「テトリスの歴史」ソ連プログラマーの夢。最強の任天堂のゲームボーイ

テトリスイメージ

 「テトリス。
ソ連から世界に発信されたこのゲームは、あまりにも中毒性が高い。これは悪魔の帝国が、我々を堕落させる為に開発した、悪魔の罠であるに違いない」
by.どっかの雑誌コラムから始まったらしいジョーク。

最も世界に影響を与えたパズルゲーム

 1980年代後半という時代。
崩壊の寸前であるにも関わらず、いまだ健在であった、政治的、心理的障壁、鉄のカーテンを越えて、1953年生まれのヘンク・ロジャースはロシアはモスクワの地を踏んだ。

 目的はビジネスであった。
あるソフトウェアのライセンス契約を結ぶ為だ。
そのソフトウェアの名は『テトリス』。
それは後に、同じように革命的であったあるゲーム機と共に、最も世界に影響を与える事になったパズルゲームである。

 ロシア(ソ連)で開発されたこのゲームが、最初アメリカで販売された時、ファンタジーやSF的なゲームなど取りあげた事のない、大手新聞のいくつかすら、それを一面で紹介したという。
「誰でも5分あれば理解できるほどシンプル。しかし恐るべき中毒性を持つ新時代のゲーム」
というようなキャッチと共に。

ヘンク・ロジャース

ガイギャックス第一世代のひとり

 10代の頃から、コンピューターに魅了され、また日本やアメリカのアニメ作品に夢中だったヘンク・ロジャース。

 1974年に販売されたゲイリー・ガイギャックスの『D&D(ダンジョンズ&ドラゴンズ)』は、世にでて以降、ゲームはもちろん、SFやファンタジーが関係するほぼ全ての文化に影響を与え続けているが、ロジャースは、その第一世代のひとりであった。
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この偉大なるゲーム(RPG)と、学んでいたコンピュータープログラミングを掛け合わせた時に、彼のクリエイターキャリアは始まる事になる。

運命の再会

 関係のない家の仕事などを手伝いながら、家族を養わなければならないロジャースは、ほとんど言葉も文化も知らない状態で来てしまっていた日本にて、将来に不安を覚えるようになっていた。
 そして30歳目前に、彼は意を決して、かつては諦めたプログラマーとしての道を再び歩もうと決める。

 当時すでにあらゆるテクノロジーの聖地であった秋葉原にて、ロジャースが目をつけたのは、アメリカでの人気とは対照的に、マイナーだったD&Dであった。

 よくよく考えれば、日本こそD&Dで天下が取れそうな国であった。
日本にはアマチュアも含め優れたクリエイターが多いし、アニメなどで、ほとんどの者が幼い頃からファンタジーやSFに慣れ親しんでいる。
 おそらくこのゲームが日本で広まらなかったのは、当時テクノロジー最先端であったこの国では、ビデオゲーム文化の方がいち早く流行り、ボードゲーム自体が時代遅れのように思われてしまったからであろう。
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ウィザードリィはなぜ日本で成功しなかったのか

 しかしD&Dはともかく、それを元にした、ビデオゲーム版のウィザードリィなどはどうか。
それも日本でもマイナーだった。

 原因はかなり、はっきりしていた。
当時のウィザードリィなどは、ボードゲーム版のD&Dをプレイヤーが知っている事を前提としたものだったのである。
つまり答は明らかだ。
予備知識のいらないD&D型ビデオゲームを出せば必ず売れるはず。

ブラックオニキス

 ロジャースにはゲームの開発経験はなかったが、それがむしろ幸いした。
なぜなら当時の技術で、RPGのような複雑なプログラミングが必須のゲームを作るのがどれほど難しい事なのかを、彼は知らなかったからだ。
なぜ、誰も自分のような発想に至らなかったのか。
その本当の理由を彼は知らなかった訳である。

 しかし無謀と思われる事でも、案外やってみてやれたというような事は世の中にけっこうある。
ロジャースは、当初の予定よりはずいぶんとシンプルになったものの、とりあえずは自分なりのRPG『ブラックオニキス』を完成させた。 

新たな商品を求めて

 結果的に、営業や宣伝に苦労させられたものの、ブラックオニキスは、少なくとも成功と言えるような成果を出した。
ただ、すぐ後に出たドラゴンクエストやファイナルファンタジーとかいう2体のお化けのせいで、影が薄いだけである。

