「唐王朝」最も安定していたとされる治世、中国唯一の女帝の影

魏晋南北朝時代、隋をこえて

 「魏晋南北朝時代ぎしんなんぼくちょうじだい」という混乱期をこえて、中国を統一したずい(581~618)だが、その二代目皇帝である煬帝ようていは、かなりの暴君だったと記録されている。
「魏晋南北朝時代」分裂した中華、異民族たちの国家、中国史上の大混乱時代「隋王朝」賢き皇帝、愚かな皇帝。あまりに早かった滅亡  実際のところ。
彼がどの程度のレベルの暴君だったのかは、今となっては謎であろうが、彼の時代に、中国史上でも稀に見る規模の大反乱が起こったのは確かである。

どうも道化な桃李子

 すでにあちこちで反乱が起こっていた隋の末期。
李淵りえん(566~635)は、山西省さんせいしょう太原たいげんの領主だった。
彼は煬帝の従兄弟にあたるが、わりと細かいことは気にしないような性格で人望もあり、典型的な独裁者タイプだった皇帝とは折り合いが悪かったと考えられている。

 煬帝は李淵のことをかなり警戒し、彼の下にスパイをつけて、 その行動を逐一監視していたともたれる。
実は当時、「桃李子」なる人物が次世代の皇帝になるという童謡が流行っていて、煬帝もそれを聞いていたらしい。
そしてその桃李子こそ、李淵だという説があったのだという。

 当時は、自分がやらなくても誰かがそのうち皇帝を殺すだろうというような状況である。
李淵もそれを考えてか、密かに戦力を蓄えてはいたようだが、自分たちが具体的にいつ戦いに乗り出すかは誰にも言わなかった。
そこで業を煮やした二人の息子、建成けんせい世民せいみんは一計を案じる。

 煬帝は各地に「晋陽宮しんようきゅう」なる施設を置いていた。
これは皇帝が来た時に、もてなす役割の美女たちが待機する施設である。
息子たちは、その晋陽宮の管理人である裴寂はいせき(569~629)と示し合わせて、李淵をそこに連れてきて、一晩楽しませた。

 当時においては、いわば皇帝のものである女に手を出すというのは、臣下としては絶対にやってはいけないような振る舞いである。
そんな禁を犯してしまった以上、もはや後には引けないと裴寂らは迫り、李淵もいよいよ決意を固めたのだという。

神の使いのお告げ

 617年の7月。
李淵の軍は太原を発った。
そして10月には、首都の長安城ちょうあんじょう大興城だいこうじょう)を包囲したわけだが、そこに至るまでに少し興味深いことが起きている。

 太原を出て少しして、軍は敵との戦闘中に、大雨に見舞われて一旦動きを止めた。
その時に、近くの霍山かくざんという山から、神の使いと称する白衣の老人が現れて、お告げをくれたのだいう。
そしてそのお告げのおかげで、彼らは窮地を脱することができたそうだ。

 長安を落とした李淵は、煬帝の孫にあたる恭帝侑きょうゆうていを新たな皇帝として立たせた。
一方で、各地の混乱状態から目を背けて遊びほうけていた煬帝は、部下に殺されてしまう。
そして彼の死の報告を聞いた李淵は、禅譲ぜんじょうにより、自らが新たな皇帝の座に就く。

 皇帝となった彼は年号を改め、以降300年ほど続くことになる、『とう王朝』が成立したのだった。

再びの中国統一

 長安を拠点においた唐は、 即座に統一王朝となったわけではないが、しかし、散らばっている各勢力の中で、最も有力な勢力となっていたことは間違いない。

 唐はまず、脱煬帝の信念のもと、彼が始めた政策のいくらかを廃止して、彼の前代、賢き皇帝とされていた文帝の政策を重視したとされる。
このことは、「開皇の故事」とか「開皇の旧制」とか言われている。

玄武門の変

 唐は、624年までには、各地の有力勢力を軍門に迎え入れ、全国統一の準備をほぼ固めきった。
そしてそれらの戦いにおいて、李淵の次男である世民は、名将として大きく活躍したが、それは結果的に、皇太子であった兄、建成の警戒を生んだ。

 一方で、世民の下について、彼には及ばないもののそれなりに軍功を立てていた、三男の元吉げんきつは、少なくとも表向きは長男に味方していたという。
皇太子でもなく、名将でもない自分は、どちらかと言うと皇太子側についた方が得だと考えたのだとされる。
それに二人の兄の潰し合いの隙を突いて、あわよくば自分が皇帝になろうという野心も抱いていた。

