「アッカド語の発見」楔形文字の初期研究史。メソポタミア探求の第一の鍵

チグリス・ユーフラテス川の古代文明

 メソポタミアとはギリシア語で、「二つの川の間」という意味とされる。
二つの川とは、南東トルコの山岳さんがく地帯から南に流れていく、『チグリス川(Tigris River)』と『ユーフラテス川(Euphrates river)』のこと。

 チグリス川は、トルコからイラクを流れ、ペルシア湾に流れ込む。
ユーフラテス川は、北シリアを経てから、やはりイラクを流れ、ペルシア湾に流れ込む。
これら二つの川は、古代には別々に流れていたともされるが、現在はペルシャ湾に流れ込むより前に合流して、「シャットゥルアラブ川」というのになっている。

 メソポタミアとはその名称通り、チグリス川とユーフラテス川の間の地域を指す名称であるが、その地域を中心に栄えた古代文明を指す場合にもよく使われる。
歴史的に、地理や文化などの相違を考慮し、北部の『アッシリア』、南部の『バビロニア』と区別することも多い。
さらに北バビロニアを『アッカド』、南バビロニアを『シュメール』と分けたりもする。

 シュメールで起こった文明は、記録に残されている限り、人類史上最古の文明ではないかという説がけっこう人気である。

粘土版、タブレットに刻まれた文字

 水や風などにより運ばれる粒子が特定の場所で止められたり、あるいは特定の流体に溶けていた物質などが温度変化やバクテリアの作用などによって固まったりして、積る現象を「堆積作用たいせきさよう(sedimentation)」。
川の堆積作用で継続的に形成される平らめの土地(平野へいや)を「沖積平野ちゅうせきへいや(alluvial plain)」という。

 二つの川の沖積平野よりとれる、目の小さな(つまり細かな粒子による)「沖積土(alluvial soil)」の粘土で作られる「レンガ(Brick)」や、書板しょばん(タブレット)などは、メソポタミア文明の重要な要素だったとされる。

 特に粘土書板は、人類全体の歴史においても、最初期の文字を書くための板であり、そこに刻まれた『楔形文字くさびがたもじ(cuneiform)』も最初期の絵文字として非常に重要である。

楔形文字解読への道

 メソポタミア文明は、近しい時代で、同じように長く続いた紀元前のエジプト文明と比べると、物的な遺産があまり残っていない。
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そこでその研究においては、文字文書の解読の重要性がかなり大きかった。

あまり興味をもたれなかった領域

 古代ギリシア国家の歴史に関する書や、聖書には、メソポタミアに関連すると思われる記述がいくらか見られるものの、中世前期(5~10世紀)くらいのヨーロッパにおいて、その文明の話は謎に包まれていたとされる。

 ヨーロッパから地中海を回り込んでは、アフリカや中東の方に行けるわけだが、キリスト教の権威が強かったヨーロッパにおいて、その始まりの地とも言えるパレスチナ(イスラエル)くらいまでは強い関心の対象であったのだが、その先に広がるアラビア砂漠のさらに向こうに関しては、それほど重要なものと考えられていなかったのかもしれない。

 ただ、 イランを中心に栄えていた、アケメネス朝(紀元前550~紀元前330)のペルシアの首都だったらしいペルセポリスという宮殿都市だけは、けっこう知られていたようである。
好奇心旺盛な中世アラビアの旅行者や歴史学者たちの中には、ペルセポリスのあちこちに彫り込まれていた楔形文字の碑文に興味をそそられた者もけっこういたらしい。
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ただ、中世の頃のアラビア研究者たちの楔形文字解読の試みは、基本的には、そのすべてが失敗だったとされている。

トゥデラのベンジャミン。中国まで旅したラビ

 12世紀頃。
スペイン(あるいはフランス)生まれらしいユダヤ人で、ラビで学者でもあったという、トゥデラのベンジャミン(Benjamin of Tudela)は、中国まで旅行してきた記録を残している、最初期のヨーロッパ人ともされている。
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 彼はどうも、商業的な野心に加え、各地のユダヤ人がどのように過ごしているかについて強い関心を持っていたようである。

 このベンジャミンなる人物だが、1160年から1173年にかけて、現在のイランやイラクの辺りを旅行した。
ローマ時代より後のヨーロッパ人として、メソポタミア地域を訪れた者としても、彼は初めてだったとされている。

 十字軍遠征の時期とそれなりにかぶっているということを考えると、なかなか興味深いか。
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 ベンジャミンはその地で、過去の偉大な文明を思わせる痕跡などほとんど見つけられなかったと考えられている。
古代の都市はその大半が砂に埋もれてしまっていたのだ。

