ブルボン王朝の末期
フランスの『ブルボン王朝』の第三代王であったルイ14世(1638~1715)は、当時としてはかなり長生きだった。
長生きすぎて、彼は息子と孫に先立たれてしまう。
そういう事情で、彼が亡くなった時に、王位を継いだのはまだ5歳だった曾孫のルイ15世(1710~1774)だった。
タイミングが悪いことに、この頃のフランスは、ルイ14世の時代の度重なるイギリスとの戦争により、かなりの経済危機を迎えていたという。
ルイ14世の甥にあたるオルレアン公フィリップ2世(1674~1723)が、幼い君主に代わって政治を行う「摂政(Regent)」になったが、経済の立て直しはかなり困難であった。
1723年にオルレアン公が亡くなった時、ルイ15世は13歳で、 それはちょうど当時のフランスで成人とされていた年齢だった。
王は自身が選んだ、ブルボン公(1692~1740)、1726年からは教育係でもあったアンドレ=エルキュール・ド・フルーリー (1653~1743)を起用して、政治を任せた。
フルーリーは政治家としてはかなり優秀だったようで1743年に彼がなくなるまでは、国の情勢はなかなか安定していたという。
彼の死後にルイ15世が自ら政治を行うようになると、愛人であったポンパドゥール夫人(1721~1764)も絡んできて、 宮廷内で権力争いが過熱する。
ハプスブルクのマリア・テレジア
そして、イギリスとの因縁もやはり終わらなかった。
1740年。
神聖ローマ皇帝であったハプスブルク家のカール6世(1685~1740)が亡くなると、娘のマリア・テレジア(1717~1780)がその家督を継いだが、 案の定それが女性だったために、いくつかの国が異議を唱え、主にカール6世の持っていた領地などを巡る「オーストリア継承戦争(1740~1748)」が始まった。
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この戦争で、フランスは、オーストリアと対立していたプロイセンの側に立ち、 オーストリアと手を組んだイギリスと対立。
この戦いはインドや北米などの植民地にまで広がることとなる。
さらに1756年。
プロイセンは今度はイギリスに近づき、一方でフランスはまたイギリスに対抗するためにオーストリアに近づいた。
オーストリアはそのままフランス、それにロシアとも手を結び、再び「7年戦争(1756~1763)」が始まり、その戦いはまた植民地にまで広がった。
そしてフランスはイギリスに負けてしまい、1763年のパリ条約によって、北米大陸に持っていた植民地を、イギリスとスペインに明け渡すこととなった。
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一方でオーストリアも、重要な土地とされていたシュレージエンをプロイセンに取られてしまう。
フランスとオーストリア両国は負けたが、しかしそれで、同盟関係の強化の必要性を実感。
そうして、 後にルイ16世となるフランスの皇太子(1754~1793)と、マリア・テレジアの娘マリー・アントワネット(1755~1793)は婚約関係を結び、1770年に結婚した。
戦争の経済危機
ルイ16世はルイ15世の孫だった。
もともと兄がいて、彼が王位に着く予定ではなかったから、大した教育は受けていなかったという。
マリーアントワネットとの結婚も、元々は彼の兄がする予定だったようだが、その兄は1761年に亡くなっている。
さらに父である、ルイ15歳の息子も1765年に亡くなって、彼が皇太子となってしまったのだった。
そもそも彼が王となった1774年という時期が最悪だった。
国内はひどい経済状態で、さらに「アメリカ独立戦争(1775~1783)」のような戦争により疲弊していた。
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もはや政府が頼りにできたのは、「租税(tax)。
つまり、政府が法に基づいて、あらゆる公共財や公共サービスの経費として、住民に求める金。
いわゆる税金だけだった。
当時のフランスの「徴税(Tax collection)」、つまり租税の取り立てシステムは、『徴税請負人(publicani)』が税を徴収し、国に収めることが規定された以上の余分な金額を、自分の収益とすることができるというものだった。
ようするに、請負人の厳しい徴税を招くようなものだった。
自由とは何だったのか
そういう教育を受けていなかったから仕方ない面もあるが、ルイ16世はあまり政治に関心がなかったとされる。
