フェルメールとは誰か。典型的な再発見された画家
光の魔術師とも称される画家ヨハネス・フェルメール(1632~1675)の本名はヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフト(Jan van der Meer van Delft)とされている。
フェルメールは通称である。
彼は典型的な再発見された画家として知られている。
今でこそ、出身国が同じレンブラント(1606~1669)と並び称されるような彼も、死後しばらくは人々から忘れ去られていた。
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ただ画家として、生前、まったく無名というわけではなかったらしい。
基本的には、普通にそこそこ優れた一介の画家だったのだろうと考えられている。
フェルメールは19世紀に、ドイツの美術史家グスタフ・フリードリヒ・ワーゲン(1794~1868)や、フランスの美術評論家エティエンヌ・ジョセフ・テオフィル・ソレ(1807~1869)に再発見されたことで、高い評価を取り戻すまで、2世紀ほど歴史から消えていた。
そういうわけだからかは不明だが、彼の生涯は、現在の名声のわりには記録に乏しく、よくわかっていないことが多い。
父の画家の友人たち
フェルメールは1632年に、オランダのデルフトに生まれた。
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父であるレイニエル・ヤンスゾーン・ファン・デル・メールは、母であるディグナ・バルテンスと結婚した時、絹職人であったらしい。
レイニエルはもともとフォスという姓であったが、いつ頃かにファン・デル・メールに改名したという話もある。
しかし二人の息子であるフェルメールが9歳の時。
マルクト広場の辺りの家を入手して、そこでレイニエルは宿屋に転職したという。
レイニエルは宿屋を営みながらも、画商を副業としていたようで、コルネリス・ヘルマンス(1607~1681)やエグバート・リエベンス・ファン・デル・ポエル(1621~1664)といった、画家の友人も多かった。
その父の友人の画家たちが、どの程度の影響をフェルメールにもたらしたのかも、まったく定かでないが、いずれにしても彼は15歳くらいの頃に絵の修行を始めたようである。
師匠は誰であったか
フェルメールの師匠は諸説あるが、その師事していた場所が、故郷であるデルフトでなかったことだけは、ほぼ確かとされている。
初期の画風や、人間関係に関する記録などから、何人かの画家が師匠候補としてよく紹介されるが、誰に関しても確たる根拠はない。
信心深く、カトリック教会に関連する作品をよく描いたアブラハム・ブルーマールト(1566~1651)。
後、フェルメールの結婚式の際に結婚立会人を努めたレナード・ブラマー(1596~1674)
歴史画を得意としたクリスティアン・ファン・クウェンベルグ(1604~1667)
レンブラントの弟子であったカレル・ファブリティウス(1622~1654)などが比較的有力な師匠候補とされる。
だいたい、当時(フェルメールの修行時代)はユトレヒトで活動していた画家たちらしい。
また、とりあえず、「明暗法(キアロスクーロ。chiaroscuro )」を完成させた画家とされるミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571~1610)に影響を受けていた人たちらしい。
フェルメールもそういうわけで、カラヴァッジョの間接的な影響下にいた画家の一人とされる。
レナードに関しては、フェルメールとは画風がかなり異なるという指摘もある。
もちろん複数の師匠のもとを渡り歩いていた可能性もある。
むしろ当時の通例を考えると、その可能性の方が高い。
またフェルメールは、有名な芸術オタクであったコンスタンティン・ホイヘンス(1596~1687)をして「オランダ最高の歴史画家のひとり」と言わしめたヘンドリック・テル・ブルッヘン(1588~1629)にも影響を受けていたという説がある。
色の使い方がかなり似ているという。
結婚とカトリックへの改宗
