「フィンセント・ファン・ゴッホ」弟への手紙、信仰心、黄色を愛した炎の画家

ゴッホ家のフィンセント

 後に炎の画家と呼ばれるようになるフィンセント・ファン・ゴッホ(1853~1890)は、1853年3月30日に、オランダは北プラバンド地方のフロート・ズンデルト村にて生まれた。
オランダの家 「オランダ」低地国ならではの習慣と特徴。水と風車と倹約家主義
 「勝利者」の意のフィンセントという名前は、特別な想いが込められた名前というよりは、ゴッホ家の伝統的な名前であったとされる。
牧師であった祖父、画商であった伯父も、その名を与えられていた。

 ゴッホ家はなかなかの名門であり、政治家を輩出したこともあるようだが、フィンセントの父であるテオドルス(1822~1885)の兄弟の中にはいない。
長男であるヨハンネスは海軍に所属。
そして他の兄弟、(伯父の方の)フィンセントの他、ヘンドリックとコルネリウスも画商となった。
テオドルスだけが、父と同じく聖職者となったが、あまり高い地位にはなかったという。

 テオドルスは1851年に、製本職人の娘アンナ・コルネリア・カルベントゥス(1819~1905)と結婚。
1853年に長男であるフィンセントが生まれた後、1855年に長女、1857年に次男が生まれ、長女には母の名であるアンナ、次男には父の名であるテオドルスが与えられた。

 その後もアンナは三人の子を産んだようだから、フィンセントには合わせて5人の弟妹がいたことになる。

変わり者として、普通の人として、聖職者として

植物や虫の観察が好きだった

 幼少時代の弟たち、妹たちにとって、長男であるゴッホは怖い存在だったとされる。
彼は普段は無口だが、時に気性激しく いきなり怒りだしたりすることがあった。
ようするに癇癪かんしゃく持ちであった。

 ゴッホの方も、あまり下の子に歩み寄ろうとはしなかったが、例外的にテオ(テオドルス)だけは、 多少仲がよく、たまに一緒に散歩をしたりしたという。
ゴッホは野山で、植物や虫の観察をすることが好きで、その楽しさを連れ出したテオに教えていった。
虫取り網 「昆虫」最強の生物。最初の陸上動物。飛行の始まり。この惑星の真の支配者たち

短気な少年から、真面目な青年へ

 少年のゴッホの性質はよそでも変わらず、彼はあまりに喧嘩っ早いために、地元の小学校を退学になったりもした。

 13歳の頃。ゴッホは、ゼーフェンベルヘンという町の寄宿学校に入学したが、16歳の時に辞めて、隠居生活をしていた伯父の紹介により、画商時代の彼が経営していて、大手美術商のグービル商会に譲られていた店で働くことになる。

 周囲の不安は杞憂きゆうに終わり、グービル商会のハーグ支店にて、ゴッホは真面目に働いたとされる。

 このハーグの社員として働いていた1869年から1873年までの時期は、ゴッホにとって、もっとも幸福な時期であったと推測されることも多い。
癇癪も鳴りを潜めて、かなり落ち着きがあったようだ。

 有名な弟テオとの文通はハーグ時代に始まったのだが、この頃のゴッホの手紙の内容は、彼の生活の充実ぶりがはっきりにじみ出ているとも言われる。

 そして1873年5月に、模範的な社員であったゴッホは、ロンドンに栄転することになる。

初恋と、最初の失恋

 ロンドンでの下宿生活は楽しく、自由な時間には美術館や公園に通い、小説もよく読んだ。
イギリスの絵画は最初は微妙に感じるも、 だんだんとよさがわかったという。

 そしてある時、下宿先であるロワイエ家の娘ウルスラに、ゴッホは恋をした。
ウルスラは、未亡人の母の力となり、託児所を経営している明るい人だったようだ。

 しかし一年近くの片思いの後に、意を決し告白(というか結婚の申し込み)をするも、ウルスラにはすでに恋人がいたために、ゴッホはあっさり拒絶されてしまう。
そうして失恋したのは1874年の7月頃だったとされている。