彼は、経済論者のジャック・テュルゴー(1727~1781)を頼り、テュルゴーはそれまでの、階層や身分に関係なく、税金などをなるべく一律にするという政府の方針とは逆に、「自由経済主義(Free economicism)」を打ち出す。
つまり、様々なもの(特に生きるために不可欠な食料品など)に関して規定の金額を決めずに、社会の人々に自由に任せるというもの。
テュルゴーの自由政策は1774年に始まるが、続く1775年は「小麦粉戦争(Guerre de Farines)」と呼ばれるほどの不作で、 結果、食料品の値段がはねあがることになってしまう。
当たり前のようにフランスのあちこちで暴動が起こることになったが、実はこの時、文字通りの略奪行為というものはあまり行われていなかったことが知られている。
どういうことかと言うと、暴動を起こした人たちはたいていの場合、食料を奪ったのではなく、以前に一般的だったくらいの値段しか払わないという主張を無理矢理通していたというだけなのである。
ようするに自分たちが適正だと思う価格で、食料をしっかり買っていたわけだ。
少なくとも民間のレベルにおいては、政府の方針に従い、自由にめちゃくちゃやってるやつが悪で、社会の中でそれまで定められていた ルールに従う者が正義だった。
経済の悪化は進み、フランスは革命の道を突き進んでいくことになったが、実のところ(よく言われるように)自由革命というのはやや皮肉で、ある意味、民衆は自由よりも、自分たちを縛るべきルールを求めていたとも言える。
金持ちばかりが得しないルールを。
平民たちは、特権階級とされた聖職者や貴族が税を免除されていることに対しても、強い怒りを持っていた。
第三身分の怒り
1789年5月。
ルイ16世は経済危機を打開するために、第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)、第三身分(平民)の 代表者たちの意見を出し合う、『全国三部会(États généraux)』を要請する。
これにあたり、事前に全ての身分の者たちの要望をまとめた「カイエ・ド・ドレアンス(Cahier de doléance。意見書)」も、政府のもとに集められたとされる。
第三身分の者からは、生活に関する不満の声が圧倒的多数だったようだ。
これを民主制の始まりと見る向きもある。
また伝統的に(特権階級とされる)第一、第二身分の代表者数は合わせて、第三身分の代表者数と同数だったらしい。
実のところ第三身分には、下位の聖職者や田舎の貧乏貴族なども含まれていたようだが、そういう人たちはこの身分の者たちのリーダー的存在だったともされる。
しかし意見書の内容はともかくとして、この時は議決の方法で、第三身分と、第一、第二身分が揉めた。
第三身分の人たちが代表者全員での投票による議決を求めたのに対し、特権階級は身分ごとに分かれて議決をとりたがった。
もしかしたら、全員で会議するとなると110対90(第三身分+それに肩入れする特権階級と、残りの第一+第二身分の者たちの戦い)の構図。
各身分ごとに決定を出し合うという方法だと、1対2(第三身分の決定と、第一+第二身分の決定の戦い)だったのかもしれない。
とにかく、そもそも決め方で揉めたために、なかなか三部会自体が開かれないという状態が続いてしまう。
憲法制定国民議会
第三身分の者たちは自分たちだけの会合を勝手に続けた。
さらに第三身分に所属する下位聖職者の一人であったエマニュエル=ジョゼフ・シエイエス(1748~1836)が呼びかける形で、 他の身分も交えた独自の『国民議会(Assemblée nationale)』を1789年に発足。
シエイエスは「第三身分とは何か(qu’est-ce que le tiers état)」というパンフレットを発行しているが、そこには「第三身分こそが国民全体の代表に値する」という主張が書かれている。
政府は最初、この国民議会を認めず、会議のための場所を閉鎖したりもしたが、国民議会はくじけず、ヴェルサイユ宮殿近くの室内球技場(テニスコート)に集まり、集会を続けたという。
さらに第一、第二身分のからも、これに参加する者が増えてきて、政府もこれを認めざるを得なくなる。
そうして7月に承認された国民議会は、『憲法制定国民議会(Assemblée nationale constituante)』と名を改めた。
パリの門
政府は国民議会を認めたものの、それを力づくで抑え込もうとしていたようだ。
議会の活動の中心地となっていたパリとヴェルサイユに、軍隊を集結させはじめたのである。
ただでさえ緊張感が高まる中、7月11日にルイ16世は、さらに民衆の怒りを買う決定を下した。
