「フランシスコ・デ・ゴヤ」戦争と権力への怒り、天使たちと悪魔

金職人の息子

 ホセ・ゴヤは、スペインはアラゴン地方の鍍金めっき職人だった。
ブルボン王朝のフランスによって統治されていた、彼の時代のスペインは、教会や宮殿などの装飾に金メッキを施す習慣があったので、職人としての仕事は多かったとされる。
スペインの文化「スペイン」文化、言語、フラメンコ、闘牛、オリーブオイル  ホセの息子、フランシスコ・ゴヤ(Francisco José de Goya y Lucientes。1746~1828)は、1746年3月30日に生まれた。
この頃、一家は、フエンデトードスという寒村に移り住んでいたという。

 ホセは、1750年に始まった、エル・ピラール大聖堂の修復に関わっていた。
そこの礼拝堂の丸天井に、1753年、フレスコ画家のアントニオ・ゴンザレス・ベラスケスが絵を描いたという記録がある。
フランシスコが、なぜ画家を志すようになったのかについては不明とされるが、父の職場で、熱心に絵を描いていたフレスコ画家が、影響を与えたと想像する者も結構いる。
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フランシスコは、サラゴーサのホセ・ルハーン(José Luzán y Martínez。1710~1785)に弟子入りして、本格的に絵の修行を始める。
ルハーン自身は教師として優れた人物だったとされる。
後にフランシスコの義兄にもなる兄弟子、バイユー(Francisco Bayeu y Subías1734~1795)も、後世に名を残す画家となった。

職業画家を目指した日々

マドリードの美術アカデミー

 1752年より、スペイン史上初めての、画家育成のための公式機関、サン・フェルナンド美術アカデミーが、マドリードにて開かれた。
ただ、このアカデミーは、古代美術やイタリア絵画の模範を推奨し、スペイン人の平均的な美意識とは、相容れない面もあったとされる。

 ゴヤも、1763年と1766年に、王立アカデミーの奨学生選抜コンクールに応募しているが、 どちらも落選している。
審査員には兄弟子のバイユーがいたようだが、結局彼は、別に応募していた自分の弟に、票を入れたらしい。

 また、1766年は、ブルボン家出身の王カルロス3世と、首相エスキラーチェがフランス風改革の一環として、スペインの伝統衣装である、ツバ広帽と黒マントの着用禁止令を出し、暴動まで発生した年であった。
翌年1767年には、その政策は強行され、6000人ものイエズス会修道士が逮捕、あるいは国外追放され、民衆は権力の力に震え上がったという。
ゴヤもマドリードで、政治と宗教が混乱に陥る様をしっかり目撃し、そこから大きく影響を受けたとされている。

荒々しい構成という作風

 コンクールから2度目の落選の後の、ゴヤの足取りはしばらく不明とされるが、後に書かれた手紙の内容などから、若さに任せた自由奔放な暮らしを、適当に送っていたものと、よく推測されている。

 そして1771年の春。
ローマに現れた彼は、バイユーの弟子のローマ人を自称し、パルマ公領のアカデミーのコンクールに応募した。

 ゴヤは、基本的に歴史画が苦手だったとされているが、10代の頃の2度のコンクールも、パルマ公領でのコンクールも、その課題は歴史画である。

 ゴヤは、『アルプスより初めてイタリアを見下ろす、征服者ハンニバル』を描いたが、今回も見事落選してしまう。
あまり票が入れられなかった理由として、「ハンニバルの偉大さは上手く表現されているが、構成が荒々しすぎる」などとされたという。
彼の持ち味とされる荒々しい画風は、元からなわけである。

初めてのフレスコ画

 1771年10月。
故郷サラゴーサに戻ってきていたゴヤは、エル・ピラール大正堂の工事委員会から、『天使たちによる、神の御名ぎょめい礼賛らいさん』をテーマとした天井画を描く画家の候補として選出される。
これには、兄弟子バイユーの推薦があったという説もある。
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1772年1月に、委員会によって下絵も了承され、彼は本格的に、この仕事に着手する。

 そして半年ほどで完成を見た、彼の初めてのフレスコ画は、「最上級の色調と驚き驚くべき効果を持つ」と絶賛され、近場の上流貴族たちにも彼の名前が広まるきっかけとなった。

 職業画家として、しっかり仕事も舞い込むようになった彼は、さらに翌年1773年の7月に、バイユーの妹ホセーファと結婚もした。
それで義兄となったバイユーは、王立アカデミーの会員であったから、これは出世の道が開けたことも意味していた。