 ゴッホはどれほど傷ついていたのだろうか。
少なくとも、仕事への情熱をすっかり忘れてしまうくらいにはひどい状態であったようだ。
以前のように短気になり、客ともめることすらあった。

宗教への目覚め

 ロンドンでゴッホの評判は悪くなり、その悪評を聞いた伯父は、彼をパリの本店へと転勤させることにする。
伯父はゴッホに、パリの楽しさで失恋の痛みを消し、また明るくなってもらいたかったとされているが、そうはならなかった。

 ゴッホは宗教にのめり込み、神への信仰心を拠り所にし始める。
パリの見事な芸術に触れながら、心には聖なる主がいて、夜は聖書研究にいそしんだ。

 一方で仕事ぶりのだらしなさは続き、ついにはグービル商会もクビとなり、伯父もさすがに怒り、「もう二度と面倒は見ない」と通告もされてしまう。

 職を失ったゴッホはしかし生活のために、とにかく求人を探し、1876年の春にイギリスのラムズゲートという町の寄宿学校の教師となった。
生徒は10から14歳くらいまでで、誰もみな貧乏な家の子たちだった。

 それから滞納しがちな授業料を集めて回ってくるように校長から頼まれたゴッホは、おそらくは生涯で初めて、過酷な貧民街の現実と直面することになった。
ゴッホは結局、貧困に苦しむ人たちに金を要求することなどできず、学校もクビとなる。
そして、彼はますます宗教への思いを高めるのだった。

神の道を諦めきれない

 ゴッホは父や祖父と同じように牧師になろうと考える。

 そして縁があって、アイズルワースの牧師ジョーンズが、彼が経営する学校で教師をしながら、教区の信者に説教が行えるように取り計らってくれた。

 1876年11月4日。
ゴッホは生涯で初めての説教を行ったとされている。
彼はそれからテオへの手紙にて「講壇こうだんに立った時、ようやく地下から出て、懐かしき陽の光を浴びたような気がした」というような感想も述べている。

 しかし牧師としての暮らしも長くは続かなかった。
やる気がなかったわけではない。
むしろやる気がありすぎて、貧しい教区を巡りながらも、寝食も忘れ、聖書を読むのにふける彼は、普通に体調を崩してオランダに帰り、そこで普通に両親に心配される。

 その両親に頼まれ、一度はおいを見捨てた伯父が、今度は本屋にゴッホを紹介してくれた。

 だが神の道を諦めきれないゴッホは、本屋の店員として働きながらも、やはり暇を見つけては聖書の研究ばかりであったという。

 そして、たった3ヶ月程度で、ゴッホは本屋をやめて家に帰った。
ただし今度は、かなり本気の決心を持って。

辛い勉強の日々と、どうしようもない挫折

 伝統的なキリスト教の家系であるから、聖職者になりたいというゴッホの願いを強く拒むことは、両親には難しかったろうとされている。

 しかし正式な牧師となるには、難関とされていた神学大学を卒業する必要がある。
ゴッホの勉強の日々が始まった。

 家庭教師として雇われたメンデス・デ・コスタは、事前にゴッホが変わり者であると聞かされていた。
しかし彼もまだ20代と若く、二人はすぐに打ち解けたという。

 ただ、ゴッホは向上心はあったが、試験に合格はできないだろうとメンデスは考えていた。
どうも彼はギリシア語が苦手で、相当に苦労していたようだ。

 勉強は辛く、合間の時間を、つい身近な風景などのスケッチで潰してしまうくせもあった。

 そしてメンデスが不安がった通り、ゴッホは1年以上の勉強を無駄にする。
1878年7月。
彼はいよいよ神学大学も諦めて、再び実家へと戻ってきたのだった。

無資格で伝道活動

 しかし勉強はダメでも、神に奉仕したいという気持ちは強くある。
そんな彼に救いの手を差し伸べたのは、またしてもジョーンズ牧師であった。

 ジョーンズ牧師のおかげで、ゴッホはベルギー、ブリュッセルの伝道師学校に通えることになる。
だが、決まりに黙って従えるような人でないゴッホは、ここでもまた失敗する。

