「今昔物語集本朝世俗篇」陰陽師伝、動物と人間、鬼と神

日本の昔の伝承世界

 今昔物語とよばれる説話集は日本の本であるから、やはり大部分は本朝ほんちょう(日本)の話である。
特に欠巻となっている21巻以降は、本朝世俗部となっていて、 日本の昔の物語世界を知る重要な手がかりとなりうる。

 仏教と関係なくなってからの震旦(中国)の話と同様、最初は王族、貴族を中心とした歴史の話ばかりである。

巨大ヘビの怪力

 丹後たんごの国に、海恒世あまのつねよという、右近衛府うこんえふ(朝廷の常備軍の1つ)の相撲取りがいた。
あの時、家の近くの古い川の辺りを散歩していたところ、遠くで水が盛り上がったかと思えば、近づいてきて、水際近くになって、それが巨大なヘビ(蛇)の顔だとわかった。
ヘビは隙をついて、恒世の足に尾をいくらか巻きつかせ、水中へと引きずりこもうとしてきたが、凄まじい怪力の持ち主だった彼は、固い土の中に6寸(18センチメートル)ほども足をめりこませ、踏みとどまった。そして、ついにはヘビの体は切れたようで、川の中に大量の血と、ちぎれた蛇の身体が浮かんだ。足に巻きついた尾は離したが、その巻きついた後は消えずに残った。
後で従者たちがやってきて、そのヘビの大きさを確かめてみたが、切口の大きさが、1尺(30センチメートル)ほどもあったという。
ヘビの力がどのくらいだったのかも気になったので、恒世の足になわを巻き付け、従者たちに引っ張らせて確かめてみたが、だいたい60人分くらいの力だったそうである。

 最初の非現実的な話は、怪力の者たちの話である。これは相撲取りの怪力だが、こういう話の最初の方では、怪力女が結構登場する。
この話は恐ろしい巨大ヘビも登場するのもあって、不可思議さがより強くなっている。

水をねだる子供人形

 第50代桓武天皇かんむてんのう(737~806)の御子であった高陽親王かやのみこ賀陽親王かやしんのう。794~871)は、すぐれた工芸人であった。
歴代天皇「歴代天皇」実在する神から、偉大なる人へ 彼が建立した京極寺きょうきょくじの前には田があったが、それは賀茂川(鴨川)から水を引き込んで耕作する田であった。
あるひどい日照りの年。賀茂川の水も干上がってしまって、京極寺の田もすっかり乾いてしまい、せっかく植えた苗もみんな赤茶けて枯れてしまいそうになる。そこで賀陽親王は一計を案じる。身長4尺(1.2メートル)ほどの、左右の手に桶を持っている子供人形を造って、田の中に立てたのである。やってくる人たちは、この人形の、桶に水を入れるとすぐにその顔にかかるという仕掛けを面白がった。そうして、人づてにこの人形の評判が伝わり、多くの人が次々桶に水を流し込んでくれた。
田が水で満たされると、親王は人形を隠し、そしてまた干上がってきたら、その人形を設置した。そのカラクリによって、その田は日照りの害を受けることがほとんどなかったという。

囲碁の達人と女妖怪

 第60代醍醐だいご天皇(885~930)の時代。
碁勢ごせい寛蓮かんれんという2人の僧は碁の達人であった。
寛蓮は家柄もそれほど悪くなく、宇多院の殿上法師というそれなりの立場であったから、醍醐天皇もよくお召しになって、碁の勝負をした。天皇もなかなか上手だったのだが、寛蓮に対しては、先手で二目置きで対局した。
ある時に、金の御枕を勝負のかけものとして、天皇が負けてしまったが、天皇は退出する寛蓮から、殿上人の中で元気のよい者に、御枕を奪い取らせた。そしてそうした事が何度もあった。
後に、寛蓮はいつものように枕を奪いに来た殿上人たちの前で、その枕を井戸の中に投げて、殿上人たちは仕方なく引き返していった。
さらに後に、井戸から枕は引っ張りあげられたが、それは木の型に金箔を塗っただけのものだった。ようするに投げ込まれたのは偽物であった。
寛蓮は、 本物の金の枕の方を元手にして、仁和寺にんなじの東のあたりに弥勒寺みろくじを建立。天皇も「上手くだましたものだ」と笑ったという。
囲碁「囲碁の歴史」起源の謎、天皇、貴族、僧、武将、囲碁を親しみ愛した人たち  寛蓮は仁和寺にいつも参内さんだいしたが、ある時、その道中にて謎の女の子に出会う。その女の子に、土御門大路つちみかどおおじと道祖大路とが交わるあたりの、檜垣ひがきを巡らした押立門おしたてもんのある家に案内された寛蓮は、そこで1人の女と出会う。
すだれごしに香のかおりを匂わせながら、女は言った。「あなた様は、当代並ぶ者のいないほどの碁打ちだと伺っておりますが、それにしてもどれほどお上手なのか是非とも拝見いたしたいと思っておりました。実は亡くなりました父が、私に素質があるかもしれぬと碁を打つことを教えてくれたのですが、 その後は遊び相手もほとんどいなくて、そんな時に、あなたが近くを通ると伺いましたので、はばかりながらもお呼びしたわけでございます」
寛蓮も「それはおもしろうございますな。それにしても、どのくらいおうちになりますか。何目ほど置きますか」と、すでに用意されていた碁盤のそばに来た。そして碁石の箱を、1つを自分がとって、もう1つをすだれの中にさし入れてやろうとしたが、侍女が「2つともそのままそこに置いてください」、主人(?)の女は「(面と向かっては)恥ずかしくてとても打てませんので」と言った。そこで寛蓮は、碁石箱2つとも、自分の前に戻した。
やがて、几帳きちょう(間仕切りの1種)の隙間から白く長い木を出して、「私の石はまずここに置いてください」と打つ場所を指示した。また、「本来なら何目かおくのが当然でありましょうが、まだお互いの力のひらきがわかりませんので、どれほど置けばいいかがわからない。そこで、まずこの1局は私が先手を取ります。それで力の程度をはっきりいたしましたら、10目でも20目でも置かせていただきます」とも言った。
そして対局が始まったが、結果的に寛蓮の石は皆殺しにされてしまった。どうにか生き続けた石も、だいたい囲まれてしまって、てても太刀打ちできるような状態でなくなる。
寛蓮は「なんとも不思議なことだ。この女は人間でなく妖怪に違いない。どうしてこの私と対局して、こんなに打てる者が今の世の中にいようか。たとえ相手がどんな名手であっても、私の石がこんな皆殺しの状態に打たれてしまうはずがない」と恐怖にかられた。
そんな寛蓮に、女は今や楽しそうに「もう1局いかがでしょうか」と提案。寛蓮はしかし、「こんな恐ろしいもの、二度と関わらない方がよい考えだ」と考え、必死に逃げた。それから仁和寺に参上し、 この出来事を報告。 翌日、その女の家に人をたずねさせたが、 留守番として死にかけているような女法師が1人いるだけで、彼女は、「5、6日の間、京からやってきていた人がいたが、昨夜帰ってしまった」と語った。
天皇もあとからこの話を聞いて、とても不思議に思ったという。

ヘビと交わった娘

 河内国かわちのくに讃良郡ささらぐん馬甘郷うまかいのさとに、身分はいやしいが財産家の人がいて、その人には娘が1人いた。
春のある日。その娘が桑の木に登って、かいこにやるための桑の葉を摘んでいたところ、どこからともなく大きなヘビが出てきて、娘の登っている木の根元に巻きついた。通りがかりの人がこれを見て、娘に教えてやった。娘が下を見ると、確かに大きなヘビが木の根っこに巻きついている。恐怖のあまりに飛び降りた娘にヘビは巻きつき、 そしてその状態で、娘は死んだように倒れてしまった。
両親は嘆き悲しんだが、ちょうどその国に腕利きの名医がいて、診てもらうことになった。ヘビは娘と交わってた状態で離れようとしないが、その医者の言う通りに調合した汁を、娘の陰部に注ぐと、ヘビはすぐに離れ、その後は苦しそうにしているところをさっさと殺された。
娘はカエルの卵のようなヘビの子を産んだが、それが出尽くすと、意識を取り戻した娘は、「私にはどうなっているのかさっぱりわかりません。まるで夢を見ているようでした」と言った。
しかしそれから3年ほど経って、またこの娘はヘビと交わってしまうことになり、その時は、こうなるのも全て前世からの因縁なのだと諦めて、何の治療もせず死んでしまったそうである。

陰陽師たちの伝記

 陰陽師の話がしばらく続く。
降りかかる災難を、陰陽道の術を持って乗り切るという話がよくある。何か功徳を得て仏に奇跡を起こしてもらう、仏の話しとはあまり関係ないようでもある。普通に悪いことをした者があっても、陰陽術によって、受けた呪いから救われたりする。
「陰陽道入門」干支と五行についての理解。占いと式神、祓いの術