 そんな一触即発の空気が、兄弟間に流れる中。
何者かが毒を盛った(とされている)酒を飲んだ世民、血を吐いて苦しむという事件まで起きる。

 そして626年の6月。
世民はいよいよ意を決したのか、父に、皇太子と元吉が、後宮(大奥)の女たちと協力し、自分を殺そうとしていると密告する。
父は、それならば明日二人を尋問しようではないか、と告げたという。
世民はそして、翌朝には部下たちと、素早く宮城の北門であった玄武門げんぶもんを押さえ、激闘の末に兄も弟も討ち取る。
さらには、いまいち情けない父も武力で屈服させ、あっさりとその実権を奪い取った。
この一連の流れは「玄武門の変」と後世に語り継がれている。

 その玄武門の変の後、すぐに世民は正式に皇太子となり、2ヶ月ほどで新たな皇帝、太宗たいそうにもなったという。

テュルク系遊牧民たちの脅威

 太宗は、かなり急いで皇帝になったようである。
それは北から迫っていた国家の危機に対し、自らが先頭に立って立ち向かおうと考えたからだともされる。

 テュルク系遊牧民たちが作ったとされる大国家、突厥とっけつの侵略軍が、迫っていたのである。

 唐は、ほんの数年でこの大国家を返り討ちにした。
そして太宗は、勇猛果敢な優れた皇帝として、より広い地域で一目置かれるようになったのだった。

 また突厥との戦いが終息する頃には、国内も統一されていたという。

貞観の治。最もよかったと呼ばれる時代

 国内を統一し、国外の脅威も退けた太宗の次なる課題は、当然、長い戦いで疲労した民の生活の安定の実現、政治である。

 太宗のもとに行われた政治は、後には『貞観じょうがん』と呼ばれ、中国史上最も良く国内を治めた理想として、よく引用されるようになる。
また、ほぼ一世紀後くらいには、「貞観政要じょうがんせいよう」という、太宗と大臣らの政治に関する対話などをまとめた文書が成立。
これは日本を含め、中国外の東アジアのいくつかの国々にも、強い影響を与えたとされる。

 この貞観の治(太宗の治世)の時代。
(やはり大げさであろうが)天下は太平で、道にものを置き忘れても盗まれず。泥棒がいないために戸締まりの必要も無く、追い剥ぎもいないので旅人は野宿ができたとも伝えられている。

 歴史書の再編など、文化、学問的にも大きな躍進があったという。
西遊記などの小説で、三蔵法師として有名な玄奘げんじょうが、インドから仏経典を持ち帰ったのもこの時代である。

 また、兄から皇太子の座を奪い、父から皇帝の座を奪った次男と、隋の煬帝と妙に共通点があることを気にしていたのか、煬帝が暴君だという悪評を過剰なまでに世に広めたのは彼だったとされる。
似たような境遇にある自分を、対比により名君とさせるための戦略であったろうとも考えられている。

女帝の時代。本当に黒歴史だったか

 太宗は晩年には、跡継ぎ問題に悩まされたとされる。

 正妻である長孫皇后ちょうそんこうごうが産んだ三人の男子の内、 最初皇太子となった長男は、どうも若い僧との乱れた関係をきっかけとして、反乱まで起こして摘発された。
このような一幕の裏には、太宗がどちらかと言うと、次男を可愛がっていたための、危機感や嫉妬の感情があったようである。

 そして、いったいどういう理由であるのか、長孫皇后の兄である長孫無忌ちょうそんむきが、長男の暴挙の原因の一端は次男にもあると指摘。
それでまたどういうわけか、皇帝はその指摘に納得し、結局は三男である李治りちが次期皇帝となった。

 長孫無忌は、皇太子となった李治の後見となることで、自身の権力を高めようと目論んでいたようである。

強い皇后

 本人も思わぬ形で皇太子となり、そのまま649年の父の死後に、新たに皇帝となった高宗こうそう(李治)だが、即位後すぐに、男女関係の問題が発生する。

 正妻であった王皇后との間に子供ができなかった高宗は、後宮の蕭淑妃しょうしゅくひとの間に生まれた素節そせつ(648~690)という子を可愛がった。
それで、夫の気持ちが自分から離れるのを感じた皇后は、蕭淑妃を少しでも失望させてやろうと、ひとりの女を夫に差し向けた。
といっても、この辺りの話は少し事情が曖昧だという。

