社会に適応する術の研究
臨床心理学とは、『不登校(School refusal)』とか、『摂食障害(Eating disorder)』とか、『 心身症(psychosomatic disease)』といった人間の不適応的な行動。
それに悩みや迷いなどに関する心理学の一分野である。
単に原因だけでなく、治療法や、カウンセリングの技法などが重視され、実用性が高い分野でもある。
社会という世界に上手く適応する術を探る試みとも言えよう。
臨床心理学の基礎
葛藤の3パターン
人は時々迷う。
複数の欲求があって、どれを優先するべきか迷う。
そういう風な迷いを、心理学者は『葛藤(conflict)』と言う。
葛藤という事象を、ドイツのクルト・レヴィン(1890~1947)は、3つのパターンに分類した。
(1)『接近型(Approaching type)』。
好ましいいくつかの選択の内どれを選ぼうか悩むパターン。
例えば、楽しみにしてたゲームが2バージョンあるなら、どちらを買おうか悩むであろう。
このパターンは、解決は容易だが、いざ選択後に、「これで本当によかっただろうか?」と思ってしまう場合が多い。
(2)『回避型(Avoidance type)』。
いずれにしても気が進まない事を受け入れねばならないパターン。
例えば、仕事仲間との飲み会に行きたくないが、行かなければ、次の仕事の時に何か言われるかもしれない、とか。
ニンジンが嫌いだから食べたくないが、食べないとお婆ちゃんを悲しませてしまう、とか。
結局は選ばなければならないのだけど、ストレスがどうしても生じてしまったりする。
(3)『接近回避型(Approach avoidance type)』
いわゆる怖いもの見たさ、しかし見たら結局後悔してしまうとわかっているパターン。
気になっているホラー映画があるが、しかし見たらしばらく夜眠れなくなるのがわかってる。
しかし見たい。
というような気持ち。
どうにも踏ん切りがつかず、欲求不満になりやすい。
欲求不満状態
ずっと寝てたいとか、魔法を使いたいとか。
人には様々な欲求がある。
しかし、この世界は、とりあえずねがえば叶うというような、誰かの妄想ではない。
欲求は叶わない事が多い。
そういう時に、人は『欲求不満状態(Frustration status)』になる。
欲求不満状態というのは、いわゆるどうしようもない状態だが、どうしようもないと理解しながら、人はどうにかしようとしたがる傾向にある。
オーストリアの精神医であり、心理学者でもあるジークムント・フロイト(1856~1939年)は、人の、欲求不満状態への適応方法として、『防衛機制(defence mechanism)』というメカニズムを提唱した。
防衛機制
フロイトがいう防衛機制には以下のような種類がある。
(1)『抑圧(suppression)』
社会の常識や、法により禁止された欲求などを無意識下に押さえ込み、心理的安定を得ようとする。
悪いことしたいけど、それは悪い事だからやらないという心理。
(2)『同一化(identification)』
ある欲求を実現できない自分を、実現できてる誰かに重ねて、満足する。
かっこいい漫画の主人公などへの感情移入とか、憧れのスポーツ選手が活躍するのを我が身のように喜んだりする心理。
(3)『代償(Compensation)』
本命の願いが叶いそうにない場合に、もっと簡単な欲求を満たして満足する。
妥協して、目標にしてたよりレベルの低い大学を受験したりする心理。
(4)『補償(compensation)』
コンプレックス(劣等感)をどうにかする為に、何かたいていの人に負けないような自分の長所を伸ばしたり、認識したりする。
運動が全然出来ないから座学に必死になったり、容姿に自信がないからお喋りを頑張ったりする心理。
(5)『合理化(Rationalization)』
自分の駄目な部分を、社会的な理由などを使い、正当化。
浪費癖を棚に上げて、「世の中金じゃないから」とか言う心理。
(6)『投射(Projection)』
失敗の責任などを、他に押しつけて、ワタシは悪くない。
けっこうみんなあると思う。
「お母さんお父さんのせい」「環境のせい」「政治家のせい」「神様のせい」。
という風についつい思ってしまう心理。
(7)『逃避(escape)』
精神的な病気などになり、困難な状況から逃げる。
多分、『うつ病(melancholy)』とかがこれに当たる。
(8)『退行(Regression)』
実年齢から想定されるよりも未熟な行動をとる。
親に甘えたり、すねてワガママを言ったりする心理。
(9)『昇華(Sublimation)』
社会的、一般的に評価されるものに、置き換える。
ヒキコモリの経験などを小説にしたりする心理。
人はこれらを駆使して、欲求不満をなんとか無に帰そうとする。
発達課題
人間には年齢などにより区分される段階がある。
例えば産まれてから少年少女と呼ばれるようになる期間を『幼年期(infancy)』。
少年少女と呼ばれる期間を『少年期(boyhood)』。