第三身分出身ながら優れた銀行家で、政府の財政管理に携わっていたジャック・ネッケル(1732~1804)を、おそらくは貴族たちの圧力に耐えかねて、罷免、つまりやめさせたのである。
ネッケルは、特権階級への課税の必要性を主張していて市民からの人気が高かったから、民衆への影響は大きかった。
そして、街の近くで集まってきた軍隊の襲撃を恐れたパリ市民の間で、武力による戦いを主張する声も上がり始める。
街の門は、商人が品物を持ち込むたびに物品税がかけられる、市民にとっては憎悪の的であったが、パリで門が襲撃されたのは7月12日のことだった。
バスティーユ襲撃事件
7月14日。
武器を求めた民衆たちは、負傷兵や退役軍人を収容する「アンヴァリッド(Les Invalides))という施設におしかけたが、期待に反してそれほど武器はなかった。
続いて群衆は一部が牢獄として使われていたことでも有名な要塞、バスティーユを襲撃した。
バスティーユの重要な目的の一つが、パリの民衆たちを監視することにあることは知られていたともされる。
そこには常に軍隊が駐屯していて、何時でも市民たちを制圧できるようになっていたのだ。
だからこそ、そのための武器がそこに必ずあることを市民たちは知っていた。
襲撃からわずか数日でバスティーユは解体された。
また、駐屯軍の司令官たちは公開処刑されたという。
そしてこのバスティーユ襲撃こそが、フランス革命の始まりだったとされている。
アンシャン・レジームの破壊と影響
フランスの国旗
パリの襲撃事件はその日のうちにヴェルサイユに伝えられ、翌日にはルイ16世が「国家の救済は国民議会に期待します」と述べた。
結成された市民軍は『国民衛兵(la Garde nationale)』と名乗り、後にフランスの国旗となる、青と白と赤が並んだシンボルをバッジとして身につけた。
このシンボルは元々パリのエンブレムの色であった赤と青にブルボン王家を象徴する白色を挟んだものとされている。
ここに王家の色が入っているので、バスティーユ襲撃の時点ではまだ、政府を転覆させてやろうというような意識が、市民達にはなかった可能性が高い。
しかし各地で民衆による反乱の波は次々と広がり、自分たちの立場の危機を察知した賢明な貴族たちの中には、国外に逃亡する者もいたという。
当時のフランスの政治体制は、君主の下にいる諸侯たちが土地を領有し、そこに住む人たちを統治する『封建制』というもの。
その封建制の廃止が国民議会の議題にも上ったが、それは統制が取れなくなってきていた民衆をまとめあげるために、急遽出されたものだったという説もある。
国民議会の中には土地の領主もいたから、それを失う可能性がある封建制の廃止に対しては慎重なはずであった。
グランドプール。貴族たちの陰謀の噂
都市で次々と起こった暴動は、地方の農村などにも様々な噂の形で伝わり、「グランドプール(la Grande Peur。大恐怖)」と呼ばれるパニックを引き起こしていった。
特に農民たちに強い影響を与えていると噂は「貴族の陰謀(Complot aristocratique)」だった。
この不作の時代に、貴族たちは自分たちが生き残るために食べ物を独占しているとか、盗賊を雇って村から食べ物を略奪させるつもりだとか、そういう噂である。
そして「やられる前にやれ」の精神で、あちこちの農村部でも、領主の館が襲撃されるという事件が起き始める。
農民たちの怒りを抑える意味もあって、国民議会は8月4日に封建制の廃止を正式に決定した。
実際は土地を誰でも買えるようになったというだけで、土地を所有するための金を持ってるような農民などほとんどいなかったのだが、いくつか勘違いもあったのか、グランドプールはひとまずは落ち着いたという。
人権宣言、ただし男だけ
採択とは、色々な意見の中から特によいと思うものを選ぶことである。
農村部の混乱が一息ついた1789年8月26日。
国民議会は『人間と市民の権利の宣言(Déclaration des Droits de l’Homme et du Citoyen)』、いわゆる「人権宣言(Declaration of human rights)」を採択した。
それは「人間は生まれながらにして自由であり、法の前でその権利は平等である」というもの。
それは国民議会が掲げた理想であり、目指すべき目標であった。
ただ、基本的に人権宣言でいう人はman(男)だったようである。
ただ何を決定しようとも、まだ国王が中心。
王政は続いていたから、国王であるルイ16世が裁可しない限り、 正式な決定ではなかった。
その国王は国民議会の決定をことごとく無視した。