ピエトロ・デッラ・ヴァッレ。おもしろ作家の傷心旅行

 ヨーロッパにおけるメソポタミアの研究史において、最も最初の重要人物といえば、イタリアの、作曲家でもあったピエトロ・デッラ・ヴァッレ(Pietro della Valle。1586~1652)と思われる。
彼はメソポタミア地域というか、アジアのかなり広い地域を旅行した人として知られている。

 ピエトロは裕福な家庭の生まれで、幼い頃は特に、文学の勉強に熱中したようである。
ラテン語やギリシア語、それに聖書に加え、様々な古典神話に関する深い知識を持っていたともされる。
また彼は、「アカデミア・デグリ・ウモリスティ(Accademia degli Umoristi。おもしろ作家学園)」の会員にもなり、ベリファイア(物事を検証したり、証明したりする人)、あるいは修辞学者しゅうじがくしゃとしても、それなりに有名であった。

 アカデミア・デグリ・ウモリスティは、1603年ぐらいに発足されたらしい貴族の知識人を主としたコミュニティで、17世紀のローマの文化に大きな影響を残したとされている。
元は、作家や知識人が、英雄の詩劇などのバーレスク(パロディ劇)などを披露しあう場として始められたようだが、それが案外、有名な作家や芸術家の興味関心をひいて、規模を大きくしていったのだという。
1670年に解散したらしいが、18世紀になってから、教皇クレメンス11世(1649~1721)により一時だけ復活したらしい。

 「修辞学しゅうじがく(rhetoric)」というのは、 弁論べんろん(人前で意見を論じること)や、叙述じょじゅつ(順を追って物事を書き連ねていくこと)の技術に関する学問である。
ただ現在では、一つの学問というより、説得のためのテクニック程度の意味合いであることが多い。

 そしてピエトロだが、どうも彼はある時に失恋し、自殺を考えるくらいに落ち込んでいたらしい。
そんな時、医学教授のマリオ・スキパーノ(Mario Schipano)とかいう人に勧められたのをきっかけに、彼は東方への旅を決意したのだという。

 この旅を傷心旅行しょうしんりょこう と考えた場合、旅の途中で彼は結婚しているから、かなり正しい選択と言えたのかもしれない。

 何はともあれピエトロは、コンスタンティノーブル(トルコ)やアレクサンドリア(エジプト)などを巡った後、バビロニアの地を踏んだが、そこである重要な行動をとった。
彼は、古代バビロニアの場所に関して、最初とされる近代的な記録を作成し、 さらには自身が見つけた奇妙な五つの楔形文字を 記録し、ナポリの友人(多分スキパーノ)に送ったのである。
そしてそれを見た友人は、これはまず間違いなく文字だろうと考えたのだという。

ヨーロッパに持ち帰られた最初の楔形文字

 ピエトロはまた、アッシリアの都市「ニネヴェ(Nineveh)」と、シュメールの都市「ウル(Ur)」から出土した、楔形文字の掘られたレンガをヨーロッパに持ち帰ったとされる。
そうして、多くのヨーロッパ人たちが楔形文字の存在を認識するようになったのである。

 といっても、一応15世紀にはすでに、ジョサファト・バルバロ(Giosafat Barbaro。1413~1494)とかいう旅行作家が、中東の古代遺跡の粘土板に刻まれた、奇妙な文字に関する話を聞いてるらしい。
また、アントニオ・デ・グヴェア(Antonio de Gouvea。1575~1628)という神学者も、旅行でペルシアの遺跡を訪れた際に見た謎の文字に関して、ピエトロ以前に言及しているという。

 それと、そもそもピエトロの写しは正確なものではなかったとされている。

宝石商と卿の著作

 フランス人宝石商であったジャン・バティスト・タヴェルニエ(Jean-Baptiste Tavernier。1605–1689)もまた、ピエトロのように、楔形文字の写しをヨーロッパにもたらした人物として有名である。
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 タヴェルニエの父ガブリエルと、兄弟のメルキオールは地図製作者で、彼自身も結構それに関する技術を持っていたようである。
しかし彼には放浪癖があり、若い頃から、ヨーロッパのあちこちを旅行し、多くの言語を学んだらしい。
また、タヴェルニエの著作は人気で、評価もかなり高く、現在ですら引用されることがあるという。

 イギリスのトーマス・ハーバート卿(Sir Thomas Herbert。1606–1682)も、1638年の著書「いくつかの年のアフリカとアジアへの旅(Some yeares travels into Africa et Asia the Grea)」で、ペルセポリスの壁に刻まれていた、いくつか奇妙な形の文字について書いているらしい。
その本の1677年の版においては、トーマスははっきりとその文字は解読可能と書いたりもしているという。

