「エジプトミイラの歴史」発展史、作り方、発見と研究

ミイラの意味

 『ミイラ』という言葉自体は、もともと「防腐剤ぼうふざい(Preservative)」の材料をさすアラビア語由来のポルトガル語とされる。
英語名の『マミー(mummy)』というのもよく知られている。

 現在においては、ミイラはそのための材料ではなく、「防腐処理(Preservative treatment)」され、保存状態を維持された(基本的に人間の)死体を意味していることが多い。

 偶然にいい保存環境が整うこともありえなくはないから、人工的操作が一切加えられていないミイラも存在する。

死者の処理の発展史

 エジプトが統一されるより以前から、砂漠に遺体を埋める習慣はあった。
そして、砂に「水分(moisture)」を吸収され「乾燥状態(dry state)」となったために、人の姿を保ったまま遺体が保存されることがあった。
そのような自然にできたミイラを見たエジプト人たちは、その保存される方に神秘を感じ、やがて死後の生のために、意図的にミイラを作ることを覚えたのである。

墓の発展と、ミイラ作りの技術

 第1王朝(紀元前3100~紀元前2890)の時代には、宗教世界の洗練と、技術の進歩が合わさり、死後の生者(ミイラ)のための、より立派な墓が作られるようになり、日用品を含む様々な「供物くもつ(offering)」が共に埋葬されたりもした。
古代エジプトの歴史「古代エジプトの歴史」王朝の一覧、文明の発展と変化、簡単な流れ 身分の高い者の墓に至っては、様々な用途の部屋などもあり、まるで死者のための城のようになっていく。
有名なピラミッドも、そのような王の墓だと考えられている。
ピラミッド「エジプトのピラミッド」作り方の謎は解明されてるか。オリオンの三つ星か  それほど身分が高くないものでも、木の棺に入れられ、墓穴もレンガで囲まれるくらいのことは、けっこうされた。

 しかし、死者のための設備が作られるようになると、逆に吸収性の高い砂との直接の接触が絶たれてしまった遺体は、すぐに「腐敗(corruption)」してしまうことが多くなってしまった。

 そこで、砂から隔離された立派な墓の中にあっても、姿を失わないための何らかの手段が必要となり、ミイラ作りの技術は発展していった。

包帯、内臓切除、ナトロン

 最初は、遺体に「包帯(bandage)」を巻き、その上から「樹脂(resin)」を塗るなどの方法が試されたが、逆効果でしかなかった。

 やがて「内臓(viscera)」が除去されるようになった。
第3王朝(紀元前2690~紀元前2610)の時代には、取った内臓を入れるための容器だったとされる「カノポス容器(canopic jar)」があったようだから、この時代くらいからだろうと推測されている。

 炭酸ナトリウム水和物(水を含む炭酸ナトリウム)や、炭酸水素ナトリウムを主成分とする「ナトロン(基本的には炭酸ナトリウムと塩化ナトリウムの混合物)」が、遺体の腐敗を防ぐための「乾燥剤(desiccant)」となることが発見されたのも、やはり第三王朝くらいの頃とされている。

 ちなみに、塩の混合物などから取れるナトロンは、油と混ぜることで石鹸や洗剤として使えたし、消毒薬や殺虫剤に転用したりもできる、古代エジプト人には欠かせない物質だったようである。

 包帯巻きは続けられ、巻かれた包帯に顔などが描かれたりもしたという。

安上がりの砂、脳髄の取り出し、詰め物と義眼

 中王国時代(紀元前2050~1800くらい)と呼ばれる時期には、ミイラ作りの技術もかなり普及していたのか、現存するミイラもかなり多くなっていく。

 身分がそこまで高くない者には、ナトロンでなく砂が使われている場合もあり、安い代用品だったのだろうと考えられている。
また、ナトロンや砂以外にも、油やおがくず(木屑)なども利用されていたらしい。

 さらに新王国時代(紀元前1600~1100くらい)に、ミイラ技術はさらに高められた。
鼻のやや上くらいの骨盤(篩板しばん)を壊し、脳(脳髄のうずい)を取り出す技術は、この頃に確立されたとされている

 新王国時代の末期くらいには、体の適度な膨らみまで残すために粘土やおがくずやタマネギなどを詰めたりする方法や、ガラスや木の義眼などもよく採用されたという。

ヘロドトスの記述。キリスト教徒のミイラ

 新王国時代よりも、さらにずっと後ではあるが、ギリシアの歴史家ヘロドトス(紀元前500年くらいの人)などは、その典型的なミイラ作りについて、しっかりと記録に残したりしている。

 ヘロドトスの時代にも、ミイラ作り文化はまだエジプトにしっかりあり、包帯の巻き方などで、幾何学模様を描いたりなどする域に達していたとされる。

 さらには紀元後、キリスト教が入ってきてからすら、ミイラ作りは深刻には廃れなかったようだ。
ただ、従来のミイラは専用の死に装束を着せられていたが、キリスト教徒のミイラは、生前の普段着や晴れ着を着せられていたらしい。

ミイラの作り方。70日の乾燥

 とりあえず、死後2~3日ほどした遺体は、まずミイラ職人のもとへと運ばれてくるらしい。
職人は複数、各役割ごとにいて、身分の高い神官などが、全ての作業を監視していたもとされている。

 基本的にはまず左脇腹から内臓が除かれ、容器に入れられる。
ただし全ての内臓が取り出されるわけではない。
特に心臓は、感情や意識などのために必要なものとして重要視され、必ず体の中に残された。

