カラクリとはどのようなテクノロジーだったか
昔の日本ではカラクリといえば、 現在よく使われるような仕掛けとか、機構といった意味だけでなく、そういう仕掛けで動く、機械そのものを指す名称でもあった。「機械」や「機関」と書いて、カラクリと読んでいたのである。
『機械時計(Mechanical watch)』は、今の世にもわりと普通に残っているカラクリと言ってもいい。古くはその時計技術を応用した形の自動機械、つまりカラクリがけっこうあったとされる。
それはかつての精密機械で、内部機構がわからなくても、あるいはそれを理解できるだけの知識がなくても、機能的に扱うことができるマシンだった。今の時代の我々に馴染み深いもので例えるなら、コンピューターみたいなものだ。
ただ現在のコンピューターのように、多くの庶民にまで浸透していた訳ではなく、基本的には裕福層のコレクションや、大衆娯楽としてのカラクリこそが一般的であったとされる。
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カラクリシステムの広がりについて考えると、カラクリというのはどちらかと言うと、コンピューター(ハードウェア)というよりも、ソフトウェアだったのかもしれない。
しかし、仮想空間上に情報領域を用意することで、複製や修復、配布などをとてもやりやすくしている現在のそれに比べると、あくまで物理的アイテムでしかないカラクリは、誰でも気軽にというようなレベルにはなれなかったのだろう。これはカラクリというテクノロジーに問題があるわけではなく、どちらかというと、現在の仮想領域を利用したコンピューターテクノロジーが凄すぎるだけと(少なくとも今のところは)言えると思う。
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メカニカルの進歩
日本において、カラクリというテクノロジー自体は、少なくとも平安時代にはあった(例えば今昔物語集に、はっきりカラクリ人形の話があったりする)
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おそらく中国からもたらされたものであるとされている。中国でのカラクリの起源に関しては諸説あるが、まだまだ謎が多い。
しかし戦国時代に、フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier。1506~1552)などからもたらされた、西洋の機械の影響を受け、一般的に太平とされた江戸時代に、娯楽や、ある種の芸術としてのカラクリ(それにカラクリ文化)が、飛躍的に進歩したというのはほぼ確実な事実である。
西洋文明からもたらされたものとして、特に機械式時計は衝撃であったとされる。日本の技術者たちは時計を開き、内部のゼンマイ、歯車、カム、クランクなどを組み合わせた複雑な機構の制御装置を目の当たりにした。そうした西洋時計を元にして作られた、日本人向けの和時計は、まさしく最高峰の自動機械であった。
カラクリはメカニカル。そしてクカラクリ師はまさしくメカニカルのスペシャリストだった。彼らは幕末や明治初期の頃に、 産業革命をもたらした西洋の様々な発明品の再現もして、日本の近代化を大いに助けたともされる。
竹田近江とカラクリ人形浄瑠璃
江戸時代に栄えた『俳諧』という文学形式がある。基本的には「5、7、5」の長句と、「7、7」の短句を交互に繋げていく形式を『連歌』としていたが、その連歌の(例えば複数人で順に読んでくとか)遊戯性を高めたものが俳諧というものである。
また、当時の風俗や人情の諸相を描いた、娯楽性を強めたこの頃の文学を『浮世草子』という。
そして『浄瑠璃』というのは、三味線を伴奏楽器とし、『大夫』と呼ばれる唄い手が、詞や文を語る音楽劇の形式。さらにその浄瑠璃と人形劇を組み合わせたものが、『人形浄瑠璃(文楽)』という。
江戸時代の大阪にて、浮世草子、人形浄瑠璃作者、俳諧師として知られていた井原西鶴(1642~1693)は、延宝3年(1675年)の「独吟百韻(独吟一日千句?)」という書に、カラクリ人形に関する句を載せているという。
「江戸(の)播磨、大坂の竹田、唐土人の知恵をつもりて、ゼンマイの車細工にして、茶台をもたせて、おもうかたへさし向かえしに、眼口のうごき、足取りのはたらき、手をのべて腰をかがむ。さながら人間のごとし」