カールステン・ニブール。かなり正確な写し

 ドイツ(出身はデンマーク)の地理学者カールステン・ニブール(Karsten Niebuhr。1733~1815) も、ペルセポリスの遺跡に強い関心を持っていた一人だった。

 もともと彼は測量士になりたかったらしく、1757年に、当時のドイツでは最も進歩的な教育機関とされていた、ゲッティンゲンのジョージア・オーガスタ大学の門を叩く。
彼は優秀な学生だったようで、1760年に、有名な聖書学者のヨハン・デイビッド・ミカエリス(Johann David Michaelis。1717~1791)に、デンマーク王家が主催するアラビア遠征(1761-1767)への参加を勧めている。
また彼は、月の研究で有名なトビアス・マイヤー(Tobias Mayer。1723~1762)の下で数学や地図作成の技術などを学んだりしていたらしい。

 そしてこのカールステンが、1767年にヨーロッパに持ち込んだ、ペルセポリスの碑文の写しはかなり正確であったと考えられている。
彼はさらに1774年には、それまでの資料と自身の調査結果を踏まえ、可能な限り正確性を重視した文字の写しを著書の中で発表。
それが多くの言語学者たちの解読への挑戦心に火をつけることとなった。

 歴史学者たちの関心も高かった。
王宮跡や王墓などに刻まれた文字を解読できれば、知られざる古代王国の記録が判明する可能性もあるから。

三種類の書体

 カールステンの紹介した碑文においては、どうも3種類の書体が使われているようだった。
40文字くらいを使う「第一種」と呼ばれる書体、200文字くらいを使う「第二種」と呼ばれる書体、500以上の文字を使う「第三種」と呼ばれる書体。
知られていたいくつかの古代文明で、そういうことがよくあったように、それは同じ内容の碑文が、異なる3か国の言葉で書かれているのだと推測された。

 しかし問題は、その3カ国の言葉のどれひとつとして、それまでの人には知られてなかったこと。

 まずは3ヶ国語のどれか一つを解読しなければならず、当然のように一番文字数の少ない第一種に白羽の矢が立った。
その少なさから、アルファベット式なのもほぼ間違いないと思われていたのも大きかったろう。

ゲオルグ・フリードリヒ・グローテフェンド。王の名前

 ドイツの言語学者で伝記作家でもあるゲオルグ・フリードリヒ・グローテフェンド(Georg Friedrich Grotefend。1775~1853)は、 特にラテン語とイタリア語の研究でよく知られていた。

 彼は碑文の第一種を解読しようと考え、だいたいどの言語でも似たような法則を有するはずの固有名詞に注目した。

 彼は王宮に刻まれた碑文の固有名詞は、だいたい王の名前であると推測し、アケメネス朝の王のギリシャ語の名前と比較していく作業を始める。
やがて彼は、碑文中に最もよく出てくるある単語が、おそらく「王」であることを確信。
また、同じように「息子」という言葉も発見。
そして人名らしき文字列の位置や長さなどから、ヒュスペタス、ダレイオス、クセルクセスなどの名前を割り出す。

 しかし、そうしていくらか、発音まで明らかにした彼の業績は脚光を浴びることなく終わってしまう。
ようするに彼の論文は、学会から無視されてしまったわけである。
彼は1802年から1803年の間に、複数回、論文を提出し続けたが、それらが真面目に取り上げられることはなかった。
そして1853年に、彼は結局、評価されることなくその生涯を終えた。

 グローテフェンドが解読しようとした40文字ばかりを使う第一種は、実のところ単純なアルファベットというわけでもなく、結構複雑で、彼以降はなかなか研究が進まなかった。
しかし後にはそれは、 古代ペルシアの一方言であり、アヴェスターというゾロアスター教の聖典で使われていたアヴェスタ語に近い言葉の文字表記だということが明らかとなった。
それはグローテフェンドが予想していた通りであった。

 グローテフェンドと同時代くらいで、 彼と同じく楔形文字の解読劇で活躍した人物としては、彼の友人でもあった神学者のフリードリヒ・ミュンター(Friedrich Münter。1761~1830)。
アルメニア研究が有名な東洋学者のアントワーヌ・ジャン・サンマルタン(Antoine-Jean Saint-Martin。1791〜1832)なども、よく言及される。

ヘンリー・ローリンソン。崖に登る男

 軍人で政治家で東洋学者であったヘンリー・クレスウィック・ローリンソン(Henry Creswicke Rawlinson。1810~1895)は、 1835年くらいから、ザグロス山脈の間の、ビストゥーンという険しい崖に刻まれていた碑文を写す作業を始めた。