滋岳川人。恐怖の土の神

 55代文徳天皇もんとくてんのう(827~858)が亡くなった時、御陵ごりょう(天皇の墓)を占い定めるために、大納言安倍安仁ルビ(793~859)が天皇の命を受け、その役目をとりおこなった。
占星術「占星術」ホロスコープは何を映しているか? その時代に滋岳川人しげおかのかわひと(~874)という優れた陰陽師がいた。大納言はこの川人をつれて、御陵の地をうらない定め、その仕事が終わって帰る途中、深草ふかくさの北辺りで、川人は何か言いたげに、自分が乗っているウマを大納言に近づけた。
川人はひどく怯えながらも、ついには言った。「大したことありませんが、長い間陰陽道にたずさわって、朝廷におつかい申しあげ、私自身の生活をも営んできましたが、過ちなんて犯した事はありません。ところが今度はとんでもない失敗を犯してしまったのです。今ここに土の神が追いかけてきているのです。これはあなたとこの川人が責任を負っているようです。いったいどうなさるおつもりですか。とても逃げきることなどできないでしょう」
「私にはどうしたらよいかさっぱりわからん、何とか助けてくれないか」という大納言に、川人は「このまま放っておけることでありません。なんとか身をおかくしなさる手立てを考えてみましょう」と言った。
それから、従者たちには先に行かせておいて、日も暮れた頃に、ウマからおりた大納言と川人。2人はそれから、田んぼの中へと入り、川人は大納言を座らせて、刈り取って積んでおいた稲をその体に積み上げ、その周りを呪文を唱えながら何回も回った。それから後、自分も稲をかきわけで中に潜り込み、大納言と2人ひっそりうずくまった。大納言は、川人がとても怯えて震えているのを見て、自分も半分死んだような気持ちであった。
そのうちに、千、万人ほどもやってきたかと思うような足音が通りすぎていった。かと思えば、その者たちがたちまち帰ってきて、がやがやと騒いでいるらしい。
それは人間の声に似ているが、人間とは考えられないような声だった。
「あの男はこの付近で馬を下りたらしい、馬の足音が軽くなった。この辺りを隙間無く土の下も1、2尺ほど掘り下げて探すのがよいだろう。いくらなんでも逃げきれまい。あの川人とかいやつは、昔の陰陽師にも劣らないほど優れているから、身を隠す術を使っているに違いないんだが、あの大納言のやつを逃してなるものか。気をつけて探せよ」と大騒ぎをしている様子。しかし探しても探してもどうしても見つからない。
やがて主人らしき何者かが言った。「今日上手く隠れきったとしても、最後には我らに会わないでおられようか。今度の12月の晦日の夜に、世界中、たとえ土の下であろうと、空の上であろうと、目の泳ぐところすべて、端から端まですっかり探し尽くそう。やつらの隠れるところなどありはしない。だからその夜は全員集合だ。その時に必ず探し出そう」
そうして、彼らが立ち去った後、稲の中から出てきた大納言と川人は、一目散に逃げた。

 大納言は言った。「いったいどうしたらよいのだろう。あの声が言っていたように、徹底的に探されたらとても逃げられないだろう」
川人は、「こうして盗み聞きをしてしまったのだから、その夜には誰にも絶対に気づかれないようにして、2人だけで上手く隠れましょう。その時が近くなってきたら、詳しくお話しいたします」と言って、近くに繋いでおいた馬のところに行って、後はそれぞれひとまず家に帰った。

 そして晦日の時。大納言のところに来た川人は「絶対誰にもわからないように、二条大路と西大宮大路との辻に、辺りが暗くなる頃来てください」と言った。その通りに、暗くなる頃やって来た大納言を連れて、川人は嵯峨寺に入った。そのお堂の天井の上によじ登った川人は呪文を唱え、大納言は三密の行を修してうずくまった。
その真夜中。薄気味悪く生あたたかい風が吹いてきたかと思うと、地震かのような地響きがして、何かが通り過ぎていく。しかし結局、恐怖以上の何かはなく、やがて夜が明けて、彼らはそれぞれ帰って行くことになった。
帰り際、川人は大納言に言った。「もう恐れることありません。この川人なればこそ、このようにうまく逃れることができたのです」

賀茂忠行。鬼神を見た子

 賀茂忠行かものただゆき という優れた陰陽師がいた。
ある時に、お祓いを頼まれた忠行はその場所へ向かうが、10歳ぐらいの我が子である保憲やすのり(917~977)を連れていた。
そしてお祓いが終わって帰る途中、保憲は父に言った。「お父さん、さっきお祓いの時に見ていたのだけど、恐ろしい姿の者たちが、人間ではない何か、でも人間のような姿の者たちが、20か30人くらい出てきて、並んで、お供え物をあれやこれや食べて、置いてある作り物の船や車やウマなどに乗って、バラバラに帰っていきましたよ。あれは何なんですか?」
忠行はそれを聞くや、「自分こそ、この陰陽道にかけては第一人者であるが、それでもこのような幼い時には鬼神を見ることなどできなかった。陰陽の術を習得してやっと見えるようになったのだ。それなのに、この子ときたら、こんな幼いうちから鬼神を見るとは。きっと将来は素晴らしい陰陽師になるだろう、神代の者にも決して劣らないほど」と考えた。そして家へ帰るや、陰陽道について自分の知っている限り全てのことを熱心に教えたのだった。
筆使い「鬼」種類、伝説、史実。伝えられる、日本の闇に潜む何者か 後に親の期待どおり、彼は類い稀な陰陽道の名人となった。

安倍晴明と式神伝説

 幼い頃から、賀茂忠行に習った安倍晴明あべのせいめい(921~1005)は、昔の大家と比べても何ら遜色ない、非常に優れた陰陽師であった。

 晴明がまだ若かった頃。師匠の賀茂忠行が夜の道を行くのにお供していた晴明は、師匠が中で眠っている車の後ろについて歩いていた。
と、その時に恐ろしい鬼たちが前方からやってきた。晴明はびっくりして、すぐに忠行を起こして、そのことを告げた。忠行は自分でもその鬼たちを確認するや、すぐさま隠形の術を使って、たちまち自分自身も一緒にいる者たちもみな姿が隠れるようにし、それで無事に通り過ぎることができた。
忠行は、いつでも晴明をそばにおいてかわいがり、自らの陰陽道を教え伝えた。

 忠行が亡くなってから。
晴明の家は、土御門大路からは北、西洞院大路からは東にあったが、 ある時そこに、10歳くらい少年を2人つれた、播磨はりまの国からやってきたという老僧が訪ねてきた。
僧は「自分は陰陽道を習いたいと思っているのですが、あなたが第一人者であるということを聞いたので、こうして来たのです」と言ったが、この僧が只者でないことをさっさと見抜いた晴明は「この法師は、おそらく俺を試そうと思って来たのだろう。しかしこいつに下手に試されでもして、万が一のことでもあったら大変なことになるだろう。では1つ、試しにこの法師をからかってやろうか」と考えた。
そして、「この者の共をしている2人の少年は、式神を変化させて連れてきたものだろう。もし式神であるのなら、すぐに隠してしまえ」と心の中で念じ、袖の中に両手を引っ張り込んで印を結び、こっそりと呪文を唱えた。そうしておきながら法師に向かって告げた。「確かに承知しました。ただし今日は忙しくて、とてもその暇がないのです。だから今日のところはお帰りになって、後日またよい日を選んでいらっしゃい。習いたいことはその時にでも」
法師は「それはありがたい」と言って、去ったが、少しばかりしてまた戻ってきた。
「私が連れていた少年2人が急にいなくなってしまったのです。それを返していただきたい」と法師は言ったが、晴明は「はて、変なことをおっしゃる方ですね。この晴明が、何のために、人のお供をしている少年を取って隠したりしましょうか」ととぼけたが、法師はかさねて許しを請う。
それで晴明も満足し、「よしよし。ご坊が、人を試そうと思って式神を使ってやってきたのが、どうも面白くなかったのだ。他人を試すのならそんなふうにやったらよいだろうが、この晴明にはそんなことしても無駄だぞ」と言って、また袖の中に手を入れて、呪文を唱えたかのように見せた。
それからしばらくすると、少年2人はまた法師の前に現れた。
法師は正直に、「実はあなた様が優れた達人だということを聞きましたので、お試ししようと思ってやってきたのです。しかし式神を使うことは昔っからたやすいことでございますが、他人が使っている式神を隠すなど、真に難しいこと。何と素晴らしいことでございましょうか、これからは私も御弟子とさせてください」と言って、自分の名札を用意し、晴明に渡した。

 またある日のこと。
晴明は、広沢ひろさわ寛朝僧正かんちょうそうじょうという方の御房にて、用を承っていた。
そして、若い貴族や僧たちが、晴明にいろいろと話しかけてきた。
「式神を使われるそうですが、それで人を殺すこともできるのでしょうか」と問われると、晴明は「この道で最も大事なことを、なんとぶしつけにお聞きなさることか」と答える。
「そう簡単に殺すことはできませんが、少し力を入れれば必ず殺せます。虫などでしたら、ちょっとしたことで殺すことができますが、生き返らせる方法を知らないので、罪作りになることが間違いありません。無益なことです」と晴明が言うと、「それではあのカエル(蛙。Anura)を1匹殺してみてください。あなたの力を試したい」と言われてしまう。
晴明は「罪作りな方です。ですがこの私の力をお試しなさろうとするからには」と言い、草の葉を摘み取って呪文を唱えるような仕草をし、その草をカエルに投げた。するとその草の葉が体の上にかかるや、カエルはぺしゃんこに潰れて死んでしまった。僧たちは真っ青になってふるえた。

 晴明は家の中に1人でいるはずの時も、戸が勝手に閉まったり開いたりすることがあって、式神をいつも使っているという噂があった。晴明の子孫も朝廷に仕えて、大変重んじられた。その土御門の屋敷も、代々伝わっていった。