 雑な生活態度や言葉遣いを注意されても、なかなか改められなかったゴッホは、伝道師の資格が与えられる可能性は低いと通告され、学校を去るしかなかった。

 だが、ここにあっても、ゴッホの信仰心が崩れることはなかった。
彼は貧しい炭鉱地であるボリナージュにて、無資格で伝道活動を始めたのである。

狂気的な自己犠牲の伝道師

 最初は笑い者となった。
しかし、常に死の危険がつきまとうような職場で、苦しみながらも生きるために働く炭鉱夫たちのために、自分のできることをとにかく尽くそうとする彼の姿に、心を打たれる人々も現れ始める。

 そうして、その評判を聞いたブリュッセルの伝道委員会は、1879年1月に、ついにゴッホを正式な伝道師として、試験的にではあるが任命した。

 しかしゴッホの熱心な活動は、正しくはあるかもしれないが、多くの人から見れば狂気の沙汰でもあった。

 最も貧しいと思われる人たちに、自分の衣服や金を惜しみなく分け与え、自らは最もひどいと言えるような寝床に甘んじた。
炭鉱夫たちが、ガスや爆発や落盤などの危機にさらされた時は、いつでもすぐに駆けつけ、重症な人の支えになってやり、時にはそのおかげで命を救われたとしか思えないような奇跡もあったという。

 そして伝道委員会が派遣した視察官はゴッホに関して「伝道師として最低限必要な良識に欠けている」と報告した。
そしてそれが真の理由であったかは定かでないが、ゴッホは半年の試験期間が終わるや、すぐに正式な伝道師の座を解任された。

絵を描く事

 伝道師の資格を失って、それでも残ったのは、カバンなしで全部持ちきれてしまう程度の荷物だけだったという。

 ゴッホはとにかく、助言を求めて、伝道委員会のピーテルセン牧師のもとを訪ねた。
そして、しばらくの期間、家に泊めてもらい、話し相手にもなってくれたピーテルセンは、ゴッホと同じく絵が趣味で、彼のデッサンにも興味を示す。

 ゴッホにとって、絵を描くという行為の重要性はかなり大きくなっていた。
そして伝道師としてはいよいよ挫折しかかっていた。

家族との衝突

 家にまた帰ってくると、両親は、どんな仕事でも投げ出すゴッホを非難した。
どのような仕事でもいいから、とにかく普通に生きてほしいという家族の頼みに対し、ゴッホはまた少年の時のように怒ったとされる。
普通になろうとした。
普通の仕事に必死に努めようとした。
しかし結局は失敗した。

 ゴッホからしてみれば、何度やったって失敗するなんてこと、わかりきっていることだったのかもしれない。
自閉症的な心 「自閉症の脳の謎」ネットワークの異常なのか、表現された個性なのか
しかし、両親はまだ、彼が普通に生きれるはずという希望を捨てきれてなかった。
だからこそ、彼らはゴッホを責めた。

 どんな時でも仲のよかったテオでさえ、この時はゴッホを責めたという。
「兄さんは変わってしまって、もう以前と同じ人ではなくなった」
そんなふうに彼は言ったともされる。

遠く離れてしまった今でも、絵画の国へのホームシックにかられてしまう

 1879年の10月から約一年くらい、テオとの文通も途切れることになった。
それは彼の人生の中でも、最も孤独な時期だったとされている。

 しかしこの孤独な時期は、おそらく必要だったのだろう。
炎の画家の誕生のために。

 1880年7月。
自分を責めたテオが、それでも兄である自分に送金をしてくれていたことを知り、ゴッホはまた弟への手紙を書いた。
「遠く離れてしまった今でも、絵画の国へのホームシックにかられてしまう」という一文に、アンダーラインが引かれてあったという。

