「日本のゲーム機の歴史の始まり」任天堂、ナムコ、セガ、タイトー

ドット絵

遠藤嘉一のスポーツランド

 1928年に、日本娯楽機製作所(後の「ニチゴ」)を創業した遠藤嘉一えんどうかいちは、日本のアミューズメント(娯楽)産業の創始者とされている。

 遠藤は1931年、東京の百貨店、松屋浅草店の開業に合わせ、そこに敷設される事となる、世界初の屋上遊園地「スポーツランド」の建設事業を請け負った。
このスポーツランドは、ゲームセンターとようなアミューズメント施設の原点的なものであった。

 遠藤は、当時の世界最大級であったアメリカの遊園地、コニーアイランドをモデルとして、ロープウェイや豆機関車を設置。
彼は他にも、 射的マシンや、卓上型の競馬ゲーム、野球やボーリングを題材にした球打ちゲームなど、様々な遊戯機械を開発した。

 しかし、第二次世界大戦のような戦争により、娯楽施設の事業者は次々と、職を奪われていった。
遠藤も例外でなく、彼の作った様々な娯楽機器も、空襲などによって破壊され尽くしてしまった。

セガ。タイトー。アーケードゲーム二大古参メーカー

セガ・エンタープライゼスの誕生

 戦争に負け、しばしの間、日本はアメリカの占領下におかれることになった。
この時に、アービング・ブロムバーグとマーティ・ブロムリーの父子が創業した、娯楽機器のメンテナンスを事業としていたサービスゲームス社が、日本にも進出。
東京に、リチャード・スチュアートとレイモンド・レメアーのふたりが、共同代表として派遣されてきた。
 彼らは、1952年に日本法人を設立。
そして開発力を高めた同社は、「セガ」という、自社生産のジュークボックスのブランドを発売したことを機に、社を改組する。

 また1954年。
対戦中はアメリカ空軍に所属し、極東地域に従軍していたデビッド・ローゼンが、貿易会社ローゼン・エンタープライゼスを創業。
証明写真撮影機やガンゲーム機などを日本にもたらした。

 そして上記の外資系企業2社が、1965年に経営統合を果たし、誕生したのが、「セガ・エンタープライゼス(後のセガ・ゲームス)」であった。
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ミハエル・コーガン。太東貿易

 ミハエル・コーガンは、 1920年に生まれた。
ユダヤ人である彼は、人種差別的な意識の薄い日本という国に好意的で、戦後、東京で個人輸入業を始めた。
 事業は順調に拡大し、1953年には、正式な会社法人として、コーガンは「太東貿易」を創業した。

 ピンボールのような、娯楽機器の輸入販売で成功を収めた太東は、 1950年代後半には 各種アミューズメント機器の自社開発に乗り出していった。
1965年に初のクレーンゲーム機を生み出したのは、この会社である。

 後には、名をカタカナ表記に変えたタイトーは、セガと並び、アーケードゲームの最大手に成長していく事になる。

インベーダーゲーム。侵略者達のゲームセンター

 最初期の家庭用ゲーム機と呼ばれる、マグナボックス社の「オデッセイ」が登場したのは1972年。
その翌年1973年。
タイトーは、ほぼアタリの「ポン」のコピー品である「エレポン」を、セガは似たような「ポントロン」を開発。
それらは、日本初のアーケードゲーム機と呼ばれている。

 そして1978年に、タイトーが生み出した「インベーダーゲーム」は、いよいよ日本も、アジアも飛び出し、世界に、日本ゲームの波を広げていく事となる。

 インベーダーゲームは、世界初のシューティングゲームとされる「Spacewar」と同じく、宇宙戦争をテーマとしていたが、決定的に違うゲームだった。
SFゲームコンピューターゲームの誕生「ゲーム機以前のゲーム機の歴史」 それは、Spacewarのように、天体の重力や、宇宙船の挙動など、リアルさは全く追求せず、ただプレイするものの視覚に合わせた、面白さのための非リアルを追求したゲームデザインであった。
 それまでもよくあったような、ボールをうまく跳ね返したりする類のゲームと、そんなに変わらないゲーム性。
しかし、迫り来るボールに、インベーダー(侵略者達)というキャラクター性を授与することで、遊びのための仮想現実を、一層華やかに変えたのである。
そして、それによって与えられた新しい体験は、それまでの抽象的なシンボルのみを操るゲームよりも、ずっと多くの人々を魅了したのだった。

 その人気ぶりたるや、「インベーダーハウス」という、インベーダーゲームをするためだけの店が生まれたほどであった。
そういう店が、後のゲームセンターとなったのである。

ゲーム体験を進化させたナムコ

 日本のコンピューターゲーム史の黎明期において、セガやタイトーと同じくらいに、忘れてならないのが、「ナムコ」であろう。
それは、在日の外国人が作ったセガやタイトーと違い、生粋の日本人が生んだ、アミューズメント機器の企業だった。

中村雅哉の中村製作所

 中村雅哉なかむらまさやは、1925年生まれ。
実家は鉄砲鍛冶商であった。
彼は学生時代から、家業を手伝いながら、遠藤嘉一の遊具によく親しんでいた。
そして、戦争で遊具が破壊されてからも、彼は少年時代の楽しい記憶まで忘れる事はなかった。