義兄と息子と貴族夫人

 おそらくは1775年から、ゴヤはマドリードに住居を移している。
この頃から、実業家であった友人サパテールとの手紙のやり取りも始まっていて、残されたそれらの手紙は、今日にも、この画家の人物像に関する大きな手がかりになっている。

 いたずら好きで好奇心が強く、思い立ったが吉日精神。
狩猟が好きで、自分の腕前を自慢することもあった。

 ゴヤは経済的な問題に関しても、サパテールによく相談していた。
どうも彼は、借金が嫌いで、とにかく金を借りたならば、しっかりすぐに返すことを心がけていたようだ。

バイユーとの確執

 1774年から、口利きしてくれたバイユーと共に、ゴヤはタペストリー工場で、下絵書きとして働き始める。

 タペストリーとは広間とか廊下などの壁を飾るための、織物のこと。

 工場で働き始めて最初に受けた注文は、エル・エスコリアル離宮の皇太子(後、カルロス4世)の、食堂にかけるもので、狩猟を題材とした5連作であった。
完成した作品に関して、バイユーは、自分が指導しながらの作だと語ったようだが、ゴヤ自身は、全て自分のアイデアだと送り状に書いた。

 他、タペストリー工場で働いていた16年の間に書かれた63点ほどの作品の内、『マンサナーレス河畔での踊り』、『ベンタ・ヌエーバの喧嘩』、『日傘』などは、その光と色の使い形や豊かなフォルムなどから、特に傑作として知られている。

 私生活においては、1777年1月に、初めての息子が誕生したが、その後の子供たちと同様に、長く生きることは叶わなかった。

 また、だんだんと貴族たちの間でも評判を高めていくゴヤが、丁寧な作風が対照的だったとされる義兄バイユーには気に入らないようだった。
1781年。
サラゴーサで受けた、エル・ピラール大聖堂の新しい天井画の依頼の際、全体の監督をしていたバイユーが、ゴヤに対し、修正案に従わないと批判した時に、2人の間の亀裂は、一気に大きくなったとされる。

3人の師匠がいた

 1780年代の半ば。
ゴヤは、マドリードの王宮コレクションの、銅板版画による複製の仕事をする1人に選ばれていた。

 版画複製の仕事は1788年に終わったが、それまででゴヤは、かつて存在した最高の画家ともされていたディエゴ・ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez。1599~1660)の作品に、強い影響を受けた。

 後にゴヤ本人が、「私には3人の師匠がいた。自然とベラスケスとレンブラントだ」などと語ったとされる。
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オスーナ夫人との出会い。聖ボルハを描く2作

 ゴヤの子供の中で、成人した唯一の息子フランシスコ・ハビエールが生まれたのは1784年の12月2日。
その翌年の1785年に、ゴヤはオスーナ公爵夫人と出会った。

 公爵夫人はとても教養溢れる婦人で、音楽家や詩人など多くの芸術家たちのパトロンとなっていた。
そして、ゴヤもすぐに彼女のお気に入りとなる。

 オスーナ夫人の後ろ盾を得たおかげで、 芸術家としてのゴヤの名声はさらに高まる。
1786年6月には、ゴヤは、ついに王である、カルロス3世(Charles III of Spain。1716~1788)付きの画家となった。
1780年代を通して、ゴヤは世話になった貴族たちの肖像画を次々と描いたが、中でも、1786年の『カルロス3世像』は、醜くも、真実を投影した作品とされている。

 また、1788年に、オスーナ夫人の依頼で描かれたという、聖フランシスコ・ボルハ(San Francisco de Borja。1510~1572)に関する2つの絵は対照的である。
『家族に別れを告げる聖ボルハ(San Francisco de Borja despidiéndose de su familia)』は、ヴェネチア的なタッチと色彩で、感動的な別れのシーンを演出している。
一方で『聖ボルハと、悔悛かいしゅんしない死にゆく男(San Francisco de Borja y el moribundo impenitente)』は、暗く不気味な感じで、ゴヤが初めてはっきり悪魔を描いた作品の候補としても知られている。
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宮廷に仕えて。フランス革命の激動の中で

 ゴヤは、カルロス3世の死後は、その後のカルロス4世に仕えている。
そしてその庇護の下、1789年の4月に、ついに彼は念願の宮廷画家となった。

 1789年という年は、フランス革命の頃でもある。
最初は、スペインの庶民の間では、あまり影響もないような感じだったともされるが、宮廷の方には、はなから革命の余波がかかっていた。
ヨーロッパ全体の社会が、徐々に混乱をきたし、まさに激動の時代だった。
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病気で聴覚を失う

