオシャレなカードに対抗しようと、日本で初の、プラスチック加工カードの製造を開始。
プラスチック 「プラスチック」作り方。性質。歴史。待ち望まれた最高級の素材
 さらに1959年には、アメリカのディズニー社とライセンス契約を結び、キャラクターカードの販売に乗り出す。

 ディズニーキャラクターのトランプは売れたが、しかし同時に博はカードゲームというビジネスに限界を感じ始めていた。(注釈2)

 そういう訳で、任天堂はカード以外の新しいビジネスを始めようと、しばらく迷走する事となる。

 インスタント麺ならぬインスタントご飯。
ホテル経営。
タクシー。
しかしいずれも長続きせず、ここに至って博はある重大な事実を思い出す。

 そう、任天堂はエンターテイメントの会社だったのだ。

(注釈2)カードゲームの可能性

 任天堂が、TCG(トレーディングカードゲーム)という未来を見通せなかったのは、残念である。
 電子媒体とテーブル上の、両方で天下を取れたかもしれなかったのに。

横井軍平のウルトラハンド

 横井軍平(よこいぐんぺい)が1965年に大学を卒業した時、任天堂は第一希望の就職先ではなかった。
しかし希望するどの会社も結局受からず、近所であった任天堂に入社する。

 当初、任天堂での軍平の仕事は、生産ライン設備の機器のメンテナンスだった。
しかし、大学では工学科であり、物作りへの熱意を捨てられなかった彼は、休日はもちろん、仕事の合間でも時間を見つけたら、簡単な玩具を自作した。
 そんなある日、伸び縮みする自作の手型玩具をいじる姿を、社長である博に見られてしまった軍平。

 社長室に呼び出された彼を待っていたのは、怒鳴り声ではなかった。
「あれを商品にしよう。お前が作ってる玩具」
その鶴の一声により、軍平デザインの玩具『ウルトラハンド』の販売が決まった。
 その商品化プロジェクトには、当時、総務部長だった今西紘史(いまにしひろし)も関わっている。
彼は後に、横井の開発する玩具の為に、新しい部門を社内に設ける事となる。
それは単にこう名付けられた。
ゲーム部門と。

ウルトラマシンとラブテスター

 ウルトラハンドが売れた為に、軍平のメインの仕事は、玩具の開発となり、その開発部はどんどん成長し、ヒット商品も多く生んだ。
野球のピッチングマシンを模した『ウルトラマシン』。
カップルが一緒に握り合うことで、(もちろんデタラメだけど)愛の深さを確かめられるという『ラブテスター』などだ。
天使の恋愛 人はなぜ恋をするのか?「恋愛の心理学」
 そしてある日、新しいアイデアを求めていた軍平の前に、上村雅之(うえむらまさゆき)は現れた。
彼は大手電気メーカー、シャープの社員。
任天堂を訪ねた当初の目的は、太陽電池の売り込みだった。

上村雅之

 1943年。
雅之は、第二次世界大戦の真っ只中の時期に産まれた。
ただでさえ敗戦の傷痕が残る日本社会にあって、彼の家は、子供に玩具を買ってあげられるような生活は出来なかった。
 しかし雅之は自分で玩具を作っては楽しみ、小学校高学年の頃には、当時やってきた未来であった新メディアのテレビに夢中となった。

 そしてテレビ技術者を目指し、大学で工学を学んで、1967年にシャープに入社したのである。
その当時のシャープは、太陽電池の半導体開発に力を入れていて、雅之もそれに深く関わる事になった。
 そんなある日である。
彼に任天堂に行くようにと、指示が下ったのは。

光線銃シリーズ

 雅之から太陽電池の話を聞いた軍平は、すぐに興味を抱き、2人はよく話し合った。
既にいくつかのヒット商品をデザインしていた軍平に、雅之も負けず劣らずアイデアを出した。
なんだかんだで彼も、子供の頃は物作り少年だったのだから。