播磨とは播磨少掾という浄瑠璃太夫に与えられていた称号。大坂(大阪)の竹田とは、カラクリ芝居の興行で名を馳せたカラクリ師の(竹田近江)(~1704)のこと。唐土人とは中国人のこと。
西鶴が、実際にどのくらい人間らしいカラクリ人形を見たのかはわからない。機械的な感じを上手く消していたのだろうか。それとも単に、生き物ではないと思えないほど達者であったということか。
演劇から、大衆向けの見世物へ
竹田近江が始めたともされる、(後には竹田芝居)とも呼ばれた、カラクリ人形を用いた人形劇(人形浄瑠璃)は、 当社は機械仕掛けの人形に道具、それと糸で操られた人形の両方を使った芝居であったともされるが、後には芸術性の追求により、人間が直接操作する部分が重要視されるようになって、機械仕掛けパートは廃れていったという。
しかし、ちゃんとした演劇の世界を離れてから、機械仕掛けのカラクリ人形は、もっと大衆向けの見世物とか、祭礼の時の演出とかに使われるようにもなっていった。
大阪、名古屋、江戸の盛場や社寺の境内などで興行された様々なからくり見世物は、明治時代まで普通に見られたとも。
竹田芝居で驚いたオランダ人
カラクリ仕掛けを最も存分に利用していた頃の竹田芝居とは、どのようなものだったのだろうか。
江戸時代は鎖国の時代とされるが、真の意味で、全く海外との貿易をしていなかったというわけではない。
現在で言う貿易事業で儲けまくった、世界初の株式会社ともされる『オランダ東インド会社(Verenigde Oost-Indische Compagnie。VOC)は、江戸時代の大部分の期間、長崎に商館(主に貿易目的のための、外国人の宿泊施設)を置いていた。そしてその商館の最高責任者は『カピタン(甲比丹)』と呼ばれていた。
商館長は、オランダ語では「オッペルホーフト(Opperhoofd)」で、「カピタン(Capitão)」はポルトガル語。その名称は、日本が初めて正式に貿易を始めた西洋国家がポルトガルであったため。
寛政10年(1798年)に刊行された、摂津国(大阪や兵庫の辺り)の名所などを伝える『摂津名所図会』の1枚は、オランダ人カピタンが竹田カラクリを見物して、驚いている様が描かれているという。
図会の説明によると、「竹田近江のカラクリ芝居は諸国(日本全体?)において有名。
彼は阿波国(徳島県)の生まれ。
江戸の浅草の寺(浅草寺?)にて、よく観音様に、稼穡(農業)のもたらす恵みが 世の中を豊かにするようにと祈っていたが、ある日、その帰り道で砂遊びをしている子供たちを見た。それはまさに霊験、彼は砂時計の工夫を深く考えるようになった。
万治元年(1658年)の12月、京都においてカラクリ人形を製造し、雲井(雲居。宮中。皇居)にそれを献上した。
さらに寛文2年(1662年)、大坂(大阪)において初めてカラクリ芝居を披露した。
彼が死んだ後も、彼の一族にカラクリ芝居は相続され、 今でもそれを楽しむことができる。
カラクリ芝居の前座は、子供の戯狂言。
せっかくの大阪に来ても、素晴らしいこのカラクリ芝居を見なければ、来た甲斐もないだろう」
上記の記述は、書かれた時代からしてもすでに100年以上前のことであり、歴史の話である。
竹田近江に関する解説も興味深いが、その伝統の竹田芝居を見て、日本に西洋の優れた技術をもたらした西洋国オランダの人たちでさえも、驚かされたというのも注目すべきか。
永代時計の謎
『棠大門屋敷』という錦絵は、「ゼンマイ時計のカラクリと言えば竹田近江掾。 鳥を作っては空を飛ばす。はさみ箱より乗り物を出しては、人を乗せて人形に書かせる」
近江は元々時計技師だったとされるが、ゼンマイ仕掛けのスペシャリストだったのだろうか。
また近江が8ヶ月をかけて、9尺(2.7メートルくらい)の『永代時計』なるものを造ったという記録もあるようだが、これは『万年時計』という説がある。
万年時計とは、時間だけでなく、曜日や、その日の月の形、今の月と太陽の位置なども確認できる特殊時計。
近江のそれは『摂陽見聞筆拍子』という浜松歌国(1776~1827)という人の随筆(エッセー)によると、「全てケヤキを使った木製で、9つの歯車が巡って昼夜の時を打つ。9つある輪の内、大の環では、天地に月と太陽の玉を金銀を以て分けている。 それ以外にはそれぞれ銀の星をその座(位置、あるいは星座?)ごとに並べ、四季の五星が司るところに現れる。冬至夏至彼岸日月の蝕に至るまで見える。毎日錘の糸を引けば、100年経ってもそれは変わらぬ」