智徳。海賊を引き寄せた法師の陰陽術

 播磨の国に、智徳ちとくという、陰陽師でもある法師がいた。
ある時、明石浦あかしのうらの沖で、海賊が船を襲撃して、積んでいた荷物を奪い、何人かを殺して逃げた。なんとか海に飛び込んで助かった者たちが、陸に泳ぎついて泣いていたところに智徳が通りかかった。
事情を聞いた智徳は、彼らを気の毒に思い、「ではそいつをここへ引き寄せて捕まえてやろう」と言ったが、船主は「そうしていただけるのなら、どんなに嬉しいことでございましょうか」と言いつつ、どうせ気休めのことだろうとも考えていた。
智徳は、襲撃がいつの頃だったかを聞いた後、船主を乗せて小さな船で沖合に漕ぎ出した。そして海の上に何か文字を書いて、呪文を唱える。次に陸に上がってから、今そこにいるものを捕まえるかのように、人を雇って見張らせた。そして船の荷物が奪われてから7日目のこと。どこからともなく漂流船が現れ、その船に大勢の人が武器を持って近づいて見ると、何かにすっかり酔っ払ったような状態で意識を失っているようである例の海賊どもがいた。奪っていた荷物もそっくりそのままあって、船主はそれらを取り戻し、それぞれ元の持ち主に返すことができた。
海賊どもは縛りあげられるところだったが、智徳は彼らの身柄をもらい受けて、言い聞かせた。「これからはこのような悪事を働くなよ。本当なら殺されても仕方がないのだ。しかしそれも殺生の罪になるのだから許してやる。この国にはこんな法師もいるのだぞ。よく心しておけ」
海賊たちは、智徳の陰陽の術にかかってしまい、そこに引き寄せられてきたのである。彼もまた非常に優れた陰陽師。彼が晴明と会った時は、自らの式神を隠されてしまったのだが、それはその方法をまだ覚えていなかっただけの話であって、特別に術が劣っていたわけではないのだ。

ある陰陽師。捨てられた女の呪い

 あるところに、長年共に連れ添った妻を捨ててしまった男がいた。妻は悲しみがつのってついに病気となり、いくらか苦しんだ末に死んでしまった。その女には身寄りがなかったので、亡骸は葬られる事もなく、そのまま家の中に放置されていた。しかしその髪の毛は抜け落ちることなく生きている時のようで、その骨もすっかり繋がったまま。近所の人が戸の隙間からそれを覗いてみると、それはぞっとする恐ろしさであった。家の中には光るものがあって、いつも何か音がしていたので、尚更恐ろしかった。
夫であった男はそういう噂を聞いて「私はきっとあの女に呪い殺されるに違いない」と恐れ、陰陽師に相談した。
陰陽師は、「これは普通ではとても逃れることのできないことですね。しかしそうは言っても、せっかく頼まれたのですから何とか工夫してみます。ただし非常に恐ろしい事をしなければなりません。その覚悟は決めておいてください」と言って、男を、例の死んだ女の家に連れていった。
陰陽師は、すでに相当怖がっている男を亡骸の上に跨らせた。そしてその髪の毛をしっかり握らせて「絶対に離してはいけません」と念を押す。それから呪文を唱え祈祷してから、「私がここに戻ってくるまで、このままにしていなさい。恐ろしいことが起こるかもしれませんが、それは絶対我慢するのです」と言い残して、去っていった。
そして夜。亡骸は、「重たい」と言ったかと思うと、立ち上がった。さらに「あの男を探してやる」と言って外に走り出す。いったいどこへかはわからないが、とにかく遠くへ向かっているようだった。男は陰陽師に教えられた通りに、必死に髪を掴み、ただただその背中にまたがり続けた。そうして、夜が明ける頃に、死者はまたその声を出さなくなった。
すっかり朝になると、陰陽師がやってきて、「昨晩は恐ろしいことが起こったでしょうが、髪を離さないでいれましたか」と聞いてきて、男は「大丈夫です」と答えた。
陰陽師はまた、亡骸に向かって呪文を唱え、祈祷してから、「これでよろしい。さあ一緒に帰りましょう」と言った。
男はそれから何の祟りを受けることもなく、無事に長生きできた。

源博雅と、不思議な琵琶

 醍醐天皇の御子である、兵部卿ひょうぶしょう親王しんのうという人の子であった源博雅みなもとのひろまさ(918~980)は、いろいろなことに関して優れた才能を持っていたが、特に管弦の道に優れ、その奥義に達していた。中でも琵琶の演奏は素晴らしく、笛も言葉では表現できないほど上手に吹いた。

 そして第62代村上天皇むらかみてんのう(926~967)の頃、 古くから皇室に伝わる宝物とされていた、『玄象げんじょう(絃上)』という琵琶が、突然なくなってしまった。
殿上人として仕えていた博雅もまた、その宝の琵琶がなくなってしまったことをなげいた。しかし彼が清涼殿せいりょうでん宿直とのい(貴人の警備)をしていた時。南の方角から玄象をひく音色が聞こえてきた。
博雅は不思議に思いながらも、召使いの少年1人だけを連れて、南の方へと歩いていった。朱雀門しゅじゃくもんを越えて、さらに南、羅生門らしょうもんまでやってきた博雅は、門の下に立ってそれを聞いたが、何かが門の2階から玄象をひいているようだった。
博雅が「これは人間がひいているのではない。きっと鬼か何かがひいているに違いない」と思っているうちに音は突然止まった。しかししばらくたつと、また聞こえてくる。
博雅は聞いてみた。「これはどなたがひいているのですか。この間から玄象が消えて、天皇はあちこち探していらっしゃいます。清涼殿で聞くと、はるか南の方にこの音色が聞こえたので、それで訪ねてきたのですが」
すると、また音は止まって、今度は天井から何かが降りてきた。それは、縄を付けておろされてきた玄象だった。
博雅が事の次第を伝えて、天皇に玄象を返すと、天皇は感激して、「さては鬼が奪っていったのだったか」と言った。そしてそれを聞いた者たちも、みな博雅を褒めたたえた。

 玄象というのはまるで生き物のようであるという。下手な者がひこうとしたり、汚れてしまっている時は、機嫌が悪くなり、鳴らないの。そして、それがある内裏だいり(天皇の私的区域)が火事で焼けた時も、誰かが取り出さすまでもなく、それはひとりでに外に出て、庭にあったという。

 優れた音楽家であったと言う源博雅の、音楽に関する話がいくつかあるが、これは少し不可思議さが強い。

源頼光が弱い矢でキツネを射つ

 第67代三条天皇さんじょうてんのう(976~1017)がまだ皇太子で、東三条殿ひがしさんじょうどのという邸宅ていたくにいた頃のこと。
東南の方の御堂の西ののきにキツネ(狐)が1匹現れ、丸くなって寝ていた。
その頃、春宮大進みこのみやのだいじんという役職であった源頼光朝臣みなもとのよりみつあそん(源頼光。944~1021)は、優れた武者として知られていたこともあって、春宮(皇太子)から「あのキツネを射てみよ」と言われた。

 頼光としては、矢を射つなど久々のことであり、外してしまったら恥ということで、あまり気乗りしなかったのだが、キツネはなかなか逃げてくれないし、春宮も結構本気で頼んでくるので、結局断ることもできずに弓を持った。
「少し遠いですね。この弓では少し力が弱いと思います。途中で矢が落ちてしまっては、外してしまうよりも物笑いの種となってしまいましょう。さてどうしたものでしょうか」と言いながら、頼光は の袖をまくって弓の先を少し下に向け、矢の長さいっぱいにつるを引き絞って、放った。
そしてその矢は、見事にキツネの胸に命中。キツネは転げて、逆さまに池へと落ちた。
「力の弱い弓で重い矢を射ったならば、たいへん強力なものであっても、的に届くこともできないはず。それなのにこのようにキツネに届かせ、当てるなど、常人の技ではない」と皇太子も、側にいた殿上人たちも考えた。
しかし頼光は「これは私が放った矢ではありません。我が一門の名を恥ずかしめないようにと、源家の守護神が助けてくださったのでございます」と謙遜した。
以降も彼は、親しい間柄の者にすら、「それは決して自分が射た矢ではない。すべて神仏のご加護によるもの」と話していたという。

ワシに連れ去られた赤ん坊

 丹馬国七美郡たじまのくにしつみぐんに住んでいた人の赤ん坊が、ある時に庭で遊んでいた。すると大空を飛んでいたワシ(鷲)が急に舞い降りてきて、その赤ん坊をつかみ、遠く東の方へと飛び去ってしまった。父母はそれを見て泣き悲しみ、どうにか取り戻そうとしたが、上空高く飛ぶワシを捕まえることなどできようはずもない。
それから10年ほどが経ってから、赤ん坊を取られてしまった父親は、丹後国加佐郡たんごのくにかさぐんで、ある人の家に泊まったが、その家には12歳ぐらいの女の子がいた。
そしてその女の子が、足を洗おうとして井戸に行った時、他に、地元の少女たちがたくさん集まって、水をくんでいたのだが、女の子の持っていた釣瓶つるべ(井戸水をくみ上げるための、縄などが付いた桶)を奪い取ろうとした。女の子は嫌がって、地元少女たちと争っている内、少女たちの方は女の子の方を罵り始めた。「お前なんてワシの食い残し」と。そして女の子は叩かれ、泣きながら家に帰った。

 家に帰ってきた女の子に、主人は泣いている理由を聞いたが、女の子は何も言わない。その時に泊めてもらっていた男が、自分が井戸で見たことを話し、なぜ女の子がワシの食い残し、と呼ばれているのかを尋ねた。
すると家の主人は、昔に、ハト(鳩)をつかまえようと木に登った時、ワシが飛んできて、巣に何かを落とすのを見た。しばらくして泣き声が聞こえてきたので、巣に近づいて見てみたところ、赤ん坊がいた。そこで助けてあげて、娘として育ててやることにした。という話をしたが、その女の子が発見された日はまさしく、男がワシに赤ん坊を連れ去られた日と一致していた。その上、娘には明らかに男の面影もあった。
そうして10年ぶりに親子は再会することになった。家の主人は、娘をすぐに親の元に返したが、しかし「私も長い間この子を育ててきたのですから、実の親と同じようなものでしょう。ですから2人ともに親となって、今後の面倒を見ましょうよ」と提案した。
その後、女の子は両方を親として過ごした。

 これは非常に珍しい話とされている。ワシはすぐに食い殺しそうだというのに、生かしておいて巣に落としたなんて、なんとも不思議なことだと。

直接交わらなかった親の子

 京から東国にくだって行く男がいた。 自分がどの辺りにいるのかもよくわかっておらず、ただ村や里を通り過ぎていくうちに、突然淫欲にかられてしまった。
そしてどうにも鎮めることができずに悩んでいたところ、近くに青菜あおなが茂っているのを見た。それは10月ごろで、かぶらの根が大きく成長していて、男はひとつ思いつく。すぐにウマから下りた彼は、垣根の中に入り込んで、そのかぶらの根の大きいやつを1本ひっぱり出し、刀で穴をほって、それと交わることで欲を沈めた。