 それからすぐに、軍平は雅之をシャープから引き抜き、2人は本格的に新しいプロジェクトを開始した。
 それは太陽電池の技術を、光を探知するセンサーとして応用する事で実現する、全く新しい射撃ゲームであった。
細い光を射出するトイガンと、それを受けたら電気に変換し、ターゲットを動かす機構。
電気回路 「電気回路、電子回路、半導体の基礎知識」電子機器の脈
 1970年。
太陽電池から着想を得た、その商品は完成し、『光線銃シリーズ』と命名され、またも大ヒットを記録したのである。

ゲーム会社の任天堂

竹田玄洋

 光線銃の成功に味を占めた博社長は、軍平が示唆した、太陽電池技術の更なる応用可能性を真に受ける。
そして、当時、人気下降に苦しんでいたボーリング場の施設を安く買って、光線銃の射撃場を作る事を計画。

 しかしちょっとした玩具でなく、リアルに近い疑似射撃場ともなると、なかなか難しい。
苦戦する雅之の元に、軍平は助っ人を送った。

 その助っ人の名は竹田玄洋(たけだげんよう)。
求人広告を見た瞬間、霊感に打たれたらしい、ちょっと変な人である。
ただ大学では半導体を学んでいた為に、光線銃プロジェクトにはうってつけの人材であった。
それに何よりもまず、彼も、趣味はミニチュア作りという、物作り名人だったのである。

レーザー・クレー射撃場の大失敗

 玄洋の協力もあって、軍平達が、世界初の『レーザー(光線銃)・クレー射撃場』を完成させたのは、1973年の事であった。
この近未来的な遊び場は、前評判は凄まじく高かったのだが、人気の下落も凄まじく早かった。

 1973年は、中東の戦争がきっかけで起きた石油の価格上昇。
いわゆる第一次オイルショックの影響で、世界中が不況となった年でもあった。
 そうした状況なので、海外からの注文も次々にキャンセルされる。
結果、この光線銃の射撃場というプロジェクトに莫大な金を注ぎ込みながら、見事それを無駄にしてしまった任天堂は、かつてないほどの危機を迎えたのである。

カラーテレビゲーム

 傾いた会社をなんとかする起死回生の新作が必要だった。

 博は、アメリカで開発された、家庭のテレビを利用したゲームマシンに目をつける。
SFゲーム コンピューターゲームの誕生「ゲーム機以前のゲーム機の歴史」
そこで任天堂は、アメリカのマグナボックス社とライセンス契約し、そのゲームマシンの日本版を製造する権利を得た。
ドット絵 「日本のゲーム機の歴史の始まり」任天堂、ナムコ、セガ、タイトー
 ただ、任天堂には技術が足りなかった為に、最終的には、大手電気メーカー三菱電機との共同という形で、その製品を完成させる。
 そして1977年。
任天堂初の家庭用ゲーム機、『カラーテレビゲーム15』と、その廉価版である『カラーテレビゲーム6』は販売された。
これらは後々の『本体ゲーム機とソフトは別売り』というスタイルではなく、ソフトウェアがいくつか内蔵されたゲーム機であった。

レースに、ブロック崩しに、オセロ

 カラーテレビゲームはそこそこに成功し、後続作品もいくつか作られる。
1978年。
112種類の(設定が違う)レースゲームを楽しめる『レーシング112』。
1979年。
アーケードで人気だったゲームを家庭用に移植した『ブロック崩し』
1980年。
時間制限などがあるオセロが出来るだけの『コンピューターテレビゲーム』
オセロ 「オセロのルールと戦術」序盤の鉄則、中盤のコツ、終盤の勝ち方  
 しかしいずれも、期待以上の人気も得られはしなかった。
特にコンピューターテレビゲームは価格の無駄な高さも相まってまったく売れず、現在では、逆にプレミアになっているほどである。

 そもそも任天堂は家庭用ゲーム機に関しては完全な後発メーカーであり、成功するには、先人のマネだけでなく、もっと革命的な何かが必要だった。

ゲーム&ウォッチ

 「どえらいモノはまだ作れる」
ある時、博社長は技術スタッフ達に言った。
「凄いモノを作れ」

 難しい事を有言実行するには、優れた才が必要であろう。
横井軍平、上村雅之、竹田玄洋と、そんな才が、任天堂の技術陣には勢揃いしていた。
 そして軍平達は、言われた通り、本当に凄いモノを作る。
コンピューターテレビゲームが盛大に失敗したのと同じ年である1980年。
任天堂は『ゲーム&ウォッチ』を販売したのである。