さらに弱気な国王は、相変わらず取り巻きの圧力にやられたのか、ヴェルサイユに軍を集結させ始める。
ヴェルサイユ行進
張り詰めた空気が続く中、1789年10月5日に、食糧難に苦しんでいたパリの女性たちが、国王のいるヴェルサイユへと大行進した。
この「ヴェルサイユ行進」をした女性たちが宮殿に直接入ってきて国王に要求したものは、パンの材料である小麦だったとされる。
それまで特権階級の圧力にばかりをされていた国王だが、ここで初めて市民の圧力に押される形で、人権宣言を了承する。
しかし、一部の側近たちが女性達を捕らえる動きを見せたために、民衆の反発はさらに高まることにもなった。
そして国王一家はほとんど連行されるような形でパリに居を移すことにもなる。
プロヴァンスからデパルトマンへ
人権宣言が正式に認められたところで次回はそれに基づく新たな憲法を決定することにする。
貴族の権力を排除し、国家権力の前で誰しも平等とするため、それぞれが独自の統治をしていた「プロヴァンス(州)」を廃止し、地域を明確にする以外の意味はあまり強くない「デパルトマン(県)」が設定された。
そして新しく設定されたそれらの名前には、伝統に基づくものではなく、単に川とか山とかが採用される。
境界の財産も国有化が求められた。
どんな宗教も自由になり、同時にそれまでかなり特別扱いだったカトリックは、特別でなくなるだけでなく、特別だった頃に得た財産も没収される形である。
そうして次々と決定していく新しい体制に対して、それまでのものは『アンシャン・レジーム(Ancien régime。古い体制)』と呼ばれるようになっていった。
革命派と反革命派の戦い
まだ革命の混乱が続いていた1791年6月20日。
国王一家は国外逃亡を企て、しかし22日に捕まり、パリに連れ戻された。
一家が捕まった場所から「ヴァレンヌ事件」と呼ばれるこの出来事は、彼らの命運を決定した。
ここに来て国王は、裏切り者として信頼を完全に失ってしまったのである。
しかしそれでも、王を廃して共和制にするべきという主張はかなり控えめだったようだ。
改革を求めて革命を起こしながら、どこか消極的なところもあったのは、その先に待つ国外との対立がわかりきっていたからとされる。
それまでのヨーロッパの歴史の中で、フランス革命のようなものが全くなかったわけではない。
しかしそれらは結果的に外国の軍事力の介入で潰されていた。
外国に亡命した貴族たちの復讐である。
結局は力ある者が正義だった。
フランス国内でどれほど自分たちの好きなように国を作り変えても、周囲の国々を力ずくでも納得させないと、意味はなかった。
そして1972年4月にフランス革命政府はオーストリアに宣戦布告した。
ルイ16世の処刑
革命軍はあまり戦闘に慣れていないものも多く、戦いは連敗続きだったが、人々はその怒りのやり場を国王へと向ける。
そうして、宮殿に押し寄せた民衆に捕らえられた国王は「タンプル塔」という、牢獄にも使われていた修道院に幽閉されることになった。
この「8月10日革命」によって、フランスの王権は停止した。
市民の運動は激化して、時に余計な悲劇も巻き起こした。
特に「9月の虐殺事件」と呼ばれる、反革命派のあらぬ陰謀を恐れたがゆえの、関係ない人まで巻き込んだ殺戮は、外国に革命政府を潰す大義名分を与える結果にもなってしまったという。
さらに1793年1月2に、国王ルイ16世はついに処刑され、それは、いまだに王政をする他のヨーロッパ諸国を震えさせ、そして真剣にさせた。
すでにヨーロッパでは対フランス同盟が、実質的に結成されつつあり、革命の成功は、ある意味で最大の危機でもあった。
ヴァンデの反乱
革命政府は軍事力を向上するために、地方の農民たちに徴兵令を出したが、農村の人たちはこれにかなり強く反発した。
それも当然で、農民たちは土地を手に入れられたわけではなく、結局ありもしない金でそれを買わなければならなかったのだから、今までと特に状況は変わっていなかったのである。
自分たちにメリットがないのに、働きざかりの若い男を、兵として差し出すなんて納得できる話ではなかった。
1793年の3月にはヴァンデで大規模の反乱が起き、しばらくの間実質的に国内は内戦状態となってしまう。
ロべスピエールの恐怖政治
国内外での問題がひっきりなしに起こる中、それらの問題に素早く対応するため、1973年4月、とりあえず臨時的な独裁的権限を有する「公安委員会(Comité de salut public)」が設置されることになった。
そして7月頃。