 彼が日本における新たな市場開拓商品として、捉えたのが、アメリカやイギリスでブームを巻き起こしていたテトリスであった。

 最初はコンピューター向け。
次には日本における家庭用ゲーム機向けテトリスの権利を獲得したロジャースはすぐに自社であるバレットプルーフ・ソフトウェアは、すぐさま、それらのハード向けのテトリスを販売。
そしてそれは見事に売れた。 

任天堂の新たな革命プロジェクト

 当時、比喩とかでなく、まさしく日本のゲーム業界を支配していた大企業、任天堂。
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 ロジャースは、部外者で、しかも外国人でありながら、その任天堂内部に立ち入る事を許されていた、おそらく唯一の人であった。
彼は、任天堂との社長とのコネクションを得る為に、ちょうど任天堂の当時の社長との共通の趣味であった囲碁を使ったという。

 ロジャースの囲碁のゲームは、実は酷評されたらしいが、それでも、任天堂との繋がりを持てたのは、彼がいかに交渉マンとして、優れているかを証明しているといえよう。

 そして、ゼルダやマリオの大成功にもまだ満足などせず、彼らが密かに開発していた、新たな革命的ゲーム機を、ロジャースはいち早く知れた。

 そして意見した。
「テトリスは相性いいのではないでしょうか?この新しいゲーム機と」
そのゲーム機の名前は、『ゲームボーイ』といった。

アレクセイ・パジトノフ

パズルへの情熱

 1956年生まれのアレクセイ・レオニードビッチ・パジトノフがパズルに出会ったのは、不幸な事故が原因であった。
そんなに深刻なものではない。
15歳くらいの頃。
単に、足をつまづかせ、足の骨を折ったのである。
 それで2、3ヶ月、自宅で療養する事になった彼は、友人が買ってくれた数学パズルの本に熱中して時間を潰したのである。

 そして数学、パズル熱は、足が治ってからもだんだんと高まっていき、ミニチュアやボードゲームにもハマるようになっていった。

ペントミノ

 しかし決して裕福でなかった家庭では、娯楽に使える金など全然ない。
それでもパジトノフは、安く売られてたペントミノというパズルゲームをよく楽しんだ。

 ペントミノは、正方形を組み合わせた図形を使うシンプルなパズルゲームで、後にパジトノフ自身が作ったテトリスによく似ている。
これはいわばテトリスの元ネタである。
だからこそテトリスのブロックの名称は『テトリミノ』と呼ばれるのだ。

仕事は人工知能開発?

 どうしてもコンピューターに関わる仕事につきたい一心で、RAS(ロシア科学アカデミー)に籍を置いたパジトノフに、やがて与えられた最初の専用コンピューターは、時代遅れのマシン、『エレクトロニカ60』。
アメリカなら、初めてコンピューターに触れる学生でも、もっとマシなレベルのものが使えたろう。

 そんな、ショボいコンピューター相手に、パジトノフが任された最優先すべきプロジェクトは、なんとAI(人工知能)の開発であったとう。

 一方この頃、世界は日本とかいう小さな島国に侵略されつつあった。
彼らが用意したビデオゲームという平和的侵略兵器の魔の手は、ロシアにもすでに及び始めていた。
ナムコのパックマンはもう検問をこえてきていたのである。

遺伝子工学。試作版テトリス

 しかしパジトノフが使うことの出来たコンピューターと、輸入されてきた色彩豊かなアニメ調ゲームの間は、存在する世界が違っているようなものだった。

 だが、パジトノフは、自分の時代遅れの環境でも、ゲームは作れるかもしれないと考えるようになっていく。
 何て事はない。
貧乏でもペントミノは楽しめた。
だから技術が少なくても、彼はビデオゲームのペントミノなら作れるかもしれないと考えたのだ。

 そうして彼はグラフィックを描画出来ないコンピューターで、文字のみを使って図形を表現し、最終的に7つとなったそれらのブロックはテトリミノと名付けられた。
そのテトリスの最初のベータ版とでも言える、ペントミノを忠実に再現しただけのゲーム『遺伝子工学』は、驚くほどつまらなかったという。

 当然であろう。
当時パジトノフが使えた技術的に、ペントミノを再現するだけでは、ただのひどい劣化である。

世界を虜にしたアイデア

 ある時、パジトノフは気づいた。
「モニターが正方形だからといって、プレイ領域を正方形に限定する必要はない」
 彼はそうして、プレイ画面を、長方形に変えた。
そうしたら難易度が適度に上がり、少しは面白くなった。
しかし、それでもまだ何か足りない。
 ゲームはすぐに終わる。
画面がブロックに埋め尽くされたらそれで終わりだ。
ちょっとばかし積み間違えて出来たブロックの隙間が虚しかった。
そしてついに彼は閃く。