 安価で、手軽で、面白いモノ。
それが任天堂が目指していたものであり、ゲーム&ウォッチはまさしくその当時の集大成であった。
 それはつまり、当時の世界最小の家庭用ゲームであり、世界初の携帯ゲーム機だったのである。

 小さくて操作しにくいという欠点なども意に介さず、ゲーム&ウォッチは世界中で大ヒットした。
結核、ゲーム&ウォッチは数えきれない模造品を招いたが、それは逆に言えば、ついに任天堂は二番煎じから脱出し、真似される側になった事を意味していた。

作れ、他より凄いものを

 最小のゲーム機が世界を圧巻する中、博はゲームセンターにも目を向けていた。
当時、最大のゲーム市場と言えば、1プレイ1コインのアーケードゲーム。
ちょうど時代は、1978年発売のインベーダーゲームが、全国の銀行を侵略し、100円だけを根こそぎ奪い取っていた頃である。

 そんな中、雅之は水面下で進んでいた、ある重大なプロジェクトの為に奔走していた。
 そのプロジェクトとは、本体と、ソフトウェアを組み込んだカートリッジを別売りするタイプの家庭用ゲーム機の自社開発である。
 
 これはまた後発であったが、本体さえ買ってもらえれば、後はカートリッジで継続的なビジネスとなる、その可能性に博は賭けていた。
 雅之に提示された戦略も、実にわかりやすいものであった。
つまり、他のどのライバル社よりも安いものである。

 アタリ社の「2600」。
コモドア社の「マックスマシーン」。
エポック社の「カセットビジョン」。
バンダイ社の「インテリビジョン」。
タカラ社の「ゲームパーソナルコンピューターM5」
トミー社の「ピュー太」
カシオ社とシャープ社の「MSX」
市場では既にこれだけのゲームが食い合っていたが、臆する事なく博は、雅之に命じた。

 「作れ。安く、かつこれらに性能的にも決して負けてない、そんなゲーム機を」
どう考えても無茶苦茶な要求だが、これまでも社長の無茶苦茶な要求を実現させることで成功してきた任天堂である。
雅之は了承した。
が、もちろん問題は山積みであった。

ゲームの背後のアルゴリズム

 博と雅之が掲げた目標は、10000円の本体価格であった。
当時の家庭用ゲーム機は30000~50000円くらいが標準価格。
もし、他に機能的に負けてないゲーム機を、本当に10000円で出せるなら、確かに消費者を独占出来るだろう。

 雅之は、多機能のコンピューターではなく、ゲームをする為のマシンならば、従来よりも安価で低性能な部品でも、優れたものを実現できると信じていた。
 
 そこで雅之は、アーケードゲームの開発スタッフ達から、ゲームの背後にある、適したアルゴリズムを研究した。
 ゲーム機の核となるのは、画面の動きの処理を担うCPU(中央演算処理装置)チップと、その動きを演出するPPU(画像処理装置)チップである。
 雅之ら技術スタッフ達は協議を重ね、ついに新マシンに必要なCPUとPPUのスペックを決定した。
後はそれらのチップを、希望通りの額で作ってくれる電気メーカーを見つけるだけ。

300万個は必ず買う

 しかし任天堂が提示する安価な値段で利益を出すためには、チップを大量に売る必要がある。
やる前から爆発的ヒットを望まなければならず、電気メーカーの多くは慎重な態度をとった。

 最終的に、チップ製作で契約を結んだのは、半導体事業の不振に悩まされていたリコー社だった。
しかしそのリコーも、雅之から、「1チップに2000円以上は出せない」と告げられた時は、躊躇する姿勢を見せた。

 その事で、相談を受けた博は、覚悟の笑みを見せた。
「契約してくれるなら、2年で300万個は必ず買うと言ってこい。それなら絶対に食い付く」
 何かのジョークであろうか?
それともこの博という男、とうとう頭がイカれてしまったのだろうか?
かなりのヒットだったカラーテレビゲームすらも、その売り上げは100万ほど。
 多くの者には、300万はあまりに高すぎる目標に思えた。
しかし意を決し、雅之は社長の妄言をそのままリコー側に伝え、当然の如くリコーは契約を結んでくれた。

