「スペインの成立」イスラム王国の支配とキリスト教の抵抗の歴史

スペインの山

イベリア半島。ヒスパニア、スペイン、エスパーニャ

 イベリア半島がローマの支配下に入ったのは、紀元前3世紀頃の事だったとされる。
ローマ人たちは、「イスパン」と呼ばれていたその地を、『ヒスパニア』と呼んだ。
 イスパンが、英語のスペイン、ヒスパニアが、スペイン語のエスパーニャ、あるいはイスパニア(スペイン)の語源なようである。
 また、ローマ人達が使っていたラテン語と、原住民の言語が混ざりあって、現在のスペイン語の基礎になったとされている。

 ローマは、 ヒスパニアの地にも、様々な道路や橋や水道、劇場といった開発をした。

 しかし5世紀後半。
西ローマは滅亡し、新たに統治権をめぐる戦いが起きた。
 最終的に勝利して権力を握ったのが、ガリシア地方に定着していた西ゴート族だった。
彼らは、首都をトレドに設定し、西ゴート王国を築いた。
だが、貴族達の争いによって、国はだんだんと疲弊し、イスラムがやってきた8世紀頃には、すでに末期状態だったという説もある。

イスラムの征服と支配

 8世紀頃。
中東の方で起こったイスラム帝国は、その勢力を瞬く間に拡大し、ヨーロッパ南西のイベリア半島に迫っていた。
イスラム「イスラム教」アッラーの最後の教え、最後の約束  そのイベリア半島に遠征軍を派遣したのは、北アフリカ総督のムーサ。

 西暦711年頃。
遠征軍が上陸した山麓さんろくは、指揮官だったターリック・ブン・ジアードの名をとって、「ターリックの岩」と呼ばれるようになった。
そしてその名が、後に訛って、「ジブラルタル」という地名になったとされている。

 イベリア半島の西ゴート王国(フランス南部からイベリア半島を支配していたゲルマン系の国)は、イスラムへの抵抗を続けていたが、結局それは長く続かなかった。

西ゴート王国の分裂

 イベリア半島は驚くべきほどの速さ(数年)で、完全侵略されたと考えられている。
当時の戦力差を考えれば、侵略されるのは、ほとんど自然な成り行きだったようだが、一つの原因として、アフリカ沿岸の西ゴート王国領セウタの裏切りがあったとも言われる。

 教育のために、ゴート王の下に送ったとか、旅行させていたのを美しさのあまり見つけられてしまったとか、その詳しい成り行きに関しては諸説ある。
ただ、セウタ総督フリアン伯の娘フロリンダを、父が誰かを知りながら、ゴート国王ロドリーゴは、妾にしてしまった。
 これにフリアンは激怒し、イスラム側へ寝返ったとされている。

 ただし、西ゴート王国は、もうほとんど内部崩壊寸前だったという話もあるので、 美しい娘がどうたらという話は、適当な作り話とされる事も多いという。
 貧乏で悲惨な暮らしに耐えられなかった多くの民(特に迫害されていたユダヤ人)が、命がけで海峡を渡ってきて、イスラムに逃れようとした。
もちろん当時の庶民が、船など使える訳もなく、素人が頑張って作ったイカダで、なんとかしようとした。
そしておそらくはたいてい失敗した。
 フリアンは、そんな状況を見かねたのだという説もある。

アストゥリアスのキリスト教徒。アル・アンダルス

 イベリア半島は次々に侵略された。
イスラム軍の勢いに、和睦を申し出る貴族も多かったし、彼らを救いの主と見る庶民達も多かったようである。

 かなり最後まで抵抗していたのが、アストゥリアスの山岳地帯に立てこもっていた豪傑ペラヨ率いるキリスト教徒達。
しかし彼らの敗北も時間の問題だった、はずだった。
十字架「キリスト教」聖書に加えられた新たな福音、新たな約束  理由は不明なようだが、突如、侵略軍を率いていたムーサとターリックに、カリフ、ワーリド一世からの帰還命令が下った。