 しばらくしてから畑の持ち主が、青菜の収穫のため、下女たちを大勢連れてやってきた。その中に、15歳くらいで、まだ男と触れ合ったこともない少女がいたが、例の男が使ったかぶらを見つけて、穴があいていたのを面白がり、しばらくもて遊んでから、手で引き裂いて食べてしまった。
その後、少女はなんと妊娠してしまった。だが当然、彼女は男に近づいた記憶などないし、周囲にも、彼女が男性のそばに近づくのを見た者などいない。娘は正直に「私、男のそばに近寄ったことなどないです。ただおかしなことに、あの日変なかぶらを見つけて食べたの。すると具合が悪くなって、こんなになってしまったの」と話したが、かなり意味がわからない。

 やがて玉のような男の子が生まれたが、いつまでもとやかく言っても仕方のないことだから、とりあえず父母は、その子をしっかり育てることにした。
さらに後のこと。東国に行っていたあの男が、また上京することになって、大勢の共の者を連れて戻っていた道中。例の畑の場所をまた通ったちょうどその時に、娘の両親も畑の青菜を収穫しようと、使用人たちと働いていた。
男は垣根の側を通り過ぎる時に言った。「やっぱりそうだ。前に東国に向かっていた時、ここを通り過ぎたのだが、女のあれがどうしても欲しくなって我慢が出来なくなった。だからこの垣根の中に入って、大きくなっていたかぶらを1つ引き抜いて、そこに穴を掘り、それを相手にして思いを遂げたのだ」
それを娘の母親が聞いていて、さらに娘が言った言葉も思い出して、思い当たった。
母親はすぐ垣根から出て、男に話しかけたが、男は、自分がかぶらを盗んだという話を聞かれ咎められるのだと勘違いし、「今のは冗談、冗談」と言って逃げようとした。しかし母親は、「大変なことなのです。是非聞きたいことがあるのです。どうか仰ってくださいまし」と泣かんばかりに頼んできたので、男も正直に「まあ別にお隠しするほどのことでもありません。私にしても、そんなに重大な罪を犯したわけでもありませんでしょうし。ただ私も凡夫の身ですので」と、自らの行為のことを説明した。
母親は真相を知り、まだ何もわかってはいない男を、家に連れて行った。そして娘の子を男に合わせると、その顔は実に似ていた。男は子の母とも会って、身分は低いけれどもとても美しいこともあり、心を決めて結婚することにした。

 これもまた珍しいことであるとされている。例え男女が交わらなくても、女の体の中に精液さえ入れば、このように子供が生まれるものなのだと。

秘密の恋は下々の家にて

 藤原明衡ふじわらのあきひら(989~1066)という学者は、若かった頃に、宮仕えしていた女房と深い仲になった。しかしその女の部屋に入り込んで寝るのも具合が悪いので、その付近に住んでいた下賤の者に「お前の家に女房を呼び出して寝させてくれないか」と頼んだ。その家の主人は留守だったが、留守番していた妻は「お安い御用です」と了承。しかしそもそも狭い家であり、他人が寝る用の部屋などもなかったので、妻は自分たちの寝室を貸してあげた。
一方、家の主人の男は、以前から自分の妻が他の男と浮気しているのではないかと疑っていた。そして「その浮気相手が今夜やってくるはず」という話を聞いたこともあり、なんとか現場を押さえ、有無を言わさず殺してしまおうと、遠方に出かけたふりをして、身を隠し、様子を伺っていた。
そして夜になって、寝室から男女の語らいの声が聞こえてきたので、「やはり本当だったのか」と思って、こっそり忍び込み、寝ていた男女の男の方を刀で刺し殺そうとした。しかしその時に、月光がそっと差し込み、その光のために指貫さしぬき(上流貴族に普及していたはかま)のくくり紐にも気づく。それで「わしの妻のところに、このような指貫を着た人が忍んでやってくることなどあるはずもない。もし人違いでもしたらとんでもないことになってしまう」と思いなおす。
さらには「そこにいるのはどなたですか」という女の声が聞こえたが、それも明らかに女房のとは違っていた。
こうして男は誤解に気づき、そちらでも驚いていた妻に事情を聞いた。
殺してしまいそうだった男と、殺されてしまいそうだった男、どちらにとってもかなり危機一髪のことであった。そしてこの話を聞いた人たちは、「どんなに忍ぶということがあったとしても、決して下賎な者の家に立ち寄ってはならないものだ」と言いあったという。

 禁断の恋というのはいつの時代でもあるようだが、夜の楽しみだけはどうしても我慢できないというのも、昔っからのことらしい。

猿神の話

サルの敵であるイヌ

 美作国みまさかのくにに、中参ちゅうざん高野こうやという2神が鎮座していた。その御神体は、中参はサルで、高野はヘビであった。そして毎年1回のお祭りの時に生け贄がお供えされたが、その生贄には、その土地生まれの未婚の処女を立てるという決まりであった。
そしてその国に、それほどの家柄ではないが、とても美しい娘を持った夫婦がいた。しかしある年にその娘が生け贄にわり当てられてしまう。生け贄に決まってしまった者は、その日から祭りまでの1年間、十分に養われ、体を太らせ、そして捧げられる。
だんだんと運命の時は近づくが、両親もただ悲しむことしかできなかった。ちょうどその頃に、東国からこの国に旅行してきた人がいた。この人はイヌを飼いならす猟師で、とても勇猛な性格でもあり、恐れというものを知らなかった。
そして生贄となることが決まっている美しい娘に、心惹かれた猟師は、「たった1人しかいない娘を猿神の生け贄に指名され、朝夕泣いてばかり。月日が経つにつれて、今生の別れの日も近くなってまいりましたのを本当に悲しく思っています。世の中には、こんなにいまわしい国もあるのですね。いったい前世でどのような罪を犯せば、こんなところに生まれて、こんなに情けない目にあうのでしょうか」と嘆く両親とも話した。
猟師は「この世の人にとって、命にまさるものなどありません。そして人が宝とするものの中で子にまさるものもありません。それなのに、たった1人の娘を生贄にされるなんて、どう考えても残念なこと。いっそ命をかけてごらんなさい。どこの世に、娘をとって食おうという敵を前に無駄死にする者がいますか。仏も神も命を大事と思えばこそ恐ろしいのです。子のためにこそこの身もおしむもの。娘さんは、今はもういないものとお考え下さい。どうせ死ぬものなら娘さんを私にください。代わりに私が死にますから。それなら私にくださってもご心配には及びますまい」と言い、さらに自分には考えがあるとも告げた。

 それから猟師は娘を妻として過ごし、愛情を深めていく一方で、長年飼い慣らしたイヌたちの中から特別な2匹を選び、人目につかないところで、サルを食い殺すための練習をほどこした。元々、イヌとサルとは仲が悪いものだが、その上、このように教えたので、やがてその2匹は、サルさえ見れば飛びかかって噛み殺すようになった。
そして、本来は娘が生贄に捧げられる日。娘が入るはずの長櫃ながびつ(長い形の大きな箱)に入ったのは男で、刀を隠し持ち、さらにイヌを両脇に伏せさせていた。生け贄を入れた長櫃は神社に運ばれ、神主たちは祝詞をあげた後、玉垣たまがき(神社や皇居の周囲にめぐらされた囲い)の扉を開け、長櫃の紐を切って、神前に差し出してから外に出て行った。
男が長櫃のフタを少しだけ開けて確認すると、身の丈八尺ほどもあるような大きなサルが上座に座っていた。歯が白く、顔と尻は赤い。そして左右には100匹ぐらいのサルたちが座っていたのだが、みな顔を赤くし眉をつりあげ、なき叫んでいる。
さらに前にまな板があって、大きな刀が置いてあり、酒や塩など調味料も用意してある。人が肉を調理する場所とそっくりであった。
上座のサルが長櫃を開けようとすると、 他のサルたちも立ち上がった。その時に男が飛び出し、イヌをけしかけて大ザルをくい倒させた。さらに頭目のサルを捕まえると、まな板の上に倒し、刀を突きつけて言った。「お前が人を殺して肉を食う時はこうするんだろう。今回は俺がお前を犬に食わせてやる。お前が本当に神であるなら、この俺を殺してみろ」
そうこうする間にも2匹のイヌは暴れまくり、多くのサルを殺しまくった。どうにか生き延びたサルたちは木に登ってなき叫ぶ。そしてそのうちのひとりが神主に乗り移って言った。「もう生け贄など求めない。生き物を殺さない。私たちをこんな目に合わせた男にも復讐をしない。だからどうか許してくれ」
神主たちも社の中に入ってきて、「神様がこのように言っている。許してあげてください、もったいないこと」と説得したが、男は「自分の命なんて少しも惜しくない。尊い命を捧げた多くの人の代わりにこいつを殺してやるんだ。そうして、こいつと一緒に死んでやるのだ」と言って、怒りを和らげようとしなかった。
しかし神主が祝詞を捧げ、神が誓約をたてると、男はやっと許してくれた。

 サルは山深くに逃げていき、男は家に帰って娘と長く夫婦として 暮らしたが、その家には何の祟りもなかった。

異世界でのサル神退治

 仏道修行中の僧が、飛騨国ひだのくににまで来ていたが、深い山奥をさまよっていたところ、巨大な滝を見つけた。
帰り道もわからず、とにかく仏に助けを求めるしかなかった僧だが、やがて荷物を背負い傘をかぶった男が現れたので、すぐに道を尋ねた。 しかし男は何も答えず、滝の中に飛び込んだかと思えば、姿を消した。
「なんと、人ではなく鬼だったのか」と僧は思い、恐怖し、「そのうちに鬼に喰われてしまうくらいなら、同じように滝に飛び込んで死んでしまおう」と決意した。
しかし滝の中に飛び込むと、顔に水がさッとかかり、次の瞬間には滝を通り抜けてしまった。その滝はとても薄く、さらに先には道があった。そして進んでいくと、大きな人里にまでたどり着く。