二十四節気(春夏秋冬の4季節をさらに6つずつに分けたもの)を確認出来たとされる、その時計の優れた様が確認できるわけだが、最初のすべて木製というところこそ、最も興味深いところか。
竹沢藤治と水カラクリ
人形浄瑠璃の他、もう1つ、芸能の世界で有名なカラクリが、『水カラクリ』であろう。
これは、水力を利用した仕掛けで人形などを動かしてみせる演芸だったりするが、どちらかというと『水芸』と呼ばれる、水を用いた奇術(手品)のような芸を意味することもある。
服や扇や刀や花から水を吹き出させる水芸は、 見た目が美しいことから女芸人がよく演じたという。
水芸について
水芸は、大小のコマを扇子に乗せたり、綱渡りさせたりする『曲独楽』のような曲芸の類で、普通、機械的要素はかなり薄い。
基本的には、舞台袖から演者の手元足元を介して、水を噴射させる細い管を物に通じさせ、口上や音楽にあわせて、舞台裏で栓を開閉させることで、演出を実現する。
幕末頃の曲独楽師であった、3代目(あるいはか代目)竹沢藤治は、水芸を取り入れた演出を披露して、これを広めたという説もある。
彼は江戸の下谷に住んでいた前代の藤治の子で、本来は万治という名であった。宙乗り(ワイヤーアクション)やカラクリも取り入れた、大劇場向けの独楽芸で人気を得ていたという。
早変り早変りの大掛かり芸
その芸の様は、『明治世相百話』によると、「十数個のコマを取り出し、舞台に置くや、そのまま回る手先の早業の前芸。一尺の提灯ゴマの心棒(軸棒)を引き上げるや二尺余りの長提灯になったり、正面の四方開きの花行灯の中へとコマが消えてしまったり、万灯が開いたかと思うと真白なニワトリに変わる。それらの芸の実に華やかなこと。その問にちょいちょい得意の早変りも。水芸には女の弟子が2人左右に並んで、コマを使いながら扇子の先や、コマの心棒から盛んに噴水を出す。また、水中飛込の早変りも藤治の十八番。大切り(ラスト)には宙乗り所作事(歌舞伎の舞踊劇)、奴凧(人の姿の凧)や雷公が呼び物(大人気)。花道上から舞台上の幕霞(霞幕)へ消えたかと思うと、たちまち服を変え大ゴマを手にして舞台に立つ速さ、さすがに早変りの達人といわれるだけのことあり」
また、1844年、万治は父と共に、隅田川に架かる両国橋近くの、西両国広小路で行った芸が評判となったようだ。
父が梅升と改名し、子に藤治の名を譲ったのは1849年。この頃に彼は、水中早替わりや、三味線や箏をコマの中から取り出す芸などを演じたという。
明治初期に、舞台での負傷のために亡くなったようだが、またさらに彼の息子が、明治7年(1874年)に後を継いだらしい。
初代(あるいは2代目)竹沢藤治は、両国の定小屋(常設の興行場)で、やはり大仕掛けなコマ芸で人気を得た人で、錦絵に出されるほどだったとされる。
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薩摩の水カラクリ芝居
水車などを動力源にしてカラクリ人形を動かす芝居としての、水カラクリとして、鹿児島県は加世田市の竹田神社と、知覧町の、豊玉姫神社の祭り事がよく知られている。
竹田神社の場合も、豊玉姫神社の場合も、7月の祭礼日に、社前の用水路の水車を利用し、人形を動かす。基本的に豊玉姫神社の方が、人形の動きが複雑なようである。
水カラクリの構造、形態の記録としても貴重。
現在のそれらにも繋がる水車カラクリの伝統は、早くても17世紀後半くらいに始まったものとされている。薩摩藩内のカラクリ人形に関する一番古い記録も、だいたいそのくらいの時期のものらしい。ただし人形劇に関する記録については、もう少し後の18世紀中頃くらいからで、豊玉姫神社の水カラクリも、それ以降から始まったものだとされている。
そのカラクリ人形は、地元の有志たちの手により毎年新しいのが造られるようだが、人形や動力部の部品、背景、衣装など、全て、数ヶ月という短期間の間に作られるという。ただし、頭や手足などは使い回すことも多いようだ。
動力源である水車が1つということもあり、各人形の軽さは特に重要。設計図もなしに、製作者たちが考えながら人形を作るが、多くはてこの原理を用いて、糸引き動作を、人形自体の動きに変換するものとされる。