 武照ぶしょうは、太宗の時代の後宮にいた女だが、高宗とはまだ太宗が死ぬ前、おそらくは彼の看病の席で知り合ったのだとされている。
しかし、したたかな彼女を宮殿に招いたのは皇后の失敗であった。

 武照は確かに、王氏の狙い通りに、蕭淑妃から高宗を遠ざけた。
しかしその後は、王氏にまで敵意を向け、結果的には皇后の座まで奪ったのだった。

 皇后になった武后は、その聡明さを存分に発揮し、政治問題にも積極的に口を出した。
というより、高宗はほとんど彼女の傀儡のようになってしまっていたらしい。

武周革命は終わり

 隋時代からの課題とされていた、高句麗こうくり国の制圧に成功したのは、666年頃のこと。
これは、高宗でなく、その背後にいた武后の功績とされる。

 武后は、権力を強めながら、自身に反対する長孫無忌のような大臣を、ことごとく撃破していった。
そうして、683年に高宗が失くなった時、 その時は一旦息子を皇帝の座につけながら、権力は弱めず、690年にはついに、中国史上唯一の女帝となった。

 彼女は新しい王朝として周(武周)を興したため、この段階で唐という時代はいったん途切れている。
これは「武周革命」と後には呼ばれることとなった。

 総合的には、武后は悪政を行っていた暴君とされ、死の前年にはクーデター軍により幽閉され、唐は復活し、革命は終わった。
しかし、中国の歴史上では珍しい、女の時代はまだ続く。

三人の女

 新たに皇帝となった中宗はどうも頼りなく、彼の妻である韋后いこうはまた、義母同様に野心家であった。
さらには娘の安楽公主まで、再びの女帝の座を狙っていたようである。
この母娘は、自分たちの権力を強めるために、独断で官位を売りまくったとされている。
さらに710年には、中宗を毒殺した。

 しかし、時間をかけて少しずつ力を蓄えた義母と比べて、韋后らは少し焦りすぎていた。
中宗の殺害はかなりの反感を招き、ついには立ち上がった、中宗の甥にあたる李隆基りりゅうきが、彼女らを殺した。

 李隆基は一旦は父(中宗の弟)を皇帝とし、自分は皇太子となった。
そして倒すべき女はまだ一人残っていた。
やはり野心を抱いていたとされる、中宗の妹、太平公主である。

 しかし李隆基は、自身が皇帝となった翌年(713年)に、その太平公主も自殺に追い込み、女たちを再び表舞台から追い出したのだった。

 武后の台頭から韋后の時代までは、わりと暗黒期とされ、後には『武韋ぶい』などと呼ばれるようになったという。

楊貴妃と安史の乱

 李隆基が、皇帝玄宗げんそうとして即位したのは712年のこと。
そして最も長い在任期間を持つことになる彼の治世(44年間)の内、最初の29年は、『開元かいげんの治』と称される安定期だったと、後の記録に残ることになった。

 楊貴妃ようきひ(719~756)は元々、玄宗の子である李瑁りぼうの妃だったが、絶世の美女だともっぱらの評判であった。
政府内の権力闘争の場を荒らしていた一人だった李林甫りりんぽ(683~753)は、皇后を亡くしていた皇帝に、この美女を勧めた。
それが740年くらいのことらしい。
玄宗も一目でこの女の虜となり、それは政治というものに、一切の関心がなくなるほどであったという。

 そして、やる気を失った玄宗から、任される形で権力を握った李林甫は、上手くライバルを蹴落としながらも、その権力を生涯守ったとされるが、晩年は、楊貴妃の一族であり、彼女の後ろ盾を得ていた楊国忠ようこくちゅうにかなり苦戦させられていたようである。

燕の反乱

 楊国忠は李林甫が失くなった後に、その立場を継いだ男だった。
つまり、楊貴妃にかまける皇帝に代わり、中央の全権を得ていた。

 一方で、安禄山あんろくざんもまた、楊国忠と同じように、皇帝皇后に取り入ることで成り上がった人物だった。
彼に関しては、 表舞台に出てくる前の記憶が曖昧なものしかないようで、わりと出生は謎に包まれているらしいが、複数民族の血を引き継いだ雑種としている記録などがあるという(アラビア系の血をひいているらしい)。

 その安禄山が、兵を集めて、後に『安史の乱』と呼ばれることになる反乱を始めたのは755年のこと。
これはある程度、(安禄山を蹴落とすために)楊国忠が仕組んだことのようであるが、彼も予想外だったのが、実戦に長けた反乱軍の、その強さであった。