 1837年には第一種文字の写しが終了し、彼は第二種と第三種の文字を写す作業を続けながらも、第一種文字の研究を始めた。
手がかりとなる碑文は、グローテフェンドが使っていたものよりもはるかに長く、1847年に発表されたヘンリーの研究成果をまとめた論文には、 第一種文字の文法の解説までしっかり含まれていたという。

 そうして第一種の文字はほぼ解読されたわけである。

エラム王国の言葉

 第一種文字が解読されたことで、とりあえず碑文の内容はわかったために、第二種、第三種の解読も幾分かは楽になったはずだったが、それでも難しいことに変わりはなかった。

 特に第二種文字に関しては、他にも多くそれで書かれた粘土板が見つかっている第三種に比べ、文書の数がかなり少ないというのも問題であった。

 しかし、鉱山技師で地質学者で考古学者であったジャック・ド・モルガン(Jacques de Morgan。1857~1924)が、スーサという古代都市で、いくつか第二種文字の文書を発見。
さらに研究が進み、第二種文字はイラン南西部にあった「エラム王国」で使われていた、エラム語であることが判明した。

 それはアケメネス朝の時代において、エラム王国の影響力が結構強かったことも示している。

アッシリア語。それはセム語族

 第三種文字に関しては、おそらくそれと同じと思われる文字を刻んだ粘土版や彫像、石碑などがメソポタミアの各地で見つかっていたことから、ペルシアのキュロス大王(紀元前6世紀くらいの王)の征服に合うまで、メソポタミアの地を支配していたとされるバビロニアの言葉かもしれないと考えられた。
つまりそれは歴史学者にとっても、大きく期待できるものだった。

 研究が進むにつれて、第三種文字は「セム語族」に属している可能性が高まってきた。
ようするにアラビア半島やアジア系の地域でよく使われている言語タイプである。
そしてそれがわかると、すでに解読がほぼ出来ていた第一種、第二種文字との比較はもちろん、比較的近い言語とされるアラビア語やヘブライ語も参考にすることができた。
 
 当時、メソポタミアの地に初めて住んだ者たちは、紀元前721年くらいにイスラエル王国を滅ぼしたアッシリア人だったと考えられていたことから、とりあえずはその第三種文字の言語は「アッシリア語」と呼ばれた。

 現在ではメソポタミアの歴史はアッシリアが成立するのもさらに昔に遡ることが知られている。
またバビロニアとアッシリアで使われていた言葉がほぼ同じであることも判明した今では、実質的にそれらは同じ言葉として『アッカド語(Assyro-Babylonian)』と、まとめて称されるのが普通。
つまり第三種文字はアッカド語である。

四人による解読証明。残された、方法という謎

 最終的にアッカド語、つまり第三章文字の解読は、ヘンリー・フォックス・タルボット(Henry Fox Talbot。1800~1877)という人が提案した、4人の解読者がそれぞれ個別にそれを翻訳し、答え合わせをするという方法で、証明もされることになった。

 タルボットは写真技術の発明などでも有名な、幅広い分野で活躍した科学者である。
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 一つ重要な問題がある。
それは、このアッカド語の解読証明を果たした4人。
ローリンソンとタルボット。
それにアイルランドの聖職者でアッシリア学者のエドワード・ヒンクス(Edward Hincks。1792~1866)。
ドイツ生まれのユダヤ人の教授ジュリアス・オペール(Julius Oppert。1825~1905)。
以上の四人の誰も、自分たちが実際にそれを解読したその方法自体を完全に明らかにしていないことであろう。
確かに、個別に四人が同じ文章としてそれを解読したことが、成功した何よりの証拠であるが、具体的にどのように解読されたのかは今でもわりと謎だったりするわけである。

多くの発見とギルガメシュ叙事詩

 アッカド語は、もはやほとんど遺物なども残っていない、古代のメソポタミア文明を理解するための大きな武器である。
こうして今に残されたメソポタミアの膨大な文字記録が次々と解読されていくことになった。
正確には、古代メソポタミア文明の研究なのだからメソポタミア学、あるいはアッカド学というほうがいいのだろうが、初期の研究者たちに敬意を表するためか、この分野は「アッシリア学」と呼ばれている。

 現在では広く知られている神話である古代メソポタミアの『ギルガメシュ叙事詩じょじし』も、そうして解読された文章の中に発見された物語である。
その公表は1872年くらい。
そこにはノアの洪水の原点ともいえるような洪水神話も含まれていたのが、特に衝撃的であった。
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 当時は聖書というのが世界最古の書物だと考える人も結構多かったらしいから、それが参考にしたより古い書物があるという時点で、すでにとんでもない事だったようだ。

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