細川半蔵。カラクリ指南書、機巧図彙の著者
日本のみならず、世界中の機械技術史において非常に重要な書物とされる『機巧図彙』。(おそらくは当時の水準的に初歩的な)和時計いくつかと、カラクリ人形の仕組みの説明とその作り方までしっかり書かれている、その本を書いたのは、細川半蔵頼直(~1796)という人。彼は、室町幕府の管領(将軍に次ぐ役職)であった細川頼之(1329~1392)の子孫という説がある。
土佐国(高知県辺り)の出身のようだが、幼少の頃から彼は頭脳明晰で、暦算や天文学や機械学に精通していた。同国人で暦学者の川谷薊山(1706~1769)、あるいはその弟子である片岡直次郎(1747~1781)に学んだとされる。
寛政(1789~1801)の 最初くらいの頃に家を出て天文学を学ぶため江戸に出てきたらしいが、江戸ではruby>藤田貞資(1734~1807)の下で暦学の奥義を極めたとも。
なぜ機巧図彙は特別か
機巧図彙という本が特別視されている理由は、やはりその、図解を用いた詳細な内部原理の解説にあるだろう。
海外のも含めて、カラクリ機械を紹介してる本には、それがどのような動作をするかばかりが注目されている記録みたいなものが多く、実際それがどのような仕組みで、何をどうすれば造れるのかという説明はあまりない。
機巧図彙は(類書に比べて)そのような知識が惜しみなく収められているから、重要視されるのだと思われる。
飯塚伊賀七の飛行機計画
常陸国(茨城県の辺り)の筑波郡は谷田部で生まれ育ったという名主の飯塚伊賀七(1762~1836)は、「カラクリ伊賀」とも称される、優れたカラクリ師であった。
若い頃は、天明(1781~1789)にあいついだ飢饉の後始末ですごく忙しかったようだが、子も成人した文政(1818~1831)になると、後に語り継がれるいくつかの発明に取り組みだしたという。
伊賀七は、第一歯車が1メートルを超える、木製大時計を作ったことがよく知られている。
他、『五角堂』という五角形の建築物を設計。その内部には『脱穀機』なる歯車式の農業機械(agricultural machinery)が備え付けられてもいた。
千葉県柏市の布施弁財天鐘楼堂も伊賀七の設計とされる。1辺が2.7メートルほどの八角形の土台に、四角形の屋根が印象的な構造。
さらに見事なカラクリ人形を造り、それは街路を往復したとも。この人形はなんと、近くの酒屋へのお使いに使われていたという。
伊賀七の家から出たそのカラクリ人形は、ガタガタ音を立てながら、近くの玉川屋という酒屋にやってくる。酒屋の主人が人形の持つビンに酒を入れてからそれを方向転換させてやると、人形はまた 家と帰って行く。酒の量をごまかして入れている場合、この人形は途中で動かなくなったとも。
しかし彼に関する最も注目すべき記録(伝説)は、やはり飛行機械の話であろう。伊賀七は鳥の翼のようなものを造り、さらに足ふみの回転力により飛行のための力を得る機械を作って、筑波山の頂から谷田部までの飛行計画を立てたが、藩の許しが得られなかったということで断念したらしい。
鳥の飛行メカニズムをよく研究したことで知られる、鳥人幸吉こと備前国岡山の浮田幸吉(1757~1847)が、最初の飛行実験を行ったとされるのは天明5年(1785年)。彼の飛行伝説が真実かはともかくとして、その試みに伊賀七が影響を受けた可能性もあるとされる。
南蛮の又九郎
南蛮細工の又九郎は、伝説的な逸話を持っているどころか、こういう人物自体、存在したのか結構謎に包まれている。
元禄(1688~1704)と宝永(1704~1711)の頃に、長崎で細工職人をしていたという。
天地にあらゆるものを作り、古今の細工師のすべての技を知っていた。などと称される凄い人だったとも。そしてこの人もまた、飛行機会を造ったという伝説をもつ。
唐(中国?)の飛鳥翁なる人が、ツル(鶴)を造ってそれを乗り物に使ったという話を聞いた彼は、「それなら自分も造れる」と、飛行するウマ(馬)を造ったという。
小林如泥。カメと黒舟
出雲松江藩主の松平治郷(不昧。1751~1818)に仕えた木彫、木工家であり、偏奇な人として知られていた小林如泥(1753~1813)もにまた、カラクリ師としての話が伝わっている。