 僧はどういうわけだかとても歓迎されている様子で、とりあえず郡司ぐんじ(地方官)の屋敷に連れてかれることになった。
屋敷から出てきた老人に、荷物を背負った男は言った。「この方は私が日本国から連れて参ったのです」
老人は「今さらあれこれ言うこともあるまい。確かにあなたのものだ」と言った。
そうして僧は、荷物男に連れてかれることになった。
「先ほど日本の国などと言っていましたが、ここはどこなんでしょうか?」と僧が尋ねると、男は「そういぶかしく思われますな。ここは楽しい世界ですよ。何一つ心配事などありません、心豊かにお過ごしいただけると思います」と答えた。

 郡司の屋敷ほどではないが、男の家も結構立派なもので、使用人も大勢いた。(出された食事が肉であったから、肉食を自ら禁じている身として、仏に対して後ろめたくはあったが)僧はもてなされ、家の娘と結婚してほしいと言われた。僧はまだ「彼らはやはり鬼ではないか」と疑っていたから、食われることを恐れ、言うことを聞くしかなかった。
しかし娘と夫婦になってからの日々は、まるで天国にいるかのようだった。食べ物は食べ放題、身に付けるものは思いのまま。そんな贅沢な暮らしをしているうちに、僧はどんどん太っていった。しかし2人の愛が強まるにつれ、妻の方はひどく悲しむ様子を見せるようにもなった。
やがて問いつめる夫に、妻は白状した。「この国に恐ろしいことがあるのです。この国に霊験あらたかな神様がいるのですが、その神様が、人を生贄として食べるのです。あなたがここに来た時、みなが自分の家に来て欲しいと歓迎したのは、あなたを生贄にしようと思ってのことなのです。毎年1人ずつ、順番に生け贄が差し出されていくのですが、生け贄が見つからない場合、大切な我が子であろうとも生贄として差し出さなければならないのです。あなたがおいでくださなければ、私が神様に食べられるはずでした」
夫はようやく、自分が歓迎された理由も、食い太らされた理由も理解した。
生け贄は裸にされてまな板の上に乗せられ、それが神様が料理する。その神様はサルの姿をしている。と妻から聞いた夫は、よい鉄で鍛えた短刀を用意してもらった。

 生け贄祭りの時。妻は、「もう自分たちの時間はわずか」だと悲しんでいたが、夫は全然動じる様子を見せなかった。
当日、生け贄男は沐浴し、衣服をきちんと着せられた後、使の者に急かされて、ウマに乗り出発。
やってきた山の大きな神殿では、沢山の里の人たちがごちそうをずらりと並べて、食べたり飲んだり舞いあそぶことで神をたたえていた。その後に生け贄男は呼び出され、裸にされ、まな板の上に寝かされ、他の者はその場からさっさと去っていった。
次に第一神殿と呼ばれる神殿の扉が開き、それに続くように他の神殿の扉も開いた。さらに神殿の側から人間くらいのサルが現れ、第一神殿の方に向かって、ぎゃっぎゃっと鳴いた。すると第一神殿のすだれを押し開き、さらに大きく、銀のような歯が目立つサルが出てきた。それからも次々に、たくさんのサルたちが神殿から出てきた。
男は裸になっていたものの、股の間に刀を隠し持っていて、隙をついて、第一神殿のサルにとびかかる。そして勢いのまま押さえつけて、「お前が神か」と聞いた。そのサルは手を合わせて拝み、それを見た他のサルたちも次々と逃げていった。
男はサルを縛って、刀を突き立て「サルめ、神などと偽りおって。第二、第三の御子がいるなら、そいつらを呼び出せ。そうしないと突き殺す。本当にお前が神だと言うなら、刀も刺さらないだろうが、試してやろうか」と脅して、権力持ちの仲間を呼ばせ、そいつらも縛った。

 4匹のサルを縛ったまま、里に連れて帰って来た男を、里の者たちは「あの生け贄の男、神様の巫女たちを縛ってくるなんて、きっと神様以上のお方だったのだ。そんな方を生け贄に捧げてしまうなんて。神様さえもあのようにしたのだから、きっと我らなんか取って食ってしまうに違いない」と恐れたが、男にそんな気もなく、ただ「こんなやつらを神と崇めて、毎年人を生贄に食わせていたなんて実にけしからんことだし、ばかげてる。だが私がここにいる限りは、もうサル共に酷い目に合わされるようなことは絶対にないだろう」などと言っただけであった。

 それから命だけは許されたサルたちは、山深くに逃げ去って、二度と姿を現さなかった。
僧だった男は、その里の長者となって、人々を支配し、妻とともに 暮らした。彼はこちら側の国にも時々密かに通って、里にはいなかったウマやウシやイヌを連れてきて繁殖させもした。そういう時に、この話も語り伝えたとされている。
その国は、飛騨国のどこかに、あるいは近くにあるはずなのだが、見つけられた人はいない。

ヘビとムカデの戦い

 加賀国かがのくに(石川県の南部辺り)に身分の低い7人の者たちが住んでいた。彼らは仕事として、よく一緒に船に乗って釣りをしたが、その時には弓矢とか剣を持ってもいた。そしてある時、陸から離れたところで強い風に見舞われ、どんどん沖の方へと船は流されてしまった。それから帰ることもできずさまよったが、やがて島を見つけて、彼らは上陸した。
とりあえず何か食べ物はないかと探していると、20歳くらいの美しい男が現れて、漁師たちに告げた。「あなたがたを、この私が迎え引き寄せたことをご存知でしょうか」
「知らない」と答える漁師たちに、男は「実はあなたがたの船をここに運んだ風は私が吹かせたものなのです」と白状する。そしてすぐ後に「みなさんおつかれでしょう。あれだ、あれを持って来い」と彼が大声で叫ぶと、大勢の人たちが、食べ物や酒を持って現れ、そして漁師たちは大歓迎を受けた。

 彼らが漁師たちを招いた理由は、助っ人になってほしいからだった。実はその島とは、別のある島の主が、その呼び寄せた男を殺して、彼の島を自分のものにしようとしているのだという。
さらに詳しく聞くと、その戦いが始まると、敵も味方も、互いの島の者たちは人間の姿でなくなるという話も出てくる。

 そしてその戦いの時。攻めてきたのはムカデの大軍で、迎え撃つのはベビの大軍であった。しかしムカデの方が手が多いために、基本的には優勢なようだった。しかしヘビが負けそうになるのを見て、助っ人の漁師たちは、弓矢を撃ちまくり、矢がなくなると剣でムカデの手を切りまくり、それらを見事に撃退した。

 蛇の化身の男は漁師たちに感謝して「ここは非常に資源に恵まれて暮らしよい島です。みなさんもここに住んだらどうかと思うのですが」と提案。 「しかし故郷に残している妻や子供たちをどうすればよいか」と漁師たちは悩むが、蛇の化身の男はさらに「では迎えに行ったらよろしいでしょう」と言い、「向こうへ渡る時には私たちが風を吹かせます。そして向こうからこちらへ帰ってくる時は、加賀国に熊田宮という、ここの分社がありますから、そこをお参りすれば、こちらに簡単に来ることができます」と丁寧に説明した。

 そういう事情で、その漁師たちと家族たちは、島に住みつき、子孫も繁栄し、島の人口も次第に増えた。その島は『猫の島』といい、住み着いているそこの住人たちは、後の世になっても、時たま加賀国に渡ってきては、熊田宮にお参りしていくのだという。しかし彼らは、夜中とかに突然やってきては、誰にも大して確認されない間にどこかへと去って行ってしまう。
時々、島に流れ着いてしまう人もいるのだが、そういう人は島の住人から歓迎を受けた後、「こういう島があると人には語ってくれるな」と口止めされるそうだ。

鬼殿の悪霊

 三条大路の北、東洞院ひがしのとういん大路の東のすみに、『鬼殿おにどの』というところがあった。そしてそこに霊が住み着いていた。
昔、平安京に都移りもしてなかった頃のこと。三条東洞院の鬼殿のあった場所に大きな松の木があった。そしてそのそばをウマに乗り、胡簶やなぐい(矢を入れ、腰につけて携帯する道具)を背負った男が通りかかった時のこと。雷鳴が轟き、稲妻が走り、どしゃぶりになったので、男はとりあえずウマから降りて、松の木の根元にしゃがんで雨宿りをした。しかし雷が、男もウマも殺してしまった。それで男はそのまま霊になった。そこが人が住む家になっても、そこから離れることなく悪霊として住み着いている。そしてその場所にはしばしば不吉なことがあった。

