論語の時代、成立
孔子は、 紀元前6~5世紀くらいに生きていた、 中国の哲学者である。
一般的に彼の言行録とされる『論語』は、彼が生前に書いた書物というわけではない。
「周王朝」青銅器。漢字の広まり。春秋時代、戦国時代、後の記録
孔子は、紀元前479年頃に亡くなったとされている。
しかし彼の(儒教と呼ばれる)思想は、彼の弟子たちに引き継がれ、その弟子たちの間で、記録され、整理されていった。
そしてあらためて、その偉大な人物の思想の集大成として編纂されたのが、論語というわけである。
論語が成立したのは、おそらくは紀元前2世紀頃。
時代が漢に変わって間もない頃くらいとされる。
「漢王朝」前漢と後漢。歴史学の始まり、司馬遷が史記を書いた頃
君子とは何か
論語にはよく、「君子は~」 どのような言い方が出てくる。
君子とは、「とても教養ある人」、「優れた人格者」というような意味の言葉とされる。
論語においては、「楽しみを知る人」というような解釈をされることも多い。
また、君子に対し「つまらない奴」、「愚かな奴」というような意味の小人という言葉もある。
孔子の言葉
学ぶことの楽しさ。語り合える楽しさ
「学んでは適当な時期におさらい、それはとても嬉しいこと。友達が訪ねてきたら、それはとても楽しいこと。誰かがわかってくれない事は問題じゃない、自分が君子なら」
別になんでもいいから、何かを学んだ場合、おさらいしたらより深く理解できることは多い。
孔子はそれを嬉しいことだという。
友達が訪ねてきて楽しいというのも、誰かがわかってくれないことは問題じゃないというのも、結局全部、何かを知ることの楽しさを説いているとも言われる。
何かを知って、それを誰かと話し合うのは楽しいこと。
それに、誰かが理解してくれなくても、自分が理解から遠ざかるわけではない。
実用書のような言葉
「自分以下の奴を友にはするな。もし何か間違ったなら、ぐずぐずしてないでさっさと正せ」
老子に比べたら、論語は個人的にはあまり好きでない言葉も多い。
「老子の言葉。道の思想」現代語訳、名言、格言。千里の道も一歩から
というよりも、客観的に見て、哲学的、道徳的というよりもむしろ、実用的な感じの内容が、意外と多いように思う。
案外普通の人みたいな孔子
「贅沢なごちそうばかり求めず、安楽な家ばかり求めず、仕事によく勤め、言葉を選び、道義を知る人こそ、学を好むといえる」
孔子は、聖人君子というよりも、みんなから慕われたいというような願望を持っている、わりと普通の人だった、とか言われる。
論語の言葉から推測できる彼の人間像は、確かにそんな感じかもしれない。
論語が長い時間、根強い人気を誇っている理由は、もしかしたら尊敬でなく、共感にあるのかもしれない。
誰か任せでなく、自分次第の世界
「人が自分を知らないことを気にするな。人が知らないことを気にしろ」
短いが、よき教訓の言葉と思う。
自分のことが誰かに知られるよりも、自分が何かを知ることの方が、誰にでもできることであるし、おそらくはより重要なことである。
誰かに好かれたいと思うのは大いに結構だけど、誰かに好かれたいと思って好かれるとは限らない。
だけど、自分が何かを好きにはなれる。
何か難しい科学理論を覚えても、周りにはそれに興味ある人がいない。
人付き合いが苦手で、大学とかに行くこともできない。
それでもちゃんと、理解することはできる。
そういうことを説いているのだと思う
人間は特別な存在か
「心なしに満たされることは、犬や馬でもできる。尊敬がそこにないなら、いったいどこに区別があるか」
人間は特別な存在である、という考え方が垣間見れる。
とある海外の動物図鑑などに関する書評で、「欧米の人たちはキリスト教的な、知能ある人間が特別という考え方が根強くて、知能が低いとされる生物を下に見がち」とか書かれてるのを見たことある。
それは普通に間違いだと思う。
東洋人にも、普通に知能や人間を特別と考えてる人は絶対多い。