如泥は酒好きだったが、ある時にその勘定を払えず、金の代わりとして小さなカメ(亀)の彫物を酒屋の主人に与えた。主人は最初渋い顔をしたが、如泥は「そのカメを水に離して見ろ」と言った。 それで、水に投げられるや、カメは見事に泳ぐ様を見せた。酒屋の主人は、そのカラクリカメをさらに売って、酒代以上に儲けたという。
また、死期を悟った如泥が、仕える治郷に献上しようとした大箱が江戸に運ばれる途中、家中の者がこっそりその箱を開いた。するとその中には3本マストの黒船があり、船首のネジをひねると、望遠鏡を持って船首に立っていたオランダ人が船室に引っ込み、代わりに別の船員たちが何人も現れた。そして艦長の命令が下り、大砲が火を噴く。するとさらに出雲藩の印をつけた大砲の弾が1発飛んできて船長室に落下、船は砕け、すべての仕組みが砕け散ってしまったという。
大野弁吉。引っ込み思案な多趣味人
天保2年(1831年)に石川郡の大野村に移り住んだ発明家(カラクリ師)がいた。彼が大野弁吉(1801~1870)と呼ばれだしたのは、その頃からとされる。
彼の優れた技術は、やがて近隣に知れ渡るが、特に隣庄(加賀国)の商人銭屋五兵衛(1774~1852)は、早くから弁吉に目をつけていたとされる。
パトロン豪商、銭屋五兵衛
銭屋五兵衛はよく、弁吉に日用品や着用品を造ってもらっていた。
戦国時代に滅亡した朝倉氏の末裔を称していたともされる五兵衛は、鎖国体制も末期の江戸で、外国との密貿易伝説もある豪商。金沢藩への献上金への見返りとして黙認されていたようだ。
また、蝦夷地(北海道)の樺太でも、アイヌを通じて山丹、すなわち沿海州(極東ロシアの州)の諸民族と、択捉島近海においてはロシア帝国とも交易していたとされる。
他、清国(中国)やアメリカ合衆国の商人と交易していたと。
オーストラリアのタスマニア島に領地を持っていたという伝説もある。
しかしある時、河北潟という潟湖の開発工事をすることになったが、地域住民との金銭的トラブルなどで仕事は遅れた。さらに埋め立てに使われた石灰が魚を窒息死させてしまったりして、毒を流し込んだと訴えられ、獄中に一族もろとも捕らえられた彼は、そのまま獄死してしまった。さらに財産没収、家名断絶とされた。
基本的にあまり人と関わる事を好まなかったカラクリ師弁吉だが、死んだ五兵衛の残された遺族をよく慰めていたという。
多芸多才だが、誰に習ったか
大野弁吉の、大野となる以前の経歴に関してはかなり謎。出身地も、長崎、大阪、京都など複数の説があるが、一般的には京都五条通の羽根細工師の家に生まれたとされる。
幼少より非凡な才を見せていたが、20歳の頃に長崎に出てきて、オランダ人に医術や理化学を学ぶ。他、絵画彫刻も習っていた。 その後は対馬から朝鮮にも渡る。帰国してからしばらくは紀伊(紀伊国?)にて、砲術、馬術、柔術、算数、暦学を修めた。
その後は京都に戻ってきて、中村屋八右衛門の長女うたの婿となった。
後に弁吉が住むことになった石川郡大野村は、嫁となったうたの出身地である。父八右衛門が亡くなった後、母と共に京都に移住していたところで弁吉と出会ったという。実は最初は、未亡人となっていた母の方と結ばれたという説もあるが、結局縁組みしたのは娘の方。弁吉は江戸を志していたらしいが、天保2年(1831年)に立ち寄った妻の故郷に永住することとなった。
象牙細工、竹細工、金細工、ガラス細工、木彫、塗物、焼物、蒔絵、花火など かなりの多芸多才だったという。
伝統的なカラクリ人形だけでなく、エレキテル(摩擦起電器)などの科学機器にも造詣が深く、自ら作った地球儀を用いて、天動説と地動説を比較し、地動説の方が妥当だと結論したとも。それに写真機を作ったが、周囲の人たちはそれを妖術の類だと怖がったりして、なかなか写真を撮らせてもらえなかったという。
病気治療を個人的に依頼されるほど医学にも通じていたし、若い頃の旅経験からか航海術にも長けていた。
弁吉が長崎で教えを受けたのは、かのシーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold。1796~1866)だったという説もある。
遊び心のための失敗
大野弁吉は多芸であったが、やはりカラクリ師としてこそ特に優れていた。
