「オックスフォード英語辞典の小歴史」執念で悪夢と戦った狂人博士

OED

ジェームズ・マレー。知は力なり

 ジェームズ・オーガスタス・ヘンリー・マレー(1837〜1915)は、1837年に、 スコットランドのホーイックという小さな街で生まれた。

 マレーは 貧しい家に生まれ高等教育を受けれなかったとされているが、そんなことはあまり関係なかった。
彼はある時、学校のノートの余白に「知は力なり」と書いた。
この言葉は彼の信念だったのかもしれない。

 マレーは15歳の時には、ラテン語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、ギリシア語の実用的な知識を身につけていた。
 地球儀から地理学を学んだ。
読めるだけの教科書から歴史の知識も身につけた。
周りの、観察できるあらゆる自然現象を理解しようとした。

 そんな彼であるから、教師の職を得て、それから言語学者になり、ロンドン言語学協会なる組織に加わったのは、当たり前のような道であった。

ウィリアム・マイナー。戦争に精神を壊された軍医

 アメリカ出身のウィリアム・チェスター・マイナー(1834〜1920)は、エリートだった。
マレーとは違い、裕福な家庭に生まれ、いい大学で学び、そして、そうだと誰もがわかるような豊富な知識と、立派な人格を得た。

 しかし、1861〜1865年にかけて繰り広げられた南北戦争にて、軍医として、戦争の地獄を見たマイナーは、繊細な者が、誰でも戦争でそうなってしまうように、発狂した。

 精神を病んでしまったマイナーが、ランベスという街で、貧乏だけど、奥さんと子供の笑顔に支えられながら生きていた、ジョージという人の命を奪ったのは37歳の時だった。

 悲しい事件だった。
イギリスでは珍しかった銃による事件。
 マイナーがアメリカ人だと言うことが判明すると、イギリス中の新聞が、「やはりアメリカ人は命を軽視している」と、記事に書いた。

 裁判では、マイナーを以前から知っていた、ロンドン警視庁のウィリアムソン警視が、実は彼が危険な傾向のある人物である事を知っていたにも関わらず、ランベスにその情報をもたらしていなかったことを認めた。

 下宿の女主人や、マイナーの義弟は、「彼が、かなり被害妄想にとらわれ気味で、いつも誰かが自分の命を狙っていると思い込んでいたようだった」と証言した。

 マイナー自身は、逮捕された日からずっと、「間違えてしまった、とんでもないことをしてしまった」と繰り返すばかりであった。

 マイナーは結局、精神異常のため、法的に無罪とされた。
 しかしその精神病のレベルを考えると、野放しにするのは危険すぎる、ということで、彼は終身、バークシャーのクローソン村の施設に監禁される事になった。

オックスフォード英語辞典。OED

 マイナーが施設入りしたのは1872年。
『オックスフォード英語辞典』通称『OED』の計画が動き出したのは、それよりさらに20〜30年くらい前からとされている。

 OEDは、英語辞典として最大級規模なだけでなく、単一の言語のみを扱った言葉の本として、最も優れたひとつであるとされている。

英語という言葉。サミュエル・ジョンソンの辞典

 17世紀から18世紀ぐらいにかけて、イギリスは言語学において遅れている、というのが多くの文学者たちの共通の認識であったらしい。
英語自体は、かなり高度な域に達していた言語と言えた。
そしてそれは、アメリカやインドなどの植民地にも広まり、世界共通語となりえるくらいの言語であった。
 だが、英語という言葉をしっかりと定義する、複雑に進化した言語にふさわしい辞書が全然なかったのである。

 サミュエル・ジョンソン(1709〜1784)は大きな役割を果たしたとされる。
彼は、これまでにないほど優れた英語辞典で一儲けしようとした人立場の援助を受けて、まさしくそれまでにないほど優れた英語辞典を編纂へんさんする仕事を始めた。

 ジョンソン自身がどのように考えていたのかは諸説あるのだが、彼は英語の各単語を、固定化しようとは思わなかった。
ようするに、これはこういう意味の言葉である、とはっきりと断言する方法をとらなかったのである。
そんなことは不可能であることを知っていた。
なぜなら言葉の使い方も、言葉の意味も、時代と共に変わるものだからだ。
 彼はその言語で書かれた、様々な文献を読んで、どのように使われているかの具体例をあげていく方法をとった。
そしてその方法が一世紀後の、OEDにも引き継がれた訳である。

単語の一覧表を作る三つの方法

 単語の一覧表を作る主な方法としては、以下の三つがあるとされる。
 (1)耳で言葉を聞きそれを記録していく方法。
 (2)既存の他の辞書から単語説明の記述を転用する方法。
 (3)文献を読み、その後、読んだ全ての単語を記録して、分類して、一覧表を作っていく方法。

 (1)の方法の精度の悪さは、試すまでもなく明らかである。
ジョンソンはそう考えていた。
 (2)に関しては、少なくとも参考として、辞書製作の出発点としては必ず必要な過程である。
そう考えると、新しい辞書は全て、従来の辞書の改良版と言える。
 そして、ジョンソンが、重要視したのが(3)。
それは確かに有用であろうが、かなり手間のかかる作業である。
人手も気合もいる。

 雇ったバイト達とともに、あらゆる文学の表現を拾い、そこでの使われ方を定期付けていく作業が始まった。
それは非常に大変な作業であり、集金屋達に対し、閉じたドア越しに、「この小さな砦は最後まで守り抜くからな」と誇らしげに宣言した逸話などもある。

史上最大の英語辞典の計画

 OED。
その時点での、人類が書くことができるであろう最大級の辞典を、創り出す、という計画が正式に提案されたのは、ジョンソンの英語辞典の第一版が出版されて、ちょうど1世紀後の1857年とされている。
ただし、辞書の構想自体は1940年代にはあったとされる。