 リコー側のお偉いさんのひとりは、「新しいゲーム機が出来たら、ぜひ我が家の子供達に1台いただきたい」と、社交辞令程度の期待を見せてくれたという。

未来を見据えた戦略

 博は、その新しいゲーム機から徹底的にいらない要素を省きながらも、拡張性に関連した部分には手を抜かなかった。
未来を見据えた戦略である。
 
 コントローラーにもひどくこだわった。
ボタンをいくつつけるか?
色はどうするか?
形状は?

 そしてついに完成した、その新しいマシンの名称をつけたのは雅之だった。
その名も、『ファミリーコンピューター』
 その略称を最初に使ったのは雅之の妻だった。
彼女は夫から新作マシンの名を聞いた時に、こう言ったという。
「きっと日本人は、『ファミコン』て略すわね」

ファミリーコンピューター、略してファミコン

 1983年。
山内博は、有力取引相手各社の代表達の前に立って、ついにファミコンをお披露目した。
その価格は結局目標よりは高い14800円。
しかし、それでも他社のゲーム機に比べれば格安である。

 博は、値段からも明らかなように、これは本体で利益を上げるような代物ではない。
ただこの安さによって、本体を多くの家庭に浸透させた後、ソフト販売により、多大な利益を手にする事が出来ると述べた。

 そして一通りの説明の後、博は高らかに告げた。
「これは日本初のファミリーコンピューター。略してファミコンです」

絶対的勝利

 結果的にファミコンは爆発的なヒットを記録した。
しかも博の目論見通り、各家庭はせっかく買ったファミコンでより楽しむ為に、新作ゲームソフトが出る度に、我先にと買ってくれた。

 利益と小売店からの悲鳴は広がり続け、他のゲーム機を駆逐していった。
もはやファミコンは強すぎて、対抗する事すら不可能だった。

 それは本格的な任天堂伝説の幕開けでもあった。

ドンキーとマリオと

宮本茂

 部屋の外に廊下で、また部屋。
そんな何気ない屋内に迷路を見るような子供だった。
宮本茂(みやもとしげる)は元気少年で、近所の田んぼでは、よく友人達とスポーツを楽しんだ。
 一方で、家では読書が好きで、自分でも人形劇や漫画の創作をしたりした。

 道を歩いてて、一見何でもないような風景が、実は異次元への入り口なのだとしたら。
彼はいつの間にか、そんな事ばかり考える大人になっていて、任天堂にデザイナーとして入社していた。

 そしてある時、彼は社長室に呼び出された。

想像力に欠けてる

 博の用件は、任天堂が売り出し中のアーケードゲーム『レーダースコープ』の手直しだった。
茂は常々、アーケードゲームには想像力が欠けてる。
なぜゲーム開発者は、ゲームに映画や小説のような優れた設定すら授与しないのか。
などと不満を漏らしていて、それは博も少しばかり気にかかっているところでもあったのだ。

 そういう訳で博は、生意気で、実はけっこう気に入っていた見習い社員に命じたのである。
「君の力で、ぜひこのつまらないゲームを面白く変えてくれ」と。

ドンキーコング

 確かにレーダースコープは、想像力に欠けていると言えた。
それはただ、向かってくる敵飛行機を撃墜するだけのゲームだったのだ。

 茂は技術陣に話を聞き、とにかく、このゲームの技術で、何が可能なのか、どのようなコンセプトなら実現できるかを考えた末に、ひとつのアイデアに行き着いた。
それは「美女と野獣」である。

 茂は必要なキャラクターを考案した。
まず敵役となるキングコング的なでかいゴリラ
そしてご主人の男と、その美しい娘。
 ある時、仲違いした主人の男とゴリラ。
ゴリラは主人を困らせようと、娘を連れさり、男は大事なその娘を取り戻そうとする。
というストーリーも設定された。

 ここで最も天才的な発想だったのは、主人公の男を、髭面の大工などというショボい設定にした事であろう。
 また、敵のゴリラの名前は、ロバ、あるいはバカとかマヌケとかいう意味のある英単語「ドンキー」と、コングを繋げて、『ドンキーコング』とした。
この名称は、そのままゲームタイトルにも使われる。