 安禄山は756年には「えん(756~763)」という自分の国も建てた。

 そして反乱軍の勢いを知った玄宗は、首都である長安からとりあえず逃げだす。
なんでこんなことになったのか、責任は誰にあるのか、というような声が、兵士たちからあがり始めたのは、都から70キロほどの、馬嵬駅ばかいえきの辺りであった。

 駅というのは、当時の馬継ぎ場や、街道途中に設けられていた停泊場のこと。

 そして、責任は楊一族にあるということになる。
まずは楊国忠が殺された。
それから楊貴妃も、という声を皇帝も無視はできず、結局彼女も殺されたという。

 また、玄宗はこの時すでにかなり高齢だったので、事態の鎮圧をはかるために、皇太子の李亨りこうが新たに粛宗しゅくそうとして即位することになった。
彼は軍を引き連れて都に戻ろうとするも、それが今や難しかった。

異国の助け

 粛宗は、回鶻かいこつ(ウイグル帝国)に援助を求め、そちらのハーン(君主)である葛勒可汗かつろくかがんが了承したので、軍は増強された。

 そして粛宗らが長安を奪回したのは、それが占領されてから15ヶ月後のことであった。
一方で、拠点としていた(燕の首都だった)洛陽らくようにいた安禄山は、それまでに息子である安慶緒あんけいちょに殺されている。

 それから安禄山の盟友でもあった軍の中心人物、史思明ししんめいは、安慶緒に反発して、軍を離脱する。

長引いた戦い

 唐とウイグルの連合軍は洛陽を攻めたが、その際に、ウイグル兵らは、粛宗から許しを得ていた略奪行為に夢中になり、軍全体の勢いは弱まる。
その隙を突いて安慶緒は逃げることができ、戦いはまだ続くこととなった。

 安慶緒は北の(安陽あんよう)の方で態勢を立て直し、758年には反撃に転じる。
途中からは史思明も戻ってきて、彼らは唐軍を打ち負かし、洛陽をまた奪った。

 759年。
史思明は、安慶緒を殺して、自分が燕の皇帝になるが、その彼も761年には、やはり息子の史朝義しちょうぎに殺されてしまう。

 そして762年。
唐側では、粛宗の子が新たに代宗だいそうとして即位。
唐軍の機運はまた高まり、この年の内に、彼らは洛陽を奪回。
その後、史朝義も自殺に追い込み、8年ほども続いた安史の乱は終幕したのだった。

弱体化していく王朝

 安史の乱は唐という王朝に大きな傷跡を残した。
統一国家としての支配力の弱さを露呈してしまい、単純に戦で多くの財もなくなってしまった。

 しかし、ずいぶん威厳は失いながらも、9世紀の初頭辺りは、唐王朝の回復期ともされている。
政府は経済管理からかなり手をひき、制限の少なくなった市場が多く開かれたが、これは貿易市場を刺激するという、意図されてなかった影響も及ぼした。

 780年までに、古い穀物税システムは、半年ごとの税に変えられた。
またその量も一定でなく、収入により左右されるようにもなった。
これは、商人階級が後押していた貨幣経済への、より本格的な移行ともされる。

 また政府は、度重なった乱により、かなり落ちていた塩と鉄の生産に関して独占して管理した。
特に塩は、かなりの収入を政府にもたらした。
799年時点で、政府の歳入の半分以上は塩事業によるものだったようである。

 しかし9世紀も半分をすぎる頃には、唐はまたどうしようもなく弱体化を再開していたともされる。

黄巣の乱。安定王朝の最期

 安史の乱から100年ほど経っていた頃。
政府内では官僚たちの権力闘争が泥沼化し、団結力というものは失われていた。

 牛僧孺ぎゅうそうじゅ(779年 – 848年)と、李徳裕りとくゆう(787~850)の808~849年にかけて起こった政争は有名で、「牛李の党争」などと呼ばれる。

 また、各地でまた反乱も目立つようになり、ついには874年に起きた『黄巣こうそうの乱』により、長安は陥落させられた。
反乱の指導者であった黄巣は、新たに『さい(880~884)』という王朝を建てる。
しかし、彼の軍の主力はもともと政治とは縁遠い者たちで、 国家体制を上手く管理することができず、長続きはしなかった。

 一方で、元は黄巣の部下だった朱全忠しゅぜんちゅうは、唐に寝返り、そちらで勢力を強める。
そして彼は、907年に、唐の最後の皇帝である哀帝あいていから禅譲を受け、『後梁こうりょう(907~923)という新王朝を開き、唐の時代は完全に終わったのだった。