 そして1880年8月以降のゴッホの手紙は、信仰に関してでなく、デッサンの話ばかりに変わっていく。

 テオはまた、今さらに画家を志す兄をもう一度信じて、援助をしようと決意したのだった。

画家としての日々

アントン・モーヴとの出会い

 ゴッホはもともと絵を描くのが趣味ではあったが、遠近法など技術的なことに関しては素人同然であり、まずはしっかりと学ぶ必要があった。
しかし自分が学校というものに向かないことは、これまでの人生経験からよく知っていたので、どこかの美術大学に通うより、実際に存在する画家たちと交流を持って、意見をかわし合ったりしたほうが、自分のためにもなるだろうと考えた。

 そしてゴッホは、独学で絵を学びながら、テオの知り合いであったアントン・ファン・ラッパルトという5歳下の画家と、彼が暮らしていたブリュッセルにて親交を結んだ。
しかし1881年の4月。
ラッパルトはブリュッセルを離れることを知ったゴッホは、ラッパルトのアトリエも使えなくなるだろうと悟り、一旦実家へと帰った。

 ついに自分なりの道を見つけたらしい彼を、両親は、今度は歓迎したという。

 また従兄弟の画家アントン・モーヴ(1838~1888)の「なるべく生きたモデルを使った方がいい」とか、「木炭ばかりでなく、筆やチョークや刷毛はけもよく使うように」といったアドバイスは、ゴッホにとっては非常に有益であったようだ。

二度目の恋の悲劇

 ゴッホはモーヴのアドバイスに従って、よく生きたモデルを描くようになった。
そしてその題材は、ほとんどいつでも労働者たちだった。
貧しい暮らしの中で、しかし自分や家族のために、必死で働く人たち。

 そして、両親が用意してくれたアトリエで絵画の練習の日々をおくる彼を、また恋という病が襲った。
1881年の夏。
夫を失くしたばかりであった従姉妹のケー・フォス・ストリッケルにゴッホは告白した。
しかし、まだ夫が心にいたのだろう彼女は、彼を拒絶する。

 初恋の時の苦い経験がトラウマになっていたのか、 今回は思いの強さが違ったのかはわからないが、ゴッホは恋するケーに対ししつこく言い寄った。
トラウマ 「トラウマ」心の傷、化学物質、自らのコントロールはどう失われるか
 彼女自身の両親のいるアムステルダムへ逃げるように去ったケーに、ゴッホは何通も手紙を書いた。
周囲の誰もが呆れるほど、それはひどいストーカーぶりであったようだ。
そして11月に、ゴッホは彼女の住まう家をいきなり訪ねる。

 ケイは怯えて部屋に閉じこもり、彼女の両親はもうあきらめるように頼んだ。
しかしゴッホは、ランプの火に手をつっこんで言った。
「ケイを連れてきてほしい。この手が焼ききれる前に」

 結局手が熱でただれただけで、ケイには会えなかった。
それは一度目よりも、かなりひどい形での失恋であった。

信仰心との決別

 ここに至り、やはり自分は、ただ画家であるべきとあらためて決意したゴッホは、1881年末頃から、モーヴに本格的に弟子入りし、教えを受けた。

 ところで、ケーの父であるストリッケル伯父もまた聖職者であり、自分の(多分彼は本気でそう考えていた)素晴らしく純粋な愛を理解してくれなかったことから、あれほで強かったはずの信仰心もかなり揺らいだようだった。

 クリスマスに、実家にまた帰省きせいしたゴッホは、教会に行くのを拒み、それで父とケンカになった。
「宗教なんてろくなもんじゃない。人を傷つけるためにあるようなものだ」などと言う息子に対し、父はこれまでになかったほどに怒り、親子関係は完全に崩壊した。

