「オランダの歴史」独立はどこからか?簡単でなかった宗教の自由

オランダの歴史

ネーデルランデン(低地諸州)

ハプスブルク家の支配

 16世紀中頃。
後のベルギー、ルクセンブルク、そしてオランダは、そのほぼ全域が、『ネーデルランデン(低地諸州)』という呼び名でまとめられ、ハプスブルク家の支配下にあった。
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 ネーデルランデン統一を成し遂げたのは、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝であるカール五世(1500~1558)。
ただ統一といっても、ネーデルランデンは17ほどの州(小国)の集合で、カール五世は、その全ての州それぞれの君主であるという状況であった。

 このような、元々個別であったいくつかの地域の中央集権化は、たいてい幅広い領土を支配したい(あるいは税を徴収したい)君主の欲求。
それに、様々な地域を渡り歩く商人たちなどの、法などを統一してほしいという思惑が合わさった時に発生しやすい。
ネーデルランデンの場合は、そのような典型的パターンだったと考えられている。

執政と3つの評議会

 カール五世が統治していたのはネーデルランデンだけではない。
そこで自身がこの国に不在の時には、自身と同等の権限を持たせた執政しっせいを代行として置いたという。
この職についたのは、たいてい王族の女性であったようである。
また、そのような執政官の補佐として、政府内に、3つの評議会、『国務評議会』、『枢密すうみつ評議会』、『財務評議会』が置かれていた。
特に上級貴族が多く所属していた国務評議会の政治への影響力は強かったとされる。

 また、ネーデルランデンのそれぞれの州ごとにも、『州総督(stadhouder)』なる統治役がいて、彼らは州軍の最高司令官でもあった。
州総督には普通、国務評議会所属の上級貴族がつき、複数の州の総督を兼業する者もいたという。

 州総督は統治する州の『州議会』を召集する権利も持ち、この州議会は、聖職者、貴族、都市代表の者など、その州における高身分の者たちばかりの議会であった。
州議会内での政治的力関係は、その州によって異なっており、三身分全てがそろっていない州もあったようである。

プロテスタント思想の広がり

 16世紀という時代は、ちょうどプロテスタント思想が産まれた時代。
ルターなどが、権力社会のようなカトリックを批判し、キリスト教内部に大きな亀裂が生じた時代である。
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 ネーデルランデンが、後に南北、つまり後のオランダとベルギーに別れた最大の原因は、宗教的な対立であったとされる。
ただし、元々南北で宗教的な対立があったわけではなく、単に同じような思想を持った者たちが、それぞれの地域に集まったという事情だったようである。

フェリーぺ2世とオランイェ公ウィレム

 1555年の10月頃。
健康を崩し、歩く事もままならなかったカール5世は、ネーデルランデンの統治権を、息子のフェリーぺ2世へと託した。
フェリーぺ2世は1556年には、スペインの王座も譲り受け、ネーデルランデンはスペインの領地となる。
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 カール5世は元々ドイツ系であった貴族の、オランイェ公ウィレム(1533~1584)がお気に入りであったが、彼はその受けた寵愛を忘れず、カール5世の息子であるフェリーぺ2世もよく支援したという。

 しかし、1559年にカトー・カンブレジ条約(イタリアを巡って争っていたフランスのヴァロワ朝と、ハプスブルク家の間で結ばれた講和条約)が成立した後。
ネーデルランデンからスペイン軍を撤退させようとしないフェリーぺ2世に対し、ネーデルランデン議会の者達と共に、オランイェ公も抗議をしたという。

 実はこの頃。
オランイェ公は、フランスのパリで、条約の為の親睦会的な狩猟を行った時、偶然にもフランス国王アンリ2世と二人だけで話す機会を得たとされる。
そしてその時、王から聞いて得た情報として、フェリーぺ2世の、ネーデルランデンに対する過剰な異端弾圧があった。
それが逆に信仰深いオランイェ公に、フェリーぺ2世統治に対する危機感を芽生えさせる事になったのだった。
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新教区の新たな権力者