 1955年。
リサイクルした自動木馬を、松屋伊勢佐木町店の屋上に納入した仕事を機として、彼は中村製作所を設立。
遊具施設の経営から、各種娯楽機器のメーカーへと発展を遂げていった。

Nakamura Amusement Machine Manufacturing Company

 アーケードゲーム界に進出した中村製作所は、 1971年にエレメカ機のブランド、「ナムコ(Nakamura Amusement Machine Manufacturing Company)」を立ち上げ、1977年には、それがそのまま社名となった。

 実はインベーダーゲームより先立つこと2年前。
中村製作所が、1976年に開発したレースゲーム「F1」は、アタリを通して、アメリカで販売し、それなりにヒット。
これが日本産のアーケードゲームが、アメリカで本格展開された初事例であった。

パックマンの登場

 1980年。
ナムコの岩谷徹いわたにとおるが企画した新作ゲームが、あるいはインベーダー以上の衝撃を、世界にもたらすこととなった。
そのゲームの名は「パックマン」。

 パックマンのゲーム画面は、「トップビュー型(上から見下ろしてる構図)」
プレイヤーが操る、パカパカと口を開く、黄色い円状のパックマンを、上下左右に動かして、色々な挙動をする、赤、青、オレンジ、ピンクの、4種の敵モンスターとの接触を避けつつ、迷路のようなステージに敷き詰められた、ドットの餌を食い尽くしていくことを目指すゲーム。

 後には、「ドットイートゲーム」などと呼ばれるようになる、妨害者を振り切りながら、ルート上にあるドットを踏み消していくという ルール設計自体は、1979年に、セガが「ヘッドオン」というゲームで先行している。

 しかしパックマンは、まったく誰もが食べているのだとひと目でわかるような動作。
そしてそのカラーリングや、心地よさを重視したファンファーレや効果音など、プレイする者を楽しませるための演出が、群を抜いていた。

 そして、普通のエサに紛れて、いくつか置かれた大きめのパワーエサを食べることによって、一定時間の間、強化されたパックマンで、モンスター達に逆襲できるといったシステムが、非常に素晴らしかった。
それにより、ゲームキャラクターの魅力を高めるとともに、あえて敵を引きつけておいて、タイミングよくパワーエサを食べ、やり返すといったような、ゲームとしての戦略性も、従来のものより強化された。

 パックマンは開発当初から狙われていた通りに、可愛いキャラクターアイコンとして、幅広い層に人気となった。
彼は、さまざまのグッズ展開や、スピンオフ利用が可能な、史上初のゲームキャラクターとなった。

ゼビウスの世界観

 1983年。
ナムコはまた、ゲームを、 ビジュアルという点において大きく進化させる。
それを成したのは、第一世代オタクとも呼ばれる遠藤雅伸えんどうまさのぶが作った「ゼビウス」である。

 ゼビウスは、インベーダーゲームの系譜である、いわゆる縦スクロールシューティングであるが、 森、平原、海洋といった、多彩な地上風景を、スクロールさせていくことにより、戦闘機の移動の臨場感を大きく向上させた。

 何より特筆すべきは、そのSFアニメ的な世界観や物語であった。
ゼビウスは、 ゲーム上では説明されない、ファードラウトサーガと呼ばれる、壮大なバックストーリーが設定されていてる。
ゲームプレイ自体には、一切何の関係もないにも関わらず、作り込まれたそのような裏設定は、ごく単純なはずのゲーム体験に大きな深みを与えたのだった。
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任天堂のカラーテレビゲーム

 1970年代末のアーケードゲーム業界は、セガ、タイトー、ナムコが三大メーカーとして覇権を争いあい、 その周囲で、ユニバーサル、日本物産、コナミ工業(コナミ)、アイレム、新日本企画(SNK)、データイーストといった中小メーカーが、ひしめき合っているというような構図だった。

 そして日本にアーケードゲーム文化が誕生するのとほとんど並行して、アメリカでは家庭用ゲーム機の文化が花開こうとしていた。
 一方、日本産家庭用ゲーム機の第一号は、1975年の、エポック社の「テレビテニス」とされる。
これ自体はあまり売れなかったが、ここから、他の国内メーカーの家庭用ゲーム機参入は相次いだ。
アメリカからの輸入機も増えた。

 そして 1977年。
花札店から始まった老舗、「任天堂」から、「カラーテレビゲーム」という家庭用テレビゲーム機が販売された。
ファミコンの世界征服「任天堂の歴史」ファミコンによる家庭用ゲーム機の市場制覇まで  任天堂は、家庭用ゲーム機産業には、かなり遅れて参入してきたが、後発メーカーとして取れる、有効な戦略、他社より安い値段を武器に、それをヒットさせる事に成功した。

 それから、ファミコンとゲーム&ウォッチという二つの革命により、 任天堂は一時、世界を征服したとまで言われるほどの一人天下を実現していく事となる。
 だがそれもずっと続いたわけではなく、任天堂に追いつけ追い越せとする、世界の様々な ゲーム企業達により、後もコンピューターゲーム業界は大いに発展していく事になっていくのである。

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