大人となったが、若者にすぎない期間を『青年期(Adolescence)』。
しっかりと大人といえる期間を『壮年期(maturity)』。
そして、年老いてからを『老年期(Old Age)』というように言う区分である。
心理学において、『発達課題(developmental theme)』とは、ある段階までに、あるいはある期間の内に身につけておかないと、後々では苦労してしまうという課題である。
例えば人との付き合い方や、良心的な考え方といったものは、少年期までに身につけておいた方がよい、最大限に重要な発達課題である。
心理学と違うような気もするが、字の読み書きとか、単純な計算、その他一般常識というのは全部、ある意味で学生時代までの発達課題と言える。
しかし絶対に知っているべきなのは、脳の仕組みがどうたらとか、量子論的にはどうたらとか、そういう事はともかく、人はどれだけ年老いてしまっても、心があるという事である。
どう考えても心ひとつあれば、苦労したり、バカにされたりする事になっても、学ぶ事は出来る。
だから大事なのは、賢い人の客観的な意見より、自分の勇気である。
自我同一性
少年期、あるいは青年期には、必ず達成しておかないと致命的な発達課題として『自我同一性(ego-identity)』がある。
これは、「自分は自分である」という明確な意識である。
例えば人は少年期から青年期にかけて、生理的に関係なく、逆らう事が非常に難しい欲求がある事を知る。
好奇心、贅沢への盲信、ただ生きて死ぬだけなんて辛い。
そういう、欲求には逆らえないという人は多い。
しかしこれは絶対に違う。
そういう欲望をコントロール出来ないのは、自分の弱さのせいである。
生物の機構のせいにするのは、投射の防衛機制にすぎない。
実は自我は恐ろしいまでの何かかもしれない。
実際、修行僧のように、苦労してでも自らの様々な欲を極限まで抑えて暮らしたら。
たった1ヶ月でいい。
そうして質素な暮らしをおくった人は、凄まじい満足度を得ると言われる。
これはその気になれば誰にも出来る事だろうに、実現するのは非常に難しい事だ。
そういう人が得るのは勝利感なのかもしれない。
同時に意識は、まだ遺伝子や量子でない事を、深く思わせる。
ほんとに失われそうな愛
『ホスピタリズム(Hospitalism)』、あるいは『施設病(Facilities disease)』と呼ばれる障害がある。
これは大人の愛情をあまり受けられずに育った子供が、陥りやすいとされている。
昔は孤児施設などで育った子供が持ちやすいとされていた。
だから施設病なんて言うのである。
プロヴァンスとリプトンという人達が、施設育ちと、一般家庭の子供の発達を比較した1962年の報告は有名である。
プロヴァンスとリプトンによると、施設児は家庭児よりも物事に消極的で、様々な経験に乏しい。
さらに感情的な個性が弱く、表情のバリエーションも少ない。
そしてそれらの特徴が、そのまま勉強などにも悪影響を与えてしまっている傾向にあるのだという。
明らかに愛情を持った大人とのコミュニケーション不足である。
ただ現代社会では、一般家庭の子供でもホスピタリズムに陥るケースが普通にあるという。
何もかも便利に機械的に、そして匿名的になって、人は愛を失いかけてるのかもしれない。
母と子
代表的なホスピタリズム、あるいはその主な原因こそが『マターナル・デプリベーション(maternal deprivation)』である。
マターナル・デプリベーションとは、平たく言えば母の愛情不足。
マターナル・デプリベーションの子は暴力的になりやすいとも言われる。
母親の方が結局重要だという考えにもとれるかもだが、実は母性的な愛情こそが重要だと思われる。
単に女親とのコミュニケーションとかでなく、母性である。
本来の生物的環境として考えたら、この人間社会は凄まじく自由度が高い。
そこで、育児放棄する親。
子との付き合い方がわからない親。
とりあえず生きてればいいとばかりに、子の楽しみを電子機器に任せ、仕事や自らの楽しみに生きる親。
そして、格差社会なんてものが生んだ、そうしたくないのに、(子の為にも)子をほっとかなければならない親。
そういう環境の子供たちすら元気に育つ。
マターナル・デプリベーションは、現代社会ならではの問題であり、負の遺産とも言えるかもしれない。
臨床心理学的テクニック
そもそもカウンセリングとは何か
精神医の『心理療法(Psychotherapy)』とカウンセリングの違いは実はけっこう大きい。
心理療法は、まさしく療法。
精神病や、心の傷の治療である。
一方でカウンセリングは、少なくとも名目上は治療ではない。
どちらかというと教育に近い。
カウンセリングとは、何らかの悩みを抱える者を、悩みを克服、あるいは無視できるような存在に成長する手助けなのである。
カウンセラーの意識ももちろん重要だが、カウンセリングを受ける者は、単に助けてもらうという意識でなく、立ち直ろうというやる気が必須だと知っておこう。
あるいは覚悟しておくべきである。
カウンセラーは代わりに戦ってくれる救世主でなく、あくまでただのサポーター。