 その後、国王フェリーぺ2世は、ネーデルランデンに新たな教区を置き、自らが選んだ司教に大きな権限を与えたが、これが貴族達の不満を大いに買うことになる。

 そして1562年頃から本格的に表面化した上級貴族達と、権力を増したフェリーぺ2世の司教達との政治的闘争において、上級貴族達の最前線にいたのがオランイェ公であった。
そして1564年。
結局、フェリーぺが折れて、新教区の最高権力者であったグランヴェルは、実質的に立場を追われた。

 さらに異端への弾圧問題についても、細かな思想の違いによるキリスト教徒同士の争いなど時代遅れとするオランイェ公らは、フェリーぺに対し強く反論した。

オスマン・トルコ戦争。セゴビア書簡

 この頃はまた、スペイン軍とオスマン・トルコ軍が戦争していた時期であり、フェリーぺ2世は、1965年9月頃に、スペイン軍が大きな勝利を収めるまで、そちらの尽力に忙殺されていた事も、オランイェ公達に優位に働いていた。
しかしその1965年のスペイン軍の勝利によって、フェリーぺ2世は、ネーデルランデンに対しても、再び強気な政策を行うようになる。

 そうして彼は、異端弾圧に関して、断固として反対意見を拒否したという。
彼は、1565年10月に、スペインはセゴビアから、ネーデルランデン執政である、異母姉のマルハレータに、その旨を書いた手紙を送っている。
その手紙は、『セゴビア書簡』と呼ばれ、ネーデルランデンに大きな波紋を巻き起こす事になった。

マルハレータと乞食党

 セゴビア書簡は、上級貴族たちの分裂を招いた。
オランイェ公を初めとして、フェリーぺの強硬策には遵えないとして、州総督を辞退する者たちもいた。

 また、下級貴族たちの間でも、セゴビア書簡は、『盟約(コンブロミ)』と言われる、請願せいがんをメインとした活動も本格化した。

 後にベルギーの首都となるブリュッセルの中央政府に、数百人の貴族達が届けた請願書に綴られた主な希望はふたつ。
「宗教問題を話し合う場の開催」。
それに「異端取り締まりの中止」である。

 これまで経験したことのなかった、大規模な貴族達の行動に、怯えを見せたマルハレータに、財務評議会議長のベレルモンは、囁いたという。
「殿下、別にそれほど恐れる事でもないですよ。ただの物乞い共です」

 そしてそれを知ったのだろう。
数日後の宴会で、盟約に属する貴族達は、自分たちの派閥名を、『乞食党(ヘーゼン)』に決定したという。

カトリックへの破壊活動

 結局、1566年4月に、マルハレータは、異端勅令に関して、その緩和を約束。
だが、それが予想外の事態を招いた。

 どういう訳だか、異端として弾圧されていたカルヴァン派の暴挙が目立つようになってきたのだ。
彼らの一部は、カトリックの偶像崇拝を忌まわしいとして、聖像などの破壊を始めたのである。

 事態の収集にオランイェ達が追われたが、この隙をついて、マルハレータは反オランイェ派の上級貴族達を味方につけ、政治戦で優位となった。
中央派と呼ばれるオランイェらの間でも分裂が生じ、オランイェは1567年4月に、ネーデルランデンを去った。
この頃には、過激な破壊活動も、スペインからの軍資金も得て、さらに勢力を増したマルハレータの政府により、沈静化された。

アルバ公。血の評議会

 そして1567年8月。
結局マルハレータの約束も、なかったかのように、フェリーぺ2世はスペインより、剛直公の異名を持つアルバ公率いる懲罰軍をネーデルランデンに送り込んだ。
そして、自ら執政職を辞したマルハレータに代わり、アルバ公が新たな執政となった。

 さらに1567年9月。
アルバ公は、前年の暴動の責任者たちを罰する為、『騒乱裁判評議会』なるものを設立。
1000人以上を捕らえ処刑したとされるこの評議会は、後に『血の評議会』と呼ばれるようになる。