 そして1793年に入った頃。
ゴヤは出かけ先のセビーリャで病気により、しばらくは寝たきりの生活を余儀なくされてしまう。
夏までにはなんとか回復していたが、後遺症で、耳が聞こえなくなってしまっていた。

 もちろん耳が聞こえなくなっても、絵を描くことはできた。
ただ、タペストリーの仕事は辞めた。

 ゴヤの聴覚を奪った病気とは何だったのだろうか。
例えば彼は絵画において、鉛白えんぱくを多用していたから、鉛中毒になっていたのではないか、という推測などはある。

アルバ公爵と夫人。バイユーの死

 1794年の7月には、フランスにおいて、革命を急進的に推し進め恐怖政治を演出していたロベスピエール(Maximilien François Marie Isidore de Robespierre。1758~1794)が処刑された。
スペインの宮廷も、明らかな落ち着きを見せる。

 1795年の夏。
ゴヤは、アルバ公爵の肖像、夫人の全体像を描く仕事を引き受けているが、このうち夫人の全身像の方は、ゴヤの作品の中でも、最も有名なものとされることがある。
背景は野外で、モデルである夫人に実際に立ってもらっている作品である。
夫人は、その軽薄さが有名で、ゴヤとのロマンスを想像する伝記作家もいるが、そういうことに関する記録は残っていない。

 この1795年はバイユーが亡くなった年でもある。
ゴヤは、空席となった美術アカデミーの絵画部長に選ばれるが、2年後には健康上の理由で、その職は辞任した。 

 ゴヤはまた、1796年にも再び病気にかかり、カディスで療養しているらしい。
そのカディスのサンタ・クエーバ教会に納められている3枚のキリスト画は、この頃に描かれたものと考えられている。

好きに描いた天井画。版画集「気まぐれ」

 1798年の春。
ゴヤは、サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ教会の装飾を引き受けた。
もう口出ししてくるバイユーもいないから、この仕事に関してはかなり自由にこなせたろう。
天井画に関してゴヤは、聖アントニウスと、その周囲を囲み、奇跡に驚愕する群衆を描いている。

 1799年の2月。
デセンガーニョ通りの香水屋で、ゴヤの版画集『気まぐれ(Los Caprichos)』が販売されたが、ほんの2日後ぐらいに、発禁扱いとなる。
この頃くらいから、ゴヤの作品には、空想的、異端的な作風のものが増えて、異端審問所との確執もあったろうとされている。
気まぐれは、人間の多くのひどい欲望を強烈に描いている。

 ただ内容は過激なものの、ゴヤの作風は、芸術家なりの戦いであった。
彼は、自らの空想と技術を利用して、迷信や、権力の腐敗などを痛烈に批判したわけである。

 かつては明るい社交家だったゴヤだが、おそらくはひどい病気を越えて、その強い自由主義精神を得ていた。

王様たちは僕に夢中だ

 気まぐれは、ゴヤの生前には大して注目されなかったとされる。
なかなか過激な内容であるのは間違いないだろうが、これのせいで、彼の名声が地に落ちるという事などもなかった。
1799年10月31日。
ゴヤは、宮廷の首席画家に任命された。

 ゴヤはサパテールへの手紙で、「王様たちは僕に夢中だ」と誇らしげに書いている。

 1800年の8月頃には、後に代表作とされるようになる『カルロス4世の家族(La familia de Carlos IV)』の下絵を描き始めたとされる。
ゴヤの作品にありがちだが、この作品において、王族があまりにも 実写的に、その醜さまでしっかり表現されすぎているために、 悪意があったと推測されることすらある。

哲学か、狂気か。黒い絵までの道

 1802年の7月。
アルバ公爵夫人が亡くなった。
彼女はまだ42歳と若かったために、死ぬ前はかなり苦しんだという記録と合わせて、毒殺説もあるが、それについて直接的な根拠は、特にないようだ。
ゴヤは追悼像の下絵を残しているらしい。

 1803年には、サパテールも永遠に眠ることになる。
彼との手紙のやり取りは、1799年まででなぜか終わっていたが、仲違いしたのかどうかは謎のままである。
ゴヤは、サパテールにマドリードへの引っ越しを勧めていたそうだから、単純に、手紙でやり取りする必要がないほど、二人の距離が近くなっていたとも、よく考えられる。

息子の結婚と孫の誕生

 ゴヤの息子ハピエールは、1804年の12月に20歳となった。
彼は父にならって、自分のことを画家だと称していたが、結局、生涯、見習いの域を脱することはできなかったとされている。
精力的に仕事を行ったゴヤのおかげで、 経済的なプレッシャーがなかったことが、その原因として挙げられることもある。