 この後、幽霊の話がいくらか続く。

水の精の翁

 陽成院(陽成天皇ようぜいてんのう。869~949)が住んでいたのは、二条大路の北、西洞院にしのとういん大路の西、大炊御門おおいのみかど大路の南、油小路あぶらのこうじの東の地の辺りの二町。そして彼が亡くなられた後、そこには東西を分ける冷泉小路が置かれて、北の町には人が住み、南の街には池などが少し残った。その南の街にも人が住んでいた時のこと。
それは夏の頃だったが、ある人が寝ているところに、身の丈3尺(90センチメートル)ぐらいの小さな翁が現れて、寝ていた人の顔を撫でた。顔を撫でられた人は、恐ろしくてとにかく寝たふりをしていたが、翁が離れると、少し目を開けてみた。翁は、池のそばで姿を消した。
池はいつ水を変えたともわからないような、浮き草などが生い茂っている状態で、気味が悪い。 そこに住む妖怪であろうか。その後も夜な夜な、池の近くに来た人の顔を撫でるので、人々は恐れた。
やがて、武者気取りの男が、「この俺がその、顔を撫でるやつを捕まえてやろう」とやってきた。そして真夜中に、この男は自分を触ってきたその小さな翁を、本当に捕まえて縛り上げた。人々が集まってきた。翁は何も言わず、ただ死にそうな様子だったが、しばらく経ってから微笑みを見せて、しかしずいぶん小さく情けない声を出した。「たらいに水を入れてくださいませんか」
そこで水を入れたたらいをその前に置いてやると、翁は首を伸ばして、たらいの水に自らの影を映した。そして言った。「わしは水の精じゃ」
次の瞬間、翁は水の中にズブリと落ち込み、その姿は消えた。 たらいの水は溢れるほどにその量を増やしたが、人々はなるべくそれを壊さないように、池に全て注ぎ込んだ。
それから後は、翁が人の顔をなでることはなくなった。人々は水の精が人の姿で現れたのだと語り伝えた。

銅器の精と陰陽師

 東三条殿に式部卿宮しきぶきょうのみやと申し上げる方(重明親王しげあきらしんのう。906~954)がお住まいになっていた時のこと。
親王はよく、南の山を、身の丈3尺ほどの太った男が歩いているの 見て、怪しく思っていた。そこで陰陽師を招いて相談してみた。
陰陽師は「それはもののけでございますね。人に害を与えるはずのものではございませんが」と占い示した。
親王は「その霊はどこにいるのか、またそれは何の精なのか」と尋ねる。
陰陽師は「これは銅のうつわものの精です。おやしきの東南の地面の中におりますね」と告げた。
それから、南東の方角の地面を区切り、さらに詳しく占い示してもらった場所を、三尺ほど掘ったが、何も出てこない。陰陽師は「もっと掘ってみなければ。間違いなくここにあります」とまた告げた。
そしてもう少し掘ったところで、本当に銅の提子ひさげが掘り出された。
物の精は、時々は人の姿で現れるものなのである。

 精霊の話が、前とこれで、この後も続くような感じがあるが、次には、恐ろしい鬼の話と、その関連を思わせるかのような怪事件の話などが続く。

キツネが化かしたこと

 民部大夫頼清みんぶのたいふよりきよという人がいた。斎院さいいん賀茂神社かもじんじゃに使えた皇女)の年預ねんよ(上皇直属の政務機関である院庁いんのちょうなどで雑務などを任されていた役職)をしていたが、何かで勘当をくらい、 自分の荘園そうえん(私有の土地)があった木幡こはたというところで謹慎していた。
この頼清に下女として使われていた、参川みかわ御許おもとには、京に実家があって、主人である頼清が木幡に謹慎してからは、その実家に帰っていた。しかしある時、舎人とねり(皇族や貴族に仕え、雑用や警備に従事した役職)の男が来て、「急用ができたのですぐに参上してほしい。木幡にいた殿様だが、特別なご用があって昨日出かけ、山城に家を借りてお移りになった。そちらの方へすぐ行ってくれ」と言ってきた。女には5歳くらいの子供がいたのだが、その子を抱いて、急いで出かけた。
山城の家では、頼清の妻が迎え入れてくれたが、 色々と衣を染めたり、洗ったり、忙しそうで、女も手伝い、そして働くうちに5日ほどが経った。
女主人は女に対して、「前にいた木幡の屋敷には、留守番の人を1人置いているんですが、言ってやらなければならぬ用事があるので、行ってくれないか」と言った。女は承知し、自分の子は同僚の女に預けて、木幡に向かった。
ところが木幡に着くと、静まりかえっていると思っていたその家はとても賑やか。山城で一緒に働いていたはずの同僚たちもいるし、家の主人もしっかりいる。そして「勘当が許されたのでお知らせしようと、あなたの所にも使いをやったのだが、この2、3日、ご主人様のもとへ行ったらしいと聞かされただけ。いったいどちらへ行っていたのだ?」とも。
女は驚きながらも、自分の体験を全て話した。その場の者たちの多くは恐ろしいがったが、中には笑う者もいた。女は自分の子供はもう殺されているに違いないとすっかり動転しながらも、「それではすぐに人をやって、子供がどうしてるか見させてください」と言った。
そして大勢の人と女はそこへ行った。しかし例の家の辺りは、ただ広い野原が広がっているだけ。人の気配もない。子供を探すと、その子は1人で座って泣いていた。
女の主人は「お前の作り話だろう」と言ったし、同僚たちもあまり信じてはくれなかった。だが母親が幼い我が子を、嘘のために野原に置き去りにしたりするだろうか。これはおそらくキツネの仕業、しかしキツネだからこそ、子供が無事に戻ったのだと噂された。

 ここから後しばらくは、キツネやタヌキのような、動物が化かす話が続く。

毒キノコを食べても平気

 金峰山きんぽうざん別当べつとう官司かんし、つまり国家体制内での役人を監督する立場の役職)をしていたのは老僧であったが、80歳を超えても、70歳でも見ないほどに元気な人だった。そして昔、別当はろう(年功序列)によって決まっていた。

 ある時に第二﨟の僧が、仏様のことは恐れながらも、自分より長生きしそうな今の別当を殺して、自分がその立場につこうと計画した。そして、人が必ず死ぬ毒を有するという『和太利わたり』というものを、ヒラタケと偽って調理して食べさせた。
しかし、 食べてしまえばすぐに苦しみに悶えることになるはずのその料理を食べても、老僧は全然平気そうだった。さらに笑顔で言う「私は生まれてこのかた、こんなに見事に調理された和太利を食べたことがないです」
「知っていたのか」と第二﨟僧は驚き、そして恥ずかしさのあまりに奥に引っ込んだ。その老相転移は、長年和太利を食べながら、しかし毒にあたらない人だったのだ。世の中には、毒キノコを食べても平気な人がいるのである。

騙されて売られた女

 近江国おうみのくに(滋賀県辺り)に住んでいたある人が、若くして死んでしまった。その妻の歳は30くらいであったが、子供もなく、亡くなった夫をいつまでも恋いしたい、悲しみに暮れていた。
しかしある時、長年そばで仕えてくれて、頼りにしていた男から「 いつまでも一人寂しくしているよりは近くに山寺がありますからそこにでも行って、しばらく御湯治ごとうじ(温泉で一休み)でもしたらどうでしょうか」提案され、「それもそうだな。自分には親戚もないので、いっそのことそのような山寺で尼になるのもいいかもしれない」と女も考えた。
しかしいざ出発すると、近いところだと聞いていたのに、男はずいぶん遠くまで、ウマに乗せた女を連れて行った。そしてある家の門の前で女をウマから降ろし、男はその家の中へと入っていった。 そして奇妙なことに、家の者から、絹や布など、いろいろ高価な品を男はもらっているようだった。そして受け取るものだけ受け取ると、男はさっさとどこかへ去ってしまった。
後から聞いたところ、その男は主人の女をたぶらかし、美濃国みののくに(岐阜県南部辺り)にまでつれて来て、売ってしまったのだった。
女は、書いとり手の男に、泣いて事情を説明したが、見逃してはくれなかった。逃げる手段もなく、女はただ悲しみながら言った「この私をお買取になったって何の得にもならないです。私をひどい目にあわせて殺したって。どうせこの世に生きながらえる気などございませんから」
その言葉通り、女はどんな食べ物を出されても口にしようとせず、ただひたすら「とんでもない奴に騙されてしまったものよ」と愚痴をこぼすだけ。そして連れて来られた日から7日目に、とうとう彼女は死んだ。買い取り手の男にとしては丸損に終わってしまった。
口先でどんなに上手いことを言おうとも、下賤の者の言うことなど信用するものではない、という教訓の話。

子を見捨てて逃げた女

 子供を背負った若い女が歩いていたが、2人の乞食が現れて、彼女に乱暴しようとした。しかし女は「抵抗はしません。しかし今朝からお腹を壊していてどうしようもないから、ちょっとだけ用足しに行かせてください」と言った。
乞食は「だめだだめだ」と拒否したが、女は「では子供を人質に置いておきましょう。この子は我が身以上に可愛く思っているものですから、決して見捨てて逃げることなどないでしょう」と説得。乞食もそれを聞いて了承した。
しかし女は、実際にその場から離れると、子供を見捨てて逃げてしまった。
それから逃げ道途中で出会った武士たちに事情を伝えて、乞食共のところに戻ってくると、子供の死体があって、乞食たちはもうすでに逃げていた。
その女を「子供は可愛いに違いないが、乞食には絶対に身を任せまいと思い、子を捨ててまで逃げたのだ」と、武士たちは褒め称えたという。下賎な者の中にも、このように恥を知る者がいるものだと。

 この物語が普通に流通していた当時の、武士の倫理観というものが垣間見れる話である。

ワニを返り討ちにしたトラ

 九州の方に住んでいた人たちが、商売のために、船で新羅しらぎ(朝鮮の国家)にわたった。
そして商売を終えての帰り。新羅の山の断崖に沿って船を漕ぎ進めていた訳だが、水が流れ出てるところで一旦船を止め、何人かが水をくみにいった。しかしその時、船に乗っていた1人が、断崖の上でうずくまり何かを狙っているようなトラに気づいた。すぐに水を汲みに行った者たちは呼び寄せられて、大急ぎで船はまた出発した。
トラは船に向かって飛んだが、船が動き出すほうが少し早かったおかげで、見事に水中へと落ちた。
しばらくするとトラは泳いで陸に上がってきた。船の者たちが見ていると、水際の平らな石の上に登ったそのトラの左の前足は、膝から切れてなくなっていて、血が流れ出ていた。トラは、怪我の部分を海水に浸してうずくまる。
その内に、沖の方からこのトラめがけてワニが突進してきた。しかしトラはそれを見た瞬間、右の前足でワニの頭に爪をたて、投げ飛ばした。さらに仰向けになったワニに対し、その顎の下めがけておどりかかって、食らいつき揺さぶった。
それから、残っている3本の足で、トラは去っていった。
「このトラの仕業を見ると、もし船に乗り込まれていたならば、一人残らず食い殺されてしまっていたに違いない。たとえ武器を持って軍勢だとしてもかなわなかったろう。まして狭い船の中では、刀を抜いて立ち向かったとしても到底どうなるものでもなかったろう」などと話ながら、船の者たちも帰って行った。