隠し事は難しいか
「しっかりと振る舞いを見て、経歴を知り、落ち着く場所を調べたなら、その人はその人を決して隠せない。その人がどのような人であっても決して隠せない」
真に絶対の隠し事は不可能と言いたいのか。
その気になれば、どんな秘密だったわけだと言いたいのか。
一つ言えることは、不確定性要素というものが導入された、20世紀以降の一般的な世界観においては、そういう考え方自体がちょっと古い。
「量子論」波動で揺らぐ現実。プランクからシュレーディンガーへ
真実は隠せないのではなく、知れない。
常に誰も全てを把握できない。
できないことは言うな
「まずは言おうとしてることを実行してから、そのことを言え」
できないことは言うな、ということなのであろうか。
もしかしたら孔子は、何かすることに決めた事があって、その事をしようと思っていると周りに言ったが、結局できなくて恥をかいた経験があるのかもしれない。
多趣味がよいのか
「君子は広くを親しみ、一部ばかり楽しむことはない。小人は一部ばかり親しむ」
ただ一つの熱狂的な趣味を持つ人とかへの批判とも言える。
他の言葉から、君子というのは、自分が進むべき道をしっかりと知っている人とも言えよう。
その進むべき道が一部ばかりを楽しむことだとするなら、孔子はどうしただろうか。
最も進むべき道が一部であることなど、そもそもがありえない、ということなのかもしれないが。
考えるだけでなく、学ぶだけでもなく
「何を学ぼうとも、それを考えなければはっきりしてこない。何か考えても、しっかり学ばなければ混乱しがちだ」
ようするに、適当に考えるだけじゃなく、まずしっかり学び、しっかり学ぶだけでなく、それを活かせということだろう。
知るということ
「知る、ということを教えてやろう。知ったことは知ったこと、知らないことは知らないこと、そう認めるのが、知るということだ」
この理屈で言えば、誰でも自分は知っているといえよう。
ただし、知らないことを知らないことと認めるのが、知っていることとは、どうも何か妙な感じがしないでもない。
というか、はっきり言って妙な感じがする
結局、君子も万能ではない
「天の神に対する罪に関しては、どこにも祈りようがない」
君子は万能ではない。
明らかにどうしようもできない事態があることを、孔子は述べている。
恐ろしき罪人は、決して許されないということを説いたのかもしれない。
音楽に対する評
「音楽はわかりやすいものだ。始まりは盛んで、解き放たれるとよく調和し、はっきりしてくる。それが続いて一節が終わる」
孔子の時代は、ピタゴラスが生きてた頃とそう変わらないことを考えると、音楽というものに対するこの評は、かなり興味深いかもしれない。
ピタゴラスは一般的には、音色というものを最初に研究した科学者である。
特に彼は、音と音の調和を、非常に重要視していた。
命より大切なこと
「朝に道を知ることができるなら、その晩に死んでもいい」
儚い願いかもしれない。
自分が本当に知りたいことを知れるなら、確かにその日に死んでもいいのかもしれない。
望みを得ることが生きることのすべてと言えなくもないからだ。
永遠に生きることを願うのは、永遠に満たされていないから。
もし満たされることができるなら、命など投げ出してよいだろう。
しかし実際に知りたいことを知って、そうして満たされることなどはおそらくありえない。
君子がどうたらと口で言うのは簡単だが
「君子は天下に逆らいもしないが、愛することもしない。ただひたすらに正義を行く」
それができるからこそ君子なのだろう。
世界が何を望んでようが、世界が何を求めてようが、どうでもいい。
真に正しい道にいればいい。
しかし 実際問題それはとても難しい。
当たり前のことばかり書かれている
「慎ましい人が失敗することはほぼない」
論語は当たり前のことばかり説いていると言われるが、まさにその代表例と思う。