藩主の命によって木製の給仕人形を造ったこともあったが、この人形の動作は生きている人間とほとんど同じだった。それが茶盆を持って膝行し、藩主の前に来た時に、藩主は扇子でその頭を打ってみた。するとその人形は目を見開き、腰の刀に手をかけて今にも抜いて斬りかかってきそうな勢いを見せる。藩主は驚きながらもすぐに弁吉を呼んで叱りつけた。弁吉はちょっとしたお遊びでしたと謝罪したが許されることなく、ついには謁見を禁じられたという。
他にも、足を紐でつなげ空中に放つとまるで生きているかのように羽ばたき飛ぶツル。路上を歩き酒を買いに行った人形。水上を渡り歩く大黒天。とび跳ねるカエル。煙を出しながら水上を走る船なども造っていたらしい。
田中久重。変化する時代を生きた人
明治の世となっていた1875年(明治8年)に、電機メーカー東芝となる電信機工場を創業した、カラクリ儀右衛門こと田中久重(1799~1881)は、江戸の時代には、非常に優れたカラクリ師としても知られていた。
日本で初の機関車模型や、和時計の最高傑作とされる万年時計の製作者としても有名。
久重は、筑後国(福岡県辺り)は久留米の、鼈甲細工師の家に長男として生まれた。彼は後にカラクリ儀右衛門と呼ばれるようにもなるが、儀右衛門は彼の幼名。
久重は幼い頃からカラクリの才に長けていた。カラクリの発明を遊びで始めたが、やがてその技術は、興行師も顔負けするほどとなっていく。
のめりこみ具合は問題であった。彼は家業もそっちのけにしてカラクリばかり。そして25歳の時に、家業を弟に任せ、自らはカラクリの技術によって身をたてようと、故郷から旅立った。
それからは、おそらくはあちこちを旅しながら、自らの技術をさらに高めていったのだと考えられているが、実際のところ、10年くらいして大阪に住むようになるまでの経緯は、かなり謎に包まれている。
それから京都に移った彼は、弘化4年(1847年)に、天文暦学の総本山であった土御門家に入門した。
そして嘉永5年(1852)、京都四条烏丸で『機巧堂(からくりどう)」という店を始める。この店には有名な万年時計を始め、いくつか優れたカラクリ作品が置かれたが、たいてい高級で、なかなか買い手はつかなかった。それよりもしっかり売れる商品であったのは、玩具カラクリや、日常で使われる道具機械だったようである。見世物カラクリの興行をやることもあった。
1854年(あるいは1853年)には、佐賀藩に設置された理化学研究、実験施設である『精錬方』に招かれ、西欧技術について深く研究。翌年には、研究者仲間である石黒寛次(1824~1886)や中村奇輔(1825~1876)らと共に、日本最初の機関車模型を製作した。
久重は江戸末期のカラクリ師であり、そして明治初期の工学技術者でもあった。彼が開業した田中製造所は日本最初の民間機械工場。政府の指定工場として電信器の修理や製作にもあたり、それが芝浦製作所となり、後の東芝となったのである。
遊び心に溢れた見事な傑作の数々
久重のカラクリ人形としては、(いずれも、カラクリ儀右衛門と呼ばれた時代、つまり若い頃の作とされる)台上の童子が矢を放ち的を射るが、細かな首の動きが心の動きまでも表現しているとされる、『弓曳き童子』。右手に持った筆に墨をつけ、「寿」「松」「竹」「梅」の4文字を書けて、文字を書いた後は、額縁が回転して客に文字が披露、やはり筆の動きと同じく顔も動き、書き上げると満足気な表情を浮かべているようにすら見える『文字書き人形』などがよく知られる。
他にも、圧縮空気により灯油を補給することで、明かりを持続させ、「消えぬ光」とも称されたという『無尽灯』。天動説に即した仏教の宇宙観を表現した特殊和時計の『須弥山儀』など、多くの巧妙なカラクリ作品を制作。
久重は、『蒸気カラクリ』のアイデアを持っていたともされる。
また、江戸時代を通して木製が主流だったカラクリ部品(ゼンマイにはよくクジラのヒゲが使われていたの)だが、日本において初めて、刀鍛冶に機械用金属部品を依頼したのは彼だったとも。
しかしやはり田中久重のカラクリ最高傑作といえば、彼自身は『自鳴鐘』と呼んだ、高さ50センチメートルほどの和時計であろう。動作スイッチであるゼンマイを回せば、六角の各面に洋式時刻、和式時刻、二十四節、七曜、月の満ち欠け、日付、暦(十干十二支)の表示をし、上部の半球形ガラスケースの中では、日本地図上の太陽と月である赤球と白球が運行するという。