 ワニも水中においては強く賢いものであるから、トラが落ちてきたのを見て、その足を食いちぎったのだ。しかし陸に上がったトラを食おうとしたのは愚かだった。だからこそ返り討ちにあって、命を失ってしまったのである。
万事はみなこのようなもの。あまり身の程知らぬ振る舞いはやめたほうがよい、全てほどほどにしておくべき。と語り伝えられているという。

 ワニというのは、サメの古名という説がある。

巨大ヘビに噛みつくイヌ

 陸奥国むつのくに(青森、岩手、宮城、福島、秋田県辺り)の方に、たくさんのイヌを飼った男が住んでいた。男は犬山と呼ばれるような者だった。つまり、いつもイヌたちを連れて深い山に入り、イノシシやシカを食い殺させてとることを仕事にしていたのである。
そしてある日。いつものようにイヌたちをつれて山に入って行った。1本の巨大な木の空洞の中に入って野宿するのも、いつも通りであった。ところがその夜、長年飼い慣らし、1番優れていた1頭のイヌが、他のイヌどもは寝静まっている中で飛び起きて、走り回りながら吠えまくった。 「いったい何に向かって吠えているのか」と主人の男も怪しんでいたのだが、やがてそのイヌは主人に向かっても吠えてきた。男は、「吠えるような相手なんていないのに、自分に向かってまでこうして敵意を向けてくるとは、まったくこの獣は何も見境つかなくなってしまったのだろう。このような人気もない山の中で本性を現し、俺を殺そうと言うのだろう。こいつめ、殺してやる」と思って、刀を抜いて脅したが、それでもイヌは吠えることをやめない。
もし戦いになったら、こんな狭い空洞の中ではこちらに部が悪いだろうと、男は外に出てきたが、それと同時にイヌは、自分のいた空洞の方に飛び上がり、何かに噛みついた。それで初めて男は、イヌが自分に吠えていたのではなかったのだと気づいた。
そして空洞の上から、長さ2丈(6メートルくらい)ほどの巨大ヘビが、頭をイヌに噛まれた状態で落ちてきた。
男はすぐにそのヘビを斬り殺した。するとイヌはようやく大人しくなって、ヘビからも離れた。
木の空洞の中に巨大ヘビが住んでいることを知らずに、主人が寝ようとしていたことを知ったイヌは、それを救おうと必死に吠えていたのだ。「イヌをもしも殺してしまっていたなら、自分はどんなに悔やんだことだろう。そうしたら寝てる時にこのヘビが降りてきて巻きついてきて、どうしようもなかったはずだ。このイヌは素晴らしい、俺にとっては他に得られぬ宝だ」と男は考えた。

 この後も、さまざまな動物の話が連続して続く。

姥捨て山の物語

 信濃国しなののくに(長野県辺り)に、ある夫婦が住んでいた。
夫婦の家には年老いたおばもいて、実の親のように面倒を見ていたものの、嫁は心中ではこのおばを嫌っていた。そして嫁はよく夫に対して、「このおばはひねくれていて意地が悪い」とよく言い聞かせていた。夫もだんだんと、このおばをおろそかに扱うことが多くなっていった。
やがて、おばの腰が2つに曲がるような姿になって、妻はますますこれを嫌った。そこで、いい加減に死ねばいいのに、と考えて、夫に「あのおばは本当に根性悪だから、どこか深い山に連れて行って捨ててきておくれ」と頼んだ。夫はさすがに気の毒に思って拒否したが、しつこく妻にお願いされて、ついにその気になった。
そして8月15日の月の明るかった夜。男はおばに言った「おばあさん、いらっしゃい。寺でありがたい法会ほうえがあるそうです。連れて行ってあげます」祖母は、「本当にありがたいこと。お参りしましょう」と喜び、男の背中におんぶしてもらった。そして男はそのまま、おばがとても1人で降りられないような山の高い峰に登ってから、おばを残して逃げた。「おおい、おおい」というおばの叫びは聞こえていたが、男は返事をせず、とにかく家に逃げ帰った。
しかし家に帰ってから「妻に責め立てられて、このようにおばあさんを山に捨ててきたが、長年親のように面倒を見て一緒に暮らしてきたというのに、それを捨ててしまうなんて」と後悔した男は、その夜は眠れず、あくる日の朝に再び山に登って、おばを家に連れて帰り、もとのように世話をするようになった。
妻の言いなりになり、つまらぬ心など起こしてはならない。今でもこんなことはあるかもしれない。その山はそれから、おばすて山(姨捨山)と呼ばれるようになった。

人の娘を妻にした白い犬は大神であったか

 京に住む若い男が、北山のあたりに遊びに行った。やがて日が暮れて、彼は迷ってしまい、帰るに帰れなくなった。途方に暮れていると、谷間に小さなあん(草木で作られた小さな住居)を見つける。
近づいてみると、それはしば(野山の雑木ぞうき)の庵であった。そして姿を見せた、おそらく20歳くらいだろう若く美しい女が、呆れた様子で尋ねてきた。「これはいったいどなた様でしょうか?」
男が「実は山を遊び歩いていたところ道に迷って、帰るに帰れず、宿を借りるようなところもなく、しかしここを見つけて、一安心し、やって参りました次第です」と正直に言った。
女はさらに聞いた「ここは(普通の)人がやってくるようなところではありません。この庵の主人はすぐ戻ってきます。そしてあなたがこの家にいらっしゃることを見たら、きっと訳ありの人と疑うことでしょう。そうなったらどうなさるおつもりですか?」
しかし「何があろうと、もう帰るに帰れないのです。どうか今晩一晩だけでいいですから、どうにかお取り計らって、ここに泊めてはくれないでしょうか」と男がとにかく頼むので、女も「それではこうなさいませ。長い間お目にかからず恋しく思っておりました私の兄が、思いもかけず山に遊びに行って道に迷い、ここに来たのだ。と私が申しておきます。そのつもりでいてください。そして京へお帰りなさいましたとしても、決して「こういうところにこういうものが住んでいた」などと他言などしないでください」と策と条件を出した。
「誠にありがたいこと。おっしゃるままに心得ております」という男を一間に呼び入れ、むしろ(ワラ(藁)やイグサ(藺草)で編まれた敷物)を敷いてやった女は、さらに悲しげに自分の身の上も告げた。
「実は私も京に住んでいた人の娘だったのです。それが思いもかけずあさましいものにさらわれ、ものにされ、長年このようにしているわけです。その夫がもうすぐここに帰ってきます。全てはこれからご覧になれましょう。しかし暮らしに不自由するようなことなどはございません」
男はそれを聞いて恐怖した。「それはいったい何者なのだろう。鬼であろうか」しかしいざ帰ってきたそれは、なんと大変大きな白いイヌであった。
なんとイヌだったのか、女はイヌの妻だったのだな。と男が思っていると、そのイヌが入ってきて、男を見つけ唸り声を立てた。女は出てきて、「長い間会いたいと思っていた兄が……」と言っていた通りの設定を泣きながら告げる。犬はその言葉がわかるようで、奥に入り、かまどの前に横になった。女も犬のそばに座った。
それから出された立派な食事を食べてから、男は寝た。イヌも女と一緒に寝たようだった。
そして夜が空けて、男の所に食事を持ってきた女は、またこっそり告げた「重ねて申しますが、ここにこういうところがあることを決して誰にも話さないでください。また時々はここにいらっしゃってください、あなたを兄と言いましたこと、主人もそのように心得ているのです。何かご用のこととかあれば叶えても差しあげます」
男は「決して他言などいたしません、近々また伺いもします」と丁寧に礼を言って、京へ帰った。

 ところが京に帰ってきた男は、あちこちでこの出来事を話し、人から人へとさらに伝わり、京では誰も知らない者などいなくなってしまった。そして怖いもの知らずな若い連中が集まり「北山でイヌが人を妻にしているらしい。そこに行って、そのイヌを射殺し、その妻を奪い取ってやろうじゃないか」とも決める。
そして100人以上もいるだろう、弓矢や剣なと持った者たちが、道を知っている男の案内で、再び例の庵へとやってきた。一行の者たちが、「あれだあれだ」と大声を出すものだから、それを聞きつけたようであるイヌも姿を見せた。そして前に来た男が大勢の人たちの中にいることに気づくと、すぐに庵の中に戻り、女を前に押し出してきて、さらに山の奥へと逃げていった。
大勢でそれを取り囲み弓矢を放っても、命中しない。イヌも女も逃げ、まるで鳥が飛ぶような速さで山奥へと消えてしまった。一同は「これは普通ではない」と言って、みな引き返した。そして案内した男は気分が悪くなり寝込んで、そのまま2、3日で死んでしまった。
物知りの古老は「あのイヌは神などであったのだろう」と語った。禁じられたことを喋った男は、約束を守らなかったために自ら命を滅ぼしたわけである。
その後、そのイヌの行方を知る者はいないが、近江国にいたと伝えている人がいたとも。

