シュメール、アッシリア、バビロニア「メソポタミアの古代文明」

メソポタミア地域の研究

 『チグリス川(Tigris River)』と『ユーフラテス川(Euphrates river)』は、トルコの南東の方の山岳さんがく地帯から、「ペルシア湾(Persian Gulf)」へと注ぐ二つの川である。
「世界地図の海」各海域の名前の由来、位置関係、歴史雑学いろいろ  メソポタミアとは、そのチグリス川とユーフラテス川の間の地域のこと。
そしてこの地域には、かなり古くから人類の文明があったことが今ではほぼ確かなこととされている。
問題はあまり遺物などが残っていないことで、この地域の歴史研究は かなり困難だが、19世紀に粘土に刻まれた古代文字などがけっこう解読されたりしたことで、数百年前とかよりは、かなり多くのことがはっきりしてきている。
「アッカド語の発見」楔形文字の初期研究史。メソポタミア探求の第一の鍵  

シュメール文明

 メソポタミアの地域では、紀元前7~6世紀くらいまでに滅亡したとされている、北部のアッシリア、南部のバビロニアは、古くは、この地域で起こった最初の文明ではないかと考えられていた。
しかしこれらの文明の文字記録には、さらに以前に、シュメール人という者たちが存在していたことが書かれていた。
また、アッシリアやバビロニアで使われていたアッカド語の研究も進むと、その言語は、さらに古い絵文字の言語シュメール語に繋がっているのではないか、という説も有力になってくる。

 後にシュメールの文明をいくらか引き継いだアッカド帝国の者たちが名付けたらしい、シュメールという名前は、アッカド語の解読にも一役買った、ジュール・オペール(Jules(Julius)Oppert。1825~1905)が発見したともされる。

 アッカド帝国の成立は紀元前24世紀くらいとされていて、シュメールはそれよりもさらに古くから存在する文明である。
そしてこれは人類史上最古の文明の候補でもあり、その成立は紀元前4年紀に遡るという説もある。

アッカドとバビロニア

 一般的には3200年頃くらいに、シュメール人は、 メソポタミアの南部で、自分たちの文明を起こし、それとかなり直接的に繋がる王朝の歴史は、紀元前2004年ごろまで続く。
一方で紀元前2500年くらいには、シュメールの北で、アッカド人なる者たちが新たに台頭してくる。
そして紀元前2334年頃に、シュメールを支配園に含むアッカド王国が設立された。

 紀元前2000年くらいまでには、いくつもの小国も興ってきたが、 特にそのうちの一つであるバビロニアは、 やがて大きく勢力を拡大していき、紀元前18世紀くらいまでには、アッカドとシュメールを含むメソポタミアの大半の地域を支配するようになった。

サルゴン2世のドゥル・シャルキン

ポール・エミール・ボッタ

 とにかくメソポタミアに、19世紀くらいまでの人のほとんどは、想像すらしていなかったろう、とても古い文明があるという話が有名になると、言語学者ばかりでなく、遺跡の発掘屋たちが動きだすのは当然の流れであろう。

 フランスから来たポール・エミール・ボッタ(Paul-Émile Botta。1802~1870)はそのような発掘屋の一人だった。
フランス「フランス」芸術、映画のファッションの都パリ。漫画、音楽、星 彼は外交官であったが、考古学にも強い関心があり、メソポタミア地域のモースルに着任した後、 聖書にも登場する、「ニネヴェ(Nineveh)」という街の遺跡を発掘しようとした。
ユダヤの寺院「ユダヤ教」旧約聖書とは何か?神とは何か?  最初はなかなかよい成果をあげられなかったが、ある時ボッタは、モースルからは北の方のコルサバードでは、遺跡がよく見つかるという噂を聞き、すぐにそちらに向かった。
そして実際に、王宮跡らしき遺跡が見つかり、それこそニネヴェだと考えたボッタは大喜びした。

 しかし、よくよく調査してみると、それはニネヴェではないとも判明。
それでも大きな発見には変わりなかった。
その遺跡は、紀元前8世紀ぐらいのアッシリア王、サルゴン2世が築いた、「ドゥル・シャルキン(Dur-Sharrukin)」の遺跡だったのである。

世界初のアッシリア展

 さらなる世紀の発見を期待してか、フランス政府からの助成金も増えた。
また、発掘作業を絵として記録するために、画家のウジェーヌ・フランダン(Eugène Flandin。1809~1889)も派遣され、様々な出土物が、彼の絵として描かれた。

 特に、王宮の入り口を守るように飾られていたという、有翼の人面牡牛像は有名である。
そして王宮自体は、普通にほとんど要塞で、階段を使わなければ登れないような土台の高さに加え、いくつもの監視塔が備わっていた。