 それは、テトリスを、ちょっとした思いつきから、中毒性すらある偉大なゲームに変えた、たったひとつのアイデア。
 後の全てのパージョンのテトリスに受け継がれ、数多くのパズルゲームに真似され、今では当たり前だけど、それまで誰も思いつけなかった、ビデオゲームたからこそ実現出来た、天才の発想であった。

 つまりパジトノフは、ブロックが綺麗に横列を埋めた時に、その列が消えるようにしたのである。
それだけだった。
それだけで、このゲームは最高に面白くなった。

 またテトリスという名称は、落ちてくるブロックを次々消してくプレイ画面が、なんとなくテニスを思わせた所から、つけられたという。

スコアもレベルもないテトリス

 「アレクセイ・パジトノフが、なんか面白いゲームを開発したらしい」という噂はすぐに広まった。

 海外の面白いゲームの情報は入ってきても、現物が入ってこない当時のロシアにおいて、それはおそらく、ゲーマー達が望みうる最高のものであった。

 テトリス。
確かにテトリスであった。
色はもちろん、BGMも効果音もなく、スコアもレベルもない。
そんな原始版テトリスは、それでも退屈していたロシアのオタク達を魅了した。

 しかし、コンピューターが全然普及しておらず、エレクトロニカ60という、別にありふれてもいないコンピューターの限界までを利用し、互換性のあまりなかったテトリスは、広まったりはせず、一部で一貫性のブームを起こしただけにすぎなかった。

共同開発者達。商業化への夢

 テトリスにスコアなどの要素をつけたり、様々な機器でプレイできるようにプログラミングを手直ししたのは、パジトノフの優秀な助手であったパブロフスキーとゲラシモフであった。

 まだ16歳の頃にスカウトされたゲラシモフは、テトリスという名前が、いまいちだと意見した事もあったが、パジトノフは、名称変更には断固反対したとされる。

 彼には捨てきれない夢がまだ少しはあった。
テトリス。
この素晴らしいゲームを商業作品としていつか売り出すこと。
その時の為に、この自分がつけたとっておきの名前は変えてくなかったのである。

暴かれた真実

機密組織を訪ねて

 任天堂は、ゲームボーイのテトリスのライセンス契約をなるべく秘密裏に行うべく、外部の者を使う事にする。
それで選ばれたのが、任天堂とも、テトリスともそれなりに関係のあったヘンク・ロジャースであった。

 1989年2月21日
ロジャースがロシアの地を踏んだ時、ソ連のあらゆるオリジナルテクノロジーは、機密組織『ELORG』によって、守られていた。

 当時すでに一部ではカルト的人気を得ていたテトリスの新たなライセンス契約を結ぶには、ELORGは必ず突破しなければならない壁であった。
しかし彼はELORGの所在地すら知らないでいた(街の人に尋ねても誰も教えてくれなかった)。

 ロジャースが、鍵と考えていたのは、5年前にテトリスのオリジナル版を開発したアレクセイ・パジトノフその人であった。

 もちろんふたりに面識などなかったが、ロジャースは、きっと彼は味方になってくれると確信していた。
テトリスの開発者でありながら、パジトノフは、そのテトリスの人気にも関わらず、所有権を当たり前のように、国に取られていたのだ。
少しくらいは日に当たるのを夢見てるはずだ。

ふたりのライバル。ロバート・スタイン。ケヴィン・マクスウェル

 ロジャースがかつて任天堂の山内に存在を認識させたのは、囲碁を通じてであった。
彼はまた、その囲碁で、パジトノフへと通じようと、モスクワの囲碁プレイヤー達を次々訪ねた。
 集まりを作ってまで囲碁をプレイするのは、当然ゲームが好きな人達。
だからそこにはパジトノフと繋がりを持つ者がいる可能性も高かった。

 囲碁を通じて見つかったのは、パジトノフでなく、ELORGの建物まで案内してくれる、勇気ある女性ガイドであった。

 ロジャースにはライバルがふたりいた。
オリジナル版テトリスの最初のライセンス契約者であったロバート・スタインと、ケヴィン・マクスウェル。
ふたりとも、有力者として、正式に招かれている人物。
 一方、ロジャースは招かれざる客である。
勝算は確実に少ない。
しかしもう後戻りも出来ない。
 