三度目の恋と、暗闇にようやく光

 家を出ていかざるをえなくなったゴッホは、ハーグに暮らすモーヴを頼った。
モーヴもまた、温かくゴッホを迎えた。

 そしてハーグに来て間もなく、ゴッホは三度目の恋をした。
これまでとは違っていた。
相手の優しさとか純真さとかに惹かれたとかではなく、その恋は共感から始まった。
相手は子連れでアルコール中毒の売春婦クラシーナ・マリア・ホールニク(シーン)。
境遇や、彼女が抱えてきたであろう苦労が、まるで自分と重なるようにゴッホは感じたのだった。

 ゴッホはシーンの暮らしを援助し、またモデルとしてよく描かせてもらった。

 一方で、助言に対して侮辱かのように怒るゴッホとモーヴの関係は徐々に悪化していった。
モーヴはさらに知り合いの画家を紹介してくれたりもしたが、誰との友人関係も長続きしそうになかった。
売春婦と付き合うことに関しての嫌悪感もかなりあったらしい。

 また、孤独な人をモデルに、孤独を描いたような彼の絵は、あまり好かれそうにもなく、絵を一枚買ってくれたグービル商会の昔馴染みの人は、もっと気持ちのよい水彩画でも描くようにと忠告したという。

 彼は自分のスタイルを貫くことに迷いはないようだった。
風景画家ではないと自称し、悲しげな人物画ばかりを描きながらも、彼の心は本当に光に満ちつつあった。
1882年4月のテオへの手紙には、「これまでの苦労が楽しさに変わっていくようだ。今までできなかったことも、できるようになっていくよ」などと書いている。

最後の失恋

 ゴッホはシーンを決して疫病神とは考えず、子を身ごもった彼女と結婚の決意すら固めた。

 ところがシーンの出産より先に、ゴッホは性病に倒れ、私立病院に入院することになる。

 もう弱っても頭は絵画のことばかりであった。
テオへの手紙の中でゴッホは、病室の窓からの風景をヤーコプ・ファン・ロイスダール(1628~1682)やヨハネス・フェルメール(1632~1675)の作品に例えた。
また医者の顔が、レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(1606~1669)が描きそうなどと書いている。

 そして退院し、シーンが彼女の二人目の子を産むと、彼女らとゴッホは暮らし始めた。

 しかし賛成してくれるものはほとんどいなかった。
テオも、シーンとのことに関しては一貫して否定的だったという。
そのためちゃんとした結婚は難しく、テオへの手紙に、ゴッホが彼女に関する書くことはほとんどなかったという。

 だが、売春婦としての自分を捨てられないらしいシーンに、テオの説得も後押しして、1883年9月頃に、苦悩した末にゴッホは彼女を見捨てた。

ひたすらに描いた

 テオの仕送りだけが頼りの暮らし。
貧困に苦しみ、シーンだけでなく彼女の子供たちまで捨てた自分への怒り、何より、もう30をこえて、それでも芽のでる気配などない画家を続けることの不安が、彼の中で渦巻いた。

 それでも彼は描き続けた。
モデルを雇う金などなかったから、目についた人たちを勝手に描いた。

 そして1883年12月。
ゴッホはケンカ別れした両親を頼ろうと、彼らがいるヌエネンの地を踏んだ。
心から疲れた彼に対し家族は戸惑ったが、しかしとりあえずは、アトリエとしての部屋を与えてくれた。

 ゴッホは以降、2年ほどヌエネンで暮らすことになる。
もう他には何もなかったから、ただひたすらに絵を描いた。
描くものも、完全に人物のみに絞った。
身近な農民たちの絵を、自分の体力が続く限りに、とにかく描きまくった。

死と色彩。日本画とルーベンス

 1885年3月26日。
父テオドルスが脳卒中で死んだ。

 ケンカもしたが、ゴッホは悲しみ、ここにきて死というものと向き合うことになった。
「死とは何かの哲学」生物はなぜ死ぬのか。人はなぜ死を恐れるのか
 そして教区にやってきた新しい牧師とは上手くいかなかった。