 裁判欠席により、財産を没収された者は9000人ほど。
その中にはオランイェ公もいたという。

独立戦争の始まり

 オランイェ公は、ネーデルランデンに所有する全ての財産。
それに怪しまれぬよう、ネーデルランデンの大学にまだいた息子フィリップス・ウィレムがスペインに連れ去られた事を、故郷ドイツの地で知った。

 そして彼はついに、同じく亡命した同士たちと共に挙兵した。
結果は敗走ばかり。
しかしこのオランイェ公の挙兵が、1568年から1648年までに及ぶ、『80年戦争』。
あるいはオランダ独立戦争の始まりであった。
 

オランダになってから

独立戦争途中で独立

 戦争は長引き、泥沼化しつつもあったが、反乱軍が外交にも力を入れていたのが功を結び、1596年には、ネーデルランデン北部が、フランス、イングランドと三国同盟を結ぶ事に成功する。
この時点で、少なくともネーデルランデン北部は、既に独立した国として認められていたわけである。

 さらに1609年には、ネーデルランデン北部とスペインの間にも十二年の休戦条約が結ばれる。
これなども、スペインも自分達が戦っているのが国家だと、認めていたゆえの条約であろうとされる。

 この1609年時点で、ネーデルランデンの北部地域。
ヘルデルラント、ホラント、ゼーラント、ユトレヒト、フリスラント、オーフェルエイセル、グローニンゲンの七州は、連邦国家として、実質的に独立していたのである。
そしてこの内、経済的、軍事的に最も有力であったホラントが、日本語での国名『オランダ』の語源となった。

 つまりオランダは、独立戦争の途中で、いつの間にか独立していた国なのだ。
また、北部の共和国体制自体は1588年頃に成立したようである。

オランダの黄金時代

 17世紀は、オランダの『黄金時代』と言われる。
それは、オランダがこの世紀に、大きく経済を成長させた事を称えたものである。

 この時代、実はヨーロッパのあちこちで、王権と身分制議会の主導権争いが起こっていたという。
独立国誕生にまで至ったネーデルランデンの反乱は、そのひとつと見られる。
そしてその結果は、数少ない議会側が勝利した例であった。
独立したオランダで権力を握ったのは、各州議会だったのである。
そうして議会主権国家となったオランダは、他の多くの絶対王政国とは異なり、絶対的権力に縛られる事なく、自由な経済活動が広がったのだ。
それがよい方向を向いていたわけである。

 そしてこの勝利は、武力に頼るのは最後の最後にし、粘り強い抗議と、仲間を集めるのに尽力した、偉大な政治家オランイェ公のものであったとする見方もある。
結局彼はフェリーぺに勝ったわけだ。

イングランド、フランスとの戦い

 独立後も続いたスペインとの戦争は1648年に幕を閉じたが、すぐあとにオランダに待っていたのは、イングランドとの戦争であった。
主にオランダの経済成長が不愉快だったイングランドの商人達が火種となったようである。
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 商業を巡るそのイングランドとの戦争は、1652年から1654年にかけての第一次。
1665年から1667年にかけての第二次の、二度にわたって起きたという。

 結果は二度ともオランダの敗北であったとも言われるが、第二次に関しては、実際は痛み分けだったようである。
オランダはイングランドの南米の領土であるスリナムを奪ったが、オランダは逆に北米のニウ・アムステルダムを奪われてしまったのだという。

 このイングランドにとられたニウ・アムステルダムは、後のニューヨークである。

 1672年には、イングランド、ケルン、ミュンスター、そしてフランスの同盟が、またもオランダに宣戦布告。
イングランドは財政難などの理由で、すぐに戦線離脱し、ケルン、ミュンスターも、わりとすぐオランダと講和。

 苦戦させられたのがフランスとの戦いであった。
しかし外交を駆使し、最終的にはイングランドまでも政略結婚で味方につけたオランダは、1678年に、フランスとも和解。

 イングランドとはまた、アメリカ独立戦争時にも、敵対している。
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東インド会社。西インド会社