 さらに脳を除去し、代わりにできた頭の空洞に液状の樹脂を流し込み、冷やして固まらせる。

 続いて、切り裂いた脇腹を縫い繋ぎ、遺体を洗った後に、 粉末状のナトロンをかけて、水分をとる。
液状のナトロンの浴槽よくそうけられたという説もあるが、こちらは基本的に誤解らしい。

 完全な乾燥には70日ほどかかり、その後は再び遺体を洗って、香り付けのための「香油こうゆ(balm)」を付けて、仕上げに包帯を巻く。

 最後の包帯巻きは、指の一本一本から初め、最後は必ず頭であった。
特定の段階ごとに神官が呪文を唱えたりして、包帯の間に「護符ごふ(Amulet)」が挟まれることもあったようだ。
有名なツタンカーメンのミイラの場合は143ほどもの護符があったという。

 また、安上がりの方法として、内臓を取らなかったり、包帯の巻き方が雑だったりというパターンもあったらしい。
内臓処理に関しては、肛門などから入れた特殊な薬で溶かすという方法もあったとされる。

ヨーロッパ人のミイラ研究史

フォンテーヌが見たミイラ、ルーベンスが描いたミイラ

 15世紀までに、ヨーロッパでは、エジプトがミイラの国であることは知られていたとされる。
ギリシアやローマ、アラビア人たちが「死者を生前の姿で保存する国」としてエジプトのことを記録していたからだ。

 そして15世紀以降。
エジプトを訪れたヨーロッパの人たちは様々な骨董品を収集するとともに、価値あるものとしてミイラも求めた。

 16世紀には、作家のジャン・ド・ラ・フォンテーヌ(1621~1695)が、フランスの財務総監であったニコラス・フーケ(1615~1680)の珍品コレクションの中に、ミイラのひつぎを見ている。

 また、画家であるピーテル・パウル・ルーベンス(1577~1640)も、ミイラを一体所持していて、デッサンをいくらか残していたりしているという。

 ミイラは神秘的で、生命に対する治療効果が宿ると考えられていたため、砕かれて粉末状にされたものが薬として売られていたりもした。

 ミイラを素材とした粉末薬はムミアと呼ばれていた。
ムミアというのは歴青れきせいという、炭化水素からなる化合物を意味するアラビア語。

 そして、珍品としても、薬としても需要が大きかったために、当然、偽造品も多く出回っていたとされる。
それにエジプト現地でも、盗掘がだんだんと盛んになっていく。

ナポレオンとエジプト誌、ヒエログリフ解読の影響

 18世紀末に、エジプトを遠征したナポレオン・ボナパルト(1769~1821)が組織した調査団の大きな成果とされている「エジプト誌」。
ジャン・フランソワ・シャンポリオン(1790~1832)による、古代エジプトの神聖文字とされる「ヒエログリフ(hieroglyph)」の解読などの影響もあり、19世紀から20世紀にかけてのヨーロッパではエジプト熱が高まっていた。

 古代エジプトの異物が次々とヨーロッパに運ばれ、その途中、海に沈んでしまったりして、失われてしまったものも多かったようだ。
無事に海を渡ったものは、最終的にはたいていが博物館に買われたり、寄贈されたりして、そのコレクションとなった。

 ミイラが盗み出されないとしても、同じ墓にあった財宝目当ての盗人に、身ぐるみ剥がされ、手足を切られたりすることも多かった。

 また、エジプトは猫のミイラも多く作っていたようだが、19世紀のイギリスなどは、肥料を作る目的で、それらのミイラ猫を大量に輸入していたという。

学術的研究

 当然誰にとっても、物珍しさやお金が一番だったわけではない。
純粋に学術的な関心を抱き、調査をする考古学者たちもいた。

 マーガレット・アリス・マレー(1863~1963)が、マンチェスター博物館で行ったミイラの調査などは、真に学術的なものの典型例であるとされる。
また、1908年に披露された、彼女の手によるミイラの公開解剖は、報道機関の監視も集めたという。

 (ちゃんと記録に残っている中で)その者のちゃんとした墓で、その者自身のミイラが棺にしっかり納められていた状態で発見された最初の王は、古代エジプト第18王朝(紀元前1570~紀元前1290)のアメンヘテプ二世であった。
その墓は、エジプト、テーベ(ルクソール)の「王家の谷(Valley of the Royal Family)」にあり、発見は、ヴィクトル・クレメント・ジョルジュ・フィリッペ・ロレ(1859~1946)により成された。

 当初、王(ファラオ)のミイラは、棺の中で寝かされたままにされ、維持されるはずだったが、 墓にまだ宝が眠っているという情報が流れるや、すぐに盗人たちがやってきて、ミイラはバラバラにされてしまったという。
墓には武装警備員が見張りについていたが、この武装警備員がそもそも犯人の一味だったという説が強いようだ。

 二人目の眠りしファラオ、やはり18王朝のツタンカーメンが、ハワード・カーター(1874~1939)によって発見されたのは1922年11月のこと。

 王家の谷はすでに取り尽くされたとも言われていたのだが、ツタンカーメンの墓はほとんど完全に無事だったそうで、様々な副葬品もまるまる発見されている。

 さらに1939年には、ピエール・モンテ(1885~1966)が、タニスにて、第22王朝(紀元前950~紀元前720)のファラオ、シェションク2世とプスセンネス1世、21王朝(紀元前1070~紀元前950)のアメネモペらの墓を、ほぼ完全な形で見つけている。
同じような発見であるのに、ツタンカーメンに比べてこちらがあまり有名でないのは、直後に発生した第二次世界対戦の影響らしい。