 こうして、アストゥリアスでは一部のキリスト教徒が支配を免れ、イスラムへの敵意を残す事になったが、イベリア半島自体は、ほぼ支配されてしまった。
イスラムスペインと呼ばれる時代が始まった訳である。

 イスラムの支配は、かなり寛容的なものだったとされている。
彼らはイスラム教の理念にのっとり、あまり階級というものを重視せず、貴族と庶民との間の明らかな差別などを、次々と撤廃てっぱいした。
 またイスラム教への改宗を、キリスト教、ユダヤ教の人達に対し、強要する事もなく、信仰の自由をうたっていた。
ただし古くからの偶像崇拝を続ける者に関しては、イスラム教へ改宗させようとしたという。

 イスラムは、征服した、後の時代のスペインを「アル・アンダルス」と呼んだ。

国土回復戦争。レコンキスタ

 抵抗を続けたキリスト教徒達は、何世紀もかけて、スペインの地を取り戻した。
その戦いは キリスト教側からは「国土回復戦争」とか、「レコンキスタ(再征服)」と呼ばれた。

 国土回復戦争の大きな原動力となったのは、イスラム軍相手に最後まで引くことなかったペラヨの、ほとんど神話的になっていた戦いの話であったとされる。
イスラムにとっては、彼の勢力を潰さなかったのは、大きな失敗と言えた。

後ウマイヤ王朝

 イベリア半島は、756年くらいから、後ウマイヤ王朝となる。
これは、イスラム史上最初の世襲制王朝とされるウマイヤ朝の再興であった。
 しかし、その後ウマイヤ朝も、いつまでも一枚岩ではいられず、1031年には、ついに崩壊。
その後は、コルドバを中心に広がってた各都市が、それぞれ王国として独立宣言をする事になった。

アルフォンソ6世。インノケンティウス三世

 イスラム国家の分裂は、レコンキスタを目指す キリスト教徒たちの非常に都合がよい展開だった。
 分裂により 怒った各報告は当然のことながら統一されていた頃よりも弱体化し キリスト教徒はその一つ一つを順に選択していけばよかった

 11世紀には、キリスト教国領土を広げていた、アルフォンソ6世が、レオン、カスティーリャ、ガリシアの君主となり、1085年には
、かつての偉大な大都市トレドまで奪還した。

 しかし、自分達では対抗する力を有していなかった、イスラムの各国家も、アフリカのイスラムに援助を求め、激しい戦いは続いた。
特に、アフリカの地中海沿岸を中心に興っていた、ベルベル人のムラービト朝が、キリスト教軍の、厄介な敵だったとされる。

 12世紀後半には、ムラービト朝に代わり、ムラッヒド朝が、スペインに手を伸ばす。
しかし結局、教皇インノケンティウス三世の要請に応じたキリスト教軍が、イタリア、ドイツから、ピレネー山脈を越えてなだれ込み、カスティーリャ、アラゴン、レオンと協力して、イスラム軍を打ち負かす。

 さらに勢いを増したキリスト教軍は、1236年にはコルドバ、1238年にはバレンシア、1248年にはセビーリャを奪還した。

コロンブスの航海と発見。スペイン帝国の時代へ

 イベリア半島に最後まで残ったイスラム国家のグラナダも、15世紀には、さすがに追い詰められていた。
 そして決定的なとどめとなったのが、カスティーリャ王国の王女イサベルと、アラゴン連合王国の王子フェルナンドとの結婚であった。
勢力を強めていた二つの国が合併し、イベリア半島でも随一の強国となる。
抵抗を続けるグラナダにとって、それはかなり致命的な出来事であった。

 グラナダが、ついに降伏したのは1492年。
それはスペイン王に雇われたコロンブスが、航海に出た年でもあった。
 彼が発見したアメリカ大陸にて、16世紀、スペインは大国アステカ、インカを連続して征服。
アステカ「アステカ帝国、アステカ文明」首都、生贄、建国神話 大規模なスペイン帝国を築いていったのだった。

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