 大航海時代の波に乗り、オランダも遠くアジアやアメリカに船を出発させだしたのは、ちょうどフランス、イングランドと三国同盟を結んだ時期ぐらいであったという。

 そして貿易航海が成功する度、だんだんと事業も大きくなり、1602年、ホラント州の5つの貿易会社とゼーラント州の会社の1つが合併。
史上最初の株式会社とも言われる、『連合東インド会社』、あるいは『東インド会社』はこうして誕生した。

 それに関わる人々が活動資金を出し合う事で事業を行うという、東インド会社のような企業は、まさしく反絶対王政ならではの成果のひとつであった。
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 また十二年休戦条約が終わり、スペインとの戦争が再開した1621年には、アジアをメインに貿易をする東に対して、アメリカ大陸などの方の貿易をメインとする『西インド会社』が誕生した。

連合王国成立。商人国王。運河国王

 
 1814年。
ナポレオンのフランスへの圧力を強めたいイギリスの助力もあり、オランダは南ネーデルランデン、つまり後のベルギーを取り込み、『ネーデルランデン連合王国』が成立。
ルクセンブルクも、当時のオランダの君主ウィレム1世(1772~1843)が大公として治める事となったので、これはある意味、ハプスブルク家時代以来の、ネーデルランデン再統一であった。

 1815年9月に、ブリュッセルにて、連合王国の新しい憲法の厳守を近い、正式に連合王国の国王となったウィレム一世。
彼はとにかく、黄金時代に比べるとずいぶん衰退していた商業の再活性化に尽力し、後には『商人国王』と言われるようになった。
彼はまた、運河の開拓も積極的に行い、『運河国王』とも言われた。

7月革命の影響。起爆剤となったオペラ

 しかし、カトリックが広まっていたオランダとの合併は、南部ネーデルランデンの住人達からすれば不満だった。
宗教に関してはわりと自由主義だった南部ネーデルランデンの人たちは、オランダの人たちとは馴染めず、国王がオランダ側を贔屓していた政治も、民衆の怒りを誘った。

 さらに、1830年のフランスで起きた民衆革命(7月革命)が、南部ネーデルランデン人たちにも、権力に立ち向かう勇気を与えた。
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 そして1825年。8月。
ブリュッセルの劇場で公演された、『ポルティチのもの言わぬ娘』というオペラが、最終的な起爆剤となった。
十七世紀のスペインに対するナポリ人の反乱を描いたこのオペラで、繰り返し流れるアリア『聖なる祖国愛』が、聴衆の決心を後押しした。

 オペラの結末よりも前に、多くの聴衆達は、劇場を飛び出し、民兵と化して、それが革命の始まりとなった。

ベルギーの独立

 南ネーデルランデンには多言語が浸透しており、革命を始めたのはフランス語を話す者たちであったが、しかしオランダ側の、ベルギーを完全に悪とした軍事対応が、オランダ語を話す南部の住人達にまで、火をつけた。

 そして結局オランダは、革命を鎮圧出来ず、1830年11月頃に、ベルギーは独立国として、他国からも容認された。

第二次世界対戦。ヒトラーのナチス。アンネの日記

 第二次世界対戦(1939~1945)の時代。
ヒトラーのナチス・ドイツが支配した国々の中で、オランダは特に多くのユダヤ人が虐殺された国であったようである。

 各国にいた、あるいは逃げ込んだユダヤ人たちが生き残る道のひとつは、信頼できる誰かに匿ってもらう事。
オランダにてオットー・フランクはその道を選んだ。

 オランダ人の多くは、ナチスのユダヤ人への暴挙に、最初はあまり関わろうとしなかった。
しかし、戦況が連合国側優位となっていく(つまりドイツが追い詰められていく)につれ、オランダ人への風当たりも強く、なっていき、抵抗運動も行われるようになった。

 それらの抵抗運動について、オットー・フランクの娘アンネ・フランクは、有名な日記に、「ささやかないいニュース」と書いた。

 ナチス・ドイツのオランダ支配は5年ほどだったという。
第二次世界対戦は世界中で多くの悲劇となった。
この戦争によって、命を奪われたオランダ人は30万人ほどとされている。

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