結局、戦うのは自分なのだ。
見えるものは同じ
最も基本的なカウンセリングのテクニックとして『共感的理解(Empathic understanding)』がある。
臨床心理学に精通したカウンセラーに助けを求める人を『クライエント(client)』と言うが、そのクライエントの意識的な世界を共有するテクニックである。
もちろん現実にそんな事が出来る訳ではない。
相手の心理状態を知り、あたかも自分もそうであるかのように振る舞い、クライエントの意識に隠れた真の悩みを見抜くのである。
完全なる一致より、カウンセラー側の、クライエントを理解しようという気持ちが最も重要だとも言われる。
二重に捕らえる技
日頃から「甘えるな」と言い聞かせられてる子供が、「もっと甘えてほしい」などと言われると、矛盾しあう言葉と態度の壁に悩む事になろう。
そういう状態を『二重拘束状態(Double bind state)』と言うのだが、これを利用した『治療的二重拘束(Therapeutic double bind)』という心理テクニックがある。
「私はもうダメだ」
という人に「私にそう言えるなら大丈夫ですよ。助けを求めてるって事だし」
ダメだという事を誰かにしってもらいたい。
そうでないと誰にも知られないからダメな自分もない。
けどそれを友人に伝えられるなら、人としては大丈夫。
そんな風に理屈で押しきるのがこのテクニック。
治療的なんて言うけど、効果的に治療に使うのは難しく、むしろビジネスや、恋愛の駆け引きの場で有効である。
フォーカシング
クライエントの気持ちを、上手く抵抗なく引き出すテクニックに『焦点付け(focusing)』がある。
あるひとつの問題などを論じるのに、次々と焦点を変える事で、クライエントの真の悩みなどを理解しやすくする。
また、クライエントの心理的負担をも軽くするのが理想。
例えば友人関係に悩んでるクライエントを、カウンセリングするとする。
カウンセラーは以下のように質問を続けながらも焦点を切り替えていく。
(1)「あなたの悩みとは友人の事でしたね?」(焦点=クライエント)
(2)「私は~と思いますが、それは違う?」(焦点=カウンセラー)
(3)「まあ世間は~とかだったりしますよね?」(焦点=世間)
(4)「もちろん、一緒にがんばってきましょう」(焦点=クライエントとカウンセラー両方)
(5)「そういえばお母さんはどんな風に言ってるんですか?」(焦点=お母さん)
(6)「学校の先生はどう?」(焦点=先生)
という風な感じである。
当然の事だが、クライエントを見抜くには各焦点の質問時における、相手の反応などに注意しておく。
オペラント条件付け
平たく言うから報酬で釣って、プラスになるアクションを起こさせるというテクニック。
それが『オペラント条件付け(operant conditioning)』である。
報酬で釣るなんてなんだか実験動物やペットに対するものみたいだが、悪癖の改善などにも使える。
例えば、野菜のおかずをちゃんと食べれたら、お菓子の引換券が1枚手に入るという家庭内システムを構築する。
それで子供が野菜を食べるようになってくれるなら、それを続ける。
すると、やがては習慣付き、子供は野菜に慣れて、お菓子の引換券なんてバカらしいというような年齢になっても野菜を食べる。
どちらかというカウンセリングというより教育に使えそうなテクニックである。
防衛機制の有効活用
防衛機制は実際そういう事に使うのだろう。
これは、自分で自分をカウンセリングするのにすら使える素晴らしいテクニックである。
現実が辛いから、楽しい妄想と同一化して、そっちを自分の現実にすればいい。
嫌いな友人達こそ非現実だ。
そんな友人達なら非現実でよい。
頑張ったのに成績が悪かった時、なんて自分は駄目なんだろう、なんて考えたら、心を病むかもしれない。
だから投射して、心を軽くしたらいい。
「成績が悪かったのは先生の教え方が駄目だったんだ」
そう考えてやればいい。
ある意味で先生の正しい使い方である。
ただ生きるだけじゃ誰でも辛い。
楽しみが外にないなら、多分楽しみは自分で作るしかないのだ。
そんな事も理解できない人達を頼れる訳ないって訳だ。
環境はどれほど重要か?
身も蓋もない事を言うなら、個人的には臨床心理学(というかむしろ社会系の心理学全般)という学問は、胡散臭いと感じる。
臨床心理学かんかは、環境の影響力を非常に重要視しているというか。
個人的には環境で人が変わるというのは、フィクションのテーマだけだと思いたいです。
もちろん少しは違ってくると思う。
あまり極端な状況とかなら話は違ってくるかもだけど。
けど極端な状況でも。
例えば、もし世界一の金と権力を手にしてるような生まれだったとしたら、今みたいな自分でいられたか?
と問われたら、正直自信ない。
でも、もし自分が世界を救うために恐ろしい悪と戦う事ができる唯一の存在であり、そういう存在として育てられたとして、簡単に自分を消滅させられるような相手と勇敢に戦えるか?
と考えても、実は自信ない訳です。
どうしても自分は、わりと高い割合で結局自分たったろうなと思えるのです。