当時、画家の修行は、通常6年が目安とされていたが、おそらくフェルメールは6年が経つより前に、修行地(おそらくユトレヒト)から、デルフトに戻っている。
1652年10月。
父の死がきっかけであったとされる。
そして1653年に、フェルメールはカタリーナ・ボルネスという女性と結婚した。
フェルメールの家はあまり裕福でないし、彼がプロテスタントであるのに対し、ボルネスはカトリックの家系であったために、当初、彼女の両親、特に母には反対されたようである。
フェルメールは、カトリックに改宗したことで、相手方の両親を納得させたという説もあるが、改宗した根拠はないとする研究者もいるという。
ギルドへの入会、義母との関係
結婚と同じ年。
フェルメールは、「聖ルカ組合(Sint-Lucasgilde)」という画家を中心としていたギルドに入会。
そのギルドにおいて、最年少理事にも選ばれた彼は、親方画家として活躍したという。
結婚後のいつ頃かはわかっていないが、おそらく1654年か55年くらいに、フェルメールはそれなりに裕福であった妻の実家に同居することになった。
フェルメールはその大きな家の二階の一室をアトリエ、屋根裏部屋を画材置き場としたとされる。
一説によると、最初は結婚に反対していた義理の母の息子、つまりカトリーナの兄弟は、なかなか粗暴だったようで、それに比べたら真面目なフェルメールに、彼女(義母)もだんだん信頼を寄せるようになっていったらしい。
ピーテル・ファン・ライフェン夫妻。パトロン
1657年の末には、長きに渡りフェルメールを支えることになるパトロンのピーテル・ファン・ライフェン夫妻が、彼にけっこうな金を貸しているらしい。
この頃には画家フェルメールの名もある程度有名になっていたか、少なくとも才能を見いだす者も少なくはなかったのだろうと思われる。
フェルメールの初期の傑作はほとんどライフェン夫妻のコレクションになったようだから、夫妻がすごく熱心な彼のファンだったのはほぼ間違いない。
高名画家としての活躍記録
1667年。
デルフト市の雑誌の中で、活躍中の画家としてフェルメールが紹介されているという。
また、1654年10月に起きた火薬庫が爆発した惨事により命を失ったカレル・ファブリティウス(師匠候補のひとり)の後を継ぐ画家ともされていたようだ。
1669年。
5月と6月の二度、ピーテル・テーディング・ファン・ベルクハウトという若者がフェルメールのもとを訪問したとされる。
彼の日記によると、一度目はコンスタンティン・ホイヘンスに同行する形であったらしい。
彼は「高名な画家に、珍しい作品を見せてもらった」とも書いている。
さらにフェルメールは1671年には、珍しいことに、デルフトのギルドに再び理事として選ばれている。
翌年の5月には、理事仲間のハンス・ヨルダーンスとともにハーグに招集され、12点のイタリア絵画の鑑定を依頼されている。
フェルメールはイタリア絵画に通じていたのだろうか。
あるいはそうかもしれないが、鑑定を依頼された画家は他にもいて、その中にはフェルメール以上に明らかにイタリアに縁のない画家もいたようである。
また、フェルメールは依頼された作品をイタリア絵画でないと判断したが、同じ日の別の時間に鑑定したコンスタンティンは本物としたという。
返り咲けなかった
生前のフェルメールは画家としてそれなりに有名であっても、経済的には恵まれなかった。
フェルメール夫妻はなかなか子だくさんであり、フェルメール自身は画家であると同時に、彼自身も美術コレクターであったのだ。
1670年代の頃は、かなり苦しい生活を強いられていたろうとされる。
イギリスやフランスとの戦争による不景気で、義母も財産を多く失ってしまい、ついでにフェルメール自身の画家としての人気も低迷していたとされている。
1674年には、支え続けてくれていたファン・ライフェンも亡くなり、画家としての彼の環境も、かなりまずくなってしまったはずである。
そしてそのまま、再び高名画家として返り咲くことなく、1675年12月15日に、フェルメールは世を去った。
残された未亡人のカタリーナも、相当に苦労したようだが、不幸な道を歩んだ娘夫妻とともに犠牲にならぬよう、彼女の母が財産をすべて孫たちに継がせたから、一応、不幸の連鎖は彼女の代で終わったとされている。