 ボッタは、王宮の図面を完成させたそうだが、実は彼が発掘したのは、王宮の北東の部分にすぎなかったようである。

 またボッタは、 特に技術的に価値がありそうな出土物をパリに送り、1847年2月に、それらは無事に到着した。
そして同年の5月には、ルーブル美術館において、世界初のアッシリア展が開かれたという。

さらなる遺跡の発掘

オースティン・ヘンリー・レヤード

 ボッタの成功を聞き、奮い立った一人が、 イギリスの考古学者オースティン・ヘンリー・レヤード(Austen Henry Layard。1817~1894)である。
そして彼を目がつく彼が目を付けたのが、モースルから30キロほど南にある「ニムルド(Nimrud)」という遺跡であった。

 1845年くらいから、レヤードもまた、ニネヴェを求めていて、熱心に遺跡を発掘した。

 途中からは、アッカド文字の解読に大きく関わっているヘンリー・クレスウィック・ローリンソン(Henry Creswicke Rawlinson。1810~1895)も加わり、彼は、壁などに刻まれた文字を読むことで、それがまたしてもニネヴェではないということを示した。
しかし、それは結局、聖書に登場する「カラフ(Calah)」という都市の遺跡であった。

 レヤードらによる発掘で、紀元前883年から紀元前859年までアッシリア王だったらしいアッシュールナツィルパル2世(Ashurnasirpal II)をはじめ、いくつか王の宮殿跡も見つかった。
アッシュールナツィルパル2世は、アッシリアの都市として、カラフが最盛を極めた時期の王とされている。

アッシュールバニパルの図書館

 しかし肝心(?)のニネヴェはどこにあるのか。

 アッシリア生まれで、後にイギリスに帰化するホルムズド・ラッサム(Hormuzd Rassam。1826~1910)は、1846年から、レヤードに雇われたらしい。
その後はさらにレヤードの勧めで、イギリスの大学で1年半ほど学び、1849年には、再びレヤードと一緒に、メソポタミアの地で発掘作業を行うこととなった。

 そしてその1849年の発掘で、ボッタも調査したことはあったが、ここではないと諦めてしまったらしい、クユンジクという丘で、 ついにニネヴェの遺跡は発見された。

 しかし大発見は他にもあった。
丘の北側の辺りから、驚くべきことに、2万以上の粘土板を含んだ、 紀元前7世紀頃の王アッシュールバニパル(Ashurbanipal)の図書館跡が発見されたのである。

 アッシュールバニパルは、 聡明で知識欲の深かった王だとされていて、「アッシュールバニパルの図書館(Royal Library Ashurbanipal)」は、彼の一大コレクションだったようである。

 それから先にイギリスに帰国し、1842年からは政治家として忙しくなったレヤードに代わり、ラッサムは図書館や宮殿の調査を続け、 多くの貴重な、文学作品や学術書の粘土板を発見。
そうして発見された粘土板の中には、後にジョージ・スミス(George Smith。1840~1876)によって翻訳されることになる、有名な「ギルガメッシュ叙事詩じょじし(Epic of Gilgamesh)」も含まれていたという。

メソポタミアにいつから文明があったか

 ボッタがメソポタミア地域の発掘を始めた頃は、北部ばかりが注目されていた。
おそらくは、聖書の記述などを参考として、バビロニアとアッシリアこそがメソポタミアに文明をもたらした、この地で最初の者たちであると考えられ、その上で、バビロニアよりもアッシリアの方が古くからあると考えられていたからと思われる。

 しかし、古い記録にシュメールの名前が発見されるようになり、実際にそれに関する遺跡も発見され、かつての考えは間違いだったと判明する。

シュメールの発見

 メソポタミア南部のウルは、聖書において、ノアの洪水以降の最初の預言者となったアブラハム(Abraham)の出身地ともされる。

 イギリスの外交官であった、ジョン・テイラー(John George Taylor)は、 1853年くらいからウルの発掘調査を始める。
1872年に、シャットゥルアラブ川(ティグリスとユーフラテス川が合流した川)の右岸にある港湾都市のバスラに来た時、エルネスト・ド・サルゼック(Ernest Choquin de Sarzec。1832~1901)は、すでにテイラーが始めたウルの調査に興味を抱いていたとされる。

 そして、おそらくは何らかの考古学的興味の噂を聞きつけたサルゼックは、1877年頃から、メソポタミア南部のテルローの発掘を開始。
そうして始まった発掘は1900年まで続き、サルゼックが亡くなった後の、1903年から1904年にかけても、小規模な発掘が行われたという。