国王の裁判や処刑を主導していたイジドール・ド・ロベスピエール(1758~1794)が中心になってから「恐怖政治(Reign of Terror)」が始まることになった。
ロベスピエールは、 非常事態に国民をまとめあげるにはテロル、つまり恐怖が一番だと主張した。
テロルは、政治的な意図を持った暴力行為、いわゆるテロの語源である。
ロベスピエールはまた、武装して立ち上がるべきは民主全体だと して 18歳から25歳までの 子供のいない男の軍隊入隊を義務付ける「総動員令(Total mobilization order)」を出す。
また公安委員会に加わったラザール・カルノー(1753~1823)は、かなりの民兵をうまく集めた。
ロベスピエールの独裁的なやり方は仲間内からの批判も多く、 彼は非常な粛清によってそれに対応した。
かなり伝説的な話とされているが、公安委員会のロベスピエールの前の(というか最初の)リーダーであるジョルジュ・ジャック・ダントン(1759~1794)は、ロベスピエールと敵対し、処刑されることになった時、「次はお前の番だ」と叫んだとされる
恐怖政治の時代に、反革命の容疑で処刑された人の数は、5万人に及ぶという説もある。
そしてついには、1794年の7月28日に、ロベスピエール自身も処刑されることになった。
ナポレオン・ボナパルト
フランス革命の最中様々の戦いが起こったわけだが、その中でも参加した多くの戦いで活躍し、成り上がったナポレオン・ボナパルト(1769~1821)は、1796年、遠征軍の司令官に任命され、イタリアと向かった。
イタリアでの戦いにナポレオン軍は勝利したものの、なかなかギリギリだったとされる。
しかし彼は自分が調子のいい時のことしか情報として返さなかった。
結果、フランスに帰ってきた彼を、人々は、神がかった指揮でフランスに大勝をもたらした英雄として大歓迎した。
その後ナポレオンは、1795年11月に設置されたものの、なかなか混乱を収拾できない「総裁政府(Directoire))」に対するクーデターに乗じて、新たな政府を樹立する。
それが1799年の末頃のこと。
その後はさらに権力を強くしていき、1804年からは、フランス皇帝を名乗るまでになる。
新しい政府を作ってから、ナポレオンはすぐに、「役目は終わった」と宣言したとされる。
実際にフランス革命と呼ばれる期間はその頃くらいまでとされている。
しかし革命は終わっても、独裁の時代はまだ続いていくのだった。
十進法を重要視したフランス革命歴
一般的には1789年から始まった革命期のフランスでは、現在まで(日本も含む)多くの国で利用される『グレゴリオ暦(Gregorian calendar)」を廃止し、(いろいろ問題があるとされ、長続きはしなかったが)独自の暦法を採用していた。『フランス革命暦(Calendrier révolutionnaire français)』、あるいは『共和暦(Calendrier républicain)』と呼ばれるその暦は、グレゴリオ暦の1792年9月22日を元年元日(紀元)としている。
フランス革命暦は、グレゴリオ暦と同じく、基本1年は365日で、特定の閏年が366日、そして1年は12ヶ月となる。ただし詩人のファーブル・デグランティーヌ(Philippe François Nazaire Fabre d’Églantine。1750~1794)によって文学的な美しい名前が与えられた各月はすべて30日で、そのためにあまる5日(閏年は6日)が、年の終わりの休日とされた。各月は10日ずつ、3つの『デカード(décade。週。旬)』に分けられる。 そしてこの暦の もっと重要な特徴として もっと細かく分けられる時間の設定変更がある。つまりは、1週を10日にするだけでは満足せず、1日を10時間、1時間を100分、1分を100秒と決めたのである。十進法を非常に重要視していたことがよくわかる。
以下は各月の名称。 3ヶ月ごとに季節が設定されてるが、秋は-aire、冬は-ôse、春は-al、夏は-idor、とそれぞれ名前の後半部が共通する(韻を踏んでいる)
秋
ヴァンデミエール(Vendémiaire。葡萄月)
ブリュメール(Brumaire。霧月)
フリメール(Frimaire。霜月)
冬
ニヴォーズ(Nivôse。雪月)
プリュヴィオーズ(Pluviôse。雨月)
ヴァントーズ(Ventôse。風月)
春
ジェルミナール(Germinal。芽月)
フロレアール(Floréal。花月)
プレリアール(Prairial。牧月)
夏
メスィドール(Messidor。収穫月)
テルミドール(Thermidor。熱月)
フリュクティドール(Fructidor。実月)