外国ではない巨人の島

 佐渡国さどのくに(佐渡島)に住んでいた大勢が1艘の船に乗って出かけたところ、強い南風に見舞われ、北の方にかなり流されてしまった。そうして流されているうちに1つの島が見えてきた。「何とかしてあの島に」と船の者たちみな願っていると、思う通りにその島に流れ着いた。
船の者たちは我先にと島に降りようとしたが、その前にその島から人が出てきた。見るとその人は、頭を白い布で包んでいて、とにかく背丈がものすごく大きかった。とてもこの世のものとも思えぬその姿に、船の者たちは「これはきっと鬼に違いない。我々は鬼の棲む島にやってきてしまったのだ」と恐怖した。
白い布をつけた巨人は「そこにやってきたのは何者か」と聞いてきて、船のものが「我らは実は佐渡国の人間なのです。船で航海していた途中、突然暴風に見舞われて、思いがけずこの島に」と正直に言う。
島の人は「決してこの島に降りてはならぬ。この島に上陸したりするならばとんでもないことになる。食べ物だけは持ってきてやろう」と言って、一時どこかへ帰った。しばらくしてから、前の人と同じような身なりの者たちが10人ほど姿を現す。そしてまだ恐怖する船の者たちに「お前たちをこの島に呼び上げてやりたいのだが、もし上げたならお前たちにとってよくないことになる。これを食べて、しばらく待っていたなら、そのうち風も順風に変わるだろう。その時に国へ帰ればよい」と言って、『不動』というものと『芋頭』というものを食べさせてくれた。それらの食べ物も普通よりかなり巨大で、島の人は「この島ではこれを常食としているのだ」とも言った。
その後、順風になってから船出して、国に帰ってきた者たちは「だから鬼ではなかったはず、神なのであろうか」などと話し合った。とにかくこんなに驚くべきことがあったと、彼らは佐渡国に帰ってから人々に伝えた。
その島は外国ではなかったはず。言葉は確かに日本の言葉であったから。ただそこに住む人の体格がかなり大きく、身なりなども日本人とは異なっていたのだという。

常陸国の浜に流れ着いた巨人

 常陸国ひたちのくに(茨城県辺り)に、かみ(地方官の長)であった藤原信通ふじわらののぶみちという人が、任期を終える年の四月のこと。強い風が吹いて海も荒れた夜、とある郡の東西の浜に、巨大な死体が打ち上げられた。
それ人のよいだったが、身の丈が5丈(15メートルほど)もあり、胴体の半分は砂に埋もれ、またその首は切断されて頭部がなかった。右の手と左の足もなかったので、ワニに食いちぎられたのかもしれない。身なりや肌の感じから女のようだが、うつ伏せで砂に埋もれていたこともあって、男女どちらなのか正確にはわからなかった。
地元の人たちは大騒ぎで、噂を聞いた国司(守)もやってきたりした。そして、ある学識深い僧が「この世界にこのような巨人の住処があるなどとは仏も説いておられない。これは阿修羅女なのだろう。その体もとても清らかな感じがあるが、その正体ゆえなのかもしれない」と推測した。

 国司らは「この奇妙な出来事を伝えたら、朝廷の使者が必ず検分にやってくる。そうなると接待などが面倒だ」と話し合って 結局この巨人のことは、上申せずに隠すことにした。
ある武者はその巨人を見て、「もしこのような巨人が攻めてきたならばどうしたらいいだろうか。矢が有効なのかどうか試してみよう」と、その死体に矢を放って、しっかり突き刺さることを確かめた。それを聞いた者たちは「あっぱれ、よくぞ試した」と武者を褒めそやしたという。
死骸は日が経つにつれて腐ってきて、ひどい臭いのため近くに人が住むこともできなくなり、そのうちについに京にまで噂も伝わって、結局この話は世間で語り継がれることとなった。

越後国の浜に流れ着いた小人の船

 源行任みなもとのゆきとうという人が、越後国えちごのくに(新潟県本州部辺り)の守として在任していた頃。ある郡の浜に幅2尺5寸(75センチメートル)、長さ1丈(3メートル)、深さ2寸(6センチメートル)くらいの小さな船が打ち寄せられた。それを見つけた人は「誰かがふざけ半分にこしらえて海に投げ込んだものだろうか」と考えたが、よく見てみるとその船のはた(ふなべり)にそって1尺(30センチメートル)ほどの間隔で、かなりこぎ減らされたようなかい(漕ぐための道具。オール)の跡がついていた。それでその人も、「これは本当に人が乗っていたに違いない」と判断した。
その船を国司も見て、やはり驚いたが、年配の者が言うには「以前にもそのような船が、越後の浜に流れてきたことがある」とのこと。ちょうどこの船に乗るくらいの小人の住む場所が、越後国の北のほうにあるのかもしれない。

 巨人が浜に打ち上げられた話の次に、小人が使っていたと思われる船が打ち上げられた話で、特に対になっている感じが強い。

幻に終わった、自動で時を知らせる鐘

 小野篁おののたかむらという人が、愛宕寺おたぎでらを建てて、そこで使うための鐘の鋳造ちゅうぞう鋳物師いもじに依頼した。
鋳物師は「この鐘はつく人がいないとしても12の時ごとに毎回なるように作るつもりです。それには鋳造した後、土に埋めて、3年間そのままにしておかなければなりません。今日からちょうど丸3年です。その翌日に掘り出してください。もし日が足りないままに、あるいは1日でも遅く掘り出したならば、申しあげたような機能は実現しません。そういう細工がしてあります」と説明してから帰っていった。

 その後、寺の別当の法師が、3年経ったその当日になるのを待ちきれずに、そもそも鋳物師の言葉の真偽をあやしんでいたこともあり、その日よりも早く掘り出してしまった。だからその鐘はごく普通の鐘になってしまった。
「もし鋳物師が言ってた通りに、3年経った翌日にしっかり掘り出していたなら、自動で12の時ごとになったその鐘はとても便利で、時刻も正確にわかったろうに、実に残念なことをしてくれた」と当時の人々は別当をかなり非難したという。

行商女の反吐と鮎鮨

 京に住んでいたある人が、主人の家に出かけ、ウマからおりて門に入ろうとした時、ふと向かい側にを見ると、閉じてあって誰も出入りしない古い門の下に行商の女が、そばに売り物をたくさん入れた平たい桶をおいて、横になっていた。どうしてこんな所で寝ているのかと思って近寄ってみたら、この女はすっかり酒に酔っ払っていたのだった。
それから家に入って、しばらくしてから出てきた時、この女は目を覚ました。そして売り物を入れていた桶に反吐を吐き出した。「なんて汚い」と思って、よく見てみたら、反吐はその桶の中の鮎鮨あゆずし(塩や酢で漬けたアユの腹を開き、骨などを除いて酢につけたもの)に吐きかけられていた。女も「しまった」と思ったのか、あわてて、その吐き出したものを鮎鮨に混ぜ込んでしまった。まったく汚いどころの話ではなかった。
鮎鮨は反吐と似ているから、何も知らずにそれを買ってしまった人は食べてしまったことだろう。

 多少でも経済的にゆとりある人は、目の前で確かに調理されたものだけを食べるがよい。という話。

鬼でも神でもなくて天に帰る娘と、竹取りの翁

 昔、1人の翁がいて、タケで籠を作ってそれを売ることで生活していた。ある日、籠を作るために竹やぶに入って、タケを切っていると、その中の1本が光り、その節の中に3寸(9センチメートル)ばかりの人を見つけた。翁は「わしは長い間タケを取ってきたが、今初めてこんなものを見つけた」と喜んで、片手にその小さな人を持ち、もう一方の片手にタケを持って、家へと帰った。
帰って「このような女の子を見つけた」と言うと、妻のおうな(老女)も喜んだ。
老夫婦は最初、その子を籠の中に入れて養ったが、3日ほどで普通の大きさの人になった。さらに成長すると、世に並ぶものがないほど美しくなり、老夫婦はますます子を可愛がった。そして世間でも彼女のことは大評判になった。
その後、翁はまた竹やぶに向かったが、タケを取っていると、今度は竹の中に黄金を見つけた。それで老夫婦はすごく豊かになり、 それ以外にもとにかく何もかもがうまくいった。
美しい娘に求婚する男は非常に多かったが、女はほとんど話も聞かず、「では天で鳴っているあの雷を連れてきてください」とか「優曇華うどんげ(uḍumbara。3000年に一度花が咲き、転輪聖王到来を時を知らせるという伝説上の植物)という花があるそうですが、それを見たい」とか「打たなくても音を鳴らす太鼓があるようですが、それを持ってきて」といった無茶な要求をしまくって、どんな男とも、会おうともしなかった。
ついには天皇がこの女のところに来た。そして天皇はそのあまりの美しさを見て、「この女は自分の皇后になるために他の男には近づこうともしなかったのだ」と嬉しく思い、すぐさま求婚した。しかし女は「皇后に迎えられますことは、この私としても限りない喜びなのですが、実を申しますと私は人間として生を受けたものではないのです」と告げた。
天皇が「ではお前は、鬼なのか、それとも神なのか」と聞くと、女は「私は鬼でも神でもないです。ただしもうすぐに空からむかえがやってくることになっています。天皇様、すぐにお帰りくださいませ」と答えた。
天皇は、そんな話は単に断る口実だろう、と考えていたのだが、しばらくして、実際に空から大勢の人が輿を持って降りてきて、女を乗せたまま空に登って、去ってしまった。迎えにやってきた人たちの姿はこの世の人と思えず、天皇はそれで「本当にこの女はただの人間ではなかったのだな」と理解した。最後に女が見せた姿もまた、この世のものと思えないほど素晴らしく、天皇はその後もよく彼女のことを恋しく思い、しかしどうすることもできず、ついにはそのままであった。
その女はついに何者かわからずじまい。翁の子になったのもどういう理由があったのやら、全てわからぬことだらけ。世の人々はまったく不思議な事件であるからと、語り伝えた。

 あまりにも有名な日本の昔話、竹取物語と関連があるように思われる話。ただし直接の出典かも不明。
竹取物語は、日本で最古のSFとして見る向きもあるが、今昔物語集の中だけで考えるとしたら、カラクリに関する話など、他にもSFぽいと言えるような話はいくつかある。