 そして1981年。
ドンキーコングは、アーケードゲーム界に旋風を巻き起こした。
また、1983年にファミコンが販売した時には、このタイトルの移植版が初期ラインナップに名を連ねていて、これもまた大ヒットとなる。

マリオブラザーズ

 ファミコン発売から間もなく。
茂は、新たに新設された開発部署の部長に任命された。
この部署の使命はひとつだけ。
すなわち斬新なゲームを作る事であった、

 茂はすぐに、ドンキーコングで主人公だった大工を、よく勘違いされていた配管工へと転職させ、さらに弟キャラも新たに設定。
兄をマリオ。
弟をルイージと名付けた。

 そしてそのマリオブラザーズが、姫を助けに、ユーモア溢れる世界を冒険するアクションゲーム。
『マリオブラザーズ』は全世界で空前の大ヒットを記録し、ゲームの歴史に永遠にその名を刻む事となった。

暴君

 ファミコンの大ヒットは、任天堂を暴君へと変えた。
任天堂は他の会社が、ファミコンのゲームを販売する際のライセンス料を、1カートリッジにつき2000円と、強気に設定した。

 しかしファミコン市場はあまりにも巨大であり、例え高いライセンス料をぼったくられてでも、ゲーム会社は、次々参入した。

 やがて任天堂は、他社のゲーム開発に制限すらつけ始めたが、逆らう事が出来た者はおらず、数少ない逆らった者は、ファミコン市場から干された。
その全盛期において、ファミコン市場から追い出されるのは、あまりにも致命的であった。

 この恐ろしい時代に、任天堂以前、業界最大手だったナムコは一度、公然と任天堂を批判した。
しかし、いわば前王であるナムコですら、結局は任天堂に下るしかなかった。

 任天堂は完全にゲーム業界を支配していた。

アメリカの征服

 そして任天堂は日本だけにあきたらず、世界にも目を向けた。
ファミコンが販売されたばかりの頃、アメリカでは、最大手だったゲーム会社アタリの最新ゲーム機が盛大にコケてしまい、家庭用ゲーム業界は暗黒期を迎えていた。

 アタリが失敗したのは、肝心のゲームソフトの質が悪かったからだというのは、誰が調べても、たどり着く結論であった。

 つまりゲームが面白ければいい。

 任天堂のファミコンはこれまでのゲーム機とは違う。
マリオはもちろん、『ゼルダの伝説』や『メトロイド』など、面白いゲームは間違いなく揃っていた。
アーケードゲーム 「ファミコンブームの裏側の戦い」80年代のアーケードゲームとPCゲームの革命
 暗黒期のアメリカ市場での浸透は、日本に比べると時間がかかった。
だが、その日本での大成功による軍資金を惜しみなく使った長期的な販売戦略によって、1989年には、アメリカの1/4の家にファミコンが置かれているほどの大成功となっていた。

任天堂とゲームの未来

 ファミコンの後継機であるスーパーファミコンは、1990年11月21日に発売された。
この頃の任天堂は、本当にゲーム業界を、むしろ電子機器業界にて無敵の存在であった。
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 この唯一神状態は、ソニーコンピューターエンターテイメント社が、1994年にプレイステーションを販売するまで続く事となる。

 ソニーは任天堂に苦い汁を飲まされたナムコを初めとするサードメーカー達を取り込み、最終的には下克上を見事に成功させる。

 任天堂の例はそう。
絶対王の権力は結局、王国の破滅を招くという事の、典型中の典型なのかもしれない。

 そのソニーも3世代目のプレイステーションの時には、市場の求めていたものを見誤り、失敗してしまう。
もちろんその時は任天堂が勝利した。

 そして今は、家庭用ゲーム自体が、スマホのアプリに食い殺されそうな時代である。
 
 人々が仮想空間で交流したり、戦争の主役がゲーマーになる日も近いという人すらいる。
 そんな時代でも、あの絶対王国時代の影響はしっかり残ってるのだろうか?
 あの小さなカードショップから始まった大王国。
まさに命運は天任せである。

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