 ジョンソンは、基本的に文学表現、それもシェイクスピア以降ぐらいのものに的を絞り、その領域で使われる言葉の辞典を作ったのだった。
OEDは、それの拡張版だった。
一定の領域の言葉でなく、それが使われている、古今東西、あらゆる英語文献から、可能な限りの用例を引くことを目指した、究極の辞典。

辞典とは何か。リチャード・トレンチの講演

 「辞典とは言語の目録だ。決して正しい用法、美しい用法を教えるための手引き書などではない。辞典編纂者には、良いか悪いかという基準で単語を選んで収録するような権利はない。ただ、これは言える。ある言葉を調べるために辞書を引いた時、そこにあらゆる単語が載ってないなら、その書物に辞書を名乗る資格はない」
 1857年に、大司教のリチャード・シェネヴィクス・トレンチ(1807〜1886)は、そのように高らかに述べた。
そしてロンドン図書館で行われたその講演が、始まりであったとされる。

 壮大な計画だった。
多くの専門家やアマチュアの人達の強力がいる。
 まず準備に非常に時間がかかった。
実際に辞書の編纂が開始されたのは、1870年代の末くらいからとされている。

編纂主幹マレー。篤志協力者マイナー

 マレーは、三代目の編纂主幹へんさんしゅかんだった。
一代目は早くに亡くなり、二代目はすぐに自分には荷が重いと考え、編纂開始から10年も経たない内に、彼は抜擢された。

 マレーは、新たに新聞記事などを通して、書籍を読み、そこにある単語の情報を提供してくれる、篤志とくしの協力者を募集した。
 その訴えが、精神病院の独房にいたマイナーに届いたのは、1880年代の初めの頃とされている。

 マイナーは退役軍人であり、現役時代は有能な軍医とされていた。
そこそこの地位にあったが、精神を病んでしまった退役軍人の多くがそうであるように、彼はアメリカ合衆国から、生涯の給金を保証されていた。
 そして彼は自分の独房を本で埋めた。
彼は少なくとも、生まれつきの狂人だった訳ではない。
むしろ知的なエリートだったのだから、退屈を紛らわす手段としてはかなり、ありえそうなことだ。

 そして彼は、マレーらの辞書の計画を知った時、こんなところにいても何かできるのではないか、あるいは、罪の償いになるかもしれない、と考えたのではないだろうか。
実際に彼はすぐ、マレー博士に、協力の意を示す手紙を書いた。

未亡人とマイナー

 それはまるで運命づけられていた。
マイナーはある時、 自らのしたことを改めて考えて深く後悔し、思いきって、被害者の未亡人であるイライザに、謝罪の手紙を書いた。
 「自分のしたことをとてもとても悔やんでいます だからあなたに出来る限りの援助がしたい。あなたが寛大にもそうする事を許してくれるというのなら」

 イライザは、マイナーに会いにきさえした。
最初は、もちろん気まずかったが、しかし未亡人は、だんだんとこの哀れなアメリカ人に、関心と同情を寄せるようになっていった。

 イライザは、本についてはあまり知識がなかった。
文字も何とか読み書きができるという程度であったが、熱心に本を収集しているというマイナーの、「都市の本屋からの郵便が遅れがちで料金が高い」という不満は理解出来た。
 そこで彼女は、彼の求める本を買い集め、毎回の訪問時に持参しようと、提案したのだ。
 結局、イライザの関心は続かず、このような交流は2、3ヶ月ほどで終わったらしい。
しかし、イライザが持ってきていた本の中にこそ、マレーの篤志募集記事はあったそうである。

時間と情熱は精神病棟で作った

 マレーが募集したのは、何らかの本を読んで、そこにある興味深い単語を抜き出して、用例などを送ってくることだった。
マイナーは、自分の時間と情熱があるならば、もっと役に立てると考え、別の方法をとった。
 驚くべきことに彼は、いくらかの本を時間をかけて読み、興味深い様々な単語を抜き出し、すでに小辞典と呼べるようなものをまず作った上で、今、必要な単語は何なのかを、手紙で聞いたのである。
そしてそれらの単語は、たいてい小辞典の中にあった。

 マレー達は、ある単語を調べたいと思っても、膨大な単語カードから探すしかない。
しかし、あまり見つからないなら、マイナーに聞くという事が出来るようになった。

二人の出会いの伝説

 マレーは、マイナー自身のことを、実際に彼に会うまで知らなかったとされている。
しかしずっと会いたいと思っていた。
何者かは知らないが、非常に知性に溢れ、よき仕事をしてくれる、このマイナー博士に。
というのは、いくらか伝説のようである。

 手紙のやり取りを始めた時に、マレーがマイナーの素性を知らなかったのは確かなようだが、しかし初めて会った時には、もうすでに、マイナーが精神を病んでいることを知っていたそうである

 色々な意見があったようだが、結局、後にマイナーは仮釈放された。

 OEDがついに完成したのは、 1927年の事。
マレーもマイナーも、それを見る事は、叶わなかった。

 OEDは最初からあまりに無謀な計画であった。
多くの人の協力があり、その中でマレーもマイナーも、大きな役割を果たしたとされている。

 マイナーは確かに、恐ろしい罪をおかした狂人であった。
だが彼は、彼がいなければ、達成できなかったろうと言えるくらいにOEDという偉大な計画に貢献した。
 戦争というのは恐ろしく救いがない。
でもマイナーの話は、それにも勝るかもしれない、人類の知恵の強さを示唆している、と言えるかもしれない。

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