 一方でこの頃ゴッホは、それまではあまり関心がなかった色彩の重要性に気づいたようだった。
彼は、色彩の神と呼ばれるほどの画家であるピーテル・パウル・ルーベンス(1577~1640)に触れたいと、ベルギーのアントワープに旅立ち、これを最後に、オランダに帰ることはもうなかった。

 そしてアントワープでゴッホは、ルーベンスだけでなく、日本の浮世絵とも出会い、大きな影響を受けた。
1886年1月には、あらためて勉強し直そうと、無料の美術学校にも入学したが、彼の絵を教師たちは「腐った犬のような」としてバカにした。

弟と一緒に暮らしていた頃

 結局3ヶ月ほどでアントワープも離れ、ゴッホは今度は、弟テオがいるパリにやってきた。
テオは突然の兄の来訪に驚かされながらも、自分が借りていたアパートに、彼の寝床を確保してやった。

 ゴッホはまた、学校で学ぶことに失敗した基礎などを他の画家との交流で学ぼうとしたが、やはり良好な関係を長く続けるのは難しかった。
だが若いトゥールーズ・ロートレック(1864~1901)や、エミール・ベルナール(1868~1941)とは、それなりに気があったらしい。

 それに5歳上で、日本画への興味を同じくしていたポール・ゴーギャン(1848~1903)とは、すぐになかよくなれたという。

 またゴッホが、情熱を持って自画像を描き始めたのは、このパリ時代からとされている。
暗かった画風も色彩がついて明るくなった。

 それに、ゴッホはパリにて、タンギー爺さんと呼ばれていた人の画材屋で、絵を飾ってもらえることにもなった。
しかし調子に乗ったのか、ある大衆レストランにて絵を飾ってもらえるように売り込んだゴッホは、またケンカで失敗してしまったという。

 続いて、一時期愛人となっていたらしい女主人の経営するタンブーランという酒場にて、仲間の絵などを飾ってもらって、それはそれなりに好評であったようだ。

 そして1888年の2月に、ゴッホはパリを去った。
テオと同居していたがゆえに、手紙が残されていないから、どのような経緯があったかは謎であるが、やはり人間関係の破局があったのだろうとはよく推測される。
テオに結婚の話があったことも、関係あったろう。

孤独と友情。真の狂気の始まり

 パリを離れてから、南フランスのアルルへとやってきたゴッホは、そこでまた精力的に絵を描いていく。
人物画だけでなく、風景画も含めて、とにかく見かけたものを次々と描いた。
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 アルルで彼は、 画家としては絶頂期を迎え 誰と行ってもいいが くその対象であったのか 他人との交流はますます希薄きはくになった。
店で料理を注文するくらいしか喋ることはなかったともされる。

 ただ絵を描き、それ以外の時間も、手紙を書いてばかりだった。

 そしてある時、絵を描いているという理由で、通常より高い宿代を要求されたことから、ゴッホはまた借りていた部屋を後にし、ラマンチーヌ広場にあった貸家に移った。
それは外の壁が黄色である、まさしく黄色い家であったという。

 そしてゴッホはその黄色い家を 単なる家というよりも 未来の画家たちの アトリエにしようと考えた。
彼は自分と同じく、テオから援助を受けていたゴーギャンを、そこでの共同生活に誘い、二人は一緒になった。

 しかし、結局はこの友情も長続きしなかった。
ゴーギャンは、あまりに我の強いゴッホとの暮らしにすぐ疲れてしまい、ゴッホも友人が自分とやはり合わないことに、また傷ついた。

 ある時、町を歩くゴーギャンは、 今にも襲いかかって来そうなカミソリを持ったゴッホと遭遇した。
もう彼の精神状態はかなり普通でない。

 その日はホテルに泊まって、翌日黄色家に帰ってきたゴーギャンを待っていたのは、出血して意識を失ったゴッホと、集まる野次馬たちだった。
彼は自らの左耳を、自ら切り落としていたのだった。
ゴーギャンは、警察の人に、彼が目覚めたら、自分はパリに去ったと伝えるように頼んだ。