 ゴヤは息子を、宮廷御用商人の娘グメルシンダ・ゴイコチェアと結婚させた。
そして1806年。
息子夫婦が暮らしていた、ロス・レイエス通りの家にて、ゴヤからは孫にあたるマリアーノが生まれた。

戦争の惨禍

 1800年代は、最初は救世主、後には侵略者、独裁者と認識されたナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte。1769~1821)の活躍した時代でもあった。
ヨーロッパ中がまた、政治的に混乱する中、スペインでも、1808年に、ナポレオンが兄のジョセフを、スペイン王ホセ1世にしようとして、愛国心に燃える民衆たちの不満や、ゲリラ戦を誘発した。
一方で、ゴヤの友人に多くいた、貴族や知識人たちの中には、ホセ1世との道を、冷静に妥協する者も多かった。
ゴヤ自身はといえば、さすがに年か、最初は曖昧な態度であったようだが、 1810年以降は明確に、愛国的立場を持ったようである。

 その、1810年から間もなくの時期には、シンプルながら、現在でも語り継がれる傑作が多いとされる。
死後に親族から依頼されたともされる『女優アントニア・サラテの肖像(Portrait of Doña Antonia Zárate)』。
後にエドゥアール・マネ(Édouard Manet。1832~1883)もリスペクトした『バルコンのマハたち(Las majas en el balcón)』。
対比によって老いの残酷さを描いたような『恋文(Las jóvenes o la carta)』。
そして、1808年に失脚したマリア・ルイーサ王妃を皮肉ったものともされる『老婆、あるいは時間(Las viejas o El tiempo)』など。

 そして1810から1812年くらいまでに作られた、版画集、『戦争の惨禍さんか(Los Desastres de la Guerra)』は、 戦争が犠牲にする罪もない市民たちの心を、そのまま投影したかのような、悲劇への怒りを描いた傑作としてよく知られている。

 そして1812年の6月には、妻のホセーファが65歳で亡くなった。

2日と3日。虐げられる者たちの怒りの表現

 1814年までには、ホセ1世もフランス軍もスペインから追い出されていた。
マドリードに戻ってきた国民議会のメンバーたちは、あらためてスペイン民主の愛国心を与えるために、数人の画家の絵画を描かせる。
ゴヤも、選ばれた画家の1人であった。
そしてゴヤがその時描いたのが、有名な『1808年5月2日(The Second of May 1808)』と『1808年5月3日(El tres de mayo de 1808 en Madrid)』である。
この連作は、虐げられた者たちの決死の反抗を描いた、力強い傑作である。
特に、将軍ミュラ(Joachim Murat。1767~1815)率いる、フランス軍銃殺隊が行った処刑シーンだとされる3日は、理不尽な権力が引き起こす悲劇を、見事に表現している。

聾者の家で描かれた14の壁画

 1820年代になると、スペイン社会は再び、内戦によって荒れた。
1822年3月に国会議員に選出された、自由主義者のラファエル・デル・リエゴ (Rafael del Riego y Flórez。1784~1823)の反乱は成功したかに見えた。
しかし結局は、ルイ18世のフランス軍が介入し、自由主義者たちはまた弾圧された。

 ゴヤは1819年。
マドリード郊外の『聾者ろうしゃの家(Quinta del Sordo)』なる別荘を購入。
そして1823年までに、ゴヤは、その家の食堂と応接室の壁に14点の絵を描いた。
X線を利用した調査によると、14のうち13点は、元々描かれていた風景画を上書きしたものらしい。

 14点の絵の中でも、有史以来、人間が描いた最も恐ろしい1つとされる『我が子を食らうサトゥルヌス(Saturno devorando a su hijo)』は特に有名であろう。

 黒い絵と呼ばれるそれら14点は、もう70代後半の老人となり、 親しい友人たちの多くと死別していたゴヤが、 他の誰のためでもなく自分のために描いた作品群である。
そこに、彼の狂気を感じ取る者もいる。

ボルドーにて死す

 1828年。
すでに孫のマリアーノも結婚していて、ボルドーにて、孫夫婦は、病に伏せたゴヤの面倒を見ていた。

 マリアーノの、父ハビエールへの手紙の余白に、ゴヤは自ら「私は、また少し具合が悪くなり、今は床についている。早く会いに来てほしい」と書いている。
そしてこれが、記録に残っている、ゴヤの最後の言葉である。

 1828年4月18日。
ゴヤは、82歳でその生涯を終えた。