慎ましい人、つまり、失敗するかもしれないような大それたことをしない人なら、失敗することが少ないのは当たり前すぎる。
果たして失敗することがいけないことなのか。
失敗するかもしれないことに挑戦することがいけないことなのか。
考えすぎはよくない
「二回考えたならそれでよい」
ようするに考えすぎはよくない、ということである。
ただし二回、としているのだから、何も考えないで決めるのもよくない、ということだろう。
限界を超えろ
「力なき者は途中で辞めざるを得ないが、お前は自分から見切りをつけた」
途中で辞めざるを得ない時とはどういうものなのだろうか。
自分の意志で辞めた瞬間なら、見切りをつけた、と言われそうなので、おそらくはもう本当にぶっ倒れるか、もしくは死ぬかぐらいのレベルまで頑張れ、ということなのか。
勝負はしょせん時の運
「人が生きていけるのはまっすぐだからで、歪みながら生きてるものは、まぐれで助かってるだけ」
この言葉は、個人的には最も興味深いと思う。
この世界に、究極の運を持つラッキーマンがいたら、歪みながらでも全然問題ないと思われる。
むしろ歪みながらまっすぐ生きる者よりも生きれるのではなかろうか。
運がいいのなら。
運がいいとはどういうことだろうか。
サイコロを何度振っても同じ目が出ると確信を持って言えるような人はいないだろう。
だが運が良ければ、そういうことも起こりうる。
可能性が低いだけのこと。
勝負は時の運とも言うが、その通りかもしれない。
究極に運のいい奴がいたらそいつが多分すべて勝つ
スタートラインは決められているか
「仮に、私が学び始めたのが五十歳からでも、私は正しい道を見つけられるだろう」
五十歳といえば、おそらく当時としては、相当な高齢として考えられるはずである。
ようするに、何かを始めるのに遅すぎることはない、と言いたいのだろう
美しいものと愛
「美人を愛するのと同じくらい、道徳を愛する人を見たことがない」
これまた興味深い。
また、やはり同じくらいの時代のギリシャでも、なぜ美しいものをわれわれが好きか、という議論はよく行われてたそうだ。
可愛い子はずるいのか?「我々はなぜ美しいものが好きか」
ここでひとつ、思いつくのが、やはり多くの人が美人を求める。
それは結構。
では、美人は何を求めるかということ。
やはり美人を求めるのだろうか。
この手の話にに関しては、個人的にはかなり懐疑的である。
つまり美しいものを好きと思う感情と、愛情というものが同じかどうかが、どうも疑わしいように思う。
ただし社会的には、おそらく大勢の人が、美しいのを好きと思うのが愛することと思ってくれてた方がいい。
美しい容姿というのは、昔の社会からずっと、経済を回す重要な ガジェットの一つになっているような気がする。
徳と仁
「徳のある人にはよい言葉があるだろうが、よき言葉を持つ人に徳があるとは限らぬ。仁のある人には勇気があるだろうが、勇敢な人に仁があるとは限らぬ」
徳というのは、理想的なよき人格とか性格。
仁というのは、あらゆるものへの思いやり、とされる。
特に仁は、儒教において、かなり重要視されている概念とされる。
弟子たちの言葉
論語は孔子の言行録と言われるが、彼だけでなく、彼の弟子の言葉とされるものも収録されている。
例えば以下がそうである。
基本が大事
「君子は根を重視する。根本が決まった時に、進むべき道は現れる」
物理学に関して何も知らないが、ひも理論に関して知りたいというような人に対し、「相対性理論と量子力学からまずを学んで来い」というようなものであろうか。
「超ひも理論、超弦理論」11次元宇宙の謎。実証実験はなぜ難しいか。
ネガティブよりもポジティブ
「貧乏であってもへつらわず、金持ちであっても威張らないというのはいかがか」
弟子のこの問いに対し、孔子は以下のように返す。
「貧乏であろうとも道義を楽しみ、金持ちであろうとも礼儀を好むと言うには及ばない」
ネガティブ思考よりも、ポジティブ思考の方がよいだろう。