イカれたオランダ人画家、黄色いひまわりと出会う

 もう死の時が近づいていた。
ゴッホは黄色という色に強くとりつかれた。

 ゴッホは1888年8月には、夏の太陽の下で、彼の代名詞とされるようになる、最高のモチーフと出会っていた。
あざやかな黄色の太陽の花、ひまわりである。

 1889年1月。
病院から退院すると黄色い家に戻り、ゴッホはまず「パリでの活躍を期待している」と、ゴーギャンに手紙を書いた。
しかし数週間後には、テオへの手紙でゴーギャンを罵ったりもした。

 深まる孤独の中で、彼はただ絵を描くことに楽しさを見出していた。
しかし一方で、その精神はかなりのレベルで病んでいた。
幻聴をよく聞くようになり、自分は毒殺されたりするのではないか、という妄想が彼を襲うようになっていた。

 2月にはまた彼は病院に収容されたが、すぐに仮退院となったことに、アルルの町の住人たちは不安がった。
もうほとんどの人が、彼の狂気を確信していたのだ。

 あの精神のイカれたオランダ人画家は、さっさと監禁するべきだとして、署名活動まで起きた。

かすかな希望

 精神病棟で、しかし絵に関する情熱だけは決して消えることはなかった。
1889年5月8日。
彼自身の希望で、サン・レミの郊外の精神病院に移ったゴッホは、院長の計らいで、アトリエとしての部屋をもらえた。

 狂気も含めた、自分の中のあらゆる悪夢から逃れようとするかのように、ゴッホは絵を描き続ける。

 7月5日。
テオが手紙で、彼の妻であるヨハンナが子を身ごもったことを報告してきた。
男の子ならフィンセントと名付ける気だと、彼は書いていた。

 狂気の発作が治る見込みはなさそうだった。
しかしゴッホにはまだ絵があった。

 1990年2月1日。
テオの生まれた男の子に、予定通りフィンセントという名前をつけたという報告は、またゴッホの心をいくらか明るくした。

 さらに2月15日。
「赤い葡萄園ぶどうえん」の絵を、知人の画家の姉であったアンナ・ボックが400フランで買ってくれたという報告もあった。

 最期の時が近づく中での、かすかな希望であった。
それは彼の生前に、正式な形で売れた、最初で最後の作品となった。

鳥を撃つためにピストルを持った

 ゴッホはもう、本当は絵がどうたらと言っているような場合ではなかったのかもしれない。
彼が絵の具のチューブを飲んで死にかけたという話を聞いたテオは、兄に少しでもよい環境を提供するために、ポントワーズに近いオーヴェル・シュル・オワーズの医師ガシェを紹介した。

 そしてゴッホは久しぶりに弟とも再会する。
テオも疲れていたようだった。
むしろゴッホは意外と元気で、彼とは初対面のヨハンナは、むしろ夫の方が病人であるかのような印象すら受けたという。

 実際にテオ自身、金銭面でかなりの苦労をしていた。
7月にゴッホは、彼に招かれパリに来たが、テオとヨハンナ二人共の疲労を目の当たりにし、また自責の念にかられたとされる。

 面倒を見てくれるガシェへの態度も、だんだんとひどくなり、いつからか彼は、ピストルを持つようになっていた。
その理由は鳥を撃つためと言っていたという。
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炎の画家の最期

 1890年7月27日。
この日。
ゴッホは「どうにもならない」と呟きながら、畑を歩き回っていたという。

 そして、夕方に帰ってきた彼は、ピストルを自らの体に向けて撃つ。
しかし急所は外してしまっていて、すぐには死ななかった。

 すぐに駆けつけてきた弟に抱きしめられながらも、彼は告げたという。
「泣かないでくれ、みんなのためを思ってしたんだ」

 彼は回復しなかった。
1890年7月29日に、今は炎の画家として知られるフィンセント・ファン・ゴッホは世を去った。

 そしてこの哀れで、しかし力強く生きようとした兄を支えた弟テオもまた、すぐ後を追うように翌年の1月に亡くなってしまったのだった。

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