 「テトリスについて話をしたいのですけど」
扉を開けたすぐ先にいた役人らしき男に、ロジャースは告げた。

そいつは日本からやってきた

 ELORGのニコライ・ベリコフからの電話がかかってきた時、パジトノフは心でため息をついた。
用件などわかりきってる。
また、スタインだかマクスウェルだかと、テトリスに関する話し合いがあり、参加するように言うのだろう。
彼は気乗りしなくても、テトリスの顔として、また、彼が所属していたRASの代表として行くしかなかった。
 しかし、予想外に、話し合いの相手はスタインでもマクスウェルでもなかった。
日本からやってきた謎の男だという。

当然のロイヤリティです

 交渉の席で、ロジャースはELORGという組織の人達の無知ぶりに驚かされた。
彼らはテクノロジーにも、金融に対してすら知識が薄く、ロジャースは、彼らに、テトリスが今世界でどれほど莫大な金を動かしているのかを熱心に語る戦略をとったほどであった。

 休憩の席では、ついにパジトノフその人とも直接話が出来、パジトノフも、ロジャースにそれなりの好感を抱いたという。

 そして正式なプレゼンテーション時、ロジャースの世界のゲーム市場におけるテトリスの説明は、爆弾となった。

 なんと、ELORG側が、正式に承諾していたライセンス契約は、コンピューター版の最初のテトリスのみだったのである。
それ以外は全て、ロジャースが販売していたファミコンのテトリスも含め、世界中のほぼ全てのテトリスは、実質的な海賊版であったのだ。

 怒り心頭のロシア人達を前に、ロジャースはしかし、その瞬間にこそ希望を見いだした。

 ELORGの人達は、テトリスに対して、大して金にもならないもの。
そういう風な印象を抱いていたようにロジャースに見えていたが、今やそれは勘違いではなかったとはっきりしたのだ。

 だから彼は、ビジネスをしようと決心した。
走り書きではあるが大金分の小切手を、差し出して、
「私が売ったソフト分の売上の内、あなた達が受け取るべき当然のロイヤリティです」
そんな風に述べたのだ。

任天堂無双

後ろについてのるのが誰だと思ってる?

 「当初、あなたが要求した権利のみならず、まだ正式でない家庭用ゲーム機のライセンス権利も新たに競売にかけるとしたら、それに参加しようと思うかね?」
ベリコフはそう尋ねた。
そしてそうなれば、その額はかなりのものになるとも警告した。

 ロジャースは自信を、もって答えた。
「もちろん」

 当時テトリスのライセンスを持っていたとされていたのは、ミラーソフトやアタリといった当時の業界の大企業である。
競売はもちろん彼らを新たにねじふせなけれはならないが、そんなもの問題ではなかった。

 なぜならロジャースの背後にいる企業は、ちょっと名の知れたような雑魚ではない。
あの任天堂なのだ。

500万ドルある

 それから、一旦任天堂に状況を報告してから、今度は弁護士と、莫大な資産を有する任天堂の正式な後ろ楯を得て、再びベリコフの前に現れたロジャース。

 あくまで噂レベルだが、ロジャースが任天堂から保証され、提示した金額は500万ドルだったという。
(当初、アーケード版のライセンス料としてELORG側が提示していた金額で15万ドルほど)

 当然、当たり前のように正式契約は決まった。

 しかしニンテンドー・アメリカの幹部が発した、パジトノフにも報酬を用意したらどうか、という意見には、ベリコフは難色を示したという。

テトリスの為にゲームボーイ買う

 ただロジャースらは、パジトノフとの友情も含め、パジトノフの子供達は、関係者以外でゲームボーイを遊んだ最初のプレイヤーとなった。

 任天堂は、さっそくとばかりに、家庭用ゲーム機のテトリスを販売していたテンゲンに、販売停止を求め、裁判でも勝利した。
こうしてテンゲン製のテトリスは、市場から撤去されたが、大量にあったはずのそれらカートリッジが、どこに消し去られたのかは、現在に至るまでゲーム史のミステリーのひとつとなっている。

 数年前に、大量に売れ残ったETというゲームが、どこかに埋められたという伝説があるが(現在までに一部見つかっているから、おそらく事実)、同じようにどこかに埋められたという説が有力である。

 そして実際に販売されたファミコン版、ゲームボーイ版のテトリスは凄まじく売れた。
特にゲームボーイ版の方は、ゲームソフトの為にゲーム機を買うという事態を世界中で引き起こしたほどであった。

 パジトノフは後に、ロジャースの支援も受け、アメリカに移住。
そこで、偉大なテトリスの生みの親として、ようやく日の目を見る事になった。

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