 テルロー遺跡からは、彫像や壺など、貴重な美術品がいくつも発見され、その多くはパリに送られた。
さらに、5万枚以上ともされる大量の粘土板も新たに見つかった。
そして、それこそまた新しい大発見だった。
それらの粘土板の文章に使われていた文字は、メソポタミアの楔形文字ではあったが、それまでにはかなり解読されていたアッカド語とは明らかに違う書体を持っていたのである。
そして言語学者が見てみたところ、それはアッカド語よりも古い形の文字のように思われた。

 新たな文字はシュメール語と呼ばれるようになり、それを使っていた、バビロニアやアッシリアに先立って文明を築いた者たちもまた、シュメール人と呼ばれるようになったというわけである。

もっと古い時代の存在

 シュメール語の解読は、アッカド語ほど困難ではなかったのでなかろうか。

 サルゼックが発見したシュメール語は、 東洋学者のジョセフ・ハレヴィ(Joseph Halévy。1827~1917)や、ジュール・オペールの弟子だったらしいフランソワ・トゥロー・ダンジャン(François Thureau-Dangin。1872~1944)などにより、解読された。

 そして、そうして読み解かれた文書から、サルゼックが発掘したテルローの遺跡は、シュメールの都市国家「ラガシュ(Lagash)」の遺跡だということも判明する。
さらに紀元前2000年よりも古い時代の王たちの記録も見つかったことから、メソポタミアの歴史は、やはり従来考えられていたよりも、ずっと古くから存在していたことが確実なこととなったのである。

いくつか、明らかになってきた重要なこと

 粘土板に刻まれたりしている文書は次々と解読され、多くの遺跡も発掘されたから、メソポタミアと呼ばれる地で興った、シュメール、アッシリア、バビロニアなどの古代文明に関して、確からしい事実はずいぶん増えた。

 各時代の王様や小国家の名前。

 宗教的にも深い意義を持つ、聖書に影響を与えているかのような、ギルガメッシュという英雄の物語。

 世界で最古の法典ともされる紀元前22世紀頃の『ウルナンム法典(Code of Ur-Nammu)』と、それより3世紀くらい後とされる『ハンムラビ法典(Code of Hammurabi)』(ウルナンムやハンムラビというのは、その法典が成立した時期の王の名前)。

 また有名なピタゴラスの定理に関しても、バビロニアの時代までには成立していた可能性がよく指摘される。

ウルナンム法典。世界最古の法律

 特に二つの法典に関しては、人類史全体においても非常に重要と思われる。

 まずウルナンム法典は、1952年に、シュメール研究家のサミュエル・クレーマー(Samuel Noah Kramer。1897~1990)により、シュメールの都市ニップル(Nippur)で発見された断片が翻訳されて、今に知られるようになった。
これを書いたのはウルナンムでなく、その息子のシュルギ王子という説もある。

 内容の中にはシェケル(shekels)やミナ(mina)という金の(というか銀らしい)単位が出てくる。
また、「者」の部分は、たいてい「男」だという説がある。

 法典の内容としてはだいたい以下のような感じの調子らしい。
・殺人をした者には死の罰を与える。
・強盗をした者も死の罰。
・誘拐をした者は投獄され、15シェケルの罰金。
・奴隷同士が結婚し、それから奴隷が解放された場合も、婚姻関係は継続する。
・奴隷が、 奴隷でない人と結婚した場合、生まれてきた長男は、奴隷所有者に引き渡さなければならない。
・他人の妻と無理やり浮気した場合、その浮気相手の男には死の罰。
・妻が自分の意思で浮気した場合、彼女には死の罰。
・他人の女奴隷と無理やり関係を持った男は、主人に5シェケルを支払わなければならない。

 他にも、当たり前のように、愛人の女奴隷に関する取り決めがあったり、無実の罪を責める者の嘘を明らかにするらしい、「水の試練( ordeal by water)」などという、ちょっと不穏な単語があったりもする。

ハンムラビ法典。目には目を歯には歯を

 ハンムラビ法典は、考古学者ジャン・シェイル(Jean-Vincent Scheil。1858~1940)により、1901年に発見され、翻訳されたとされている。

 平等主義の精神に基づいて書かれているとされていて、196条と197条とされる「目には目を、歯には歯を(an eye for an eye, a tooth for a tooth)」という言い回しは、あまりにも有名である。
他にも、基本的には多くの法律が「~したなら、~しなければならない」という因果応報系である。

 ただし、宗教差別や人種差別はあまりなさそうなのに比べ、身分差別的な要素は普通にあるとされている。
例えば、同じ身分同士のものでは目には目を、歯には歯をなのだが、一般人が奴隷に対して危害を加えた場合は、奴隷の主人への損害賠償になるなど、少々平等とは言い難い面があったりする。

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